第1章「水色の偽り」

1.

庭園には花が咲き乱れていた。
春に咲くべきアネモネも、夏に咲くべきサルビアも、秋に咲くべきコスモスも、冬に咲くべきクリスマスローズも。
暖かい日差しの下に出されたいくつかのテーブルの周りに集い、人々がお喋りに花を咲かせている。
テーブルの上には甘そうなお菓子や果物が山と盛られている。
「あなたは犬派? 猫派?」
「飼ったことはないですが、どちらかと言えば猫派ですね。
飼うなら、ちょっと野性味のあるようなのがいいですね、アビシニアンとか……」
「あぁ、可愛いですね」
「ここでは飼えないんでしょうかねぇ」
「どうでしょうねぇ」



人々の首には奇妙なものがくくりつけられていた。
ロープ──否、よく見れば水色がかった銀色の髪が、
人の指ほどの太さの束となったものだ。
うねうねと長く伸び、空中を漂うそれは人々の体に
まとわりついたり、他の者のそれと絡まったりと、
明らかに行動の邪魔になっている。
しかし人々はわずかに煩わしげにしながらも、
さりげなくそれを取り払いつつ、
他愛ない──内容の薄い談笑を止める様子はなかった。

「いりゃぁーッ!」
不自然ではあるが穏やかな情景にそぐわぬ気合の声が、遠くから響いた。
「おや、また始まりましたよ?」
「これで何度目でしょうかね」
イチジクのタルトをつまみながら、人々が顔を見合わせた。
「あの男、いつになったら諦めるのでしょうかね?」
「まぁまぁ、このイチジクと同じですよ。
種がないから、蒔いても芽が出ぬ無駄な行為。しかし食べれば美味しい」
上手い、と合いの手が入り、笑い声が上がった。
「いつダウンするか、また賭けましょうか」
「そうですね、では私は10分で」
「いやいや、もう少しは持つでしょう、15分で」
「じゃあ私は20分、頑張ってもらわないと」
 
 
 
のどかな庭園にそぐわぬ剣呑な成りの男が、庭木や花壇の間に設けられた小道を歩いていた。
鎧──とまでは行かないが防具に準じる、丈夫な革製で急所に当たる部分が補強された、擦りきれの目立つ衣服。
ろくにブラシもかけていないであろう黒髪を後頭部で一括りにし、ツンツンと逆立つままにさせている。
首には歩を進めるたびにチャリチャリと音を立てる鎖がぶらさがった、犬の首輪を思わせるデザインのチョーカー。
その上に重なるようにして、あの水色の髪束がくくりつけられている。
そして物騒さを極めているのは、肩に担いだ、鞘のない抜き身の刀。

「うっ」
男──オロカが、つんのめるようにして足を止めた。
振り返ると、首から伸びる水色の髪束が、曲がり角に据えられた立て札に引っかかっている。
「あぁっ、うっとうしい!」
オロカは手にした刀を一閃した。
錆びが浮いてところどころ刃こぼれし、お世辞にも切れ味鋭いとは言えなさそうな刀ではあるが、水色の髪束はあっけなく断たれた。
しかし次の瞬間、髪束は二本に増え、するりとオロカの両の腕にまとわりついた。
意志があるかのように──どころではない、刀を振り切った隙を突いた抜け目ない動き。
「く……」
そのとたん腕の力が抜け、オロカは刀の重みに引きずられるようにどすっと切っ先を地に落とした。
「えぇいっ!」
オロカは己を叱咤するように声を発して、指の関節を軽く噛んだ。わずかに感覚が戻ってくる。
普段なら体の一部のごとく軽々と振り回せる刀──しかし今は鉄塊でも結わえ付けられているかのように重く感じられるそれを持ち上げようとする。
額に青筋立て歯を食いしばって力を振り絞るも、二の腕の筋がぷるぷると痙攣する。
腕が、力の入れ方を忘れてしまったかのようだった。
「いりゃぁーッ!」
やっとのことで構えた刀を、気合の声と共に振った──否、水平に振ったつもりが、重量に負けて半ば振り下ろす格好になってしまった。
それでもなんとか切っ先が二本の髪束を捕らえ、断ち切った。
「あ……」
がくがくとオロカの膝が笑い、思わず刀を杖に突き立て、とりすがった。
足に力が入らなくなり、自分の体重を支えているのがやっとという有様。
四本に増えた髪束が、彼の視界の死角から素早く両手両足にまとわりついていたのだ。
「こん畜生ッ!」
怒鳴り声を上げて刀を地面から引っこ抜き、その勢いでたたらを踏んで二、三歩よろめいた。
 
 
 
ぐっしょりと汗にまみれ、激しく息を荒げてオロカは仰向けに倒れこんでいた。
全身──そして刀にも、無数に増殖した水色の髪束が無茶苦茶に絡みつき、もはや身動き出来なかった。
「あぁ、終わったみたいですねぇー」
「12分……もう動けなくなりましたか、思ったより持ちませんでしたねぇー」
あははは……と、風に乗ってオロカを嘲笑う声が聞こえてくる。
「休憩しているだけだッ!」
オロカはなんとか首だけを持ち上げ、声の方へ怒鳴った。
髪束の縛めがなくとも、またその魔力による四肢の萎えがなくとも、疲れきって立ち上がれそうにもなかったから完全には嘘ではない。
しかし返ってきたのは、どっと沸き立つ笑い声だった。
「くそっ……くそっ……」
羞恥と、それ以上に己の無様さに対する腹立たしさに顔が熱くなった。

オロカは悔しさをこらえて目を閉じた。
疲労と倦怠感の誘うままに眠りに落ちれば、目を覚ます頃にはいつも髪束は一本に戻っているのである。
癪ではあるが、身動きがとれない以上それしかやれることはない。
しかし彼の寝付きを妨げるように、ゆっくりと人の気配が近づいてきた。
オロカは身を固くして唇を噛んだ。あの連中が自分を笑いに来たか、そう思ったのである。
しかしオロカの耳に響いてきたのは嘲笑ではなく、パチン、パチンという鋏で何かを切る音だった。

オロカが目を開けると、奇妙な奴──オロカ自身も十分奇妙と言えたが、当人にはそう思えた──が、居た。
この陽気にもかかわらず、襟を立てた深緑色のコートを身にまとった、ひょろりと背が高い男が鋏で庭木を剪定している。
オロカは、自分の無様な姿を目にしつつも見なかったふりをして背中を向ける、といった態度をとる者ならば何度か遭ったことがあった。
しかしその男は、たいして距離が離れているわけでもないのに作業に没頭し、まるでオロカの存在に気づいていないようだった。
男は帽子を目深に被っていたが、地面に倒れているオロカからはその横顔がうかがえた。
細面の顔。整ってはいる──しかし印象が薄い、どこにでも居るとも思える顔。
オロカはふと、その男をどこかで見たような気がした。しかし、どこで会ったのかを思い出す前に、ある異常事に気づいた。

「おい!」
オロカが倒れたまま声をかけると、コートの男は2,3秒してから振り向いた。
「なんでしょう?」
「おまえ、侵入者か?」
コートの男は、振るえもしない刀の柄を握り締めているオロカを見下ろし、穏やかに微笑んだ。
「はぁ。どうしてそう思うんです?」
「首に髪束がついてない」
「あぁ、なるほど……で、もし侵入者だったら、どうするんです?」
「忌々しいが、命令に従って斬らねばならん」

マインド パペット

「……どうやってです?」
「……うるさい」
コートの男の口調に馬鹿にするような響きはなかったが、なんだかオロカの癇に障った。
「大丈夫ですよ、僕はただの旅の庭師です」
コートの男はひょいと帽子をとって一礼し、少々癖のある長い黒髪を揺らして腰を屈めた。
「三郎、と呼んでください」
「三郎……旅の、庭師……?」
「はい」
鸚鵡返しにしたオロカの言葉に、三郎は帽子を被り直しながら頷いた。
「よく知らんが、庭師というのは店を構えずにできる商売なのか?」

「えぇ、できますよ。あちらこちらにお得意様が居ますので、庭から庭へと渡り鳥のように、ね。
一巡した頃には、始めの方の庭ではもう、僕の手を必要としているという具合で」
「それは気楽でいいな」
「まぁ、それなりに」

「では三郎、おまえはここの囚人ではなくあの魔女の客で、出入りの自由を許されていると言うんだな?」
「魔女、とかいうと女王様に叱られますよ」
「構わん、俺があの女を嫌っていることは周知の事実だ」
「まぁ……女王様の方は、僕をここに留めておきたいみたいなんですがね」
「よく、虜にされんな」
「逃げ足には自信があるんです。僕を捕らえられる者など、この世のどこにも居ませんよ」
どこか誇らしげに微笑む三郎の顔を、オロカは妙なものでも見るようにジロジロと目を向けた。
……力が強いとか、技がキレるとか、せいぜい身のこなしが速い、くらいなら自慢話を聞いたことはある。
しかし、逃げ足の速さを自慢する奴というのは初めて見た。
まぁ……どう見ても武人ではない、そのせいもあるか。
そうオロカは自分で結論づけた。

「魔女と親しいなら……これから逃れられる方法を聞いたことはないか? ちょっとした手がかりでもいい」
一縷の望みを込めてオロカが己の全身を縛める髪束を顎をしゃくって示すと、三郎はごくあっさりと頷いた。
「知っていますよ、簡単なことです」
「本当か!?」
「えぇ。本気で縛られたくないと思う、それだけでいいんです」
「はぁ!? 俺だってあの魔女なんかに繋がれていたいと思っちゃいないぞ?
俺を縛っていいのは、俺自身が選んだ主人だけだ!」
「……いや、ソレですよ」
「ソレって、どれだ?」
「『誰か』あるいは『何か』に縛られたいと思っている限り、『良心ロープ』から逃れることはできません。
それだけがんじがらめにされるところを見るに、その手の気持ちが相当強いタイプでいらっしゃるようですね」
「……その、おまえは?」
オロカは思わず問うた。
誰かに縛られて──繋がっていたいと思わない人間など居るのだろうか、そう考えたからだ。
「……さぁ?」
三郎は是とも否とも答えず、微笑で問いかけに応じた。
 
 
 
「さて……仕事が残っていますので、そろそろ失礼します」
倒れたままのオロカに素っ気なく背を向けて、三郎は立ち上がった。
「おい待てよ。他に方法は……」
「まぁまぁ。しばらくはこの庭に留まっていますので、また会うことはあるでしょうよ」
三郎はスタスタと歩いて行くと、ゴミでも拾うような何気なさで、髪束──良心ロープの引っかかっていた立て札を引っこ抜いた。
「……なに、してるんだ?」
「こういう、無粋なものは嫌いなんです」
"花壇に踏み入らないでください"と書かれている立て札をオロカに見せる。
「庭師がそんな勝手なことをしていいのか?」
「ご心配なく。明日には勝手に元通りになっています」
「……」
無駄とわかっていても、せずにはいられない。
オロカは、一見自分とは似ても似つかぬように思える三郎に、ちょっとした親近感を覚えた。

「あぁ、そうそう……」
立て札を担ぎ、再び歩きかけた三郎は立ち止まり、オロカをかえりみた。
「今度、害虫退治を手伝っていただけませんか?」
「害虫? 殺虫剤でも撒けというのか?
なぜ俺がそんなことしなきゃいけないんだ、自分の入っている牢屋を修繕する囚人が居るか!」
「でも、囚人だって牢屋の掃除くらいしますよ?」
「……」
さらりと切り返されて、オロカは言葉に詰まった。
なんとなく、口先ではこの男にかなわない気がした。
「あぁ……」
三郎は小さく声を漏らした後、にっこりと微笑んだ。
「ただの害虫ではありません。貴方のような人にしかできない仕事なんです」
「……っ」
オロカは、この手の自尊心をくすぐられる言葉に弱かった。
「そ、そうか……それならいい」
「では、お願いしますね。ごきげんよう、オロカさん」
──それ故に、"貴方のような人"とは"どんな人"を指しているのかをつい聞き忘れたまま、三郎の背を見送ってしまった。
加えて、自分がまだ名乗っていないという事実にも気づいていなかった。


 

2.
 
「三郎ーッ、この詐欺師ィーーッ!」
オロカは走りながら、遠ざかる三郎の背中に向かって叫んだ。
三郎は足を止めぬまま、わざわざ肩越しに振り返って微笑んだ。
「いえ、庭師ですよ?」
「こ、こ、こ、こん畜生ーーッ!!」
 
 
 
──時はしばし遡って。
人々はいつものように、テーブルを囲んで談笑していた。
「あぁ、ダウンしたようですよ」
「今回は16分……前より4分長引かせられましたね」
「そのようですね、えらいえらい」
オロカがあげる気合の声が聞こえなくなった方を見やって、彼らは嘲笑を浮かべた。
 
 
 
一方、オロカは笑い事ではない窮地に陥っていた。
「……く…はっ……」
やばい、と思った時には既に目の前が暗くなりかけていた。
いつものように癇癪を起こし、いつものようにがんじがらめにされているのは、いつものことだったが。
足をもつれさせて倒れこんだ時、首に巻きついた良心ロープのうちの一本がたまたま傍の木の枝に引っかかり、彼の首を締め上げるかたちとなった。
重力に引きずり下ろされる体を支えようにも、幾重にも良心ロープが巻き付いた足は萎え、力が入らない。

やばい。
オロカは焦り、もがいた。
このまま無為に庭園の囚われ人であり続けるくらいなら死んだほうがマシ──などと一度として思うことがなかった、といえば嘘になる。
しかし、仮に死を選ぶにしても、こんな格好の悪い死に方は嫌だ。嫌すぎる。

誰か──
オロカは助けを求めて、金魚のように口をパクパクさせた。が、声が出ない。
誰──か──
 
 
 
じゃきん。

金属の擦れ合う硬い音がして、オロカは地面へしたたかに顎をぶつけた。
くらくらする頭を振って目を開けると、サンダル履きの三郎の足が見えた。
「……」
「……」
見上げるオロカと、見下ろす三郎は、しばし無言で視線を合わせた。
「……えぇと。害虫退治のことなんですが」
剪定鋏をしまいながら、三郎が話をそらす。
「ぁ……あぁ」
このみっともない小事件をスルーされた事に、ほっとしたような、かえって恥ずかしいような、妙な気分にオロカは陥った。

「今から行けますか?」
「今から?」
オロカとしては、正直なところ勘弁して欲しかった。
疲労でずっしりと体が重い。
しかし、一応は"命の恩人"の頼みは断りづらい。
「……行きたいのはやまやまだが、これが邪魔で……」
「あぁ、今からと言っても、良心ロープが消えるまでの間くらいは待ちますよ」

「お茶でもいかがですか。
寝るのが最も手っ取り早いといえばそのとおりですが、基本的には気を落ち着かせれば消えます」
「……そうか」
持参した黒いトランクから水筒を引っ張り出している三郎の背後で、オロカは身を起こそうともがいた。
手をつかずに起き上がるのは案外難しい。まして腹筋の利かない今では。
すっ、と三郎の腕がその肩の下に差し入れられ、引き起こされた。
オロカは少々驚いた。
一見細身なオロカだが、それは余分な脂を絞っているせいであり、筋肉質な体は見た目の印象よりもかなり重量がある。
しかし、三郎の何気ない仕草からは、あまり力を込めたように感じられなかった。
「……おまえ、意外と強いのか?」
「……? あぁ、庭師というのは、結構、体力勝負ですよ?」

「どうぞ」
紙コップが、オロカの口元に近づけられた。
透明感のある薄緑──見慣れない色だった。
ハーブティって奴だろうか、とオロカは嫌な気分になった。
オロカは茶の種類だの銘柄だの等級だのにはとんと知識が無いが、嗅覚や味覚は相当に鋭い方である。
ハーブ類特有の香りや味が、彼の鼻には押しつけがましく付きまとい、舌にはえぐみを残すのだ。

でも、好き嫌いがあるとか人に言うのは格好が悪い。
どうにも飲めないってほどじゃないはず、嗜好品じゃなく単なる水分補給だと思えば──
オロカは意を決して紙コップに口をつけた。
しかし心配されたそれらは無く、ふんわりと優しい香りが鼻に届いた。
舌を湿らし喉を通った液体はわずかに青さや渋みはあったが、それも爽やかさとして受け止められた。
後味は、砂糖や蜜とは違う、ほんのりとしたかすかな甘さ。

「……美味しい」
「それはどうも」
「砂糖、じゃないよな?」
「……あぁ、これが"甘い"と感じられるとは、いい舌をしてらっしゃる」
「これは、なんだ?」
「緑茶です。日本という国では、良く飲まれています」
三郎が、自分の分を水筒付属のコップに注ぎながら応じた。
日本──オロカには聞いたことのない国だった。
「リョクチャ……高いのか?」
「いえ、棒茶と言いましてね、茎で作ったお茶で……見た目が悪いせいかどうか知りませんが、安いんですよ。
しかしこれがなかなか味わい深くて、高級茶にはさすがにかないませんが、普段飲む用としては十分に楽しめます。
三回くらいは、出涸らしにならずにイケますし……」

オロカにとって、それほど強い興味があってした質問ではなかった。
が、三郎が返した答えの中に一点引っかかることがあった。
「見た目って、茶っ葉のか?
いれたらどうせわからんのに、どうしてそんなもんで値段が変わるんだ?」
「どうしてでしょうねぇ。日本人というのは、とにかく食べ物の見た目に拘るんですよ。
たとえば野菜や果物にしたって、皮の色ツヤとか、形が整っているかとか……サイズも、大きすぎても小さすぎても良くないとか」
「皮ぁ? 形ぃ? 剥いて切り分ければ、わかりゃしないじゃないか。
それに、熟しすぎて不味いとかでなければ、大きい方がいいに決まってる。
ニホン人ってのは、馬鹿じゃないのか?」
「えぇ、はっきり言って、僕も馬鹿だと思いますねぇ。
……けど、まぁ、そういう枠の中で育てば、自然とそういうふうに感じてしまうものなんじゃないかと思います。
ですから、見た目を気にする人には、こう教えてあげるんです。
"このお茶は、茶柱でできているので、縁起がいいですよ"……って」
「チャバシラ?」
「えぇ、茶柱。お茶の中に茎が立っていると、吉兆の印」
「なんで?」
「知りませんけど、そうなんです」
「……はぁ」

「ふふふ……まぁとにかく、僕はお茶の中では一番好きですよ、緑茶は。
暗示郎さんにも、置いてくれるよう頼んではみたんですが、なかなか……」
「暗示郎……」
オロカは渋ったい顔をした。それを見て、三郎が首を傾げる。
「彼とは、気が合いませんか?」
「いや、嫌いなのは奴がじゃなく、奴のいれる茶が……」
「あぁ……あれは……なるほど……」
納得、と言うように三郎は何度も頷いてみせた。
 
 
 
時間の経過をへて、オロカの心の中から敵対心や反発心が薄れていったせいであろうか。
オロカの身を縛る良心ロープが、一本、また一本と彼の体に溶けこむように重なり、消えていく。
気味が悪そうにそれを見ているオロカに、三郎が声をかける。
「どうしました、オロカさん」
「いや……毎回、いつのまにか消えていたが……こうやって消えていたのか……気持ち悪い」
「見たことなかったんですか? まぁ、これを見てもわかるでしょう?
貴方を縛るのは、貴方自身であるということが……文字通り、自縄自縛というやつです」
「……」

本当に、三郎の言う事は正しいのか。
だとしたら、ここから自由になるためには、一生一人で生きていくことを選ばなくてはならないのだろうか。
だとしたら、そこまでして自由になる意味は……。
思考があちらこちらに飛び、不安に駆られたが、ひとまずオロカは考えるのをやめた。
すぐに結論が出そうな問題ではないし、すぐに結論を出さなければいけない状況でもない。
なら、今考えなくてもいい。疲れている時に頭を働かせても、どんどんネガティブな方向に落ち込んでいくだけだから、と。

オロカは手足を曲げたり伸ばしたりして、体をほぐした。
疲労感やだるさは残っていたが、なんとか動けそうだったし──動きたい気分になった。
体を動かしている時は、ものを考えなくとも良いからだ。
「じゃあ、行くか」
「はい、お願いします」

わざわざ武人である自分に助っ人を頼むくらいだから、そこそこ危険は伴うのだろう。
が、こんな平和ボケした場所に出るのは、せいぜい巨大ムカデとか毒蜘蛛とか人喰い蜂とか、そのくらいだろう。
その程度なら駆け出しの頃から、日銭稼ぎのためいくらでも退治したことがある。運動にはちょうどいい。

──そんなふうに、オロカは軽く考えていた。
しかし、すぐにそれは甘い考えだったと後悔することになる……。




3.

「……っ」
喉に食い込む不快な感触を覚えて、オロカは立ち止まった。
振り返ると、木に良心ロープが引っかかっている。
いくつかある建物を含む広大な庭園内であれば良心ロープはいくらでも伸びるのだが、ふわふわと宙を漂うせいで、しょっちゅう何かに絡むのが困りものだった。
イラッとそれを斬りたくなる衝動をこらえ、喉元をさすりながら引き返そうとすると、先んじて踵を返していた三郎がほどいてくれていた。
「すまん」
「いえいえ」
草花よりも樹木が多い、ちょっとした林のような区画であることもあり、そんなことが何度か続いた。
自然と、先行するオロカの5〜10m後を三郎が続く、というような歩き方になった。
 
 
 
「見えてきました。あの樹にいます」
後ろからかけられた三郎の声にオロカが前方を見やると、桜か何かと思われる花樹があった。
園芸知識のない彼にもすぐ樹の異常がわかった。
季節というものがないこの奇妙な庭でも、同じ花がずっとそのまま咲き続けるというわけではない。
咲いては散り、散ってはすぐにツボミをつける──要は常に"新しく"入れ替わり続ける若々しさを保っている。
しかしその樹の枝はしおれた花をつけたまま生気なくうなだれており、樹皮は枯れ木のように水気がなかった。
まるで、うら若い乙女がある日突然老衰を引き起こしたかのように。
もっとも、葉の生い茂る時期がなく鑑賞上の盛りだけを保つという"一種の都合の良さ"というのは、本来の自然から見れば"元から異常極まりない"と言えるのだろうが……。
「……!」
こちらから見て幹の向こう側に何かが居る。
オロカは両手で刀の柄を握りしめて構え、ゆっくりと大きく回り込んでいく。
三郎はその場に佇んだまま見守っている。

体長は1mちょっと。
玉虫のような、光の角度で色を変える薄羽。
何本もの、吸盤のついた脚。
つるりとして丸っこく、息をするごとに風船のように膨らんだり縮んだりする腹部。
ミミズのような、無数の触手で覆われた頭部。
樹の幹に取り付いて、汁でも吸っているのか──と、側面から見やったオロカは、一瞬凍りついた。
口元から伸びる触手が錐のように幹へ打ち込まれている。
それは予想済みだ──が、頭部の触手に半ば隠れていた柔らかそうな顔は、あどけない幼女のそれだったのである。

「ど……どこが"虫"だ……」
「正確には、エフェメラの一種ではないかと言われています。
外見から"メデューサ蝉"と呼ばれていまして……石化能力はありませんけど、ね」
「エフェメラって何だ?」
「僕にも、よくわかりません」
「と……っ、とにかく。斬ればいいんだな?」
「……物理的な手段では、まず倒せませんよ」
「なにっ!?」
あの魔女とは違い、魔術呪術の類に縁のない純粋な武人である自分に、どうせよと言うのだ。
敵を目前にしているにも関わらず、オロカは思わず振り向いた。
「あっ……!」
既に三郎はオロカに背を向け、走り出していた。
ぶぶぶ……
泡のはじけるような音を立てて、メデューサ蝉が羽を震わせ、飛び立とうとしていた。
オロカの背にぞっと冷たいものが走り、彼は思わず逃げ出した。

「三郎ーッ、この詐欺師ィーーッ!」
オロカは走りながら、遠ざかる三郎の背中に向かって叫んだ。
三郎は足を止めぬまま、わざわざ肩越しに振り返って微笑んだ。
「いえ、庭師ですよ?」
「こ、こ、こ、こん畜生ーーッ!!」

三郎は、走りにくいはずのサンダル履きとは思えないほどの俊足だった。
足が長く、回転も恐ろしく速い。
対するオロカは、スタミナにこそ自信はあるものの、あまり足が速いとは言えない。
加えて先ほどの疲労がまだ残っており、思うように足が上がらない。
二人の距離はどんどんと開いていった。

背後から近づいてくる羽音に逃げ切れぬと悟り、オロカは向き直った。
キキキャ……!
迫ってくるメデューサ蝉は、あげる鳴き声までまるで幼い子供のようだ。
一か八か、オロカは刀を振るった。
物理的な手段では──と三郎は言ったが、刃物では斬りにくいという意味かもしれない。
この刀はもともと鋭さに欠ける鉄の棒のようなもの、ぶん殴れば打撃を与えられるかも──

刀は見事に、メデューサ蝉の腹に命中した。
しかし、腹はぶにょんと柔らかく刀身を受け止め、次の瞬間ぽんっと勢い良く膨れて弾き返した。
「わ、わっ!?」
虚を突かれたオロカは、バランスを崩してよろめいた。
そこへメデューサ蝉が襲いかかり、触手と脚とで首根っこに絡みついた。
「は、離せッ!」
オロカは慌てて刀を取り落として引き剥がそうとしたが、脚の吸盤が肌にぺったりと貼りつき、力を込めても伸び縮みするだけで手応えがない。
キキキャキャ……!
口元の触手がしゅるしゅるとオロカのこめかみめがけて伸びてくる。
俺を食う気か!
まさかこの化け物、あの魔女のペットか何かで、三郎は俺をこいつの餌にしようと……!?
オロカは触手を防ごうと、とっさに手をあげようとした。
だがその掌には、今まで自分がつかんでいた脚の吸盤が貼りついており、離れなかった。
気ばかりが焦る──鋭利な触手の先端が飛んでくる──オロカは悲鳴を上げた。
「うわぁぁぁーッ!」

キシュッ!
触手の先がこめかみに命中する瞬間、オロカは思わず目をつぶった。
しかし、予想された激痛は無かった。
触手は何の抵抗もなく皮膚を、そして頭蓋骨を通りぬけ、オロカの頭の中をのたうっている。
実体がない──!?
よく見れば口元の触手は2本あり、樹に突き刺して汁を吸っていたそれとは別のもののようだ。
ぐらり、とめまいがしてオロカは地に膝をついた。
良心ロープで首を絞められた時のように、急速に目の前が暗くなっていく。
何かを吸われている──何を? 血や脳漿ではない、何かを──
奪われたのが何か理解する間もなく、オロカの意識は闇に吸い込まれていった。
 
 
 
「オロカさん……オロカさん。起きてください」
肩を叩かれ、オロカは目を開けた。
顔を上げると、三郎が涼しい顔をして自分を見ていた。
「夢……?」
「いえ、夢ではないです」
断言されて、慌ててオロカは弾かれたように身を起こし、周囲を見回した。
メデューサ蝉の姿は、影も形もなかった。

「おまえが追い払ってくれたのか?」
「違います。貴方を食べて満足したので、消え失せたんです」
「食べ……ッ!?」
オロカは思わず両手で頭をまさぐった。
傷ひとつない──オロカはメデューサ蝉が吸っていたのが"物理的なものでない何か"であるらしきことを思い出した。
「何だ! 何を食わせたんだ!」
オロカは三郎の胸ぐらをつかんだ。
落ち着いてください、とでも言うように三郎はその手に自分の少し冷たい手を重ねた。

「僕の名前は覚えていますね?」
「三郎……だろう?」
当たり前の質問をされて、少々毒気が抜かれたようにオロカは手の力を抜いた。
「貴方の御両親の名前は?」
「……孤児だ、俺は」
「御出身は?」
「……えぇと……モ…モスタリア……。
いや、もしかしたら生まれたのは余所かもしれないが、少なくとも育ったのは、そこだ。
地図に載ってない国だから、知らんかもしれんが……」
オロカは不安に駆られた。
忘れるはずもないのに、なぜモスタリアの名がすぐに出てこなかったのだろうか……?
「いえ。知っていますよ」
さらりと、三郎は答えた。

「では……」
三郎は少し考えた後、続けた。
「貴方はその時々で雇い主を変える傭兵であると聞いていますが……。
……モスタリアに居た頃には、決まった御主人様がいらっしゃいましたか?」
「それは──」
オロカはすぐさま答えようと、かつての主君の顔を思い浮かべようとした。
しかし、オロカの記憶の中からそこだけぽっかりと抜け落ちており、影すらも主君の姿を見出すことが出来なかった。
「名前は……思い出せませんか?」
「な、名前……」
オロカは焦った。
顔、名前……それだけではない。
どんな性格で、どんな地位にある人物だったかも。
男だったか女だったかすらも思い出すことができない。
「そ、そんな……そんな馬鹿な」
「食べられましたね」

「なんてことをしてくれたんだ、貴様ァ!」
オロカは逆上し、握りしめた拳で三郎の頬を殴り飛ばした。
勢いで、三郎の長身が地面に倒れ込む。
「……つっ」
「貴様……貴様よくも!」
「む、昔の話……もう、過ぎたことなのでしょう?」
「そうだ! そうだが、俺にとっては大切な──!」
オロカはこの淡白な男に、どんなにも大切な思い出を奪われたのかを、わからせたいと思った。
が、大切であった、かけがえのないものを失ってしまったのだ、ということだけは心を絞られるような焦燥感でわかるのに、その中身となると何も語ることができない。
あまりの恐ろしさに飛び起きて、背筋の冷たささえまざまざと残っているというのに、その内容を思い出せない夢にも似て──
「くそおぉぉッ!」
三郎に向けて再び振り上げていた拳を、地面に叩きつけた。
オロカの頬を、熱いものがつたった。
失ってはならないものを失ってしまった──夢などという、どうでもいいものと同じように。
"それ"が何かはわからないが、"それ"に対する罪悪感のようなものが彼をさいなんでいた。

「……ごめんなさい」
三郎の言葉に、オロカは顔を上げた。
いつも浮かべている柔らかな微笑はそこになく、三郎は真顔で彼を見つめていた。
オロカは続く言葉を待った。
言葉巧みなこの男のこと、ここまでのことをした理由の説明なり、弁解なり、逃げ口上なり、何かあるだろうと思ったのだ。
だが、三郎は落ちた帽子を拾って目深に被りなおすと、そのままオロカに背を向けた。
「……」
オロカは文句を言おうと思ったが何も言葉が見つからず、逃げるように少し前かがみで立ち去る三郎の背を見送ってしまった。
態度には、確かに問題こそあれ……。
三郎が本当に申し訳ないと思っているらしきことは、彼が軽やかな言葉を失ったことで、かえってありありと感じ取れたのであった。
 
 
 
ふわりと芳香が漂った。
オロカが目を向けると、花樹がつけていたしおれた花びらは全て散り、早くも新しいツボミがほころび始めていた。
「……桜じゃなく、梅だったな」

 
 
 

 
 
【メデューサセミモドキ(メデューサ蝉)】
エラー属 / 無知亜属

触手状で先端だけが硬質化し鋭く尖った口が2本あり、そのうちの片方を樹に突き刺し、樹液を餌としている。貪欲で、ほどほどにするということを知らず、生きていくのに必要とする以上に樹液を吸い取り、次々に樹を枯らしてしまう有害生物である。
普段は動物を襲うことはないが、肉食獣などに攻撃されると触手や吸盤の生えた脚で逆に捕獲し、血液などの体液を吸い尽くして殺してしまう。体はゴム鞠のような非常に強い弾力性があり、物理的な攻撃はほぼ無効化される。そのため、天敵は居ない。

樹液を吸うことや、(樹にとまっているところを背側から見た場合に限れば)おおよその姿形は似通っているが、分類上は蝉(セミ)とは別種で、昆虫類ですらない。髪のように無数に生えた頭部の触手が、ギリシャ神話に登場する蛇女メデューサを思わせるため、この名がついた。正式名はメデューサセミモドキだが、長いので一般にはメデューサ蝉と呼ばれている。

無邪気な幼女のような顔は獲物に警戒心を持たせないための擬態ではないかと推測されているが、
よりおぞましさを増しているとも言われる。

体長が1mを越すころとなると樹液の味に飽きてしまい、時折人間を標的として襲いかかるようになる。
この時だけは、普段は使われない方の口が使用される。
この口には実体がなく物体をすり抜けることが可能であり、兜などの物理的な防護は無意味である。
捕獲した人間の脳に口を潜り込ませ、その者が最も大切にしている記憶を吸い取り、その後に解放する。
記憶の"味"に不満であれば新たな獲物を求め続けるが、満足すると消滅する。
"味"の好みについては明らかではないが、傾向としては過去に執着するタイプの者の記憶が好まれるようである。
記憶を奪われても短時間の意識消失を起こす程度で肉体に影響が出ることはないが、犠牲者が強い喪失感に駆られて自殺してしまったケースも存在する。

オス・メスともに成体となっても生殖器が未発達であり、どのように仲間を増やすのかは謎とされている。
環境ホルモンの影響という説があがり、一時は絶滅が危惧されたものの、なぜか個体数が減少する様子が見られない。
そのため、現在では絶滅の可能性を恐れずに駆除することが求められている。
地方によっては、駆除のために自ら記憶を差し出す者を、多額の報酬を約束して募ることもある。
が、そういった記憶の"味"には満足されないことも多々あり、効率的な駆除法であるとは言いがたい。

第2章「風のやんだ朝」>>

水色の庭園
 
目次