第2章「風のやんだ朝」




4.

三郎はティーカップを手にし、申し訳程度に紅茶をほんの少し口にした。
紅茶はいかにも渋そうな濃い茶色をしており、ストレートで飲むには苦すぎると見ただけでわかりそうなものだったが、いきなり手を加えなかったのは一応の礼儀としてであろう。
首を軽く振り、クラッカーに乗せるものとしてテーブルに出してあったジャムに手を伸ばす。
「こんなふうに飲むものじゃないのに……」
恨めしそうに呟きながら、紅茶にジャムを落としてかき混ぜる。
 
 
 
どれだけ言っても解らない
言わなきゃもっと解らない
揚げ足取ってプチ復讐
僕がブザマに転べば満足?
 
 
 
歌詞の内容は結構黒いが、弾むような節をつけられているせいでそうと感じさせぬ鼻歌が近づいてくる。
ふんわりとした金髪をし、ギャルソン風のぴったりした衣装を身につけた、小柄なウェイターだ。
花から花へと飛び回るハチドリのように、軽妙な足取りでくるくると動き回っている。
椅子やテーブルの間を縫うように歩いているというのに、その小回りの良さは首に良心ロープがくくりつけられているとはとても思えない。
「……アレの引っかかりやすさというのは、性格にもよるのでしょうか?」

「さっぶろぉ〜♪
前来た時、ファーストフラッシュ好きって言ってたよね。
いれてみたけど、どうだった?」
ウェイター──暗示郎が三郎に声をかける。
「あぁ……凄いですね。
どうしたらファーストフラッシュをこんなに苦くできるんですか?」
「え、えぇー!」
三郎の皮肉にもさしてこたえてはいない様子であったが、暗示郎は大げさにのけぞって見せた。
そんな仕草をしつつも、回収してきた空の食器を乗せたトレイがきっちり水平を保っているというのが小憎い。

「オロカさんがあぁいう顔をするのも、解ります」
「あ、三郎、新入り君に会ったの?
えへへ、"俺に学がないと思って馬鹿にしてんのか"みたいな凄い目で睨まれちゃったよ、ギリギリ歯ぎしりまでしちゃって。
でも実際、あのオロカがお茶の味なんてわかるの?」
「……意外と、馬鹿にしたものではないですよ、あの人は。
味もわかってないくせに知識だけはいろいろとかじって、ラベルに高い金を払う人などいくらでもいますが、あの人はその真逆です」
「へぇ〜。でも、知識はさっぱりだけど感覚は確かですってことでしょ、それってケモノだって言ってるみたいでもあるね」
「そうですね」
「あ、認めた」
 
 
 
「それにしても、珍しいね三郎。
いつもはマズいものを出されても、そうそう面と向かってはマズいって言わないのにさ。
何かあったの?」
ひょい、と身を屈めて目深に被った帽子の下を覗き込む。
「さぁ……ちょっと、イライラしているのかもしれません」
「イライラ? 何に?」
「……自分に、ですよ」
それ以上聞くなと言いたげに、三郎は体ごと横を向いた。

パリンッ。

三郎の足元で、ティーカップが砕けた。
三郎は、誰が粗相をしたかというように視線を上げた。
「……ほんとどうしたの、三郎?」
「……は?」
三郎が自分の右手を見やると、そこにティーカップは無かった。
「……失礼、しました。暗示郎さん。
手が滑りまして……弁償しますね」
「あぁ〜いいのいいの、そんな高いカップ使ってないから、気にしないで。
……って、僕が買ったんじゃないけどね♪
拭くもの持ってくるね〜」
軽やかな足取りはそのままに、暗示郎がその場を離れる。

「……どうかしてますね。
やっぱり、イライラしているようです」
三郎は右手を軽くさすった。
 
 
 
「あっ、三郎さ〜!」
「……何ですか?」
暗示郎は、ぱたぱたと三郎に手を振ってみせた。
「前言ったじゃん。暗示郎さん〜だなんて、カシコまって呼ばなくていいっていいって。
もっとフランクに、"アンジー"って呼んで♪」
「いえ……それはちょっと」
「なんで〜? そしたら僕も"サブちゃん(はぁと)"って呼んであげるからさぁ〜」
「……断固として遠慮させて頂きます」
「ちぇぇ〜っ」
クスクスと笑って、今度こそ暗示郎は台拭きを取りに行ったようであった。
マインドパペット1.5 水色の庭園


5.

「全く、あの野郎、これだから、あれだ、こう、ガンとさ……」
オロカはブツブツ言いながら庭園を歩き回っていた。
例によって、そこら中のものに良心ロープが引っかかっては足止めを食らう。
首を吊りかけてからは、オロカはカッとなっても刀を振るわぬよう、苛立ちを腹に飲み込むよう心がけるようになっていた。
引き返して良心ロープを外しては、三郎が一緒に歩いていてくれたらいいのに、などと思いかけて──
──いやいや、今三郎を探しているんだから、三郎が一緒にいるわけないだろうが、と思い直す。
「あいつめ、バッタリとは会うくせに、いざ探そうとするとなかなか……あ」
 
 
 
共に行けたらいいのにと
叶わぬ想いを鞄に詰めて
川に沿って歩いて行こう
 
 
 
木立に隠れて姿は見えないが、歌を唄っているとも詩を吟じているともつかぬ、抑揚のあまりない呟きが聞こえてきた。
耳障りのいい、微風のような。しかし聞いた端から忘れていくような、特徴に欠ける声。
いた、三郎──!
思わず胸が高鳴るのを感じて、慌てて何やっているんだ、とオロカは我に返った。
遊びに来たんじゃないぞ、文句を言いに来たんだぞ。
第一、男相手に何をときめいてるんだ、俺は。
 
 
 
ずん、ずん、ずん、と意識してオロカは大股に進んでいった。
三郎は脚立に腰掛けて、ぼうぼうに伸び放題の樹の枝を片手用の小型ノコギリで切り落とし、形を整えていた。

「……」
オロカは、急に声のかけづらさを覚えた。
前日の件で、言いそびれた文句を付けに来た──具体的な文言は頭に浮かんでいなかったが──のであるが。
が、仕事を邪魔してまで言うことか、それはちょっと女々しくないか、などという気が湧いてきて邪魔をする。

「……」
自然、オロカは三郎の仕事ぶりをただ眺める人と化した。
脚立の下に、落とされた枝が重なっていく。

歌だか詩だかはなりを潜めて──先程は一息ついていたのだろうか──三郎の口は結ばれ、額には玉の汗が浮かんでいた。
働く男の横顔は美しい。
オロカは見とれた。

……いいなぁ……。

ちゃんとした仕事を持っているっていうのは、羨ましい。
それに引き換え俺は、日がな一日そこらをうろついて、時々癇癪起こして、笑われて、飯食って、寝て……。
いや、一応魔女からは侵入者が居れば撃退しろだの、囚人どもが暴れだしたりしたら取り押さえろだの、命じられてはいるが。
あの魔女の言葉には逆らえない、要は強制労働ではあるが、仕事は仕事。
……だが、ここへ来てから一度だって、そんな事態は起こりはしない。
俺は何の役に立っているというんだろう?

……いいなぁ……。
 
 
 
「……何がですか?」
「ふぇッ!?」
どうやら自分の気づかぬうちに、思いを口に出していたらしい。
オロカは間の抜けた声をあげてしまった。
「きっ、きっ、気づいてたなら言えッ! 人が悪いッ!」
恥じらいを怒りにすり替えて怒鳴ると、三郎はやれやれという様子で振り返った。
「それは、どうも。
……で、何か御用ですか?」
「べッ……別に何も!
その、パトロールをしててだな、ちょっと休憩を……」
「……そうですか」
三郎は脚立を降り、それに手をかけた。
「えと……手伝おうか?」
「いえ、さして重くはありませんから」
「……そうか?」
アルミニウムを知らないオロカの目に脚立は重そうに見えたが、三郎はひょいと持ち上げて位置をずらし、また登っていった。

手伝う……
何気なく口をついて出たが、三郎に仕事を手伝わせてくれと言ってみるのはどうだろうか?
ふと、オロカにそんな考えが浮かんだ。

庭いじりなんて全くやったことがないのでわからないが、もしかしたら素人でもできそうな雑用もあるかもしれないし……
庭師は体力勝負だとか前に三郎も言っていたし、少なくとも営業トーク・営業スマイル満載な暗示郎の仕事を手伝うよりかは、まだマシな気がする。
でも、俺は不器用だし、迷惑だろうか?
かえって三郎の仕事を増やしてしまうことになるかも……
ぐだぐだと余計なことを考えながら、オロカは脚立の後ろをうろうろしていた。

「……どうかしました?」
「い、いや、何でも!」
せっかく三郎の方から再び声をかけられたというのに、オロカは反射的に首を横に振ってしまった。
「……」
変な人ですね、とでも言いたげに三郎は眉を寄せてオロカを見やると、枝の方へと向き直った。

あぁぁ俺の馬鹿! 断られたら断られたでいいじゃないか! 何をビクついて……っ!!
内心頭を抱えたオロカの目前に、ガシャンと金属音を立てて小型ノコギリが地を叩いた。
オロカは飛びつくようにノコギリを拾うと脚立の上を見あげた。
「三郎、これ……」
「……」
三郎は、何か奇妙なものでも見るように軍手に包まれた自分の右手を見つめていた。
それから数度、握ったり開いたりを繰り返した。
「あぁ……失礼。当たりませんでした?」
「いや、それは無いが、トゲでも刺さったのか?」
「いえ……思った以上に手が疲れて、握力がなくなっていたようで……歳ですかね」
「歳って……いくつだおまえ」
「さぁ、いくつでしょう? 数えるのを忘れてしまいましたねぇ」
「俺とそんなに離れてはいないだろ。
とにかく、そう根を詰めず少し休んだらどうだ?」
「……そう、しますかね。ノルマが決まっているわけでもなし……」
 
 
 
三郎は脚立を降りてきた。
ステップをつかむ右手が少し震えているような気がして、オロカは三郎の手元を覗き込んだ。
「おい、大丈──むぐっ!?」
突然背中に右手を回されて引き寄せられたかと思うと、オロカは三郎の胸板に顔を埋めていた。
青っぽい、草の匂いがした。

オロカはとまどった。
暗示郎のようなタイプが抱きついてきたなら、馴れ馴れしい奴だと思うだけだが──
──この前の俺のように相手が動けない場合とかは仕方ないとして、そういうのあまりしたがらないタイプだと思ってたんだが……?
顔を上げると目と鼻の先に、オロカ同様、当惑したような三郎の顔があった。
「オッ、オロカさん? ……何、やってるんですか?」
「お、俺じゃないッ! おまえだ、おまえ!」
「ぇ……?」

オロカは三郎の胸板を突き放して抱擁を解こうとした。
しかし彼を抱きすくめる力は片腕とは思えないほどに強く、密着しすぎた不自然な体勢ではなかなかうまくいかなかった。
「ちょっと……なんなんですか、これは?」
「俺に聞くな!」
三郎が左手で自分の右手首をつかみ、オロカとタイミングを合わせて渾身の力を込めた。
引き剥がす──まではいかなかったものの、オロカは腰を落とし、生じたわずかな隙間から体を抜いた。
飛びずさって離れると、三郎は痙攣するような動きを見せる右手を左手で捕まえ、苦心しながら軍手を外そうとしている。
まるで、別の生き物──大きな魚かなにかと格闘しているかのようだ。

オロカがまた抱きつかれないよう注意しながら大きく背後に回りこみ、三郎の二の腕と手首をぐっと押さえた。
三郎は素早く軍手を脱ぎ捨て、コートとその下のシャツの袖をまとめてまくりあげた。
すんなりと細いが、しなやかな筋肉に包まれた右腕があらわになる。
「……何だこれは?」
指先から二の腕まで駆け上がるように、はびこる根のような何かが皮膚の下からわずかに盛り上がって見えた。
「血管……じゃ、ない。根? おい、こんなになってて、痛くなかったのか?」
「いえ……全く。なんにも。これは……やられましたね」
三郎の声は、いつもの平静をほぼ取り戻していた。

「何だ! 誰にやられたんだ!」
「誰って、呪いとかそういうのではありません……植物です。寄生植物。
庭師や農夫の職業病ですね……たぶん、気に留めなかったくらいの小さな傷口から、いつの間にか種が入りこんでいたのでしょう。
よくよく気を付けないと見えないくらい、小さい種だそうですから」
「キセイ?」
「えぇ、宿主の神経をのっとって勝手に動かす、困り者……確か名前は、サビシ草」
「寂しそう? やたらめったら抱きつくからか?」
「いえ、サビシ草。発見したエフェメラ研究者クローム・サビシィ氏から取られた名前です。寂しいのとは、関係ないです」
「エフェメラ……またか……」

「今度はどうやって駆除するんだ?」
「体に入り込んですぐなら、手術で摘出も可能なのですが……こうして表面から見えるくらいになると、手遅れなのだそうです。
内部では既にびっしりくまなく無数に枝分かれしながら潜り込んでいて、肉という肉を全て細切れにしたとしても摘出は難しいと」
「うぇっ……」
"びっしりくまなく"体の中を根がはびこっているところを想像して、オロカは少し気分が悪くなった。
「じゃ……ど、どうするんだ」
「そうですねぇ……まぁ、一番手っ取り早いのは、今のうちに腕を切り落とすとか……」
「切り落とすとか、っておまえ、そんな簡単に! 利き腕が無くなったらおまえ、仕事どうするんだ!!」
「仕事って……オロカさん、真面目ですねぇ……」
「あ、ま、まぁ、仕事以外にも色々と困りはするだろうが……」
確かに仕事どころではない状況なのだが、先程から仕事仕事と考えていたためか、オロカの脳裏に真っ先に浮かんだのはそれだった。

「まぁ、他にも方法はなくはないです」
「どんなだ。熱湯で茹でるとか、酸に漬け込むとか?」
「死ねます、それ。
そうでなく……一般的な一年草と同様、実をつければ枯れます。それを待つ、というものです」
「なんて悠長な……一年草というからには、一年くらいかかるのか?」
「いえ、この植物は恐ろしく成長が早いので……この段階からだと、せいぜい10日から半月というところですね」
「10日!? なんだ、そんなものか。
だったら、なくはない、とか言ってないで素直に待てばいいじゃないか、たかが10日……」
「そう……ですねぇ……」
 
 
 
思いがけず簡単な──と、彼には思われた──手段を聞かされて、オロカは思わず一瞬、気抜けした。
その隙を狙いすましたかのように、突然三郎の右腕が今までオロカの手を振り払おうとしていた方向とは逆向きに走った。
虚をつかれてオロカはがくんとつんのめり、その手から三郎の右腕がすっぽ抜けた。
「わ、わっ!?」
今度はオロカの首根っこに素早く回された三郎の腕が、彼をぐっと引き寄せる。

ぶにっ。

二人のほっぺとほっぺが仲良くくっついた。

「ぎぇっ、気持ち悪ィーー!!」
「しっ、失礼ですね! 僕だって、誰が、貴方なんかと!!」
「とにかく離れろ、馬鹿!」
「貴方に馬鹿とは言われたくないです!」
「喧嘩してる場合じゃないって言ってるんだ!
ま、まぁ、誰かに見られてなかったのがせめてもの救──いぃ!?」

オロカは目をむいた。
少し離れた樹に半分身を隠して、小柄な人影──暗示郎がじーっとこちらを見ていたのである。

「あ、あ、暗示郎ォーー!
貴様、いつからそこに居たんだ! 見てないで手を貸せ!!」
「──さて、問題です」
コロコロと明るい声はそのままに、暗示郎はかしこまったポーズをとった。
「僕はいつからここにいたでしょう?
一番。まだ片思いだったオロカが、未練がましく三郎の後ろをウロウロしてた時。
二番。三郎にも愛が芽生え、オロカに熱いハグをした時。
三番。二人の心が通じ、夢のチークダンスを踊りだした時。
さぁ、どーれだっ?」
「ば、ば、ば、馬鹿野郎ォーー!!」
「……はぁ」
顔を真っ赤にしてがなりたてるオロカに対して、三郎はといえば何も言わず小さく溜息をついていた。 
 
 
 
それからもうひと騒ぎあった。
暗示郎の手も借りて、やっとのことでオロカが三郎の腕の中から抜け出し。
かと思えば、次の瞬間には暗示郎が三郎に捕まっていた。
はじめはちょっぴり嬉しそうにしていた暗示郎も、ようやく抜けだした時にはさすがに笑顔が消えていた。
三人が間隔を開けて──オロカと暗示郎が離れる必要性はなかったのだが、勢いで──へとへとになって座り込んでいる。

「あ〜ぁ、潰れちゃったぁ」
暗示郎が両足を地面に投げ出したまま、ディバッグから紙袋を出して覗き込んでいる。
「……何ですか、それは?」
三郎が、ハンカチで汗を拭いながら問いかける。
「君の忘れ物だよぅ。テイクアウトのミックスサンド、サラダ付き。
三郎好みに、レタス多めにしてもらったのにぃ〜」
「あぁ……そういえば。
いえ、味は変わりませんのでいただきます……後で。
宿舎のテーブルの上にでも、置いておいてください」
左手でコートのポケットから鍵を出して、暗示郎に投げてよこす。

少々ふらつきながら、三郎が立ち上がる。
「それでは、お騒がせしました。
しばらく顔を見せませんが、お二人とも御心配は無用です」
「はぁ〜い」
「あぁ。おまえの顔は10日くらいは見たくないと思ってたから、ちょうどいい」
「まったくです」
オロカの皮肉にも動じず、三郎が帽子をかぶり直しながら彼を見下ろす。
「いいですか。本当に、心配は無用ですからね?」
「……あぁ??」

何故、俺には二回言ったんだろう?
オロカは首をかしげながら、畳んだ脚立を左手で抱えて去っていく三郎の背を見送っていた。
 
 
 
「……あ。重さはともかく、かさばる物を片手で運ぶのは結構骨なんだから、あれをこそ手伝えば良かった」
三郎の姿が見えなくなってから思い至り、オロカは呟いた。
「オロカ、お手伝いしたかったの?」
「ぁ……うん」
ぷっ、と暗示郎は吹き出した。
「オロカ、かわいい」
「……」
言い返しはしなかったが──男に言う言葉じゃないだろうと、オロカは不満気に口を尖らせていた。
マインドパペット1.5 水色の庭園

6.

オープンカフェから、談笑する声が聞こえてくる。
調理室の裏口から出てゴミ袋を下ろした暗示郎は、ふぅと息をついて汗を拭った。
「暗示郎」
突然声をかけられて、慌てて営業スマイルを作りかけて──ひょいと肩をすくめてみせる。
「なんだ、オロカかぁ。
ちょっと、ここにブッソウな物持ってこないでって言ってるじゃない」
「あ……すまん」
オロカは担いでいた抜き身の刀を隠すような仕草をした──無論、手のひらで隠れるようなサイズではないのだが。
「手放すと、何か落ち着かなくて……」
「だったら、せめて布で包むとかすればいいじゃん」
「うーん……」
暗示郎の言うことももっともではあるが、オロカとしてはすぐに振るえないならば持ち歩く意味が無いとも思えるのであった。

「ま、わざわざ裏に回るとか、君なりに気を使ってるんだけどさ。で、何か用?」
「……ん」
気を使ったというより、菓子を食っている連中と顔を合わせたくなかっただけなのだが……まぁ、そういうことにしておくか。
オロカは否定せずに本題に入った。
「三郎は、どこで寝泊まりしているんだ?」
「……君さぁ。"たかが10日"とか言ってた人が、なんで"たかが3日"顔見てないくらいで心配するわけ?」
「うっ。そ、それは……文句を言いそびれているからだ。逃げるあいつが悪い」
「何だか知らないけど、3日以上前のことをまだ根に持ってるのぉ?」
「そ、その……言いたいことを言わないまま、万一の事があったりしたら困る」
ククッ、と暗示郎はおかしそうに笑った。
言い訳じみて聞こえただろうか、とオロカはどぎまぎした。

「大丈夫だよ。引きこもってるみたいだけど、日持ちのする食べ物結構持ち込んでたみたいだし、お風呂もトイレもついてるし。
それに三郎だって言ってたじゃん、お見舞いとか来るなってサ♪」
「……言ってたか?」
「言ってたよ。心配しないでって、2回も念押しして」
「あぁ……あれは、そういう意味だったのか……」

「まぁ、あれだよね。風邪とかひいても、よっぽど酷くなければお見舞いとかありがた迷惑だよね〜」
「……そうなのか?」
そう言われても、風邪をひいたのは何年前だったか──というほどの健康体なので、オロカにはピンとこなかった。
「だって、調子悪いと気分が落ち込むから、人と話したりするのわずらわしいし。
お粥作るよーとか言われても、散らかったキッチンに入られたくないし。
あと、お風呂入ってなかったりすると、臭いとか思われないかなとか、気になってしょうがないし。
家に来てもらうなら、元気な時にサービスサービスぅしたいよ」
馴れ馴れしい暗示郎のことだから、病気の時にはここぞとばかりに甘えるだろう──そう思っていたので、オロカは意外に感じた。

「……普通そうなのか?」
「多数派かどうか知らないけど、僕はそうだなぁ。オロカは違うの?」
「ん……」
問われてオロカはしばし記憶を巡らせた。
「戦場で負った傷が膿んで、今まで出したこともないような高熱を出した時は……誰か手を握っていてくれないかな、などと思ったものだが……」
「へぇ?」
「いや、さすがに忙しい戦医にそんなことを頼みはしなかったが……それでも、傍に人の気配がするだけで救われたというか……」
「ふーん……」
「……今、ガキっぽいとか思っただろう?」
オロカが睨むと、暗示郎はにっこり笑ってみせた。
「ううん、そう素直に思えるって羨ましいなって!」
「やっぱり、馬鹿にしているだろう?」
「違うって、違うって!」
暗示郎がおどけたように手を振り回すので、オロカには彼が本気で言っているのかどうか判断がつかなかった。

「まぁ、わずらわしいって言っても、あんまり踏み込まずに買い物とか行ってくれる人とかは、助かるなーって思うけど。
病気の時に一番辛いのは、外出することだし」
「そう……か。じゃあ、そういうことで何か必要なものがないか、聞きに行く」
「あ、待って。僕も行くよ。そーいえば鍵預かったままだったから」
察する、ということはあまり得意な方ではないオロカだったが、ふと暗示郎の言い方には引っかかった。
「もしかして、わざと返し忘れたんじゃないのか?」
「まぁね〜♪ ちょっと待ってて、マスターに断ってくるから」
軽い足取りで身を翻し、暗示郎は調理室に入っていった。マインドパペット1.5 水色の庭園

7.

三郎が"宿舎"と呼んでいたので、オロカは大きな建物に何人か分の部屋があるようなものを想像していた。
しかし実際には、コテージ風の小じんまりした一戸建てだった。
"誠に勝手ながら、来訪お断りいたします。"
左手で書いたのであろうが、その割には冷徹な印象をうけるほどに綺麗な字でドアに張り紙がしてあった。
躊躇するような仕草をする暗示郎を尻目に、オロカは迷わず拳でドアを叩いた。
ドン、ドン、ドンッ。
荒っぽいノックに、応える声はない。
「三郎! 三郎ッ!」
「寝てるんじゃないの?」
「寝てるだと? これでか!」
そう──建物の内は静まりかえってなど居なかった。
ジャキッ──ガシャッ──ガキッ──
断続的な、異様な金属音が、耳をすませるまでもなく外まで聞こえていたのである。
「もしこれで寝てるとしたら……"眠ってる"んじゃなく"気を失っている"というんだ! 鍵よこせ!」

なおもためらっている暗示郎の手から鍵をむしり取ると、慌ただしく解錠して室内に飛び込む。
まず目に入ったのは、入ってすぐの壁の外套掛けにぶらさげられた、コートと帽子。
廊下の左右に設けられたドアは、前に聞いた暗示郎の説明から風呂や便所だろうと見当をつけ、奥のドアを開く。
簡素だがひととおりの家具がそろった室内──見渡すと、窓際にベッドがあった。
サイドテーブルには金属製の水差しとガラスのコップ、それに乾パンや乾果といった片手でもつまみやすそうな食料が置いてあったが、ほとんど手が付けられていない様子だった。
──ガシャ、ガチャッ──ガガッ──
布団はベッドから半ば以上ずり落ちており、ゆるいシャツを着て横たわった三郎の細長い肢体が見えた。
「手錠……?」
囚人達が暴れたりした時のためにと、オロカもいくつか持たされているものと同じ品だった。
無骨な手錠が三郎の右手首と右足首を、金属でできたベッドのフレームに拘束している。
それを引き千切らんばかりの勢いで、手足が激しく暴れている。
三郎の頭や体が、されるがままに──ぐったりとして──揺さぶられている。

「三郎!」
「オロカ、ちょっ……」
「三郎! 三郎、しっかりしろ!」
暗示郎の声に構わず、オロカは持っていた刀を放り出し、三郎の両肩をつかみあげて揺すった。
頭が人形のようにがくんがくんと前後に振られた。
「オロカ、これ!」
「痛タタッ、何だ、やめッ!」
髪の毛を引っ張られた痛みに、仕方なくオロカは手を離した。
ばふっ、と三郎の頭が枕に落ちる。
振り向いたオロカの目前に、暗示郎が床に落ちていた何かを拾って突きつけた。
開封された小箱。
書いてある文字は……"睡眠導入剤"。
「……え? これって……」
「貴方……」
地の底から這い出してきたような、低められた三郎の声が響いた。

「貴方は! せっかく寝つけたと思ったのに……何をしてくれるんですかッ!!」
細い目をくわっと見開いて、三郎が怒鳴った。
「ご、ごごごごゴメッ! すぐ、すぐ出てくからッ!」
縮み上がった暗示郎が、オロカの袖を引く。
いつもクールで穏やかな三郎が激昂するところなど想像もしていなかったオロカも肝を冷やしたが、それよりも気になってしまった。
涼やかなはずの三郎の声が、かすれていたことに──その顔が血の気がなく、蒼白で──肌や唇は水気がなく、カサカサであったことに。
「大丈夫なのか、三郎……酷い顔色だ……」
「養分を取られてるんです。顔色くらい、悪くなって当然でしょう」
「養分って……栄養、か? ちゃんと食べてるのか? 取られた分、食わなきゃ駄目だろう」
「食欲が無いんです。放っといてください」
「無くたって、無理にでも食わないとおまえ、干からびるぞ」
「……貴方は」
ぐっと三郎の長い左手が伸び、サイドテーブルの水差しをつかんだ。
えっ……?
オロカは戸惑い、息を飲んだ。
次の瞬間、ガシャーン!と音を立てて水差しはオロカの顔面に叩きつけられていた。
「出て行けと……言っているのが……わからないんですかぁーーッ!!」

ボタボタっ、と鼻血が滴り落ちた。
「う、嘘…だ……」
痛みよりも──魔術だ呪術だといったものならばともかく──ただの庭師、しかも病人に"物理攻撃"で遅れを取ったことに衝撃を受けて、オロカはへたへたと腰を落とした。
「わわわっ、オロカ、大丈夫!? さ、三郎も落ち着いてぇーっ!!」
続いてコップをつかんで振り上げている三郎と、呆然としているオロカの間に、暗示郎が割って入る。
「言葉の通じない犬は、こうやって躾けるしかないんですよッ!!」
「犬って、ちょ、気持ちはわからないでもないけど、やめてぇーっ!!」
 
 
 
「オロカ、大丈夫ぅ?」
暗示郎に半ば引きずられるように外へ出たオロカは、鼻をつまんでしゃがみこんだ。
血液と熱が溜まる不快感が、鼻の中に込み上げてくる。
「大丈夫……骨は折れてない、たぶん……。
……普段あまり怒らないような奴を怒らすと恐い、とは聞いたことがあったが、こういうことか……。
くそ、不覚……まさかあの三郎が、モノを投げてくるなんて……わかってりゃ、避けるなり防ぐなり……」

そうだ、避けられなかったのはあくまでも不意打ちだったからであって……。
心のなかで自分に言い聞かせ、オロカは武人の矜持を立てなおそうとした。

「"あの三郎"を怒らしたのはオロカじゃん。もー、空気読めないのにも程があるよ」
「空気とか、見えないもの知らん」
「前もって、よっぽどじゃなきゃ体調悪い時に訪ねてこられても迷惑なだけだって、釘さしといたのにさー」
「……」
それはおまえの場合こうだという話であって、三郎もそうとは限らないじゃないか──
──などと口答えしようかとも思ったが、そんなことは頭から飛んでいたのは確かなので、オロカは別のことを言った。
「よっぽど、に見えたんだ!」
「はぁ……じゃ、しょうがないか……まぁ、三郎もかなりヤセ我慢してるっぽいしね……。
あれからずうっとろくに眠れてなかったんだろうね、そりゃ神経もささくれるよねぇ」
「……」
オロカは地面にあぐらをかき、暗示郎が差し出したティッシュで鼻を拭った。

「でも、あれだね」
暗示郎は、オロカを小首をかしげて見下ろした。
「やっぱり、三郎はオロカのこと好きなんだね♪」
「……はァ?」
「いや、ホモとか変な意味じゃなくて」
「おまえ、どこをどう見たらあの反応からそんな結論が出てくるんだ?」
「なんというか、このままだと仲良くなっちゃうから遠ざけとこう、みたいな──」
「仲良くなったらまずいのか?」
「──ははっ、わかんないよね? わかんなきゃいいよ、なーいしょッ♪」
暗示郎は、身軽にその場でくるんと回ってみせた。

「なにか、冷やすもの持ってきてあげるね〜」
「おい、それはどういう……」
「あ、そこ、忘れ物ね」
壁に立てかけられた、刀を指さす。
まだ聞きたそうなオロカを置きざりにして、暗示郎は小走りに来た道を戻り始めた。
 
 
 
「"スタイル"を保持するのって大変だよね、三郎。
もっと楽になっちゃえばいいのに……ま、あんまり人のことも言えないか」
オロカと別れた後、暗示郎は一人、ぽそっと呟いた。
「……でもま、たまにはキレたほうがガス抜きになっていいよね♪」
マインドパペット1.5 水色の庭園

8.

ふくろうがどこかでホゥ、ホゥと鳴いているのが聞こえる。
「……くそ、眠れん」
暗闇の中、オロカは首のチョーカーから伸びる鎖をまさぐった。
握り締めると、少し気分が落ち着く……が、何度繰り返しても、一向に寝付けない。
シャッ、とカーテンを開ける。
やわらかな月光が差し込む。
かなり夜目が利く方であり、野生の勘が働く──人間関係においては、あまり働かないが──オロカは、この程度の光源であまり不自由なく行動できた。
裸足のままベッドを降り、小型の冷蔵庫を開ける。瓶入りのコーヒー牛乳を二本出し、蓋を開けて口にする。
程よい甘さが、ほっとさせてくれる。
氷を継ぎ足しているわけでもないのに、どうしていつも冷たいんだ──
──そんな風に当初は随分不思議がったが、今ではもう、理解できないままに「そういうものだ」と慣れていた。
 
窓ガラス越しに、満ちた月がよく見える。
穏やかで優しい、押し付けがましくない、しかし遠く、少しだけ冷たい光──
──まるで、誰かみたいな。

「……そうだ、窓からちょっとだけ様子を見てみるか」
いや、カーテンが掛かっているかもしれないし……掛かっていなかったとしても、向こうに気づかれてまた怒られるかも……。
思いついた考えにも迷いが生じるが、いや、やっぱり、とオロカは横倒しになっていたブーツを手にした。
「何もせずに後悔するより、何かして後悔するほうが、よっぽどマシだ……うん」
厚い靴底がモロに見えてちょっと恥ずかしくなり、見えないように慌てて足に履いた。
武人としてはそれほど体格が大きくはないオロカが、見栄で選んだ品だった。

続いて刀に手を伸ばしたが、少し考えて、今日だけは持ち歩くのをやめようと決めた。
夜目が利く方といってもうっかり物にぶつけて音を立ててしまうかもしれないし、三郎に見られた場合のことを考え、少しでも警戒心を薄れさせたかったのだ。
手が寂しいので無意識に首の鎖をいじりながら、オロカは部屋を出た。
 
 
 
足音を忍ばせて、オロカはそっと三郎が寝ていた部屋の窓へと近寄った。
やはりカーテンがかかっている……しかし、少し隙間が開いている。
オロカは目を寄せた。

部屋の中は暗かったが、幸いベッドは窓際にあったので、なんとか様子がうかがえた。
あいかわらず、やかましく手錠を鳴らしながら動き続けている、右手と右足。揺さぶられる三郎の身体。
「……はっ…はぁっ……」
ハッ、とオロカは耳を澄ませた。
揺さぶられての動き、ではなく──三郎が苦しそうに首を左右に振り、口を大きく開けてあえいでいる。
「三郎!?」
暗示郎に鍵を借りに行く時間も惜しい。
オロカは傍に転がっていた石を拾い、振り上げた。

──空気読めないのにも程がある──

暗示郎の言葉が耳をかすめた。
「えぇい、間違いだったら、その時はその時だ!」
ガシャン! ガラスを叩き割り、その穴からオロカは手を突っ込んで掛け金を外し、窓を開いた。
窓枠に手をかけてジャンプし、一気に室内に飛び込む。

「三郎!」
手を伸ばそうとしたが、三郎の唇が動き、オロカは一瞬思いとどまった。
「──この──害虫め──」
小さいが、憎々しげな呟き。
「なんだ……夢か……」
オロカはどっと肩を落とし、安堵の溜息をついた。
「てっきり、あの根っこに首でも締められているのかと……」

窓に残ったガラスで引っ掛けて切った、手の小さな傷を舐めながら、しばしオロカは三郎の寝顔を見やった。
……それにしても、こんな身体なのにまだ、夢に見るほど庭のことを心配してるなんて……なんて仕事熱心な奴だろうか。
オロカは、心底感心した。
とにかく起こしてやったほうがいいだろうと、再び手を伸ばそうとした時、三郎が呟いた。
「……僕の記憶なんて、くれてやるから……さっさと、消え……」
記憶? メデューサ蝉のことを夢に見ているのか?
オロカは考えた。

俺は、思い違いをしていたんだろうか?
てっきり三郎は、自分の記憶を失うのが嫌で、俺を餌にしたんだと思っていた。
しかし……こいつはその前に、自分を餌としてくれてやろうとしてたんだ。
が、何か条件があるかどうかして、駄目で……
食わせても無駄だったか、あるいはそれ以前に見向きもされなかったか……
それで、仕方なく俺を……

条件──

──本気で縛られたくないと思う、それだけでいいんです──

──それだけがんじがらめにされるところを見るに、その手の気持ちが相当強いタイプでいらっしゃるようですね──

──ただの害虫ではありません。貴方のような人にしかできない仕事なんです──

「……なんで、前もって言ってくれないんだ……」
オロカの恨み言は、方向が変わっていた。
 
 
 
「三郎。おい、三郎!」
揺すっても起きないので、オロカは三郎の頬を軽く叩いた。
「三郎!」
「ぁ……」
三郎は、薄く目を開いた。そのとたん、ぎょっと身をすくませた。
「ぁ……兄上ッ!?」
「……ぇ?」
「嫌ァァァァッ!!」
オロカが否定する間もなく、三郎は大きく身をよじった。
兄と呼ぶ何かから逃れようとしてかベッドから転がり落ちようとするも、それを手錠が繋ぎとめ妨げた。
「やめてください、嫌だッ! 離して……ッ!!」
「三郎! 俺だ、オロカだ、しっかりしろ! 誰だか知らんが、ここにはいない!」
三郎の肩をつかんで引き戻し、今度は遠慮なく、力いっぱい頬を叩いた。
「オロカ……」
浅く早い、過呼吸気味の息を繰り返してはいるが、三郎の目に正気の色が戻ってきた。
「オロカ……さん。なんだ……貴方、でしたか……」

「……ほら」
オロカは、持参してきた物を三郎の左手に押し付けた。
「……何、ですか?」
三郎はそれを手探りするように、まだ少しこわばった指を動かした。
寝起きのせいもあるだろうが、オロカほどには夜目が利かないらしい。
「コーヒー牛乳」
瓶を三郎に握らせたまま、オロカは手を添え、蓋を開けてやった。
「……」
飲み物のチョイスが子供っぽいとか言われないかと、ふとオロカの心に不安がよぎったが、三郎は黙って口にした。
勝手に動く右手足に揺さぶられて、中身が少量シーツに滴った。
肘をついて半分だけ身を起した不自然な体勢を見て、ストローを持ってこれば良かったとオロカは思った。
 
 
 
三郎が視線を動かしたので、オロカはつられるように振り返った。
「……ぁ」
風でカーテンがまくれ上がり、差し込む月の光で、ガラス片がキラキラと光っていた。
「すっ……すまん! その、あの、散歩してたら、たまたま! そう、たまたま苦しそうにしているのが見えて……ッ。
それであの、つい……夢を見ているだけとは思わず……。
すぐ片付ける! いや、出てけって言うなら、すぐに……ッ!」
「……」
フッ、と三郎は音もなく笑った。
「そんなに気を使っていただかなくとも……いえ、僕のせいですね。
昼間は、大人げない真似をして申し訳ありませんでした。少々、気が立っていたもので──」
「……」
謝られてほっとすると共に、なんだか残念なような、かえって突き放されたような、妙な心地がした。
……確かに驚きはしたが、せっかく本音をぶちまけてくれたんだ……申し訳ないってことはないだろう。
むしろ、ほのめかすようなことをしないで、嫌なら嫌とあのくらいはっきりと言って欲しい……いや、モノを投げるのは勘弁して欲しいが。

複雑な顔をして少し横を向いているオロカを見やり、三郎は言葉を継いだ。
「──お願いします」
「あ、あぁ……」
電灯のスイッチを入れる。
瞬時に明るくなるそれに、オロカは自分でつけたのにもかかわらず、ついびくっとしてしまう。
完全に明るくなった後なら平気だが、この瞬間だけはオロカはまだ苦手だった。
気を取り直し、布団の上に這いつくばって、オロカはガラス片を拾い集めはじめた。

「……」
沈黙が気まずくなって、オロカは何か言わなくてはという気持ちに駆られた。
「……俺って、おまえの兄貴に似てるのか?」
問うてから、しまった、まずい話題だったかもしれない、とオロカは後悔した。
「……いえ」
しかし、三郎は少しだけ驚いたような目を向けただけで、それに答えた。
「全っ然、似ても似つきません」
「……そうなのか?」
力いっぱい否定されて、なんだか少々悔しかった。
どれだけ立派な兄か知らんが比較するな、とばかりに恨みがましい目を向けると、三郎に微笑みを返された。
「まぁ……強いて言えば、声が少し……似ているかもしれませんね。
しかし、おかしなものです……落ち着いて考えてみれば、あの人が僕を"三郎"などと呼ぶはずもないのに……」
「……?」
「いえ……なんでもありません。それ以上は聞かないでください。
そこにガムテープがありますので……」
「……」
わけがわからなかったが、聞くなと言われては聞けるものではない。
オロカは三郎に使い方を聞くと、ビビビッとガムテープを切り、ガラスの粒をくっつけて取った。
 
 
 
三郎の態度は、昼間よりもずっと柔らかい。
……しかし、何か気持ち悪い。
少しだけ譲歩はするが、それ以上は踏み込むな、深入りするな、と防衛線を張られているようで──

──なんというか、このままだと仲良くなっちゃうから遠ざけとこう、みたいな──

暗示郎の言葉が脳裏に蘇った。

──空気読めないのにも程がある──

ガムテープを丸め、ゴミ箱に力を込めて投げ入れた後、オロカは三郎に向き直った。
「なぁ、三郎」
「はい?」
オロカはがばっと布団に手をついて頭を下げた。
「な、なんですか……やめてください」

「俺には、無理だ! やっぱり、心配させてくれ!」
「……は?」
「心配するな、って言っただろう、おまえ!
だがな……決して、おまえのためじゃないんだ!
俺が、こんな楽には耐えられないんだ! まして、苦しんでる奴が居ると思えば、余計に!!」
「……苦しむ、なんて程では……ただ、手足が自由にならないだけで……」
「何でもいいんだ、何か、させてくれ!
のんべんだらりと時を過ごしていられないんだ! 何かしてれば、余計なことを考えずに済むから!
おまえの目に付くところに居ると迷惑なら……そうだ、おまえの仕事で何か俺でもできそうなことがあれば、それでもいい!
夢に見るほど、庭のことが心配なんだろうがっ?」
「……僕は何か、寝言でも言っていましたか?」
「たいしたことじゃないっ。とにかく、頼む! でないと俺が、困るんだ!」

「……」
「……」
二人が沈黙する中、三郎の右手足を拘束する手錠だけが、ガチャリ、ガチャンとやかましく金属音を立てていた。

……くす。
小さく三郎が笑ったのを聞いて、オロカは顔を上げた。
「思った以上の、馬鹿ですね……貴方は」
「あぁ、馬鹿だ。悪いか」
「悪くはありませんが、困ります。ズルいですよ。
そこまで言われて断っては、僕が駄々っ子みたいではありませんか」
「ぁ……ぅ、そんなつもりは……」
「いえ、褒めてるんですよ。これが計算でないなら、たいしたものです。
いいですよ……少しだけでしたら」
「本当か、ありがとう!」
「……立場的には、礼を言わなくてはいけないのはこちらなのですけどねぇ……」
 
 
 
「それでは……庭のことでもお願いしましょう。
そのトランクの奥の方にノートがありますので、出してもらえますか」
「あぁ、わかった」
オロカはいそいそと、三郎が指さしたトランクを開けにかかった。
仕事道具、旅に必要なもの、その他いろいろなものが几帳面に整頓されて収められている。
ノートを探して邪魔なものを外に出しているうちに、妙なものが手に触れ、動きが止まった。
両の手に収まるほどの大きさの、紫色の厚地の布袋。金糸の刺繍が施されている。
中には、箱のようなものが入っているようだ。
学のないオロカにさえ、何だか高価そう──と、わかる。

──兄上──

三郎が、兄のことをそう呼んでいたのを思い出した。
兄さんでも、兄貴でもなく。
三郎は、ひょっとしたらいいところの出なんだろうか……なんとなく、オロカはそう思った。

「……あんまり、中の物をジロジロ見ないでくださいね」
「あ、あぁ、すまん」
横になっている三郎からは何を見ていたかまではわかるまいが、オロカは慌ててそれを自分の身体の影になる場所へ置いた。
 
 
 
三郎の手書きのノートを見ながら、早急に必要な仕事を教わった後。
部屋を出る前に、オロカは応急処置としてダンボールを切って窓ガラスの穴を塞いだ。

「色々と、手間をかけますね」
「ところで、何か食べられそうなものはないのか?」
ガムテープで貼りながらオロカが問うと、三郎は困ったような顔をした。
「それも……貴方が困るんですか?」
「そうだ、おまえが食わないと思うと、俺もなんだか不味くて食った気がしないんだ」
さすがにそれは少々大袈裟だったが、引っ込みがつかないのでムキになってオロカは言った。
三郎はくすくすとおかしそうに笑った。
「共感性の高いことで……よく、それで傭兵が務まりましたね」
「……悪かったな」

「菜園の東のアスパラガスが食べごろのはずですので、明日の朝にでも採って、暗示郎さんに預けてくださいますか?」
「アスパラガスを、どうするんだ? 茹でてマヨネーズかけるだけでいいのか?」
正直、もっと精のつくものを食べては欲しかったのだが。
それしか食べられそうにないのなら仕方ないので、オロカは問うた。
「いえ、何もかけずに。マヨネーズをかけると、マヨネーズの味しかしませんから」
「ふぅん……」
そこまで極端ではないが、オロカにも何となくわからないではなかった。
「……俺も、肉をあれやこれやとあんまりいじりまわすのを見ると、ただ焼いただけのほうが美味いんじゃないかと思う時があるが、そんなようなものか」
「えぇ、そんなようなものです」
いじりまわす、という言い方がおかしかったのか、三郎はまた小さく笑った。

マインドパペット1.5 水色の庭園

9.

「うーん……」
オロカは一本のバラの若木と、三郎から預かったノートとを、交代に睨んでいた。
他のバラに比べて少し元気が無い気がするし、よく見るとあちこち、葉や枝のイボ状になった部分から赤錆のようなものが吹き出している。
擦りきれたページをめくり、色鉛筆で丁寧に描かれた絵と見比べる。
「うどんこ病……黒点病……ん、サビ病?
サビ病、かなぁ? ん……でも、そんなにたいしたこともないような……ただの汚れかも……。
うっ……黒点病の方には"予防をしたとしても必ずバラはかかる病気"とか書いてあるし……黒点病か?サビ病か?どっちだ?」
考えれば考えるほどに、迷う。三郎の言葉を思い返してみる。
「いいですか、オロカさん。植物の病気というのは、他のものに感染って広がってしまうことが多いんです。
中には、放置しても差し支えない種類の病気や、程度によっては適切な対処をすれば処分しなくともいい病気もあるのは確かです。
しかし、病気かもしれないと思ったら、迷わずその部分を取り除く。全体がやられていれば抜く。
そして、焼いてしまってください。そうそう、病気のために落ちたと思われる花や葉も忘れずに。
焼かなくていいものが混じっていたとしても、気にすることはありません。
悪い病気を見逃して、広がってしまうよりも余程いいのです」

マインド パペット

気にすることはない……と、言われても躊躇ってしまう。
種類や程度によっては処分しなくとも──などと言われればなおさらだ。
「たぶん、病気の見極め方とか、"適切な対処"とやらまで、俺が覚えちゃいられないと思ったんだろうな……」
だとすれば、その予測はおそらく的中している。
鋏の消毒やらなんやら、気をつけなくてはならないことで頭は一杯だ。

トゲに気をつけながら、バラの茎に手をかける。
バラの木など花が咲かなければ目を引くものじゃないとオロカは思っていたが、よく見ると若芽はほんのり赤みがかかり、柔らかそうで綺麗だった。
──せっかく、ここまで育ったのに──
オロカの耳に、バラの恨み言が聞こえた気がした。
「えいっ!」
目をつぶって、バラを引きぬいた。ボトボトッ、と土が落ちる音が、涙のように聞こえた。
「ごめんな。俺が三郎でなくて、ごめんな……」
このノートがトランクの奥底にしまいこまれていたという事は、きっと三郎ならほぼ全てがわかっているという事だろうに。
オロカは申し訳なさで心がいっぱいになった。

これでいいのかどうか迷いながらする作業というのは、時間がかかる上に精神的に疲れるものである。
にも関わらず夕方になる頃には、切り落としたり引き抜いたりした植物は、結構な山になっていた。
幾分肩を落としながらオロカは火をつけ、パチパチと音を立てて燃えていくそれを見つめていた。
目をこすっていると、不意に背後から声がかかった。

「あれ、泣いてるのオロカぁ?」
「な、泣いてなんかいない! 煙が目にしみただけだ!」
声の主が暗示郎であることを確認すると、オロカは慌てて火の方に視線を戻した。

「やぁ、随分取っちゃったんだねぇ。こんなに、いいの?」
「……うっ」
暗示郎の何気ない問いかけに、オロカの心はずきりと痛んだ。
三郎に言われたことを説明しようとしたが、どういう言葉を使っても言い訳にしかならない気がした。
自分のやっていることがベストではなくベターに過ぎないことは、自分が一番良くわかっていたからである。
「庭師って……難しいんだな」
「そりゃあまぁ、誰でも簡単にできるんだったら職業にならないし」
「ん……そうだけどな。正直、ナメてた……」
 
 
 
「あぁ、あのさぁ。お昼休みの時、マスターに茹でてもらったアスパラ、三郎に渡してきたよ」
「ん……そうか」
暗示郎が明るい声ですんなり話題を切り替えてくれたことが、ありがたかった。
「食ったか?」
「うん、もちろん。ひとつひとつ、とっても大事そうに食べてた。オロカにお礼言っておいてくださいって♪」
「そうか、よかった」
「お茶は飲んでくれなかったけど」
「おまえの茶なんて、健康な時だって誰が飲みたがるか」

「……ねーぇ?」
後ろに居たはずの暗示郎が、急にぐいっと側面に顔を寄せてきたので、オロカはどきりとした。
「どんな手を使ったの?」
「な、なにに?」
「だからぁ、"あの三郎"に、どうやって気を許させたの? いつの間にか、仲直りしちゃってさぁ〜」
「どうやってと言われても……」
説明に困る。
「……なにも、小細工はしてない。やぶれかぶれで、ぶつかってみただけだ」
「……ふぅん」
それだけの説明で、暗示郎は何かを把握したらしかった。
「……そうかぁ。三郎って、意外と正攻法に弱かったんだァ」
「……」
何をもって正攻法というのか良くわからなかったので、オロカは否定も肯定もしなかった。

「ねぇ、お手伝い終わったんでしょ。三郎のとこへお喋りしに行こうよ♪」
「……いいのかな?」
様子を見に行きたいのは山々だが、また気まずくなりはしないかという気後れは残っているので、賑やかな暗示郎が入ってくれるのは助かる。
ただ、三郎が嫌がりはしないかというのが、オロカは気がかりだった。
「だって三郎だって、動けないわ眠れないわじゃ、ヒマじゃん。
三郎の方にも、ちゃんと確認したから大丈夫だよ。
わ〜、是非ともどうぞ来て来てぇ〜って感じでこそなかったけど、迷惑そうでもなかったもの」
「なら、いいか……」
「これもオロカのおかげだね♪」
それは全部が全部自分の手柄というわけでもなく、暗示郎の話の持って行き方も上手かったのではないかとも思ったが。
そう言われて、オロカも悪い気はしなかった。
そして、いつの間にか沈んだ気持ちが切り替わっているのに気づいて、これが暗示郎流の慰め方なのかと悟った。
「……いいけど、おまえの茶は飲まないからな?」
「ちぇ〜。仕方ないなぁ。三郎の体調じゃ酒盛りってわけにもいかないから、ジュースにするかぁ」
「そうしてくれ」
 
 
 
火の始末をした後、バケツを持ってオロカは歩き出した。
「なにそれ……うっひゃー!」
ひょいと覗いた暗示郎が、大袈裟に飛び退く。
オロカが取ったたくさんの害虫が、バケツの水に浮いていた。

そういえば、とオロカは疑問に思った。
「暗示郎。なぜ、殺虫剤を使わないんだろう?」
「三郎は、そういうの嫌いだからねぇ。殺虫剤とか、除草剤とか、農薬とか。
使う時も、なるべく薬品じゃなく、自然のものを使うんだって。
えーと確か、スギナ……つまりツクシの親を煮た汁に抗菌力があるとか何とか。
アルコール消毒とか、イソジン撒くのまでは妥協する、とかも言ってたような」
「なんでだ?」
イソジンって何だろうと思いながらも、オロカは問い返した。
「良く知らないけど、植物とか土とかに悪いんじゃない?」
「しかし、前に……」
「あぁ、三郎が居ない時には、撒いてるよね」
「いいのか、それで? 意味が薄れんか?」
「仕方ないよ。専属で庭のこと見る人が居ない時には、そういうのに頼らないと手が足りないんだから。
三郎だって本当は面白くないだろうけど。
自分が居ない間のオーナーの意向にまで、庭師が口出せるもんじゃないよ」
「そういうものなのか……」

「それと……」
暗示郎がさっと周囲を見渡してから、声のトーンを少し落とした。
「これは単なる推測だけど、もう1つ狙いがあるんじゃないかと思うんだ」
「何だ?」
「マルセルだよ」
オロカが"魔女"と、三郎が"女王様"と呼ぶ存在を、暗示郎は呼び捨てにした。
「マルセルは三郎の事、たまにここへ来るだけじゃなくて、ずっと居続けて欲しいと思ってるらしいんだ」
その話は、オロカも三郎からちらりと聞いたことがあった。
「……それが?」
「うん。三郎だって、オーナーから直接その手の薬を使えと言われれば、自分のやり方を押し通しはしないと思うんだ。
でも、使わせると、三郎の仕事が早く終わっちゃうでしょ?
だからあえて言わず、なるべく三郎の仕事を長い間かかるように引き伸ばして、その間に根が生えることを期待してるんじゃないかな〜って」
「根って……木じゃあるまいし」
呆れたように言ったオロカの言葉に、暗示郎はクスッと笑ってみせた。
「あれ、思ったことない? 三郎は、木の精みたいだって」
「木の精? ……浮き草の精の間違いだろ」
「あ、うまいこと言うねぇ!」
ケラケラと笑いながら、暗示郎は踊るような足取りを早めた。
 
 
 
そう……か。
仕事が終われば、三郎は居なくなってしまうのか……。
当たり前のことを忘れていた……。
広大な庭園のこと、まだ先の話ではあるとはいえ、オロカは急に寂しさを覚えた。
マインドパペット1.5 水色の庭園

10.

なんで、こんなことになったんだろう……。
オロカは暗がりの中、肩を小さくしていた。
"お喋り"とは聞いたが、こういう"話"だなんて、聞いてないぞ……。
「……相手の男が、誰かもわからない……自分一人では、育てられない……。
それに……彼女は、それほど子供がほしいとは思っていなかったのです」

光源はたった一つ、ベッドに横たわった三郎が握るロウソクの火だけ。
元々肉の薄い三郎のこと、少し痩せただけで顔が変わって見える。
目の周りが若干落ちくぼんでいるのを、頼りない明かりが陰影を生み出し、強調する。
まるで死人の顔がものを言っているかのようで、見ているだけで背筋に冷たいものが走る。

「……だから……生んだ子供を、駅のコインロッカーの中に放置してしまいました……」
「コ、コインロッカーって?」
「お金を入れると鍵が閉まる、荷物置き場のことだよ」
暗示郎が小声で説明する。

「それから五年ほどは、自分が罪を犯したそのコインロッカーの近くへは近づきませんでした。
しかし……ある日、どうしてもその近くを通らなければならなかったのです……」

淡々とした三郎の話口調が、逆に不安をそそる。
ごくり。オロカは思わず生唾を飲み込んだ。

「すると……コインロッカーの近くで、男の子がしくしくと、声もなく泣いていました。
どうやら、親とはぐれて迷子にでもなったのか……人通りもなく、たったひとりで……。
なんだか、かわいそうだと感じた彼女は、子供に声をかけました……」

そうか、結構優しいじゃないか、と少しだけ安心したものの、オロカの胸の鼓動はどきどきと早まったままだった。

「……『ねえ、僕、どうしたの?』……しかし、男の子は答えず、黙って首を横に振るだけです。
『大丈夫? 怪我とかはない?』……やはり、首を横に振るだけです」

「……『ねえ、僕、お母さんは?』……」

「…………」
しばらく間が空き、オロカは知らず知らずのうちに身を乗り出していた。

その時──

ずしっ、とオロカの背に重みがのしかかった。

「おまえだァーッ!!」
「ぎゃあァァァーッ!!」
オロカは悲鳴を上げて、その何かを突き飛ばし、外へ駆け出していった。
 
 
 
「あはははは! オロカって、おっもしろぉーい!
何も、逃げなくたってさぁ〜!」
尻もちをついた暗示郎が笑い転げている。
「……」
しかし、三郎はロウソクを握りしめたまま、半眼でぼんやりと天井を見つめていた。
長いまつげが、影を落としている。
「あぁ、ごめんね三郎。疲れちゃった?」
「……あぁ。すみません。いま、何か言いましたか?」
暗示郎は苦笑を浮かべてベッドの脇に腰掛け、蝋が垂れそうになっているロウソクを受け取った。
「そんな色っぽい目をしてると、襲っちゃうぞ☆」
「はぁ……」
冗談とはいえ、そんなことを言われても三郎はぼうっとしていた。

「その様子なら、眠れそうだね」
腰を浮かしかけた暗示郎に、三郎が呟くように言う。
「眠れなくは……ないのですが。寝るのが……怖いんですよね……」
「こわい? どうして?」
暗示郎が、座りなおして問いかける。
「薬を飲めば……寝れます。しかしどうも、熟睡はできなくて……変な夢ばかりを。
あの人は、いつまで僕を追いかければ気が済むのでしょう……僕は、いつまで逃げれば……なぜ、いつまでも……」
「なんでって、夢が不条理なのは当たり前じゃ……」
笑い飛ばそうとして、暗示郎は三郎の目が全く笑っていないことに気づいた。
「……やばッ。こりゃ、夢と現実が混ざってるよ」
暗示郎は小さく呟いたが、霧がかかったような三郎の意識には届いていないようであった。

「これでも吸う?
ストーンと落ちるように、ぐ〜っすり眠れるよ。石のように──じゃなかった、泥のようにね」
暗示郎は、クレヨンのようにカラフルな煙草の入った小箱を取り出し、そのうちの一本を三郎に勧めた。
「どう見ても……体に悪そうなんですが」
「寝ないのと、どっちが体に悪いと思う?」
「……いただきましょう」

暗示郎は、火の付いた煙草を三郎にくわえさせてやろうとした。
その時、ピクピクッと、三郎の左足の指がわずかに痙攣した。
「暗示郎さん。その前に……」
「なぁに?」
三郎がけだるげに左手を伸ばし、サイドテーブルの引き出しから手錠を取り出した。
「これを、左足にもはめてもらえませんか。
それと……僕が眠ったら、もう部屋には入らないでください。
オロカさんにも……庭の面倒を見てくれるだけで、十分助かりますからと……」
「……いいんだね?」
やんわりとした口調で暗示郎が念押しすると、三郎は頷いた。
「見苦しいところを見られるくらいなら、死んだほうがましです……」
「……あぁ。そうだねぇ、アイドルはトイレに行かないんだよね」
「……」
力なく、三郎が笑った。

三郎に煙草をくわえさせ、暗示郎は言われたとおり手錠をかけた。
水差しの水を取り替えたり、持参したお菓子や果物を片手ですぐ食べられる状態にしたりと、かいがいしくしているうちに、ぽとん、と三郎の口から煙草が落ちた。
火が燃え移らないよう、素早く拾って揉み消す。
実際には、この煙草に"熟睡させる"効能などない。
"緊張を解きほぐす"効能があるものに、"五感が鈍くなる"副作用があえて強く出るよう手を加えたものだ。
通常なら行動に支障をきたすだろうが、元より身動きの取れない三郎にはさほど問題ないはずである。
「……あ、花瓶を忘れた」
空になったコーヒー牛乳の瓶を見つけ、暗示郎はそれに雛芥子と霞草をさして窓辺に飾った。

「おやすみ、三郎。
いい夢を……と言いたいところだけど、夢も見ないほど熟睡できることを祈ってるよ」
わずかに緩んだ三郎の唇にチョンと指先を触れて、暗示郎は静かに部屋を出た。
ガチャリ、ガチャリという手錠が鳴らす音が、彼を見送った。
 
 
 
見えない恐怖から逃れようとするようにオロカは走り続けていたが、あがった息を整えようと立ち止まっているうちに、ふと我に返った。
「……あぁ……暗示郎の仕業か。
くそ、馬鹿にしやがって……あぁもう、どの面下げて戻ればいいんだ」
舌打ちして、もう帰ろうとあたりを見回す。
月光も半ば遮られた、暗い林の中だ。
しんと静まり返り、虫の声すらしない。

──ごくり。

唾を飲み込み、首の鎖を両手で握りしめた。
そして、庭仕事の邪魔になるので刀を持ってきていなかったことに気づき、またも不安がよぎる。
「……馬鹿だな、幽霊ならどのみち斬れないじゃないか……って、幽霊ッ!?」
本当に出たらどうしようか、と自分の突っ込みにブルッと震える。
暗示郎や三郎にさんざん聞かされた幽霊の姿が、切れ切れに脳裏に浮かび上がる。
「ば、馬鹿! 馬鹿! 子供じゃないんだぞ。
幽霊なんて居るわけないじゃないか!」

オロカは景気をつけようと、大股にズン、ズンと着た方向と思われる方へと歩き出した。
「ん……?」
何かにぶつかりそうになって、オロカは立ち止まった。
樹──ではない。何かが浮いて──そう、ちょうど等身大くらいの──
オロカは目を凝らしながら、視線を上へとやった。
ぶらんと腕を垂らし、髪をボサボサにした、険しい顔の男──
「で、出たァァーーッ!!」
オロカは逃げようとしたが、木の根っこにつまづき、もんどりうって転んだ。
「た、助けテ……」
オロカは頭を抱えて、全身を縮こまらせた。

「…………」
しかし、オロカを襲うものはなかった。
「……うぅ」
小さなうめき声がして、オロカは振り向いた。
落ち着いてよくよく見れば、男は何本もの紐で樹から吊り下がっていた。
樹の上の方を見やると、大きな布のようなものが引っかかっていた。
パラシュート──だったが、オロカの知識にはないものだった。
「幽霊──じゃない。生身の──人間か」
オロカは恐る恐る男に近づくと、身体を担ぎ上げるように下から支えた。
三郎から借りた、ベルトから吊り下げるタイプの物入れから鋏を出し、紐を切っていった。
どさり、と男の体重が肩にかかる。
担ぎなおして、そのまま運んで行こうとすると、オロカのブーツに硬いものが当たった。
何だかわからなかったが、手探りでそれを拾い、一緒に持っていった。
 
 
 
オロカが寝起きしている部屋は、集合住宅の三階にある。
彼には意味がわからなかったが、皆はそこを"団地"と呼んでいた。
部屋のいくつかからは話し声が聞こえていたが、幸い通路や階段には人気がなかった。
オロカはキョロキョロと見回しながら、男を背負って階段を上がっていった。

オロカは部屋に入ると、いつものように少々びくつきながら電灯をつけた。
男が身につけていたパラシュートの装着部分を手間取りながら外し、ベッドに横たわらせる。
調べてみると、あちこちに擦過傷はあったが、骨折などの大きな怪我はしていなさそうだった。

「……どうしようか」
オロカは迷った。
"魔女"からは、侵入者は撃退せよと命じられている。
しかし、どう見ても"侵入者"というより"遭難者"のように思える。
単に迷い込んだだけの者が居たらどうすべきか、とはオロカは聞いていなかった。

とりあえず、オロカは男を観察してみることにした。
顔の造作は整っている方と言えなくはないが、目鼻立ちはやや大造りで、骨ばっているせいで少々頬がこけているように見える。
綺麗、などという優しげなイメージの入る余地がなく、いかめしさ、力強さ──そして恐ろしさを感じさせる。
この男に"美"があるとするならば、研ぎ澄まされた名刀に感じる機能美・洗練美の類だ。
服装は、軍服のようなきっちりとした、見る者に威圧感を与えるものだ。
オロカのような専業戦士ほどでないにせよ、なかなか鍛えられた身体をしている。
体格は、かなり大きい。刀での斬り合いならばともかく、殴り合いではリーチの差で負けるかもしれない。
腰になにかを帯びている。筒状の鞘に収められ、握りやすそうな柄がついている。
細身の剣かと思われたが、それにしても細すぎる。

しかし──と、オロカは決して恐怖ではない胸の高鳴りを感じた。
何だかわからないが、これは武器に違いない。
どういう戦い方をするのかはわからないが、とにかくこの男は武人に違いない──自分と同じ、武人に。
戦ってみたい。
そう、素直に感じた。
殺したい、というのとは少し違う。
自分の全てと、相手の全てを出し尽くして、全力でぶつかりあってみたい。
それは、武人としての本能だった。

「いま、報告したら……意識がないまま、首をはねられるかもしれない。
それはあんまりにも……そう、フェアじゃない。こいつにも、抵抗する余地がないと」
ぶつぶつと自分に言い訳すると、オロカは男の擦り傷を手当てし、布団をかけた。
電灯を消し、一枚だけ自分用に毛布を取ると、刀を抱いてソファに転がった。
 
 
 
朝になって目を覚ますと、オロカは大きく伸びをした。
ベッドを見ると、男はまだ動かず、横たわっていた。
ふと、床の上に見慣れないものがあるのに気づいた。
少し考え、林の中で拾ったものであると思いあたった。

拾い上げ、ソファに座り直す。
金属製で、オロカには一見、鳥をかたどったもののように思えた。
しかし目もクチバシも無く、全体的につるりとして、無骨で、生き物という感じがしない。

「私のスーパーフォートレスに触るな!」
野太い怒鳴り声がした。
一人称だけは"私"と上品だが、口調には全く遠慮や柔らかみというものが無かった。
オロカはベッドに目を向けた。
男が肘をつき、上半身を起こしかけた体勢で、彼を睨んでいる。
目線はちゃんと座っている自分のほうが上なのに、なんだか見下ろされているような感触をオロカは受けた。
「すーぱー……?」
「B-29のことだ!」
「ビー……?」
「それだ、それ! 木偶の坊が!」

男が立ち上がりながら、シュッと棒状の何かを腰から引きぬいた。
斬りかかってくるかとオロカも立ち上がり、刀を構えようとした。
が、男は宙に絵図でも描くように素早くそれを振った。
オロカは、すぅぅっと吸い込まれるような感触を覚え、慌てて頭を振り、目を瞬かせた。
「あっ!」
その隙に、金属の鳥──爆撃機の玩具がオロカの手を弾くように飛び立ち、Uターンして男を護るように頭上で空中停止した。
爆撃機の玩具を操っていると思われるそれは、剣ではなく、音楽家の持つ指揮棒だった。
ただの指揮棒ではあるまい──魔法使いが手にする杖のようなものかと、オロカは考えた。

「卑怯だぞ!」
「私がいつ、卑怯な真似をしたか!」
「武人だと思ったから助けてやったんだ!
それが、そんな成りをして魔術師だなんて、騙したな!!」
不意に、男がオロカに蹴りを叩き込んだ。
「ぐぇェ……ッ!」
硬い軍靴の一撃が、まともにみぞおちへ入った。
脚の長さはわかっていたつもりだったが、ついそんな遠くから脚が飛んでくるということを失念していたのである。
げほ、げほっと腹を抱えて咳き込むオロカを、男が見下ろす。
「武人だ? これで、文句は無かろう!」
「……っ」
屈辱ではあったが、確かに文句は言えなくなった。

「おい、貴様!」
男がオロカの髪をつかみ、無理矢理顔を上げさせた。
「何だ! 離せ!」
「なぜ、貴様がここにいる!」
「……え?」
オロカは男の顔をまじまじと見たが、やはり記憶にない顔だった。
「おまえは……俺を知っているのか?」
「……」
男はじぃっとオロカの瞳を覗き込んでいたが、急に手を離し、ついと横を向いた。
「……いや、人違いのようだな」
「そう、か? それならいいんだが……」

「……サクラはここにおるか?」
横目で見下ろされ、オロカは首をかしげた。
「梅の木ならあったが、桜はどうだか……」
「木の話ではない。そういう名前のガキだ」
「……いや、知らない。俺はここの奴らと、あまり広くは付き合っていなくて……」
「なら、良い。飯を持て!」
「え、えぇ……?」
「聞こえなかったのか! 飯を持て!」
まるで、使用人に対する口調である。
人にものを頼むならそれなりの言い方はないのかとオロカは思ったが、なんとなく逆らえずに部屋を出た。
 
 
 
「手間をかけさせる……もう一度、調教が必要とは」

オロカのいなくなった部屋で、男──ドグマは呟いた。
 
 
 
「なんだその、こせこせした軽薄な料理は! 肉を出せ、肉を!」
オロカがトレイに乗せてきた、綺麗な皿に綺麗に盛りつけられた手の込んだ料理を一瞥し、ドグマは怒鳴った。
「肉は、入ってると思うが……」
ナントカのカントカ風だか、名前を覚えていない料理をオロカは見やった。
「私は肉が食いたいんだ! ドカッと出さんか、ドカッと!」
「……なんか、ここでは毎日こういう料理ばかりで……。
俺も正直、飽きてはいるんだが、俺は調理とかは……やったことが無いとは言わないが、サバイバル訓練でだし……」
「ふン……仕方ないな、我慢してやろう!」
「……あ、あぁ……」
ドグマがガツガツと料理を口に放り込む。
いちいち態度が大上段だが、時としてまどろっこしさを覚えることもある三郎や暗示郎のそれと比べ、この率直さは新鮮だった。
慣れれば、悪くないかもしれない。
オロカは、そう思った。

「次からは、貴様が調理するように」
「え、えぇ……?」
「返事は!」
「は、はい!」
やっぱり、悪いかもしれない。
オロカは、そう思った。しかし、なぜか逆らえないのであった。
マインドパペット1.5 水色の庭園

11.

「あ、オロカぁ。どうしたの、朝御飯食べ足りなかったの?」
布で包んだ刀を担ぎ、辺りを見回しながらやってきたオロカを見て、暗示郎はテーブルを拭く手を止めて声をかけた。
「あ、そうそう、さっき言い忘れたんだった。
三郎がね、悪いけどしばらく部屋に来ないでね、って。
庭の面倒を見てくれるだけで、十分助かるからね、ってことで……」
「そ、そうか……」
別のことに気を取られているオロカを、妙なものを見る目つきで暗示郎は眺めた。
「どうしたの? 駄々こねないのは、君にしちゃ立派だけどさ」
「……肉。それからパンも、もらえないか?」
「にく?」
面食らったように、暗示郎がまばたきする。
「肉じゃわかんないよ、どれ注文するの?
あ、それともマスターに、肉料理のメニュー増やしてって言って欲しいってこと?」
「い、いや! そういうことじゃない……。
その、えと、実は……犬が迷い込んできて……ここにはドッグフードとか、無いし!」
「犬? へぇ……どのくらい必要なの?」
「け、けっこうたくさん……」
「そんなにいっぱいいるの?」
「い、いや! 子犬じゃないんだ、大きいんだ!」
「ふーん。犬種は?」
「シェ、シェパードだ!」
「へぇー……」
暗示郎が厨房の方へと立ち去ると、オロカは慌ただしく小袋を出し、卓上の調味料入れから塩とソースをくすねた。
キョロキョロ辺りを見回しながら、ポケットに収める。
「他の客がまだ来てなくてよかった……」

「はい、肉とパン。保冷剤も入れといたよ」
「すまん、恩に着る!」
暗示郎が差し出した、発泡スチロール製の簡易クーラーボックスと紙袋とを受け取り、オロカは急いで走って離れた。
肉が食いたい、と言っても少しはレタスとかトマトとか野菜もつけたほうがいいだろうと、次は菜園へと向かう。
途中、保冷剤なるものが、名前から用途はわかるがどんなものなのだろうかと気になり、クーラーボックスを開けた。
「……ぁ」
ビニール袋の上に、"何か困ってることがあったら、時期をみてでいいから相談してね! 暗示郎" と書かれたメモが置いてあった。
「嘘が下手だな、俺……」
 
 
 
「う、嘘だ……」
自分の部屋に戻ったオロカは、調達した食材を抱えたまま立ちすくんだ。
「外へ出ると色々面倒な事になるから、部屋に居ろって言ったのに……なんで居ないんだ!」
部屋からはドグマが消えていた。
「どうしよう、落ち着け、落ち着け……」
ブツブツ言いながら、とりあえず肉や野菜を冷蔵庫に移す。
──そんなことをしている場合ではないということに気づいていないあたりが、既に落ち着いていない証拠なのであるが。
そんな作業をしながらも、悪い想像が次々に浮かんでくる。
フラッと散歩にでも出たか?
三郎のような例外は居るとはいえ、首に良心ロープが無いのを見られたら、絶対おかしいと思われるぞ!
いや、もしかして俺が部屋を出たのに人の気配があるのを誰かが不審がって、押し込まれて連行されたんじゃ……

ドガッ! 乱暴にドアが蹴り開けられた。
慌てて振り向いたオロカの目に映ったのは、肩をいからせてズカズカと入ってくるドグマの姿であった。
「おい、そ……」
「なんだあの連中は!」
オロカが言いかけた文句を、ドグマの怒号がかき消した。
「な、何が……」
「何がじゃない! これだ!」
オロカの目の前まで歩み寄ると、ぐっと首元の良心ロープをつかんで引っ張り上げた。
「おい、苦し……」
「貴様ら、こんな辱めを受けて、何とも思わんのか!
呪縛を解く方法を探ろうともせんのか!
絶望に打ちひしがれて泣き暮らしているなら、糞くらえではあるがまだ理解が及ぶが……。
囚人が囚人である自覚もなく!
むしろ己に与えられた特権であるかのごとく、ヘラヘラ笑って遊び暮らしているとは、何事だ!
貴様ら、人間か! それとも、人間の姿をした豚か!!」

「……」
じぃん、とオロカは胸が熱くなった。
そうだ、俺はあいつらにむしゃくしゃとした思いを抱いていたのに、何と言ったらいいのかわからなかったのだ。
常日頃、言いたくても言えなかったことを、こんなにはっきりと代弁してくれるなんて……!
いつの間にかあがくのを忘れてしまっていたが、そういえば庭仕事を手伝っている場合じゃなかった。
ここから出なくては……!
しかし……

「方法が……あるというのか?」
「あン?」
「何度あがいたか知れない!
斬っても斬っても、増えるばかりで、逆に巻き付かれて動きがとれなくなる!
どうやれば、逃れられるっていうんだ!!」
「ふん!」
ドグマは乱暴に、振り下ろすようにして良心ロープを手放した。
一瞬首に食い込み、げほげほとオロカが咳き込む。
「まだ、あがこうとするだけ貴様は多少、見込みがあるとみえるな」

「知り合いが……誰かに縛られたいと思っている限りは駄目、みたいなことを言っていたが……」
「ほぅ? しかしそれは、"ここ"側の人間の言うことじゃないのか?」

"ここ"側──

そんな風には考えたくはなかった。
しかし──考えてみれば三郎は"魔女"に雇われて庭師という仕事をしているのだから──

「強いて言えば──どちらかと言えば──そうかもしれない」
「はッ! 敵の言うことを真に受ける奴が居るか!」
「て、敵……」
そんな風には考えたくはなかった。
しかし──

思い起こせば、三郎はあの"魔女"を"女王様"などと呼んでいた。
三郎が、他に方法はあると知っていながら、隠していたという可能性はあるのか?
頼みごとをしてきたりとか、そういう事は上っ面だけのこと?
ついでにさりげなく逃げられはしないと思い込ませ、囚人が逃げ出さないよう手を打っていた?
そうだ、あいつはいつも──どこか一線を引いて、それ以上は仲良くしまいとしているようで──
あくまでも、それを踏み越えて仲良くしようとしたのは、あいつではなく俺の方で──
それは──俺は"囚人"で──あいつは"女王の手先"だから──?
オロカの心の中で、疑念が疑念を呼び、膨らんでいった。

──だからぁ、"あの三郎"に、どうやって気を許させたの?──

ふと、暗示郎の言葉が脳裏をよぎった。
「違う! 三郎はそんな奴じゃない!」
そうだ、暗示郎は俺よりずっと前から三郎と付き合いがあるはずで──
──その暗示郎が、あのように言うのだから──
──仮に、初めに会った頃の三郎が隠し事をしたとしても、今なら打ち明けてくれるはず。打ち明けてくれたっていいはず。

「三郎……? ふン」
ドグマは"言葉の主が誰か"という事になどたいして興味など持っていないと言うように、軽く鼻を鳴らした。
「まぁ、そんなことはどうでもいい。
この胸クソ悪い呪縛、ブッ壊してくれる!
貴様はどうするのだ、手を貸すのか、貸さんのか、どっちだ!」
「か、貸す……」
呪縛を壊せる、という点についてはまだ半信半疑ではあったが。
オロカはこの力強い声に、理屈では語れぬ何か──抗いがたいほどに惹かれるものを感じていた。

マインドパペット1.5 水色の庭園


12.

オロカは刀を包んでいた布を取り払ってから、先へ行ってしまったドグマの元へと小走りに追いついた。
振り向きもせずに前を見据えて歩いて行くこの男の背中は広く、なんと頼もしいことか。
眺めているだけでオロカは胸が熱くなるのを感じた。
しかし、魔術師でありながら肉体的な戦闘力にも長けているのは身を持ってわかってはいるが、この男の背中は無防備にすぎる。
今、駆け寄ってきたのが俺ではなく、敵だったらどうするのか。
誰かが背中を守ってやらねば──誰が?──俺、かな?
──そうだ、考えるのはこの人に任せて、俺はこの人を守っていさえすれば上手くいくんじゃないか?
どうせ俺は頭は悪いし口下手だしで、取り柄といえば戦うことしか──
──あれっ?

オロカはふと、既視感を覚えた。
いつか、誰かに対して、同じようなことを考えたことがあるような気がしたのだ。
オロカは急に、不安が心に忍び寄るのを感じた。
具体的には思い出せない。しかし、何か取り返しの付かない事態を招いてしまったような……
オロカは記憶の糸を辿ろうとしたが、頭の中は真っ白になるばかりで、片鱗すら見出すことができない。

とりあえずは着いて行く。
が、全てを委ねるのではなく、注意して見ていることにしよう。
オロカは心の中でそう決めた。
 
 
 
「ここの料理は美味しいですけど、ちょっと飽きが来ましたね。
たまには、もっとこう……シンプルに、素材の味そのものを味わいたいですね。そう、刺し身とか……」
「ほう、サシミ? それはどんな料理ですかな?」
「生の魚をスライスして、そのまま火を通さずに食べるのです」
「生魚を食べるんですか!? それはちょっと、腹など壊しませんか?」
「あぁ、ひょっとしてそれはカルパッチョではありませんか? それなら私も二、三度、食べたことがありますが」
「えぇ、まぁ、要するにオリーブオイルで食べるのがカルパッチョで、山葵醤油で食べるのが刺し身ですよ」

「……食べたきゃ、自分で作ればいいじゃない」
暗示郎は次に出す料理をトレイの上に移しながら、オープンカフェから聞こえてくる話し声にごく小さな声で毒づいた。
「そういや、オロカはアレどうしたのかなぁ。
まぁ、味や見た目はともかく、"食べられるもの" はオロカにだって作れるよね……って、うぇッ?」
暗示郎は外の方へと振り向いた。
ざわめきが、津波が溢れかえるように大きくなったかと思うと、急に静まりかえったのである。

「おいアンジェロ、ありゃあ何だ?」
厨房の方から焦りの混じった声が飛んできた。
呼ばれたのは彼の本名──暗示郎というのは彼のニックネームである。
「わかんないよ、マスター! わかんないけど、何かあったみたいだ!」
 
 
 
食事時であったので、オープンカフェはほぼ満席だった。
「な、なんですか貴方は!」
「な、なにを……ちょっと、近づかないでください!」
一様に肥え太った客たちが、厳しい顔で自分たちを見下すドグマを見て色めき立った。

"物騒である"というだけならば、ドグマの後ろに控えたオロカも同じである。
しかし、それを"場違いだ"、"間抜けだ"と笑いものにできるくらいに、彼らはオロカには慣れっこになっていた。
オロカがあからさまに武器を持ち歩いてはいても、決して非戦闘員を威圧しようとはしなかったせいでもある。
ドグマの物騒さは、オロカとは別種のものである。
オロカと違い一見しただけで武器とわかるようなものは持っていないにも関わらず、全身から火を噴き出しそうな剣呑さをまとっているのだ。
そのインパクトの強さは、良心ロープが首に無いことに人々が気づいたのが、少し間をおいてからであったほどだ。

マインド パペット

「起立!」
いきなりドグマが指揮棒を鞭のように振るい、怒鳴った。
ガタガタッ、と椅子を蹴倒して客たちが立ち上がる。
まるで統率された軍隊であるかのように、ピシッと背筋を伸ばしている。
「我に従え!」
「「「オォォォーーッ!!」」」
天を突き刺すように掲げられた指揮棒に誘われるように、
客たちは熱狂し、歓声を上げた。
「な、なんだ? これはなんだ?」
ドグマの背後に居たオロカは、あまりの事態の異常性に戸惑った。

「ちょっと、何!? 何やってんの!?」
店内から暗示郎ほか、数名の従業員が駆け出してきた。
「我に酔え!」
構わず、ドグマが指揮棒をもう一度振りあげる。
「「「オォォォーーッ!!」」」
「あ、暗示郎……?」
オロカは目を疑った。
(少なくともオロカから見れば)いつもケラケラと呑気に笑っている暗示郎が、
他の者たちと声を揃え、拳を振り上げて、熱い声を上げているのである。

──違う、何か違う。
俺は、こんなのを期待したんじゃない──
オロカは本能的な恐怖に打ち震えた。

「何をしている」
振り返ったドグマが、オロカに視線を向ける。
「ここに居るのが全員ではあるまい! できるだけ多く、かき集めてこい!」
「ま、待ってくれ。何を……」
抗議しかけたオロカの目前に、指揮棒が突きつけられた。
「早くしろ!」
「……っ!?」
ぐにゃり、とオロカの視界が歪んだ。頭の奥が、痺れていく。
警戒心や疑念はどこかへ飛んでいき、代わりにどっと熱いものが心の底から噴き上がってくる。
視界がクリアになると同時に満ちたのは、全力で走り出したくなるような興奮。
そして、酒に酔ったようなふわふわとした高揚感。
「もう一度言う! できるだけ多く、人をかき集めてこい!」
「お……おぉっ! あ……"魔女"の身辺に居る奴らとか、それに病人も居るが、そいつらもかっ!?」
「できるだけ、と言っただろう。そのくらい、臨機応変に対応しろ!」
「わかった……っ!」

「……?」
三郎は薄く目を開けた。視界はぼやけて、何度まばたきをしても良く見えなかった。
遠くから、異様な熱気のこもった歓声が響いてくる。
しかしそれも、三郎の鈍った聴覚にとっては、眠りから覚めるほどの音量ではなかった。
一人旅を続けてきた三郎には、危険を感知する鋭敏な感覚が備わっている。
第六感、と言ってもいいかもしれない。
たとえ野宿をしている時、肉食獣が足音を忍ばせ近づいてきたとしても、殺気を感じれば目を覚ますのだ。
三郎は、眠りから覚まさせたのはその感覚であると悟った。

横になっていては、カーテンを開けたとしても空しか見えない。
三郎は起き上がろうとしたが、左手にも腰にも、思うように力が入らなかった。
それどころか、左手がどこにあるのかも良くわからない。
「もう、サビシ草がここまで……いや……暗示郎さんの煙草のせい……ですね」
かすれた、弱々しい声で呟く。
起き上がれないのは、半分は衰弱しているせいでもあろうが。
「何が……起こっている、のです……か? 誰か……教えて、ください……」
抑えきれぬ不安が、その声には満ちていた。
状況が読めない不安を、体がきかない不安が後押ししているのである。
「逃げなきゃ……あぁ、何かわからないけど、逃げなきゃいけないのに……誰、か……」
 
 
 
オロカは、命じられたとおり庭園中を駆けまわり、人を集めた。
「うだうだ抜かすな! 来るんだッ!」
文句を言う者には刀を突きつけた。
普段、オロカを馬鹿にしていた者さえ、震え上がって従った。
何だ、こうすれば良かったのか……。
オロカは夢見心地で考えていた。

ドグマが指揮棒を振るうたび、不満気だった者も、怯えていた者も、次々に熱狂の渦に飲み込まれていく。
「……頃合いだな」
「……何が?」
ふわふわとした気分のまま、オロカはドグマの呟きに問い返した。
ドグマは彼を無視して、全員に向かって声を張り上げた。
「さぁ、火を起こせ! 棒でも石でもいい、武器を手にしろ! 全てを破壊し、全てを焼き尽くせ! 草木一本残すな!!」
「えぇ……っ!」
草木一本、という言葉を聞いて、オロカは冷水を浴びせられたように我に返った。
オロカの脳裏に、柔らかく美しいバラの若芽が浮かび上がった。
全て? 花も木も、全部? 植物だって、生きてるんだぞ? なんで、そんなことをしなければならないんだ?
それに──それに──三郎が、丹精込めて手入れした花や木なんだぞ?

「ま……待て!」
オロカは振り絞るように声を出した。
ゆっくりと、ドグマに手にした刀を突きつけた。
たったそれだけのことをするのに、オロカの全身からは汗が吹き出していた。
まるで、ねっとりした濃厚な糊の中に全身浸かっているように、空気が重いのだ。
「……」
ドグマは振り返り、ぎろりとオロカを見下ろした。魂の底まで貫かれるような視線だった。
刀の柄を握り締める、オロカの両の手が震える。恐怖を振り払おうと、叫んだ。
「やめろ! やめさせろ!」
「……」
ドグマは黙ったまま、指揮棒を振るった。
オロカは避けようとしたが、やはりゆっくりとしか動けなかった。
為す術なく、両手の甲を続けてピシッ、ピシッと叩かれた。
「あっ……!」
たいした衝撃でもなかったのに、オロカの両手が勝手に柄を手放し、刀が地面に転がった。
ひたり。オロカの額に指揮棒の先が当てられた。
「……ぅ、ぁ」
意識がすうっと薄れる。一度は覚めたはずの熱狂の波が押し寄せてくる。
オロカは腰が砕けて、へたりこみそうになった。しかし気力を振り絞り、じっと耐えて立ち続けていた。
「……意外と、意志力があるではないか」
ドグマの賛辞が、虚しく聞こえる。
逆に言えば立っているだけ、それだけができうる限界なのだ。殴りかかったりなど、とてもできそうにない。
周囲では、人々が火を起こしたり、武器を用意したりと、着々と準備を整えている。
オロカは己の無力さに歯噛みした。
 
 
 
「なぜ……皆を操る?」
オロカはドグマに問いかけた。
なんとか自由になるのは口くらいである。
それも、ふと気を緩めればすぐにでも意識が持っていかれて、何も考えられなくなりそうだった。

「それが一番、手っ取り早いからだ」
「そんな無理矢理やらせるんじゃなく……もっと話し合うとかして……皆が……自分の意志で……」
「はッ! ……綺麗事を。そんなものは、甘ったるい理想論だ!」
ドグマは、ばっさりと切って捨てた。
「この豚どもが、自らの意思でここから出たいと願うと思うのか?」
「それは……」
「まぁ、一部の者は仕事を持っておるようだが……。
大部分の者は働かなくても旨いものを食って遊び暮らせる、その安寧に浸りきっておる。
この腐った楽園を出て、自分の足で立って歩こうという気概を持つものがどれだけいるのだ!」
「……じゃあ、無理矢理出さなくったっていいだろう!
出たくない者を追い立てる必要が、どこにあるんだ!」
「いつ、私が豚どもを救い出してやると言った!
私が気に食わんからブチ壊すと、初めから言っておろうが!!」
「……っ」
オロカは言葉に詰まった。
たとえ、おまえのしていることはエゴだと指摘したところで、何になるだろう。
この男は、自分のやっていることはエゴだと、はっきりわかった上でやっているのだ。

思わず天を仰ぐとちょうどそこには太陽が輝いており、まぶしくてオロカは目を伏せた。
言葉でこの男を動かすことなどできるのか?
言葉で太陽を動かせというようなものじゃないのか?
まったく、この男は太陽みたいな奴だ。
明るくて、暖かくて、暗闇に惑い寒さに凍えた者にとっては、どうしようもないほど心惹かれる。
しかし苛烈にすぎて、目を焼き、肌を焼く。潤いというものがない。
そうして、砂漠を行く旅人が乾き死にしても目もくれずに、高みで輝き続けるんだ。

──旅人?

ふと、三郎の顔が頭に浮かんだ。
こいつが太陽なら、三郎は月だ。
月のような三郎は、どうしてあの時俺の頼みを聞いてくれたんだろう。
自分でも、理論なんて滅茶苦茶だったと思う。
自分勝手に、ただ自分の感情をぶつけて──
──そう、理論じゃなく感情だった──
感情──なぜ、俺の感情はこの男を止めたいんだ──?

ひゅう、と風が吹いた。
枯葉や砂埃に混じって、指の先ほどの小さな何かが地面を転がっていくのが、たまたまオロカの視界に入った。
──あれは──こんなところにまで。
生きたいのか? それで、ここまで飛ばしてきたのか?
あれは──俺のだ。俺のだから──守ってやらなくちゃ。

「桜じゃなくて……梅だったんだ……」
「……はァ?」
ドグマが、オロカの視線を追った。
そこにあったのは、花びらだった。
「俺の梅を焼くな! 焼いたら、許さない!!」
「……何ぃ?」

「ハッハッハッハッハッ! 梅! 梅だと!」
突然、ドグマが大声で笑い出した。
「……何がおかしい」
「梅の木一本、犠牲にできなくて? それで貴様はここに繋がれっぱなしでいいとでも言うのか!
そんな馬鹿は、始めて見たわ! ハッハッハッ!」
「わ、笑うな!」
オロカは負けじと、大声を張り上げた。
「嫌なんだ、俺は! そういう、大きいことをやるためなら、小さなことは踏みつぶしていいとか、そういうのが!」
「そんなお優しいことで、何が成し遂げられるというのだ!」
「なんで、できないって決めつけるんだ! あるかもしれないじゃないか、方法が!
とにかく、絶対に嫌だ! 嫌と言ったら、嫌だ!!
おまえだって……おまえだってさっき、方法を探ろうともせんのか、とか、言ったじゃないか!
探して、探して、探して、どうしても駄目だったら諦めるかもしれないが、やりもせずに諦めるのは、嫌だ……嫌なんだーーッ!!」
声で相手をぶっ飛ばせとばかりに、オロカは思いをぶつけた。

「……なるほど……」
ふっ、とドグマは笑いを収め、何度も頷いた。
そして、指揮棒を鞘に収めた。
急に空気が軽くなり、めまいを覚えてオロカは地面にへたりこんだ。
「……?」
何か、納得されたらしい。
ただ感情をぶつけただけの、自分の言葉のどこに納得されたのか、オロカには良くわからなかった。
「泣く子と地頭には勝てんわ。いや、地頭ならまだ蹴り倒せば済むが」
「泣く、子……?」
オロカには言葉の意味がわからなかったし、ドグマの口調からも褒められたとも貶されたとも判別つかなかった。
「……さて」
ドグマがもう一度、指揮棒を抜いた。
はっとオロカは身構えたが、それが突きつけられることはなく、踊るように宙に向けて振られた。
どこからともなく、爆撃機の玩具が飛んで来た。
あんなに大きかったっけ?と、オロカは首を捻った。
気のせいではなかった。
爆撃機の玩具はみるみるうちに大きく膨れ上がりながら接近し、着地した。
あっけにとられて見ていると、さっさとドグマは爆撃機の玩具──否、爆撃機に乗り込んでいた。

「今日のところは、貴様に免じて見逃してやる!」
操縦席からドグマの声が飛んできた。
「おっ……俺はオロカ! おまえは?」
まだ名前も聞いていなかったことに気づき、慌ててオロカが問いかけた。
「ドグマだ!」
ドグマ──その名は、オロカの記憶の中には存在していなかった。
風防が閉められ、爆撃機が動き出した。
ドグマは操縦桿には手を触れず、軽く指揮棒を振っている。
爆撃機は滑走することもなく真上に浮き上がり、ある程度高度を取るとごうっとスピードをあげて飛び去った。
地上では暴風が吹き荒れ、人々がなぎ倒されるように身を伏せていた。

「あれ……今の男、どこへ行った?」
「今、何か……飛んでったか?」
「……なんで、火を焚いていたんだっけ……?」
不思議そうに、人々が顔を見合わせていた。
「……じゃ、芋でも焼こっかぁ」
暗示郎の提案に、何人かが頷いていた。
それを尻目に、オロカは刀を杖として立ち上がり、歩き出した。
空気は軽くなったが、心身ともに疲れはてて、ずっしりと体が重たかった。
 
 
 
「……三郎……っ」
窓の外からの声に、三郎はハッと身をすくめた。
「オロカ……さん?」
腹に力が入らず、弱々しい声しか出なかった。
「大丈夫だ……中には入らない、ここからでいい……」
「何が、あったんです……?」
「もう、大丈夫だから……守ったから……臨時でも、庭師の助手だからな、今の俺は……。
……大丈夫……だから……安心、しろ…………」

「……?」
三郎は続く言葉を待ったが、オロカは何も言わない。
「オロカさん? ……オロカさん?」
小さな声しか出ないのがもどかしいとばかりに、三郎は痺れた左手に必死で力を込める。
貧血の為めまいを起こしたり、バランスを崩したりと、何度もベッドに倒れこみながらも、なんとか身を起こした。
カーテンを開ける。
オロカがダンボールを貼って修繕した箇所が見えた。
しかし、ガラスの向こうにオロカの姿はない。
窓を開けて身を乗り出すには、手錠が邪魔だ。しばし、迷うような仕草をする。
何かが動く気配がして、三郎はガラスのヒビが入っていない部分に顔を寄せて下を見た。
地べたに倒れたオロカが、寝返りを打っていた。
霞む目をこらすと、どこか幸せそうに寝顔が微笑んでいるのが見えた。

戸惑ったように視線をそらすと、花を挿したコーヒー牛乳の瓶が目に入った。
「大丈夫……なんですね? 何だか、わかりませんが……」
瓶がオロカの身代わりであるかのように、それに向かって念押しするように呟く。
三郎もゆっくりとベッドに身を横たえると、目を閉じた。

三郎は夢を見た。
悪夢ではなかった。
オロカと暗示郎との三人で、梅の木の下、のんびりと花見をしている夢だった。

マインドパペット1.5 水色の庭園

13.

オープンカフェの客と反りが合わないオロカは、食事は人の少ない時間帯にするか、テイクアウトで済ますのが常である。
ドグマのために調達した食材は暗示郎を通じて返却し、代わりにサンドイッチの入った紙袋を受け取って、林の中を歩いていった。
「あぁ……」
ほのかな芳香に視線を上げたオロカは、感嘆の溜息をもらした。
けぶるように白い花を咲かせた梅の花。木漏れ日を浴びて、輝くようだ。
──七分咲き、というところだろうか。
オロカは紙袋を切り株の上に置くと、パンッと手をあわせて梅の木に頭を下げた。
「……頼む。少しだけ、少しだけでいいから、ゆっくり咲いてくれ。
三郎が元気になるまで、持ってくれ」
風が吹き、花のついた枝が揺れた。

──わかりました。

そう言われた気がして、オロカは笑顔を浮かべて頷き、切り株に座ってサンドイッチをパクつき始めた。
 
 
 
「今日で10日目、のはずだが……」
数日後、オロカは両側に植木や花の植えられた、石畳の濡れた小道を歩いていた。
刀は邪魔になるので、部屋に置いてきていた。
代わりにスカイブルーの大きな傘をさし、バケツを手にしている。
かなり強く雨粒が傘を打っては、次々に垂れていく。
「この雨じゃ、さすがに散ってしまうかなぁ……」
残念そうに呟きながら橘の小木の前で立ち止まり、バケツを置いて、懐からノートを出して確認する。
大事そうに再びノートを懐に収めてから、鳥の糞そっくりな芋虫をつまみ上げ、バケツの中に放り込んだ。
「自然って、よくできてる……」

……ピシャ……ピチャ……パシャッ…………。

浅い水たまりが立てる足音を耳にし、オロカは振り返った。
ぐっしょりと濡れた黒髪をコートに張り付かせた、長身の男。
「さ……三郎!?」
オロカは慌てて駆け寄った。
ぽたぽたと雫を落とす前髪が邪魔で、顔が良く見えない。
「三郎、もう大丈夫なのか? 傘も差さずに歩いてくることな……」
話しながら傘を高く上げ、三郎を中に入れようとした、その時──
傘が落ち、石畳の上を転がった。

「……三……郎……!?」

オロカは、水たまりの中に尻餅をつくようにして、へたりこんでいた。
立ち上がろうと足に、石畳についた手に、力を込めた。
がくがくと膝が笑う。尻はほんの1cmも持ち上がらない。
ずるずるっ、とブーツの厚い靴底が濡れた石畳の上を空しく滑っていっただけに終わった。
「なぜ、おまえが……」
オロカは、信じられぬものを見た。
三郎の右手が、オロカの首のチョーカーから伸びた鎖を握り締めている。
「なぜ、おまえが知ってるんだ……!」
それは、オロカの致命的ともいえる弱点だった。
鎖を他人に握られれば、体中の力が抜け落ちてしまうのだ。
無論、庭園の住人はおろか、傭兵をしていた頃の団長にも、用心棒をしていた頃の雇い主にも、誰にも明かした事はない。

「……」
三郎は、ゆったりと濡れそぼった髪をかきあげて、黙ったまま笑った。
背筋がぞくりとするような、妖艶な笑みだった。
鎖を右手から左手に持ちかえると、オロカの上にのしかかった。
抵抗もできず、オロカは仰向けに倒れた。
「何を、す……」
ぎょっとして、オロカは言葉を失った。
三郎の唇がオロカの首筋に吸いつき、ひんやりと濡れた舌が肌の上を、すうぅぅっと這いのぼっていく。
顎を経て……頬を経て……目のすぐ下まで迫る。ゆっくりと……ゆっくりと。
ぞぞぞっ、と体中を寒気が走り、オロカは思わず目を閉じた。
その目蓋の上に、舌がねちゃりと押し付けられたかと思うと、やっと離れた。
オロカが凍りついている間に、三郎は片手だけで器用にオロカの革の上着の留め具をぷつ、ぷつと外していた。
邪魔だとばかりに懐からむしりとったノートをほうり投げる。
水たまりに落ち、ノートに雨水が染みていく。
「あっ……」
オロカが目を開き、思わず視線がノートを追った。
その隙に、蛇のようにしなやかで長い三郎の右手が、シャツの襟口から潜り込んだ。
反射的にオロカはその腕をつかんだ。が、力がまるで入らない──止められない。
「やめろっ、やめてくれ、三郎!」
オロカの叫び声にも構わず、冷たい手が彼の汗ばんだ胸板をぬったりと撫で回す。
オロカは三郎の右手を引きぬくことを諦めて、今度は左手をつかみ、鎖から指を引き剥がそうとした。
しかしオロカの萎えた手はただ添えられているだけに等しく、三郎の形良く細長い指は微動だにしない。
「うぅぅ……っ」
気ばかりが焦る。しかし、焦れば焦るほど指先には力が入らず、いたずらに汗と雨水で滑るばかりだ。
今度はどこを舐めようか──とでも言うように、三郎のねめつく視線がオロカの顔からはだけられた胸元へと下りていく──

どぷっ。

不意に、三郎の後頭部から背中にかけて、多量の液体が浴びせられた。
オロカは鼻をひくつかせた。
──油?

「これでいいの〜?」
空になった一斗缶を手に、走って離れていくのは──暗示郎だ。
オロカは彼が向かう先に視線をやり、驚きに目を見開いた。
小高い場所に生えた、金木犀の大樹。
その下にもう一人、三郎が居る。
帽子を目深にかぶり、コートは無しでゆるいシャツを着た、どこかアンバランスな服装で。
樹の幹に半ばもたれかかるようにして、少々足元がおぼつかぬ様子で立っている。

帽子の三郎は樹から半歩離れると、長い腕を振りかぶり、綺麗なフォームで持っていた松明を投げた。
コートの三郎の頭に松明は命中し、ぼっと炎が上がった。
「──!」
コートの三郎は大きく口を開け、声なき悲鳴を上げた。
頭に両手をやり、苦痛にもがいている。
オロカはハッとした。
体に力が戻っている。
オロカはコートの三郎の腹を力いっぱい蹴り上げ、体が浮き上がった隙にその下から転がりでた。
そこへ二本目の松明が投じられ、追い打ちをかけた。
コートの三郎は飛沫をあげて水たまりの上をのたうち回ったが、火力がそれに勝った。
やがて全身火達磨になり、動かなくなった。

「偽物……だったのか、あっちは?」
オロカは坂を登って、金木犀の下に佇んでいる三郎に近づいていった。
すると、その視線を遮るように、三郎は帽子をずり下げて顔を覆ってしまった。
「……ひどい顔ですので、あまり見ないでください。二、三日もすれば消えますが……」
無意識のうちに、こちらも偽物ということはないかと、オロカは三郎をジロジロ見ていたのであった。

「オロカさん、あれに口へ舌を入れられませんでしたか?」
三郎の指が、まだくすぶっている燃え残りを示した。
「く……っ、口へはまだ……されてない」
相手が顔を隠しているせいで、自分が顔を赤らめたのも見られなかったのは、オロカにとっては幸いだった。
「そうですか、間に合いましたね」
「ま、間に合ってない! 全然、間に合ってないぞ!」
「……あ、貞操上のことでしたら、問題ありません。あぁ見えても植物ですので。妊娠する心配もありませんし」
「植物とか以前に妊娠って、俺は男……って、植物!? あれが!!」
三郎は頷いた。
「はい、あれがサビシ草の実なのです」
「お、おまえは……」
オロカの口元が、片方だけひくっと吊り上がった。
「おまえってやつは、どうしてそう、事前に説明しないんだーーッ!!」
 
 
 
「……ふぅ」
三郎は少し足をよろめかせると、立っているのがつらいと言うように座り込み、金木犀の幹に背中を預けた。
「……暗示郎さん。ちょっと、オロカさんと話がありますので、外してもらえますか?」
「はぁ〜い」
暗示郎が赤地に黄色い水玉柄の傘をさして、てってってと軽い足取りで離れていく。
「オロカさん」
「……何だよ」
「先日は、申し訳ありませんでした」
帽子で顔を隠したまま、深々と頭を下げる。

先日?
オロカは首をかしげた。
今のことでなく、先日?

「先日って……どの先日だ?」
「……メデューサ蝉のことですけど……」
「あぁ、あれ。おまえ、まだ気にしてたのか?」
「貴方はもう、気にしていないとでも言うのですか?」

──あれ?
三郎にそう指摘されて、オロカはいつのまにか彼への恨みを忘れていたことに気がついた。
どちらかと言えば執念深い方であるとオロカは自分のことを思っていたので、一応、驚くべきことではあった。
しかし、さほど分析力の高くないオロカにも、すぐその理由が思い当たった。
"何だかわからないもの"を忘れさせられたところで、それに対する怒りはたいして持続しないのだ。
その時抱いた喪失感すら希薄になってしまった自分を、オロカは改めて寂しく思ったが、それは三郎への怒りには結びつかなかった。

「あの時は確かに、気にしていたが……もう、忘れてた」
「……」
「だから、おまえももう……気にしなくていい」
「そういう訳には、参りません。僕は、自分を許せないのです」
「自分?」
俺が気にしなくていいと言っているのに何を言っているのかと、オロカは三郎の顔を覆う帽子をまじまじと見つめた。

「僕は、他人から考え方や価値観を押し付けられるのは大嫌いです。
なのに、僕はそれを貴方にしてしまった……。
僕は……自分の記憶というものに、たいして価値は置いていなかったのです。
だから、つい貴方の記憶も軽んじてしまった。
……まぁ、大切な記憶というものが人によってはあるかもしれないが、忘れてしまえばその事を悲しむこともあるまい……。
そんなふうに、簡単に考えてしまっていたのです」
「……。だから……もう、いいって……」
「貴方がどう思うかという問題ではないのです! 僕は恥知らずだ!」
突き放すような口調でそう言われて、オロカはカチンとした。
「おまえな! ……っ」

しかし、オロカは思わず口をつぐんでしまった。
コートで覆われていない三郎の肩はやけにか細く、かすかに震えてさえいた。
──なんて、弱々しい。
こんなに、痩せ細ってしまって。
言わないでおこうか。もし言うにしても、もう少し体調が回復してからでも──いや。
いま、言っておくべきだ。その方が、三郎のためだ。
オロカは、思い直した。
 
 
 
「馬鹿野郎! おまえ、それは……自分勝手だぞ!」
「えぇ……僕は、自分勝手な人間なのです……」
「そうじゃない! そこが、自分勝手なんだ!」
「え……?」
オロカは三郎の両肩をぐっとつかんだ。
三郎は一瞬びくっとするような仕草をしたが、オロカは構わず、手を離さなかった。

「おまえ……そこには、俺がいないじゃないか!
ただ、自分のルールを自分がないがしろにしたって、自分を責めてるだけじゃないか!
俺の気持ちを踏みにじってしまったとかみたいに口では言ってるが、俺のことはどうでもよくなってるじゃないか!
俺と、てめぇの美意識と、どちらが大事なんだ、えっ?
そんなもの、どうでもいい! 本当にすまないと思っているなら、俺を見ろ!!」

「…………」

三郎は、帽子を顔に押し付けたまま黙っていた。
こういう言い方で、自分の言いたいことがちゃんと伝わったのだろうかと、オロカは不安に駆られた。

「……オロカさん」

三郎は帽子をずらして、目元をほんの少しだけ出した。
眼窩のすぐ近くまで、皮膚が根の形に盛り上がっており、気味が悪かった。
しかし、その中心にある瞳は綺麗だとオロカは思った。

「……すみません」

「…………」

雨に濡れた金木犀の花が、しっとりとした香りを放っている。

──ぴしゃん。

葉に溜まった雨水が大粒の雫となって、三郎の肩をつかんでいるオロカの手の上に落ちた。
それを見たオロカはいきなり、三郎の肩の下と膝の下に両腕を差し入れ、ぐいっと持ち上げた。
「ちょ……っ」
「今のおまえの体力で風邪でもひいたら、命取りだろうがっ? 話が終わったなら、さっさと帰るぞ!!」
「じ、自分で歩けますよ!」
「こんな足元のゆるい日に、そんな危なっかしい足取りでフラフラと歩かれちゃ、見てるほうがたまらん!」
「……せめて、この抱え方はやめてもらえませんか? 僕は、男ですよ?」
「うるさい、さっきのお返しだ!」

「……濡れますよ」
三郎はオロカに抱きかかえられたまま手を伸ばして、樹のウロに突っ込んであった折りたたみ傘を取り、開いた。
雨は、いつのまにか小降りになっていた。
オロカが歩き出すと、パラパラと心地よい雨音がダークグリーンの傘を叩いた。
 

 

【出典】
・コインロッカー・ベイビー
(たぶん)赤子の死体遺棄事件が元になった都市伝説


 




【サビシソウ(サビシ草)】

イエソド属
 
 
サビシ草の名は発見者のクローム・サビシィに由来する。
寄生植物の一種。葉は退化し、全体の大部分が根である。葉緑素は持たず、光合成は行わない。
通常はジャガイモやサツマイモなどの芋類に寄生することが多く、養分を奪い取って成長する。
しかし、ごくまれに種が人体に入り込んで寄生することがあり、その際は異常な性質を発揮する。

サビシ草の種は良く注意しなくては気づかないほどに小さい。
手や足の傷を処置しないまま土に触れることで、それに混入していた種が傷口に入ってしまうケースが多いとされる。
そのため犠牲者は農夫や庭師、あるいはガーデニングを趣味としている者が多い。

サビシ草の種が人体に侵入した場合、手術で摘出できるのはおよそ24時間以内である。
それをすぎると侵入箇所に近い手や足などの一つの部位を微細な根が蔓延ってしまい、摘出が困難となる。
根からは宿主の痛覚を麻痺させる物質が分泌されるため自覚症状に乏しく、見落としてしまいがちである。
侵入して2〜3日後、根が蔓延った部位の神経の働きをサビシ草がのっとってしまい、勝手に動き始める。
人肌を求める性質があり、むやみに他人に抱きつくなどの行動をとるが、この段階では害はない。
この時の力は、かなり強い(肉体を壊してしまわないために無意識に力をセーブするということが無い為であるらしい)。
その後も根は徐々に宿主の体中に広がり、全身の自由が奪われる。

宿主はサビシ草に栄養や水分を奪われるため、栄養失調、貧血、脱水症状などを起こしがちになる。
また、多くの宿主が食欲不振や睡眠障害を訴える。
もちろん、いかに食欲が無くとも体力維持のためには無理にでも食事をとったほうが良いことは言うまでもない。
どうしても食事をとることができなければ、栄養剤や点滴などで補うことが必要となる。

侵入して10〜12日後、宿主の体の一部にコブができ、それが膨れ上がって宿主そっくりの見た目となる。
(その状態は、結合双生児の姿に似ていると言われる)
これが人体に寄生した場合のサビシ草の実であり、頭部にあたる部分は種が詰まっている。
さらに2〜3日して種が熟すと、実は宿主から自然に離れ、動き始めて次の犠牲者を探そうとする。
この時点で宿主の神経は通常の働きをするようになり、残った根も2〜3日で宿主の体に吸収されるようにして消滅する。
自然に離れる前に実を切り離しても、根が消滅することはなく次の実ができるだけなので、意味をなさない。

動き始めたサビシ草の実はある程度の知能を持ち、また宿主の知識や記憶をかなり持ち合わせている。
(知識や記憶を「奪取する」のではなく「読み取る」だけであるため、宿主の知識や記憶は失われないようである)
初めは裸体であるが、他者に警戒されることを防ぐため、(たいがいは宿主の物を奪って)衣服を身につける。
その他知識や記憶をうまく利用し、解錠にパスワード入力が必要なドアを開けたという記録も存在する。

次の犠牲者を見つけると、まず油断を誘うような行動をして捕らえ、次に縛り上げるなどして体の自由を奪う。
そして舌を犠牲者の口に挿入し、先端から犠牲者の体内に種を植え付ける。
が、ここでも人肌を求める性質が発揮され、(邪魔が入らなければ)舌を挿入する前に犠牲者を弄ぶような行動を取ることが多い。

サビシ草の実は宿主と外見が似ているだけでなく、癖や仕草なども真似る性質がある。
(たとえば、実際には右手も左手も同じように使えるのだが、宿主の利き手を主に使ったりする)
そのため宿主とサビシ草の実を見分けることは困難だが、サビシ草の実は体温が外気温と同程度しか無いため、サーモグラフィ等を使えば判別可能である。
宿主の体を操っていた時以上に力が強く、相当に俊敏でもある為、接近戦はよほど自信があるのでなければ避けるのが賢明である。
体表付近のみは人間と同じように水分が多いものの、植物であるので火に弱い。
犠牲者を弄んでいる隙を突いて燃やしてしまうのが、有効な対処法であると言われている。

 

第3章「土の朽ちる夜」>>

水色の庭園
 
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