第3章「土の朽ちる夜」



14.
 
「……うぅぅ…っ」
オロカは少年の亡骸を抱いて、怒りと悲しみにうち震えていた。
視線の先には、背の高い男が立っている。
たっぷりとした布で全身を覆う砂漠装束をまとい、唯一晒した目元も影になってほとんど見えなかった。
「うわぁぁぁッ!!」
オロカは乾いた砂の上に亡骸を落とし、男に向かって駆け出した。
刀を腰の鞘から抜き払い、一気に振りかぶった。
がしッ!

オロカの背後から無数の手が伸び、彼を捕まえた。
ドガッと地面に引き倒され、オロカはしたたかに顎を打った。
10人は居ようかという砂漠装束の男たちが、彼を押さえつけている。
一人の男がオロカの手を踏みつけ、刀をもぎ取った。
別の男が、更に首からペンダントを強引に外そうとする。
「あっ、それは……やめろ!」
赤子だったオロカが拾われた時、手に握りしめていたという品だった。
オロカは首を振って抵抗しようとしたが、もう一人の男に頭を捕まれ、為す術もなく奪い取られた。
「勇者の証、か……ふん」
男はペンダントを捨て、靴で踏みにじった。
「き、貴様……」
「狂犬には、これがお似合いだ!」
男は懐から鎖のついた首輪を取り出し、オロカの目の前で見せつけた。
「うっ……それは……! や、やめろ……!」
「黙れ!!」
男はもがくオロカに無理矢理、首輪をつけた。そして、ぐっと鎖を握る。
それを確認した男たちが、オロカを押さえつけていた手を離す。
オロカは地面に手をつき、起き上がろうとした。
しかし、手に──いや、足にも、腰にも、力が入らない。
筋が切れそうなほどに渾身の力を振り絞っても、わずかに手や膝が砂に沈むだけで、体の重さを持ち上げられない。

「エイリアス様! この狂犬は牢に放り込んでおきます。ご安心ください!」
ぐぐっと首輪が喉に食い込み、オロカは吐き気をもよおした。
「くは……ッ」
ずずずずっ……砂が体の下で擦れながら動き、引きずられていく。
エイリアス様、と呼ばれた背の高い男が踵を返し、広い背中を向けて歩み去っていく。
「貴方……いや、おまえなんか……!」
引きずられるのが止まった一瞬、オロカは叫んだ。
「おまえなんか、エイリアスじゃない……ッ!」
しかし次の瞬間、再び首輪が喉に食い込み、オロカは何も言えなくなった。
息が詰まり、しだいに意識が朦朧としていった。
 
 
 
「うわっ!」
オロカは腰を強く蹴り出され、石の階段に何度も体を叩きつけられながら転がり落ちていった。
体がバラバラになりそうな激痛に、倒れこんだままうめいていると、上から声が降ってきた。
「そいつの鎖をつかめ!」
「へ、へいっ!」
卑屈な返事がすぐ近くからして、ジャリッと鎖が握られる音がした。
ほんのひと時戻っていた体の力が、再び抜けていった。
オロカは目を幾度もしばたたかせ、めまいに歪められた視界をはっきりさせた。
暗闇──明かりは上の方にある、ごく小さな窓から差し込む光だけ。
夜目のきくオロカもまだ目が慣れず、居並ぶ人々のシルエットしか見えない。
が、明らかに異常だった。
ある者は体の半ばだけが獣のような剛毛で覆われ、ある者は頭にねじくれた角をはやし、ある者は肩からいびつな翼のようなものが飛び出している。
魔物である──として、捕らえられた者たちだった。

「こ、こいつは何者なんで?」
鎖を握り締めている男が、上に向かって問いかけた。
「オロカだ! いいか、順番で誰か一人、必ずそいつの鎖を握っていろ!
さもないとこの狂犬は、何をしでかすかわからんぞ!」
「へ、へい……わかりやした!」

ガシャーン!

鋼鉄の鉄格子が閉められる音が響いた。
 
 
 
異形の男たちが、オロカを見下ろしている。
「くっ……」
オロカは痛みをこらえて、首輪に手をかけた。
しかし、首輪は体と一体になったかのように、ぴたりと肌に吸いついている。
仮に、萎えた手に力が戻ったとしても、外すことはできなさそうだった。

「頼む……鎖から、手を離してくれ」
オロカは、懇願した。
「皆で力を合わせれば、ここから抜け出すことだって……」
例えば、何人かが足場となってその上に乗れば、あの窓にも手が届くかもしれない。
通れるほどの大きさでは無論ないだろうが、魔物と化した者たちは人の数倍もの怪力を持つと聞く。
すぐには無理でも、根気よく時間をかければ、窓の穴を削り広げることもできるかもしれない。

「頼む……見張りなら俺が、なんとかするから……」
「……オロカだって?」
異形の一人が、オロカの言葉を遮った。
「オロカ……」
「オロカか……」
異形たちが、次々に口を開く。
「エイリアスの犬……」
「俺達をこんなところに閉じ込めた、エイリアスの犬か!」
ようやく闇に慣れてきたオロカの目の前に、憤怒の表情を浮かべた異形たちがゆっくりと詰め寄ってくる。
やり場のない憎しみをぶつける相手を、やっと見つけた──と言うように。

ぐっと異形たちが足を上げた。
「うわぁぁぁぁッ!」
オロカを足蹴にしようと、無数の靴底が彼にせまる──
 
 
 
「……さん。おじさん……ねぇ、起きてよ……」
緊迫感の欠けた、ゆっくりとした口調の子供の声がした。
オロカは恐る恐る、硬く閉じていた目を開いた。
暗くない──いや、真昼の明るさではないが、あの暗闇とは明らかに違う。
薄桃色の髪をした、ちょっとぼんやりとした雰囲気の少年が彼の顔を覗き込んでいる。
「ごめんね、うなされてたから……あの、もう夕方だよ? こんなところで寝てると風邪ひくよ?」
確かに、張り出した枝の向こうに見える空は茜色に染まり、少しだけ肌寒くもあった。

「夢、か……すまん」
オロカはそう言って、起き上がろうとした。
「うっ……?」
夢がまだ続いているかのように、手足にうまく力が入らない。
「どうしたの、おじさん?」
少年が不思議そうに、地面の上でもがいているオロカを見下ろす。
小振りなスニーカーが、オロカの首から伸びた鎖を踏みつけていた。
「そっ、それ! 足をどけろ!」
「……ふぇ?」
「それを踏まれてると、動けないんだ!」
「……そうなの? ごめんなさい、おじさん……」
「それと、俺はおじさんとか呼ばれるような歳じゃない!」
「ごめんなさい、おにいさん……」
「いいから、先にそこをどけ!」

「……ふーっ」
ようやく少年が鎖から足をどけたので、オロカは身を起こして地面にあぐらをかいた。
「くそ……それであんな夢を見たんじゃないのか……?」
呟くオロカの前に、少年がちょこんと屈みこむ。
「ねぇ……」
「何だ?」
「なんでそんなもの、つけてるの?」
「つけたんじゃない。無理矢理、つけられたんだ」
「じゃあ、踏まれたりしないように、しまっとけばいいのに」
「……これはな」
オロカは鎖をつかみ、懐の中にしまってみせた。
数秒もしないうち、鎖は蛇のようにジャラジャラッと音を立てて動き出し、外へ這いでてきた。
「わ、わわっ?」
「しまっても、誰かがいつでもつかめるように、勝手に出てきてしまうんだ。
そんなことを何度もやってたら人目を引いて、ありゃあ何だって思われるだろう?
それだったら最初っから外へ出して、ファッションでつけてるんだって顔をしてぶらさげといた方が、いいんだ。
下手に隠すと、かえって他人につかまれることになるんだ……ッ」
忌々しそうにオロカが言うと、少年はのんびりと応じた。
「ふーん……そうだね、めんどくさいしね」
「う、うん……まぁな……」

ふわり。
少年の首にくくりつけられた良心ロープが、風にたなびいた。
オロカは改めて少年を見やった。
決して不細工な容姿ではないが、"綺麗"とか"端正"とか言うには引き締まりようが足りない。
楽そうなトレーナーにパーカー。楽そうなズボン。
肩には、厚地の布でできた鞄。手には骨の折れた傘を持って、引きずっている。
どこにでも居るような子供。
しかし、どこがとはうまく言えないが、どこかおかしな子供。

「おまえ……新入りか?」
記憶を探っても見覚えがなかったので、オロカは聞いた。
「……ううん……違うよ」
少年は首を横に降った。
まぁ、俺も庭園中の人間の顔を知ってるわけじゃないし……それに、そんなに印象に残るような子供でもないし、な。
オロカはそう自分で納得した。

「この梅……散っちゃったんだね」
少年が、上を見あげた。
オロカも、つられて見あげた。
梅の木の枝にはほとんど花が残っておらず、がくだけがたくさん目についた。
「きれいだったのにな……」
「あぁ、綺麗だった。三郎にも見せたかった……」
「おじ……おにいさんのお友達?」
「そうだ。病気でここへ来れなかったんだ。今は一応治ったが、まだ……ちょっと」
「じゃあ、あれを持って行ってあげたら?」
少年が指さした枝には、かろうじて五、六輪の花が残っていた。
「……切っても、いいものなのかな?」
「んと……お父さんが、"桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿"とか言ってた。だから、いいんじゃない?」
「そうか……」
オロカは少し考えたが、首を横に降った。
「いや、やめておく。たくさん咲いてるからこそ、綺麗なんだ。それに、やっぱり可哀想だ」
「そう……優しいんだね、おにいさん」
「そっ……そんなことはない」
「ううん、優しいよ」
「……」
俺なんて、ただ単に犠牲を出せないだけの弱い男だ。
オロカはそう思った。
しかし、子供相手にムキになるのもみっともないので、黙っておいた。

「じゃあ……散っちゃったし、帰ろうかな……」
「えっ……?」
オロカは少年の横顔をまじまじと見つめた。
そして気づいた。
少年がオロカに"新入りか?"と問われて否定したのは、"古くから居る"という意味ではなかった。
"仲間ではない"、つまり"長居するつもりはない"という意味だったのだ、と。
「帰るって言っても……出られは、しないんだぞ」
少年を絶望させはしまいかと、少しどきどきしながらオロカは教えた。
「そうなの……?」
「そうなんだ」
「でも、帰らなきゃ……」
「どうしても帰らないといけない訳でも、あるのか?」
このぼうっとした少年にも、何か切羽詰まった事情でもあるのかと思い、オロカは問うた。
しかし、ぼうっとした少年は、ぼうっとしたまま首を横に降った。
「そういうわけじゃないけど……ただ、おうちには帰るものでしょ?」
「そ、そうだが……」
親が待っているから、きっと心配してるから、何としても帰らなきゃ──と言うなら、わかるが。
家には帰るものだから帰る、という常識といえば常識的な、しかし無機質な言葉にオロカは戸惑いを覚えた。

ふわりと、少年の良心ロープが揺れた。
そして、するりと結び目がほどけた。
地に落ちるか落ちないかというところで、良心ロープはふっと消え失せた。
「あっ……!?」
「じゃあ……バイバイ」
少年はオロカに横顔を向けたまま、振り返りもせずに歩き出した。
その姿は薄れ、霧のように宙に溶けて消えていった。
「そんな……そんな、あっけなく……」

──『誰か』あるいは『何か』に縛られたいと思っている限り、『良心ロープ』から逃れることはできません──

オロカは、三郎の言葉を思い出していた。
てっきり彼は、"孤高に耐える精神の強さ"や"誰をも寄せ付けぬ厳しさ"のようなものが必要なのだと思いこんでいた。
なのに、あんなぼんやりした子供が──
それが、逆に衝撃的であった。
"強く"なることならば、鍛えればなんとかなるかもしれない。
しかし、"何気なく、服でも脱ぎ捨てるように、そっけなく"……どうやったらなれるというのだろう。
……いや、なりたくない──とさえ、オロカは思ってしまうのであった。
 
 
 
「……あぁ。何度も、わざわざすみません」
オロカが夕食を載せたトレイを持って訪ねていくと、三郎はすまなそうに頭を下げた。
「もう、大丈夫なんですけどね……」
コートを着ていないせいか、どこか居心地が悪そうにゆるいシャツの胸元をいじっている。
「だが、おまえのことだから、その顔が元に戻るまでは、よっぽどのことがなければ外には出ないだろう?」
「えぇ、まぁ……助かります」
前より大分薄くはなっていたが、根の跡が残る頬に三郎は手を当てた。
そんな三郎が、雨の為に人通りが少なかったとはいえ、自分を助けに表へ出て来てくれたのだと思うとオロカは嬉しくなった。
──そして、そこで嬉しくなる自分だからこそ駄目なのだろうかとも、そのすぐ後に思った。

「それでは、いただきます」
トレイを受け取って部屋の中へ引っ込もうとする三郎を、軽くオロカは制止した。
「三郎……ちょっと、邪魔してもいいか?」
「……えぇ、どうぞ。お上がりください」
少しだけ迷うような仕草をしたが、三郎はオロカを室内へと招き入れた。
 
 
 
「三郎、あれなんだ?」
ポットからお湯を出して茶をいれている三郎へ、オロカはベッドの脇に置かれている見知らぬ物体を指さし、問いかけた。
「……ただの消臭剤ですが」
「しょうしゅう?」
「そこは……深く突っ込まないでもらえますか……」
「あ?あぁ、うん……まぁ、そんなことはどうでもいいんだが……」

クリームシチュー。パン。トマトとレタスとキュウリのサラダ。ブルーベリーの入ったヨーグルト。スプーンとフォーク。
三郎の手で、食器がトレイからテーブルに手際よく移されていく。
オロカはそれを見ながら向かいの椅子に座り、三郎から渡された緑茶を一口すすった。
「三郎。エイリアス、って知ってるか?」
「えっ……エイリアス、ですか?」
三郎の声は一瞬だけ、わずかに動揺を浮かべた。
しかし、オロカは物思いに沈んでいたため、それに気づかなかった。
「エイリアスとは……偽名、別名、ないし通称などの意味を持つ英単語ですね。
ITの分野では、ファイルなどの実体を別の名前で参照するためのシンボルといった意味合いで使われることが多いですが……」
三郎は、椅子に座りながらすらすらと、しかしどこか浮ついた調子で答えた。
「アイティーって何だ?」
「要は、パソコン用語ではってことです」
「パソコンって何だ?」
「えぇと……まぁ、その、単なる一例ですので、わからなければ気にしなくともよいかと……」
「まぁいいや、そういう名前で呼ばれる人物に、心当たりはないかと聞いてるんだ」
「存じません、が……その方が、どうかしたのですか?」
「ん……夢に、出てきたんだ。まだ俺の刀に、鞘があった頃のことだ……」
オロカは傍らにある抜き身の刀に視線を落としながら、首輪に手を触れた。
「大勢の奴らに取り押さえられて……この首輪をつけられて……それは実際に、あったことなんだ。
しかし、少し離れたところに立っていたそいつが、誰だかわからないんだ」

「……」
カチャ、と器に当たる小さな音を立てて、三郎がスプーンでシチューの中のジャガイモをすくって口に入れた。
「……」
オロカは黙って、彼が咀嚼し終わるのを待った。

「……実際にあったことと、そうでないことが混じってしまうということは、夢では良くあることかと思いますが?」
「……ぁ」
三郎の答えに、オロカは気抜けしたような声を漏らした。
「そうか……そうだよな。
いや、俺はもしかしたら、顔を忘れてしまった主君なんじゃないか、なんて……そうだよな。
考えてみれば、部下がそんな目にあわされてるっていうのに、主君がスタスタ行ってしまうなんてこと、ないよな!」
「えぇ……そうでしょうよ、きっと」
三郎はスプーンをフォークに持ち替えて、串刺しにしたレタスとキュウリを口に入れた。
 
 
 
「もうひとつ聞いていいか、三郎?」
「はい……なんでしょう」
ちぎったパンをシチューにひたしている三郎を見ながら、オロカは問うた。
「この庭園にある全てのものを、壊して、焼いてしまったら、俺たちはここから出られると思うか?」
「本当にそうなのですか?」
今度はすぐに答えが返ってきたが、その言い回しにオロカは引っかかるものを感じた。
「おい……知っていたのか、知らなかったのか、どっちなんだ?」
「……」
三郎はパンを口に入れ、もぐもぐとしていた。
「……」
三郎は、口にものを入れたまま喋ったりはしない。
オロカはじれったく思いながら待っていた。

ごくん、とパンが飲み込まれた。
「もしかしたら、そうかもしれないとは、思っていました」
「……っ! じゃ、じゃあ、なんであの時……」
「あの時はね……"女王様"から聞いて、確かにわかっていることだけをお伝えしたのです。
それは、貴方がどういう人なのか、まだ良くわかっていなかったからですよ。
"かもしれない"で火をかけるような人であったなら、僕の立場としてはたまりませんよ」
「……かもしれない……」
──出られるかもしれない。出られないかもしれない。
確かに、試しにやってみて駄目だったなら、目も当てられない。
「そ、そうか……確かに、おまえの立場としては、そうだな……なら、仕方ないか……」

「そもそも、そんなことを誰が貴方に吹き込んだんです? 貴方の発想では無いかと思いますが……」
「そう……か? 確かに、俺の考えたことじゃないが……。
俺は、武人だぞ? ぶちのめすのが商売だ。そういうふうに突っ走ってもおかしくはないと思うが」
「一般的には、そうかもしれません。ただ、僕の見る限りでは、ですが……。
貴方は"武人"としては、そういう短絡的な荒っぽさは欠けているほうではないかと思っていますので。
よっぽど頭に血がのぼった時などは、どうなのかは知りませんがね」
「……そうかなぁ?」
オロカは、自分のことを考えなしで、無作法で、イライラしては八つ当たりするような人間だと思っていたので、三郎からの評価を意外に感じた。
三郎からは、俺がどんなふうに見えているんだろうか……と、オロカは少し気になった。
「あくまでも、僕の見る限りでは、です。勝手な思い込みだったら、申し訳ありません」
「いや……別にいいけど……」
仮に三郎の指摘どおりだとしても、それが武人として良いことなのか悪いことなのか、オロカにはわからなかった。

「で、誰なんです?」
「ドグマ、という奴なんだが」
「ド……」
「言われてみると……もしかしたら、あいつは"かもしれない"で火をかけようとしたのかもしれない。
会ったのはほんの少しの間だけだから、良く知っているわけじゃないが……やりかねない奴だな」

凍りつくように動きを止めていた三郎のフォークから、トマトがぽろりと落ちた。
「……どうしたんだ、三郎?」
「なっ……何をしにきたんですか、その人は!? 僕を追ってきたのですか!!」
「さ、三郎……?」
フォークを投げ出すように置いて、椅子から腰を浮かせている三郎を、あっけにとられてオロカは見やった。
「いや、えぇと……おまえのことは、何も言ってなかったぞ。
……そうだ、サクラとかいう子供を探してたような……。
確かに凄い騒ぎにはなったが、壊すとか焼くとかいうのは、行きがかり上というか……うん。
まぁとにかく、もう飛んでいってしまったから、とりあえずは大丈夫なんじゃないか……?」

「……」
へたへたと、三郎は椅子に腰を落とした。
どうしたんだろう、とオロカが見ていると、三郎は肩を震わせ始めた。
泣いているのか、とオロカが思った時──
「ふふっ……あはははは……あーっ、ははは……馬鹿みたいですね、あははははは!」
「さ、三郎……お、おい、どうしたんだ、なにがおかしいんだ」
こんなに声を上げて笑う三郎というのは始めて見たので、オロカはついおろおろとした。
その笑い声には、どこか虚しさが伴っていた。

「すみません……自分の間抜けさに、ついおかしくなってしまって」
「間抜けって……何が」
「いえね、僕は今でもあの人がずっと怒り狂って、僕を追い回していると思って……逃げ続けていたんですよ。
いえ、もちろん、旅が好きだからとか、仕事上の都合でとか、そういうのが第一ですけどね?
ひとところに長居をしては追いつかれるのではないかと、そういう強迫観念に囚われて、ずっと落ち着かない思いをしていたのです」
「へ……へぇ……」
「それが、何ですか。あの人は僕を追いかけてなんかいなかった。
いや、ひょっとしたら最初のうちは追いかけていたのかもしれませんが、だとしても、とっくの昔にやめてたってことですね?
そして……サクラ、でしたっけ? その人が誰だか知りませんが、別の人を追いかけていたと! これが笑わずにいられますか!」
「……三郎……」
オロカは、なんだか三郎が哀れに思えた。

「……戦えば……良かったんじゃないか?」
「……なんですって?」
オロカは自分の落ち着かなさをなだめるように、緑茶をもう一口飲んだ。
「いや……そんな、ずっとずっと逃げ続けて、ずっとずっと不安でいるくらいだったら、いっそ戦えば良かったんじゃないか?」
「……」
三郎は、簡単に言ってくれますね……とでも言いたげに、片頬だけで少し笑ってみせた。
「いや……すまん。確かに、あいつは……とんでもなく強くて、怖かった……」
武人である自分でもあれほど怖かったのだから、そうでない三郎に立ち向かえというのは酷だろう。
そう考えて、オロカは緑茶を飲み干した。
「いえ……謝ることは、ありません。貴方のおっしゃることも、わからないではないのです……理屈では。
ただ、体が勝手に逃げてしまうのです……どうしようもないのです……そういう性分、なのでしょうかね……。
そんなことより……お礼を言わなくてはなりませんね……」
三郎はゆっくりと席を立って、オロカに向き直った。

「……兄を追い払ってくださって、ありがとうございました」

──兄!?

深々と頭を下げながらそう述べた三郎の言葉に、オロカは仰天していた。
「あ、兄? あいつが、おまえの、兄!? に、似てない兄弟も、居たもんだな……あ、いや……」

──マヨネーズをかけると、マヨネーズの味しかしませんから──

──私は肉が食いたいんだ! ドカッと出さんか、ドカッと!──

三郎とドグマ、二人の言葉が重なるようにオロカの脳裏をよぎった。
「……ヘンなところが、似てはいるかも……」
「やめてください。僕は、あれと血が繋がっているとは思いたくないんです……」
「あれ、って……」
 
 
 
ドンッ! ドンドンドンッ!

不意に、玄関の扉が叩かれた。
「オロカ! マルセル様がお呼びだ! すぐに、出頭せよ!!」
ごくり、とオロカは唾を飲んだ。

「……"魔女"が……俺を……?」
マインドパペット1.5 水色の庭園
15.
 
 一頭のラクダが、砂を蹴って夜の砂漠を走っていく。
目元以外すっぽりと布で覆いつくした、砂漠装束をまとった男を背に乗せて。
そのような身なりでも、すらりと手足が長く、華奢な体格であると見て取れる。
ゴゴゴゴ……

砂漠装束の男の背後から、地響きを伴う音が聞こえてきた。
「どう、どう」
男は手綱を引き、ラクダを止めた。
男が振り返ると、視線の先には半透明の岩をくりぬいたドーム状の天蓋があった。
ドームの内側からは蛍火のような光が漏れ出し、グラデーションを成して夜空に溶け込んでいく。
夢のように美しい──いや既に、美しかった、と言うべきかもしれない。

ドームに二本、三本とひびが入り、瓦解していく。
ドームの底から外へ向かって地割れが無数に走り、砂が滝のように隙間へと流れ落ちていく。
地割れは徐々に開いていく。
やがてはドームを──そしてその内部にわずかに透けて見える都市をも、飲み込んでしまうだろう。

地割れは開いていくのみならず、どんどん遠くへ遠くへと砂の大地を切り裂いていく。
まるで、巨大なチーズにナイフを入れていくように。
「……ここも危ない。早く逃げなければ……」
男は呟いた。
高くもなく低くもない、耳障りの良い柔らかな声。

住人はほんの一握りを除き、あのドーム都市──モスタリアという小国が、どこまでも続く砂漠の中にあると信じている。
しかし、男は知っていた。
この地は、時間と空間の狭間にぷかりと浮かんでいるに過ぎないことを。
奇しくも、遠くから見るとドーム状の天蓋は、水面に浮かぶ泡に似ていた。

「落ちていく先は過去のはず。ならば僕は──」
ラクダから降り、その背にくくりつけてあった黒いトランクを降ろす。
トランクから軽そうなサンダルを出し、足首まで覆う靴を脱いでそれに履き替える。
ラクダの尻を軽く叩き、シッと声を発して追いやる。
明らかに、砂漠の只中──しかも天変地異の最中でする行動ではない。
しかし、男の仕草に躊躇いはなかった。

「──未来へ」
トランクを手でしっかりと抱える。サンダル履きの細長い足が、砂を蹴った。
続いて、空中に見えない足場があるかのように、再び蹴った。
ひと蹴り──またひと蹴り──空中へ舞い上がっていく。
やがてその姿は空に浮かぶ月と重なり、吸い込まれるように消えていった。

砂の上には、男が脱ぎ捨てた靴だけが残っていた。
やがてそれも走ってきた地割れに飲み込まれ、砂と共に闇の中へ落ちていった。
 
 
 
三郎は細い目を開いた。
視界の中に、オロカが出ていったドアがあった。
「……戦えば良かったんじゃないか……か」
三郎は呟いた。
高くもなく低くもない、耳障りの良い柔らかな声で。

「本当に……簡単に、言ってくれますね」
ゆるいシャツに包まれた自分の肩を抱いた。
薄い布ごしに、自分の体の感触が指に伝わる。
「少し、喋りすぎてしまいました……ね。
コートを盗られてしまったせいでしょうか……あれがないと、どうも心が裸になったようで……。
根の跡が収まったら、早く新しいものを手に入れましょう」

一年中温暖な庭園も、日が暮れれば少し肌寒い。
ことにサビシ草に養分を根こそぎ吸いつくされてから日が浅く、脂の落ちた三郎の体には。
三郎は毛織物の膝掛けを手に取ると、ショールのように肩に羽織った。
 
 
 
庭園の中心には、白塗りの壁を水色の半球状の屋根で覆った建物がある。
オロカは刀を担ぎ、その中へと足を踏み入れていった。
柄を握る手は、緊張のためか少し汗ばんでいる。

広いホールの真ん中には水色の絨毯が敷かれ、その左右に合わせて十人、良心ロープを首にくくりつけた若い男女がきちんとした姿勢で並んで立っている。
服装も同じなら、顔立ちもだいたい似通った印象、おまけに髪型までそろえられて一様に水色に染められている。
オロカには、何度来ても彼らの区別がつかなかった。

絨毯を踏んで進み出たオロカの目の前に、ふわりと水色の髪の少女が現れた。
オロカは総毛立つような感触を覚えた。
人形じみた印象の整った顔だが、飛び抜けた美少女というほどではない。
成長途中の体は小柄で、胸も薄い。
どこにでも居るとまでは言わないが、ある程度まとまった人数の集団であれば一人は居そうな容姿である。
ただ、その首には良心ロープがあって──
──膝下あたりから半ば透けて見え、足首から先は全く見えない、ということを除けば。
それが"魔女"──マルセルだった。
 


 

「ねぇ、オロカ。聞いたわ。
庭園に入り込んで騒ぎを起こしたという男の人、彼と最初に接触したのはどうも、貴方らしいんですって?」
「……あぁ」
ドグマのことか、と考えながらオロカは頷いてみせた。
「どうして追い出そうとしなかったの? もし無理だとしても、せめて報告してくれても良かったのじゃないかしら?」
そういえばあの時、息が詰まらなかったな、とオロカは思い出していた。
マルセルの命令に逆らえば、良心ロープが首を絞めるはずであった。
オロカは彼女からいくつかの命令を受けており、そのうちの一つは"侵入者を発見したら撃退すること"。
にも関わらず──となれば、理由はこれしか思い当たらなかった。

「ドグマ……その男は、ただ迷いこんで気を失っていた様子で……"侵入者"には見えなかったんだ」
──オロカ自身が"侵入者"と認識していなければ、見逃したとしても命令違反にはならない。
「まぁっ」
マルセルは口を丸くして、非難するように眉をひそめた。
「だとしても。だとしてもよ。
普段と明らかに違う事が起きれば、報告するのが筋じゃなくって?
当時のことは覚えていないという人がほとんどだけど、中にはうっすらとだけど思い出した人も居るの。
その人達によれば、庭園に火をかけろと命じられて、なぜだか言われるがままにそうしようとしていた気がするんですって。
一歩間違えば、みんながたいへんなことになるところだったのよ。
ちゃんと報告してくれていれば、対処もできたのに……」
マルセルの言葉に応じて、周囲のお付きの者たちが、一斉にうんうんと頷く。

「……あぁ、うん、悪かった。
しかし、結局火をかけられる前に追い払ったんだから、いいじゃないか」
「そういう問題ではないの。あなたの良識を問うているのよ。
向こうが大人しく立ち去ったからいいものの、そうでなかったらどうするの。
どうしてそんなリスクをむざむざと冒すの?
もし火を放たれていたら、あなた一人の事で収まらないの。困るのは、みんななのよ」
「……」
「そもそも、事後報告も無いってどういうことなの?
バレなければ済むとでも思っているの? それって人としてどうなのかしら?」
「……」
オロカはマルセルの指摘に言葉を返せなかったが、そのくどくどとした言いようにイライラとした。
「それでは決をとります。オロカは、発見次第すぐに報告すべきだったと思う人!」
「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」
マルセルの言葉に応じて、周囲のお付きの者たちが、いっせいに手を挙げる。
「ほら、みんな報告した方が良かったって言ってるわ」
「あぁ〜もう!うざい! だったら、今度からそうするようにって一言、命令すれば済む話だろうが!
そうすればどうせ、俺は逆らえないんだから!」
「うざいとは何? そういう問題ではないって言っているでしょう?
あなたはコミュニティの一員としての自覚が足りないわ」
「……ッ!」
首に縄をつけて縛り付けておいて、何がコミュニティだ。知るかそんなもの!
……と、オロカは叫びたかったが、ぐっとこらえて口を結んだ。
 
 
 
「……あぁそうだ、俺はおまえの言う"コミュニティの一員"として向いていないんだ」
「急に何を言い出すの?」
マルセルがふわふわと漂いながら首を傾げる。
「俺をここから出してくれ!」
オロカはマルセルを見据えて言い放った。
「そもそもここに居なければ、おまえ達に無理に合わせる必要もないんだ!」
「まぁ!まぁ!まぁ!」
マルセルは、オロカがさもとんでもない事を言い出したかのように、あちこちの方向から顔を覗き込むようにしてくるくるとまとわりついた。

「そんなことを言い出したのは、あなたが初めてよ?
ここは豊かで安全で、辛い重労働を課してこき使う人もいないわ。
それでは決をとります。ここにいて幸せだと思う人!」
「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」
いちいち多数決を取るマルセルに、オロカはイラッとした。
「ほら、みんな幸せだって言ってるわ。
この楽園にこれ以上、何が足りないというの? あなたはそんなに欲深いタイプだったの?」
「違う、物が欲しいんじゃない」
オロカはきっぱりと首を横に振った。

「ここには、戦いがない」
「そんなに人殺しがしたいの?」
「違う、そうじゃない。命を賭して成し遂げるべきものがない」
「今まで、そんなものがあったというの?」
「いや、無い。でも、無いからこそ、探しに行かなきゃいけないんだ。こんなぬるま湯に浸かってちゃ駄目だ。
少なくとも、それをくれるような忠誠を捧げるべき人が、ここにいないことは確かだ」
──おまえはその対象ではない、と言外にわからせるように、オロカはマルセルを睨みつけた。
「そんなもの、有る人はそれを頑張ればいいけど、無ければ無いで構わないと思うわ」
「……女には、わからないんだ」
「まぁ、女性差別だわ」
「とにかく、俺には無いと駄目なんだ! 俺が、誰かの役に立ってるっていう実感が!」

「まぁ。それなら気持ちはわかるわ。私も、みんなの役に立ちたいもの。あなたとおんなじだわ」
私はあなたの理解者よと言いたげに、マルセルは何度も頷いてみせた。
「でも、それだったらあなたが気づいていないだけよ。あなたは十分、みんなの役に立っているわ」
「……何?」
意外そうな顔をするオロカの目の前に、マルセルは一本、指を立ててみせた。
「たとえば最近の事で言うと……三郎から聞いたわ。
あなた、メデューサ蝉っていう有害なエフェメラを退治するお手伝いをしたんですって?」
「あんな化け物、めったに出るものじゃないだろう。
それとも何か、化け物が出るまでボケッと待ってろとでも言うのか」
「それだけじゃないわ」
マルセルは二本目の指を立ててみせた。
「暗示郎から聞いたわ。
体調を崩した三郎の世話をかいがいしく焼いたり、仕事を代わりにやってあげたりしてたんでしょう?」
「あの程度なら俺じゃなくたってできる、たいしたことはしていない。
第一、あれは単なる個人的な繋がりとして、だ。
俺が好感を持ってる奴が困っているなら助けてやりたくて、やったっていうだけなんだ。
それは、"ここの人間だから"やったんじゃない。他所でだって、同じ事だ。
だから、ここに居なければいけないということには、ならないんだ」

「オロカ、それは違うわ。逆に考えてみて」
マルセルは指を振りながら、ふわりと逆さまに浮いてみせた。
「"他所でもできる"っていうことは、"ここでもできる"っていうことなの。
つまり、あなたは"ここ"でも、人に尽くす喜びを得られる、そういうことなのよ」
「そ、それは……。い、いや!そうじゃない!」
つい丸め込まれかけたが、慌ててオロカは首を横に振った。
「それは詭弁だ! どこでもできるんだったら、俺が場所を選ぶ!」
「あら、あなたは人に必要とされたいんでしょう?
だったら、"ここ"はあなたを必要としているんだから、"ここ"に居るべきだわ。
それでは決をとります。オロカが"ここ"に必要だと思う人!」
「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」
「ほら、みんな必要だって言って……」
「いちいち多数決をとるなーッ! 駄目なら駄目って、言えばいいだろうが!!」
オロカの苛立ちが頂点に達し、カッとなってそう言い捨て、出口に向かって踵を返していた。
 
 
 
「……どうしたんです。頭痛でも起こしたかのような顔をして」
再び訪れたオロカを、三郎は玄関先で迎えた。
「あぁ。もう、実際、頭痛が痛い」
ぐったりと気疲れしてこめかみに指を当てるオロカに、三郎はくすりと笑ってみせた。
「それじゃ、頭が痛いのではなく、頭が悪いみたいじゃないですか」
「あぁ、どうせ俺はおまえより頭が悪いとも。あいてぃー、とかわからんしな!」
「根に持たないでくださいよ。あれは、僕の言葉の選択がまずかったんですから」
「そうさ、馬鹿には馬鹿の理解できるような言葉を使わないとな」
「そういう意味じゃありませんったら。
まぁ、お上がりなさい、お茶をいれますから。お茶のカフェインは頭痛にも効くらしいですよ」
「カフェ…イン、ってのが何かは知らんが、茶はもらう」
オロカは頷いて、三郎の招きに応じた。
 
 
 
「それでは例の件は、お小言程度で済んだのですね。良かったじゃないですか」
成り行きを聞いた三郎は、緑茶を口にしながら微笑みかけた。
ズズッと同じく緑茶をすすりながら、オロカは渋ったい顔をした。
「なぁ、三郎……俺はつくづく、口下手だなぁと感じてしまったんだが……」
「はい?」
根の跡が残る三郎の顔を見ながら、オロカは持ちかけようとした。
「あのな……その顔が治ってからでいい。すまんが、おまえからもひとつ……」
「無理です」
三郎はオロカの言葉を途中で遮り、きっぱりと首を横に振った。
「まだ、何も言ってないじゃないか」
「言わなくてもわかりますよ。
自分をここから出して欲しい、そう"女王様"に頼むのに、口添えしてくれと言うのでしょう?」
「そう……だが」
「ですから、それは無理です」
「やりもしないうちから、そんなふうに言うことはないじゃないか」
「やらなくても、わかります。彼女は……貴方の嫌いな、幽霊ですよ?」

「幽霊ぃ?」
すっとんきょうな声を上げたオロカを、三郎は呆れたように見やった。
「……何だと思ってたんです?」
「いや、確かに、まるで幽霊みたいで気味が悪いとは思ってはいたが……
あれは、魔術か何かで幽霊っぽく見せてるだけだろう? 幽霊なんか、居るわけないじゃないか!」
ドグマを幽霊と思い込んで悲鳴をあげたことなどすっかり忘れて、オロカは断言した。
しかし三郎もまた、きっぱりと首を横に振った。
「いえ、幽霊です」
「いやしかしだな、幽霊といえば何かこう、青ざめた顔で怨めしそうに、静かにおぞましくゾゾゾーッと出てくるものだろう?」
「お話の中では、たいがいそうですね」
「だろう? あんなこまっしゃくれた、ベラベラ喋くりまくる幽霊が居るわけないじゃないか」
「居るものは、しかたないじゃないですか」
「……本当に、幽霊なのか?」
「えぇ、幽霊ですとも」

未だ半信半疑といった様子のオロカを見て、ふぅと溜息をつき、三郎はもう一口緑茶を飲んだ。
「幽霊というのは、ですね……
たいがい、ひとつのことに固執し、そのためにこの世にしがみついている──そのために存在している──と言っても過言ではないのです。
ですから、幽霊に考えを変えさせるなんてのは、もう……不可能に限りなく近いことなんですよ」
「ひとつのこと……?」
「"女王様"の場合は、この庭園を──いえ、コミュニティを、と言ったほうがいいでしょうね──維持することです。
彼女から見れば、貴方も例外ではなく……既に"コミュニティの一部"として組み込まれているのです。
言ってみれば、彼女にとって貴方は体の一部。
たとえ"自分は貴方にとって虫垂のような不要物だから切り離してください"と訴えたところで、彼女が自分でメスをとり、自分で自分の腹を裂き、切除してくれるはずもありません……」
「一部……組み込まれて……。体の一部……」
三郎の言葉を鸚鵡返しにしながら、オロカは大勢の人間がくっつき合って一つの生き物となり、蠢いている様を思い浮かべた。
そして、その中の一部として取り込まれている自分を想像し、気持ち悪くなった。

「うっ……。おまえ、良く平気でここへ出入りしてるな……。
それは、逃げ出したくならないのか? "怖いものからは体が勝手に逃げてしまう性分"だって、言ってたじゃないか。
それに"他人から考えを押し付けられるのは大嫌い"とも……」
──俺が"魔女"に苛立ってしょうがなかったは、あいつが"自分の意志の一部"として"俺の意志"を取り込もうとしてたのを、頭ではなく本能で感じてたせいなのかもしれない。
オロカは三郎の説明を受けて、そう考えた。
「……仮に出られなくなったとしたら、たまらないとは思いますが……僕はいつでも出られますから、大丈夫です。
仕事で留まっている間くらい、"平気な自分"の仮面をかぶってやり過ごせますよ。子供じゃないんですから……」
ずり落ちかけた膝掛けを肩に羽織りなおしながら、三郎は微笑んだ。
「それに、彼女は滅茶苦茶に暴れまわる化け物ではありません。
来訪者として、彼女のルール内に収まっていれば、別に害を与えられることはありませんからね」
「ふぅん……」
緑茶を一口すすって、オロカは口を挟んだ。
「幽霊だけど、化け物ではない……っていうのも、変な話だな」
「まぁ、そうなんですけど、ね……」
 
 
 
オロカがふと窓の外を見ると、ガラス越しに月が見えた。

──仕事で留まっている間くらいは、か……。
オロカは思いを馳せた。
仕事が終わったら、三郎は──月は行ってしまうんだな。
俺を置き去りにして、地平線の向こうへ……。
でも、月を地べたに縛り付けることはできない。
いや、仮にできたとしても……きっと、月は息が詰まってしまうな。

「……どうされましたか?」
やんわりとした口調で、三郎が問いかけた。
「いや……おまえは月みたいな奴だなと、思っていたんだ」
「月、ですか?」
フフッ、と三郎は小さく笑った。
「風のような人だね、とは良く言われますが……月というのは始めて聞きましたね。
普通、女性を例えていいませんか、月って?」
「うるさい。普通どうだとかなんて、俺は学がないから知らん」
「いえいえ。まぁ、確かに僕は満ち欠けする月のように、仮面を付け替えながら生きていますから。
貴方、意外になかなか詩人じゃないですか」
「そ、そんなんじゃ……」
オロカとしてはそういう意味で言ったつもりではなかったのだが、それより詩人だと言われた方が照れくさくて、慌てて否定した。
「で、僕が月なら、貴方は何なのですか?」
面白そうに三郎が聞くので、オロカは少し考えて答えた。
「……土、かな?」
「もっと、見栄えのするものに例えましょうよ」
「うるさい。どうせ俺は、おまえと違って泥臭いんだ。風とかみたいに格好よかないんだ」
「いや、失礼……よく考えてみますと……いいではありませんか、土も。
風には風の、土には土の良さがあります。土より風の方が上などということはありません。
僕とは違うというだけのことで、貴方の生き方も尊重しますよ」
「そ……そうか?」
「えぇ。自信を持っていいと思いますよ」

風には風の、土には土の──
僕とは違う──
その言い回しに、オロカはほんの少し距離を感じた。
しかし、マルセルのように"自分と同じもの"にしようとするのではなく、"自分と違うもの"のままに良さを認めてくれる。
そんな三郎に、息苦しさのない涼やかなものをオロカは感じた。
マインドパペット1.5 水色の庭園
16.
 
 
夜が明けて目を覚ましたオロカは、ベッドから立ち上がり、窓の方を向いて大きく伸びをした。
「んんん……っ」
朝日の眩しさに目をしばたたかせ、そして──
「ぎゃあぁぁぁぁッ!」
──悲鳴を上げてベッドに尻餅をついた。
窓の外に、マルセルがふわふわと浮いて、こちらを覗き込んでいたのである。
「まぁやだ、幽霊でも見たような顔をして」
「……」
幽霊だろうが!という突っ込みは、当の本人へはしづらかった。
三郎に聞くまで本物の幽霊とは思っていなかっただけに、なおさらである。
「驚くに決まってるだろう! ここは三階だぞ!」
「そんなことより……おはよう、オロカ」
「お、おはよう……」
にこにこと笑っているマルセルが、逆になんだか怖かった。
「今日は、いい話を持ってきたの!」
「な、なんだ……?」
「あなたに是非、図書館のお掃除をしてほしいのよ」

「図書館ん!?」
オロカは驚いた。世の中に、これ以上自分に不釣合いな場所はないだろうと思えたのである。
「なんで、俺がそんなことを!」
恐怖も忘れて立ち上がり、オロカはずかずかと窓ガラスの向こうのマルセルに詰め寄った。
しかし、マルセルは平然としたものであった。
「だって、あなたは人の役に立ちたいのでしょう?」
「おまえの役に立ちたいとは、一言も言ってない!」
「私だけじゃないわ。図書館を利用する、みんなが喜ぶわ」
「だからって、よりによってそんな退屈な仕事でなくとも!」
「あら、わかってないわね、オロカ」
ちっち、とマルセルは指を振った。
「そういう、人のやりたがらない地味な仕事をやってこそ、人の役に立ったと言えるのよ。
みんながやりたがる楽しいことをやったって、誰も喜ばないわ」
「う……」
反論に詰まったオロカに、すかさずマルセルが言葉を継いだ。
「それに、やってみたら意外とあなたに向いてるってこともあるかもしれないわよ。本って結構、重たいし」
「……ん」
そうか、本と思わず、重たい荷物の詰まった物置の整理をするのだと思えば、できなくはないかな。
オロカは考えなおした。
それに……

──幽霊に考えを変えさせるなんてのは、もう……不可能に限りなく近いことなんですよ──

不可能に限りなく近い、と三郎は言った。
しかし、絶対に不可能だとは言っていない。
今のところ"魔女"に頼んで開放してもらうことぐらいしか、ここから出る手段は思いつかない。
なら、こいつの心象を良くしておくことは、決してマイナスにはならないはずだ。
掃除をしたぐらいのことで"魔女"が気を変えるとも思えないが、何もやらないよりはマシだ。
……ドグマのやり方は本当に出られるのかどうかわからないし、やるとしても"最後の最後"の手段としておきたいし……。

「わかった……やってやる」
少しだけ恩着せがましく、オロカは言った。
「わぁっ、ありがとう!」
マルセルの表情がぱっと明るくなり、軽く手を合わせた。
「……」
結構、かわいいじゃないか……
オロカは思い、そして慌てて心の中で付け加えた。
……上半身だけなら。
 
 
 
その日オープンカフェに足を運んだのは、オロカが一番乗りだった。
他の客がまだ来ないうちにと手早く朝食を済ませ、席を立とうとした時、ちょうど三郎が入ってきた。
「三郎! 出られるようになったのか、良かったな」
「えぇ……おかげさまで」
じっくり見ればうっすらとは根の跡が頬に見て取れたのだが、三郎が気にするといけないので、オロカは触れずにおいてやった。

三郎は、深緑色で襟が大きく裾が長い、サビシ草の実ごと焼いてしまったものとたいして代わり映えのしないコートを着ていた。
しかし良く見ると、前のものより色合いが明るく、薄手で軽そうだった。
「コート、新調したのか。似合うぞ」
「……」
しかし、三郎は気に入らなさそうに首を振った。
「形はまぁ、いいのですが……色が、ね。もっとくすんだ色味のほうが……」
「どうして? 悪くないと思うが……明るく見えて」
「いえ、目立たないほうがいいんです。汚れも気になりますし……」
「そんなものかな……」
「しかし品薄で選択肢が限られるので、我慢するより仕方ありません」
軽い足取りで注文を取りに来た暗示郎が、口を挟んだ。
「そ〜りゃ、そうだよ☆ ここあったかいもの、コートなんて着る人いないよ。三郎も、わざわざ着ることないのに」
「着ていないと、落ちつかないんです」
「そっか、お気に入りの毛布とかクマちゃんみたいなものかぁ」
「……そういう言い方はやめてください。幼稚みたいじゃないですか」

まだ何か言いたそうな暗示郎を無視して、三郎はメニューに目を落とした。
「バタートーストと茹で卵、野菜たっぷりコンソメスープ、それと林檎ヨーグルトをお願いします。テイクアウトはいつもので」
「ミックスサンドのレタス多めだね。ね、紅茶は〜?」
「要りません、水をください」
「はぁ〜い♪」
くるっと背中を向けて去っていく暗示郎を見送りながら、オロカは言った。
「兄貴は朝から肉、肉言ってたのに、おまえは野菜ばっかり食うんだな」
「普通ですよ……あんな肉食獣と一緒にしないでください」
「あ……すまん。それじゃ、行ってくる」
オロカは席を立って離れようとしたが、ふと立ち止まって振り向いた。
「あの梅、散ってしまった。残念だった……おまえにも見せたかったのに」
「いえ……」
三郎は、やわらかく微笑んだ。
「お花見なら、済ませました」
「……? どこで?」
「秘密です」
 
 
 
しかつめらしい四角い建物に、オロカはしかめっ面で踏み込んだ。
部屋に入ると、ずらりと本棚が並んでいる。
まず、左端の壁際にある、天井まで届く高い棚に足を向けてみた。
暗緑色や、濃紺色や、深いえんじ色といった重苦しい色の背表紙に、仰々しい金色の字で"何とか全集"といったタイトルと著者名だけが、淡々と記されている。
本の丈もきっちりと揃っていて、まるでそそり立つ壁の前に居る気になった。
「まったく……堅苦しいことを書きたいなら、表紙くらい堅苦しくなくせばいいのに。
こんな色気のない本、誰が読むんだ」
オロカの予想通り、あまり手に取るものも居ないらしく、本の上部の隙間を覗くと結構な量の埃が溜まっていた。
クシュン、とくしゃみをして鼻をこする。
「やめた、やめた、触っただけで頭痛がしそうだ」

逃げるように離れ、反対側の右端に足を向けた。
こちらの本棚は背が低かった。妙にカラフルな本が多いと思って中を見ると、絵本や児童書だった。
全部が全部そうではないが、背表紙のタイトルの字体も、気の抜けたようなものや踊っているようなものも少なくない。
丈も横幅もバラバラで、掃除は少々面倒そうな印象を受けたが、あの壁のような圧迫感は薄かった。
「よし、ここから始めて慣らそう」
先程は、単なる重たい荷物だと思えば──と考えたのに、いざ本を目の前にするとなかなかそうもいかないものであった。

本を一段分ごっそりと出し、本棚の埃を払い落とし、一冊一冊本を点検する。
目立つ破れなどあれば修繕し、そうでなければ埃を払ってそのまま戻す。
マルセルの言っていたとおり、本というのはまとめて持とうとすると重いものだった。
「……筋力トレーニングになって、いいかもしれない」
時々近くを人が通り、「あのオロカが本なんていじっているぞ」などと言われないかと身を小さくした。
しかし実際にはそんなことは起こらなかったので、そのうち気にならなくなった。
明るい色彩の絵本は、パラパラとめくっているだけで、なんとなく楽しくなった。
波に乗ってしまえば、根気や持久力はあるオロカである。気がつけば、三時間以上が経っていた。
「……昼飯にするか」
床に落とした埃を箒で集めて捨て、切り上げた。
 
 
 
そんなこんなで、数日が経過した。
すっかり習慣と化して、オロカはいそいそと図書館に向かった。
「子供向けのヤツは、そろそろ終わりだな」
なんだか残念に思いながら、本棚に向かった。
背表紙が破れていたので、修繕した方が良いだろうと、一冊の大きな絵本を手に取った。
「ん……?」
表紙には、大きくライオンの顔が描かれていた。
ちょっとトボけたような、それでいて何か物言いたげな。
美しいという類の絵ではなかったが、どこか心が惹かれた。
オロカは立ったまま、自然とページをめくっていた。
 
 
 
オロカは、暗示郎のいれた苦い紅茶をちびちびとすすりながら、ぼんやりとしていた。
食事時ともお茶時とも外れていたので、オープンカフェの客はまばらだった。
不意に、絵本の1シーンが脳裏に蘇ってきた。

  ──見あげる 人たちが、声を かぎりに よんだ。
   「早く とびおりるんだ」
   だが、風に のった ほのおは まっかに アパートを つつみこんで、
   火のこを ふきあげて いた。
   ライオンの すがたは どこにも なかった。
   やがて、人びとの まえに、ひとかたまりの ほのおが まいあがった。
   そして、ほのおは みるみる ライオンの かたちに なって、空高く かけあがった。
   ぴかぴかに かがやく じんざだった。
   もう さっきまでの、すすけた 色では なかった。
   金色に ひかる ライオンは、空を はしり、
   たちまち くらやみの 中に きえさった──

目を閉じた闇の中に、赤々と燃える炎、そして輝きながら空を駆けるライオンの姿がありありと浮かんだ。
オロカは知らず知らずのうちにうつむき、肩を震わせていた。

「……オロカ、どしたの?」
暗示郎の声に顔を上げ、目を開けると、とたんにぼろぼろっと涙が溢れでた。
慌てて袖で目を拭ったが、隠しようもなかった。
「な、なんでも……」
「何でもなくないじゃん。泣いてるじゃん。どうしたのさ、何があったのさ」
「何でもない! た、ただ……ちょっと、絵本を読んで……」
「絵本? へー……どんな話?」
「えぇと、ライオンが……その……男の子と仲良くなって……それで……火事が……。
いや、えぇとその前に、サーカスのライオンなんだ、火の輪くぐりとかをする……」

  ──チタッ。

オロカは、耳元で鞭の鳴る音を聞いたような気がした。
最後のシーンが、再び脳裏に蘇った。

  ──つぎの 日は サーカスの おしまいの 日だった。
   けれども、ライオンの きょくげいは さびしかった。
   おじさんは、ひとりで チタッと むちを ならした。
   五つの 火のわは めらめらと もえて いた。
   だが、くぐりぬける ライオンの すがたは なかった。
   それでも、おきゃくは いっしょうけんめいに 手を たたいた。
   ライオンの じんざが、どうして かえって こなかったかを、
   みんなが しって いたので──

「……あぁぁーっ!」
オロカは胸の底から溢れ出る熱さに言葉が出なくなって、テーブルに顔を伏せた。
「ちょっと、思い出し笑いってのはする人よくいるけど、思い出し泣きとかするかな、普通ぅ?
ねぇ、そのライオンがどうしたのさっ?」
 
 
 
「へぇ……オロカさんが、絵本で……ねぇ」
食後に暗示郎から勧められた紅茶を固辞し、代わりに頼んだハニーリモーネを口にしながら、三郎が呟くように言った。
「そーなんだよ、びっくりしちゃった」
「意外というか、らしいというか、微妙なところですね……。で、何という本なのですか?」
「それが、タイトル覚えてないって言うんだよね。内容聞こうにも説明が下手すぎて、さっぱりつかめないしさ。
明日にでもタイトル見てくるって言ってたけど……」
「そうですか」

「ま、あんな号泣する人も珍しいけど、絵本とか童話とかって、大きくなってから読んでもいいもんだよね」
「暗示郎さんは、どういう本が好きなんですか?」
「そうだなぁ……」
暗示郎は指折り数えた。
「好きなのいっぱいあって、どれが一番っていうのは決められないけど……。
"ピーターラビット"とか、"不思議の国のアリス"とか、"長靴をはいた猫"とか……あ、"ハーメルンの笛ふき男"も好きだなぁ」
「"ハーメルン"は僕も好きですね……」

  ──みんなは、ほっとして、むねをなでおろしました。

   「あのけわしい山は、けっしてこえられない!
   あの山は、笛をふきながら、のぼるなんてできない。
   そうしたら、子どもたちだって、ついていかないだろう!」

   ところが、なんと、笛ふき男と子どもたちが、山のふもとにたどりつくと、
   とつぜん、ほら穴があいたみたいに、
   そこに、おおきな、おどろくべき入り口がひらいたのです。
   笛ふき男がはいっていくと、子どもたちがつづきました。
   子どもたちが、ひとりのこらず、すがたを消すと、
   ひらいていたとびらは、さっと、とじてしまいました。
   ひとりのこらず? いいえ! ひとりだけ、のこされました。
   足がわるかったので、みんなから、ずっとおくれていたからです──

「僕もあんなふうに、いけ好かない人々を懲らしめてやりたいと思ったことはあります」
それを聞いて、暗示郎はプッと吹き出した。
「三郎は、そっち側なんだ」
「そっち側? 暗示郎さんはどちら側だって言うんです?
まさか街の人のように、してやられたい訳じゃないですよね?」
「ううん、違うよ。笛吹き男に着いて、トンネルの向こうの国へ行ってみたかったな〜、なんてね」
「あぁ、なるほど……」
「三郎は? やっぱり旅をするお話が好き?」
「そうですね……暗示郎さんのあげたものほど有名ではないですが……"きりぎりすくん"とか……」

  ──「あのね、ぼくは おひるすぎも すきだよ」
   と、きりぎりすくんは いいました。
   むしたちは うたうことも おどることも やめました。
   「きみ なんて いった?」
   と、むしたちは いいました。
   「ぼく おひるすぎがすきって いった」
   と、きりぎりすくんは いいました。
   みんな しんと なりました。
   「よるも とても すてきだな」
   と、きりぎりすくんは いいました。

   「くだらん。」
   と、1ぴきが いいました。
   そして、はなわを ひきちぎりました。
   「ばか。」 べつのが いいました。
   きりぎりすくんの プラカードを ひったくりました。
   「おひるすぎだの よるだのが すきな やつなんか
   おはようぐみに いれる わけには いかん! ぜったい だめだ!」
   と、3ばんめのが いいました──

「あぁっ、それ知ってる! 確か、いろんなヘンな虫が出てくるやつだよね……
"おはようぐみ"、だっけ? 朝、サイコー!とか集会開いてる連中とか」
「そう……」
ふと、三郎は遠くを見るような目をした。

  ──「あさ ばんざい!」
   みんなで さけびました。
   そして プラカードを ふりながら こうしんして いってしまったんです。
   きりぎりすくんは ひとりぼっちに なってしまいました。
   きいろい たいようの ひかりを みました。
   クローバーの つゆが きらきらするのを みました。
   それから みちを あるいて いきました──

「朝が一番、それ以外は駄目だ、なんて拘っている人は……
朝の美しさを、結構見逃してしまうものなんですよね……」
「あ、何か哲学的なこと言ってるぅ〜!」
からかい半分に口を尖らせた暗示郎へ、三郎はフッと笑ってみせた。

マインドパペット1.5 水色の庭園
17.

「おかしいな……このあたりにあったはずなんだが……」
オロカは本棚の前に立ち、昨日読んだ絵本を探していた。
──もう、直接読んだ方が早そうだから、タイトル教えてよ──

暗示郎にそう言われたということもあるが、もう一度落ち着いて読んでみたかった。
「無いぞ……」
きょろきょろとすると、柱に貼ってある"よんだほんは もとあったばしょに かえしましょう"と書かれた紙に目が止まった。
「誰か読んだ奴が、元通りの場所に戻さなかったのか?」
その列の端の棚から、順々に見ていく。
しかし、見つからない。同じように背表紙の破れた本はあったが、引き出してみると別の本だった。

「お兄ちゃん、どうしたの?」
振り返ると、オロカの腰よりもう少し高いぐらいの背丈の少年が居た。
利発そうな目で、彼を見上げている。
オロカは、少年とどこかで会ったことがあるような気がした。
記憶を探っても思い当たらない。しかし、なんとなく親しみを感じた。

「その……絵本を探しているんだ」
「ふぅん……僕、よく来るから知ってるかもしれないよ。どんな本?」
「えぇと……」
オロカはこっそりと深呼吸した。
タイトルがわからない以上、筋を話すしかないのだが、子供の前でまた泣いたりしたらみっともない事この上ない。
「……火の輪くぐりの巧い……だが昔ほどの勢いは無くなってしまった、老いぼれたライオンがいたんだ……サーカスに」
「うん」
「それで、えぇと……服を着て、人間の振りをして街へ出たら、男の子と仲良くなったんだ。
檻の中へ戻ってからも、こっそりテントの裏から入ってきた男の子が、チョコレートを分けてくれたりして……
明日は男の子が貯めた小遣いでサーカスを見に来ると聞いて、若い頃のように火の輪を五つにして飛んでやると決めたんだ。
ところが、男の子の家が火事になって……ライオンが檻をぶち破って助けに行った。
男の子はなんとか救いだしたんだが……」

ごうっ……
オロカの脳裏に燃え盛る炎の海が浮かんだ。
背中を向けたライオンがその中で、ゆっくりと倒れていく……

じわっ、とオロカは目頭が熱くなった。
まずい、これは泣く……
少年から目を逸らし、目をしばたたかせて堪えようとした。
そんなオロカに構わず、少年は肩にかけていた手提げかばんをごそごそとしていた。
「……これでしょ?」
すっ、と少年は絵本を差し出した。
目を向けると、大きく描かれた、あのトボけたようなライオンの顔があった。
「あぁ、これだ、これだ!」
──そうか、貸し出しているということもあったんだった。
それに思い至らず探し回っていた自分の間抜けさ加減に、オロカは呆れた。

タイトルを見ると、"サーカスのライオン"とあった。
「なんだ、そのまんまのタイトルだったのか……」
「お兄ちゃんも読んだんだ。僕も好きだよ、この本。
特に最後の、じんざがもう居ないのに、おじさんが鞭をちたっとやるところがいいな。
こう……余韻があるっていうの?」
「……」
余韻とか、難しい言葉を使うもんだなと思いながら、オロカは何度も頷いた。
「あぁ、何度も泣いてしまって、仕事が手につかなかった」
「そうなんだ……ねぇ、どうしてそんなに好きなの?」
「……」
問われてオロカは考えようとしたが、考えるよりも先に言葉が口をついて出た。
「……あんなふうに、死にたい」
「えぇっ?」
「……でも、できない。ここでは……」

誰かのために戦いたい。そして身を燃やし尽くして、光になって消えていきたい。
オロカは強く焦がれた。
床にぺたりと座り込むと、膝に顔を埋めて泣きじゃくり始めた。
子供の前で泣いたらみっともない、などと考えていたことも頭から飛んでいた。
少年は彼を慰めるように、小さな手でその背中を優しく撫でていた。
その手の感触を感じながら、オロカは先ほどの疑問の答えに思い当たった。
少年は、ライオンが助けた男の子に似ていたのだということに。
 
 
 
「……ここでもそういうこと、できるよ」
オロカが少し落ち着いたのを見計らったように、少年は告げた。
「えっ!?」
「こっち!」

小さな柔らかい手が、オロカの無骨な手を引いた。
涙を拭きながら導かれるままについていくと、"閉架書庫につき、関係者以外入室ご遠慮ください"と札のかかったドアの前に来た。
「おい、入るなって書いてあるぞ?」
「いいからいいから。この図書館は司書さん居ないもん、怒られやしないよ」
「そういう問題じゃ……」
オロカは躊躇ったが、少年が中に入ってしまったので、仕方なく暗い室内に踏み込んだ。

少年が電灯のスイッチを入れた。
パッと明かりがついて見えた閉架書庫は、今まで居た大部屋(開架書庫)よりも大分狭かった。
が、スチール製の本棚と本棚が、ところどころ隙間が開いている他は全てくっつきあっており、間隔が無い分かなりの数の本が収められていそうだった。
どうやって本を取るのだろうと思ってオロカが周囲を見回していると、少年が本棚の脇についたスイッチを押した。
すると、ウィィン……と小さな音を立てて本棚が動き始めた。
「わっ、動いた!」
「ふふっ。ダンジョンみたいでしょ」
驚くオロカに、少年はいたずらっぽい笑みを向けた。
オロカには"ダンジョン=地下牢"という意味しかわからなかったが、なんとなく"不思議な場所"というニュアンスを感じ取って頷いた。
「こっちへ来て」
少年は、人が擦れ違うのにもちょっと骨が折れそうなほどの狭い隙間へ入っていく。
オロカは、急にまた本棚が動いて挟まれやしないかと、びくつきながら後を着いていった。

薄暗く細長い空間で、少年が彼の手には一抱えもあるような、大きな分厚い書物を本棚から引き出していた。
「……それは?」
「ミヒャエル・エンデの"はてしない物語"って知ってる? 映画だと"ネバーエンディング・ストーリー"」
「いや、知らない」
映画って何だ? とは、さすがに子供に聞くのは恥ずかしかった。
「主人公のバスチアンって子がね、本の中に入って冒険するんだ。それに出てくる本と、同じようなものだよ」
「本の中に入る? そんなことができる物、それこそ本の中にしか無いだろう」
「本当だって。騙されたと思って、読んでごらんよ」
「……」

まったく、子供の空想にはついていけない。
しかし、頭ごなしに否定するのも大人気ない。それらしい素振りでもしてやるか。
オロカはそう考え、少年が差し出す書物を手に取った。
革張りの立派な装丁で、しっくりと手になじむ。
「……あれ?」
表紙には、見たことのない黒い文字が、流れるような字体で書かれている。
意味が読み取れない。
この庭園では、どんな書き言葉も話し言葉も、自然と意味を理解できるはずなのだが。
名前の意味だけはわかっても、それを知識として知らなければ、具体的にどんなものかはわからない、ということならあるものの。
「この本は……いったい?」
オロカは引き込まれるように、分厚い表紙を開いていた。
「あぁっ!?」
バラバラバラっ、と勝手に少し黄ばんだページがめくれていく。
それと共に、焼きつけられるようにオロカの脳裏に見知らぬ深山幽谷、大海原、どこまでも広がる青空が次々に浮かんでは消える。
オロカの意識は、洪水のようなイメージの奔流に飲み込まれていった。

どさっ。

オロカの体は尻餅をつき、重力に引きずられるようにがくんと背中が本棚にもたれかかった。
投げ出された手足は、ぴくりとも動かない。
「……」
少年はオロカが完全に気を失っていることを確認すると、その傍に屈みこみ、体を重ね合わせていた。
しばらくして立ち上がると背を向け、音もなく離れていった。
オロカが手にしていたはずの書物は、どこにも見当たらなかった。
 
 
 
オロカはふわふわとした心地で歩いていた。
思い出されるのは、今しがた自分が"体験"したこと。

気がつくと、オロカは見知らぬ土地に立っていた。
そして、あれよあれよという間に事件に次ぐ事件に巻き込まれていった。
襲ってきた怪物を、刀を振るって返り討ちにし──
奇妙な村に住む民に、異世界から来た勇者よと歓待され──
竜の心をつかむ修行をし──
自分に背を許してくれた竜に跨って、空を飛び──
雲の合間に小さく、宙に浮かぶ巨大な城が見え──
あの城には、魔王に捕らえられた姫が──

──あれ、これは本の中の話だったよな。どうやって戻るんだ?──

ふとオロカの心に疑問がよぎった時、元の閉架書庫に戻っていた。
少年の姿はなく、彼が例の書物を引き出した本棚を見ると、それは元通り収まっていた。
オロカは、ぐったりと身も心も疲れきっているのを感じた。
しかし満足感を伴う、快い疲労だった。
「続きは、明日に……」
電灯を消し、どこかおぼつかぬ足取りでオロカは閉架書庫を出た。

"物語"として見るのなら、何のひねりもない、ごくありふれた安っぽいファンタジー。
しかし、自分の目で見、肌で感じたそれは、オロカにとって"物語"などとは思えなかった。
くるくると変わる、刺激的な風景が──
怪物の爪で切り裂かれた、傷の痛みが──
竜の背で感じた、風を切って飛ぶ開放感が──
何よりも、あの魂の底から熱くさせる興奮が──

「あれ、オロカぁ」
心ここにあらず、のままにオープンカフェの脇を通りすぎようとしていたオロカを、暗示郎が呼び止めた。
回想から現実に引き戻されたオロカは、ぼんやりと視線を向けた。
本の中で駆けまわった"体験"に比べれば、現実の光景は酷く色あせて見えた。
つまらない風景の中に──つまらない男が居る──
「今日は、何食べるの?」
──そして、つまらない質問をしてきた──
「……いらない」
「えっ? えぇーっ!?」
驚く暗示郎を、つまらない反応をする奴──とばかりに一瞥すると、そのままオロカは歩み去った。
 
 
 
「……そんなに心配しなくても、大丈夫ですよ。放っておくことです」
「だって! だって、どう見てもおかしかったんだもの!」
心配で足が地につかぬといった様子の暗示郎に、三郎はなだめるように言い聞かせた。
「自分の子供の頃の事を思い出してごらんなさい。
楽しく本を読んでいたのに途中で食事などに呼ばれて、邪魔しないでくれと思ったことなど、いくらでもあったでしょう?」
「オロカは、子供じゃないじゃん……」
溜息をついて、三郎は首を振った。

「子供同然ですよ、あの人は。がさつそうな見た目に反して、結構なロマンチストみたいですよ。
それに……おそらく、本なんて今までろくに読んだことがなかったんじゃないですか?」
「そうなの?」
「ほら……絵本の内容を思い出しただけで泣きわめくような有様だったんでしょう?
きっと、今頃になって読書に"目覚めた"んですよ。
少しばかりの間、没頭したところで、どうということはないです。
読み終わったら、いつものオロカさんに戻っていますよ」
「それは……そうなんだろうけどぉ……」
なおも不満気に口を尖らせる暗示郎に、三郎は再び溜息をついてみせた。
「……わかりました。少し、僕も気をつけておくことにします」
「うん……」
 
 
 
翌日──
図書館内に設けられた、閲覧室。
テーブルに突っ伏して眠りこけていたオロカは、突然に揺り起こされた。
「オロカ……オロカぁ」
むっとして重い体を起こすと、すぐ傍に暗示郎、その後ろに三郎が居た。
幻想の名残を惜しむように、オロカは頭を抱えてテーブルに額を押し付けた。
「何するんだ。せっかく、いいところだったのに……」
「いいところって……いい夢でも見てた?
ごめんねぇ、でもこんなところで寝てると風邪ひ……」
「夢なんかじゃない!」
暗示郎の言葉を遮ってオロカは言い放ち、下を向いたままバンとテーブルを叩いて立ち上がった。
テーブル上の"禁煙"と書かれた四角錐が、その勢いで倒れた。

「夢じゃないなら……何です?」
三郎が冷めた声をかけた。
「……っ」
一瞬、オロカはハッとしたような顔をした。
しかしすぐに仏頂面に戻った。
「ほ……本を読んでいただけだ!」
大きな声で突き放すように言うと、テーブルに立てかけてあった刀をとって担いだ。
そして、"閲覧室では静かにしましょう"と書かれた壁の貼り紙の前を横切って、ずかずかと乱暴に靴を鳴らして去っていった。

「……」
三郎が、冷えきった目でオロカの背を見送っていた。
「怒ってるの、三郎?」
「……」
三郎は、ゆっくりと被っていた帽子を手に取った。
「怒ってますよ!」
一瞬だけ、三郎の細い目が大きく見開かれた。
ぎょっとして、暗示郎は肩を縮こまらせた。
「恐っ……」
この場にもう一人誰かが居るかのように、横を向いて呟く。
その時、暗示郎はあることに気がつき、きょろきょろと周囲を見回した。
「……どうしたんです?」
「ねぇ……本って、どこ?」
オロカが去った時、いつも持ち歩いている刀の他には、何も持っていなかった。
テーブルの上にも、椅子の上にも、本らしきものは見当たらない。
暗示郎は椅子を引いて床の上を探したが、そこにも本など落ちていなかった。

「……パイド…パイパー……」
三郎が呟いた言葉に、暗示郎が首を傾げた。
「パイド・パイパー? 笛吹き男が、どうしたの?」

  ──男は会議のテーブルにちかづくと、言いました。
   「どうか、わたしに、その仕事をやらせてください。
   ひみつの魔法のちからで、わたしは、この世に生きているどんな生き物も、さそいだせます」

   「地をはうもの、およぐもの、とぶもの、はしるもの、
   ぜんぶ、信じられないでしょうが、わたしのあとについてきます!
   わたしが、その魔法をつかうのは、とくに、人間をおびやかす生き物たちにたいしてです。
   もぐらや、ひきがえるや、いもりや、くさりへびのような。
   パイド・パイパー(しまもようの服をきた笛ふき)と、みんなはわたしを、そうよびます」

   男は、まさに、そのよび名のとおりでした。
   男はくびに、マントとおなじいろどりの、赤と黄いろのしまもようのスカーフを、まいていました。
   そのスカーフのさきっぽには、いっぽんの笛。
   むかしの服みたいなマントのうえにぶらさげた、その笛を、男の指は、ずっとまさぐっていました。
   その笛をふきたくてふきたくてがまんできない、というように──

三郎はその問いには答えず、ゆっくりと虚空を見つめるように視線を上げた。
「"ホビットの冒険"の副題を知っていますか?」
「"ホビット"? 読んだことはあるけど……なんだっけ?」
一音一音を噛みしめるような口調で、三郎は答えた。
「"ゆきて帰りし物語"……です」
「それが?」

  ──そののちいく年かたったある秋の晩、
   ビルボは、書斎にすわって、むかしの記録を書きしるしていました。
   ビルボはその記録を、「ゆきて帰りし物語、あるホビットの休暇の記録」とするつもりでした──

「……行ったら……帰ってこないといけないんですよ」
三郎は視線をまっすぐに戻し、帽子を被り直した。
マインドパペット1.5 水色の庭園
18.
 
三郎はまっすぐ前を見つめたまま歩いて行き、上げた手をさっと振り下ろした。
"閲覧室では静かにしましょう"と書かれた壁の貼り紙が、ビリビリッと強引に破り剥がされた。
「さ、三郎……?」
暗示郎の呼びかけなど聞こえていないように、次は"館内では食べたり飲んだりしてはいけません"と書かれた貼り紙に手をかけ、一気に引いた。
画鋲が吹っ飛び、床の上を跳ねた。
「……」
何かに取り憑かれたような目をした三郎の横顔を見て、暗示郎は身をすくませた。
「うひゃあ、始まっちゃったよ……三郎の"病気"が」
触らぬ神に祟りなし──とばかりに、暗示郎はそそくさと退散した。
 
 
 
三郎は、担いできた立て札を投げ捨てた。
"花壇に踏み入らないでください"とか"ゴミはゴミ箱に、分別して捨てましょう"とか書かれた立て札の山が、ガラガラッと音を立てた。
三郎は剥がした貼り紙を焚きつけとして、立て札の山に火をつけた。
徐々に大きくなっていく炎を見つめながら、コートのポケットからハーモニカを取り出し、"月の沙漠"を吹き始めた。
まるで立て札の火葬に捧げるレクイエムのように、ゆっくりともの悲しい旋律が夕空に染み渡っていった。
  ──月の砂漠を はるばると 旅の駱駝が 行きました
   金と銀との 鞍置いて 二つならんで 行きました──

終いまで吹きおえると、三郎はハッと我に返ってハーモニカから唇を離した。
「おかしいですね……そんなにストレスが溜まっていましたかね?」
呟きながら、火が燃え尽きるのを待つように地面に腰を降ろす。
「なに、やってるんですかね……こんなことしたって、スナフキンになれるわけでもあるまいに……」

  ──スナフキンは、ぼうしをおしあげて、いいました。
   「さあ、これからたてふだを、ぜんぶひきぬいてやろう。
   もう、草もすきなだけのびるがいいんだ!」
   スナフキンは、自分のしたいことを、ぜんぶ禁止しているたてふだを、
   のこらずひきぬいてしまいたいと、これまでずっと思いつづけてきました。
   ですから、(さあ、いまこそ!)と思うと、考えただけでも身ぶるいがするのでした。

   まず、「たばこをすうべからず」のふだからはじめました。
   つぎには、「草の上にすわるべからず」をやっつけました。
   それから、「わらったり、口ぶえをふいてはいけない」にとびかかり、
   つづいて、「草原でとびはねるべからず」を、ふみつけました。
   小さい森の子どもたちは、ただただあきれてしまって、スナフキンを見つめていました──

「スナフキン……か」
三郎は、子供の頃を思い出していた。
 
 
 
「課題は出来ましたか?」
「はい、先生」
彼は、三枚にぎっちりと書いた原稿用紙を差し出した。
"私の尊敬する人"というテーマを与えられて書いた作文だった。
家庭教師はざっと一枚目に目を通すやいなや、くしゃくしゃっと全部丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
「あっ……」
「いつ、読書感想文を書けと言いましたか!」
家庭教師の冷たい目が突き刺さった。
「ちゃんと、実在する人の事を書きなさい!
家族とか、将軍様とか、お医者様とか……百歩譲っても、歴史上の偉人とか!!」
「……ごめんなさい」
彼は小さくなって頭を下げた。
「まったく、異界の夢物語などにばかりうつつをぬかして……。
どうせ読むなら、もっとためになるものを読みなさい!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
彼は、目に涙をためながら、何度も何度も頭を下げ続けた。
 
 
 
「……悪うございましたね! 尊敬する人がスナフキンで!!」
(現在の)三郎は、(回想の中の)家庭教師に毒づいた。

パチパチと、はぜる音がした。
薄暗がりに揺らめく炎は、まばゆく美しかった。
三郎は、作文を捨てられる前までは諳んじるほど繰り返し読んでいた、スナフキンの台詞を口にしてみた。
「たいせつなのは、自分のしたいことを、自分で知ってるってことだよ……」
 
 
 
翌朝、三郎は物陰から集合住宅の出入り口を見張っていた。
「あぁ、こんなのは僕の役回りじゃないのに……。
僕は"風"ですよ? どう考えたって、これは"土"の役目なのに……。
当の"土"が地面を離れてしまうって、どういうことですか、まったく……」
ブツブツと愚痴を呟いていると、背後から声がかかった。
「"風"とか"土"とか、何の話〜?」
振り向くと、すぐ後ろで暗示郎が首を傾げていた。
「……なんでもないです」

「ねぇ、オロカをどうにかするんでしょ? 僕も混ぜてよ」
「……」
三郎は、暗示郎をじっと見やった。
「貴方も……地水火風のどれかといえば"風"ですよね……もう一人"土"が居ればよかったですのに」
「かぜ?」
「まぁ、向いてるの向いてないのと、無い物ねだりしたところで仕方ありません。
向いてないの同士で、なんとかしますか。スナフキンもあぁ言ってることですし……」
「今度はスナフキ〜ン? 
昨日から、笛吹き男がどうの、ホビットがどうのって、何言ってるのさ。意味わかんないんだけどォ」
「人にわかってもらおうとして言ったわけじゃないですので、気にしなくていいです」
「あ、そう……じゃ、なくて! わかるように言ってよ、三郎ぉ!!」
じたばたとしている暗示郎を無視して、三郎は集合住宅の出入り口に視線を戻した。
 
 
 
三郎と暗示郎は、ぼんやりとした様子で歩いて行くオロカの後をそっとつけた。
オロカは図書館の奥へ奥へと進んでいき、"閉架書庫につき、関係者以外入室ご遠慮ください"と札のかかったドアを開けて入っていった。
「ここ、閉架なんてあったんだね」
「僕も知りませんでした。司書も居ないのに閉架とか、何様でしょうかね」
「で、どうするの。退治するの? パイド・パイパーを?」
暗示郎の問いに、三郎は少しの間黙りこんでから口を開いた。
「……まだ、そうと確信があるわけではありません。ですから、まず……」
「日和見?」
「様子見、と言ってください」

三郎は頭の中で百を数えてから──終わりの方はかなり早くなってしまったが──静かにドアノブを回した。
隙間から二人が覗くと、通路の行き止まりで壁にもたれて、目を閉じたオロカがぐったりとしていた。
「ぁ……」
「……」
何か言いかけた暗示郎の口を、三郎は黙って手でふさいだ。
三郎は、うなじの毛が逆立つような感触を覚えていた。
今すぐ逃げ出したいのを堪えて、じっと様子を伺っていた。

ぬっ、と人影が本棚と本棚の隙間から通路に踏み出した。
三郎は息を飲んだ。
羽根飾りのついた鍔広帽子、その下から覗いた大きな鼻。
くわえられたパイプ、首に巻かれたスカーフ、裾の長い服、ちょっと擦りきれたズボン。
幼い頃に憧れを抱いた人──スナフキンそのもの。
デフォルメされたイラストでなく、現実にスナフキンが居るとしたら、そんな風であろうと思われるような容姿であった。

スナフキンは音もなくオロカに近づき、屈み込んだ。
そして、オロカが着ている革服の襟元をはだけさせると、大きく口を開けて首にかぶりついた。
赤い一雫が漏れて、つうっとオロカの首筋から胸元へとつたい落ちていった。

「アリスが! アリスが血を吸ってる!!」
暗示郎が、口をふさぐ手の下でモゴモゴと、小さい悲鳴混じりの声を漏らした。
「……暗示郎さんには……アリスに見えるって、いうんですか?」
「……ッ!」
三郎の問いに、暗示郎はかくかくと頷いてみせた。

がばっ、とスナフキンが振り向いた。その薄い唇は、真っ赤に濡れていた。
ピリッとした感覚が走ると同時に三郎は背を向けて、全速力で駆け出していた。
「ま、待って、三郎!」
暗示郎も、あっという間に遠ざかってしまった三郎の背中を追って、逃げ出した。

図書館から大分離れた建物の裏手で、二人は肩を上下させて息を整えていた。
「あれが……あれが、パイド・パイパーなの? アリスじゃなく?」
「……ッ!」
三郎は、いきなり長い足を上げて、ダンッと壁を蹴りつけた。
「どうしたの?」
「よくも……よくも僕のスナフキンを、血で汚してくれましたね!」
「あ…ははは……」
もはや笑うしかない、といった様子で暗示郎は苦笑していた。

マインドパペット1.5 水色の庭園
19.
 
三郎は、突然動きを止めた。
光の束で打ちのめされたような感覚と共に、過去の光景が鮮明に脳裏に浮かび上がった。
 
 
 
「ここへ、お座りなさい」
彼の母親が眉を吊り上げさせて、向かいの席を示した。
「はい……」
彼はうなだれて、言われるままに椅子に腰掛けた。
「先生から聞いたわよ。作文に、ふざけたことを書いたんですって?」
「ふざけてなんか、ない……」
彼は下を向いたまま、小さな声で答えた。
「じゃあ、真面目にあぁいうことを書いたっていうの?
あなた、もう何歳だと思ってるの。現実と作り話の区別くらい、いい加減ついていい頃でしょう?」
「あぁいう……って、母上は読んでないのに……」
「口答えはやめなさい! 先生から聞けばわかります!!」
ひときわ大きく張り上げた母親の声に、彼は首を縮めた。
「先生がおっしゃっていたわ。
どうも現実と夢物語を混同しているようで、このままだと今に遊び感覚で大量殺人でもするような人間になるんじゃないかと心配です、って」
まったくもう……正妻の子は、このぐらいの歳にはもうとっくに、しっかりした作文を書いていたっていうのに……。
あの女に知られたら、どうつけこまれるかわかりゃしない……」
「……」
何度失望させれば気がすむのか、とでも言いたげな溜息が、彼の胸をずきりと痛ませた。

「お言いなさい。お話の中に出てくる人が、本当に居るとでも思ってるの?」
「そんなの……わかってる……」
「……あぁそう。なら、そういうことね……」
「……?」
恐る恐る、彼は母親の顔を上目遣いに盗み見た。
「先生はね、こうもおっしゃっていたのよ。
もし現実と夢物語の区別がついているのだとしたら、ふざけて面白半分に書き散らしたんでしょう。
そうでさえないというならば、奇をてらって頭のいい子だと思われようとしたんでしょう、って。
まったく……小賢しい真似をする子ね! 男なら、たとえ上手くできなくとも、堂々となさい!
小手先事でごまかそうったって、大人はそんなに馬鹿じゃないのよ!!」

ガタターンッ!

音を立てて椅子が倒れた。
「違う……そんなんじゃない!」
彼は、そう言い捨てて飛び出した。
「待ちなさい!」
母親の声が追いかけてくる。
彼は自分の部屋に飛び込み、ドアに鍵を閉めた。
「開けなさい! 話はまだ終わってないのよ!!」
ドンドンドンッ、とドアが激しく叩かれる。
「いいこと! 妾腹の子でも、長男でなくとも、跡継ぎの座を奪い取れる可能性は決して0ではないのよ!
その為には隙を見せちゃ駄目なの! "将来、危険人物になりかねない"と見なされるだけでも命取りなのよ!
この際言っておくわ、いい加減に夢物語から卒業しなさい!!」
彼は明かりの灯らぬ真っ暗な部屋でうずくまり、耳をふさいだ。
「もう、やめて! 次は、ちゃんと書くから! 母上の気にいるように書くから!
だから……だからもう、放っておいて! 放っておいてよ!!」
ドアを叩く音を打ち消すように、彼は叫んだ。
「スナフキンなんて、大嫌いだ! もう、これでいいでしょう!!」

しばらくして、ようやく母親が追求を諦めたのか、辺りは静かになった。
彼は、鼻をすすりあげながらベッドに這い上がると、枕の周りに散らばっていた本を一冊一冊、手探りで拾い上げた。
それらを抱えてバルコニーに出、本を積み上げた。
もう一度部屋に戻ってマッチを持ってくると、彼は本に火を着けた。
炎が大きくなり、やがて燃え尽きて消えてしまうまで、彼はじっとそれを眺めていた。

月だけが、それを見ていた。
そうして、最悪の"卒業"は終わった。
 
 
 
「……逃げたい……逃げたい……逃げたい……」
三郎は壁に向かって顔を伏せ、ぶつぶつと呟き続けていた。
常の穏やかさをかなぐり捨て、幾度も足で壁を蹴りつけていたかと思えば……一転して、この様子である。
暗示郎は戸惑いを隠せぬ様子で、三郎の背後に立ちすくんでいた。
「……逃げたい…………」

「……」
暗示郎は、紅茶味のキャンディーをポケットから取り出し、口にふくんだ。
カラコロと口の中で転がしながら、三郎の呟きが途絶えるのを待った。
やがて静寂が訪れると、暗示郎は彼の声調としては静かに語りかけた。
「……あのさ、三郎」
「……」
「君のこと、友達だと思ってるから、言うよ。どうでもいい人だったら、言わないけど」
「……」
「逃げたって、別にいいと思うよ。僕はね」
「……」
「たださ……それって、本当に君の望んでることなのかな?」
「……」
「本当に、心から逃げたいと思ってるなら……逃げればいいよ。誰も、止めない。
でも、それ以外のことを望んでいるから、まだここで留まっているんじゃないの……?
僕が思うに、前にここへ来た時の君なら、とっくに庭園の外まで逃げ出してると思うんだけどな……?」
「……」

暗示郎は辛抱強く反応を待ったが、三郎は依然として壁に向かって顔を伏せたまま、黙りこくっていた。
暗示郎は小さく咳払いしてから、低く、落ち着いた声を努めて出した。

「たいせつなのは、自分のしたいことを、自分で知ってるってことだよ」

三郎は、ゆっくりと振り返った。
「……暗示郎さん?」
暗示郎は、にぱっと笑って地声に戻し、言った。
「違うよ、今のは僕じゃないよ。スナフキンが君に言ったんだよ」
三郎の口元が、少しだけ緩んだ。
「……ありがとう、スナフキン」
 
 
 
三郎は、壁に背を預けて空を見上げた。
彼が泣こうが喚こうが、雲はひたすらゆっくりと流れていた。

その雲は──否、雲だけでなく、太陽も月も星も──ここ"水色の庭園"や、今はもう存在しない"モスタリア"といった時空の狭間にある国では、本当はそこには存在しないのだとする"虚像説"というものがある。
例えれば、オリジナルの世界にある太陽などが、鏡に映っているようなものであると。
さもなければ、オリジナルの世界と狭間の国のそれぞれとで、太陽がいくつもあるということになってしまうから──というのが、"虚像説"の支持者の言い分である。
別の説の支持者はこれに反論する。
虚像であるはずの太陽から降り注ぐ光が、どうして暖かいのかと。
虚像であるはずの雲から降り注ぐ雨に、どうして濡れるのかと。

三郎はといえば、いくつかの説の中、少数派である"虚像説"を気に入っていた。
そのため庭園で何らかの抑圧を受けた時、気晴らしをしたければ雲を眺めるのが、彼にとっては一番簡単な"儀式"であった。
この閉ざされた、窮屈な世界の外にある存在であるからと。

「フラッシュバック、というやつでしょうか……嫌なものを見ました」
「そう……大丈夫?」
「えぇ、まぁ……。しかしおかげでひとつ、わかったかもしれません」
「なぁに?」
「昨日から、どうしてこうもストレスを受けているのか……と」
「聞いていいんなら、どうしてさ?」
「どう言ったらいいのか……。あぁ、そう……。
"自縄自縛"という言葉がありますが……今の僕の場合、"自刃自傷"とでも言うような状態なんじゃないかと……」
暗示郎は首を傾げてみせた。
「ナゾナゾみたいだね。なんだか良くわかんないけど、そりゃあ痛そうだね」
「痛いです、実際……吐きそうで……」
言いながら、三郎はコートのボタンを外して手を差し入れ、胃のあるあたりをさすった。
暗示郎はポケットからカラフルな煙草を出してみせた。
「痛くなくなるやつあるけど、吸う?」
「いえ……それはもう、結構です……」

「あ、そう。じゃあ、サンダル脱いで」
「は?」
「だって、爪んとこから血が出てるじゃん。サンダル履きであんなことするからぁ」
「そういえば……こっちも、痛いですね」
言われるまで気づかなかったらしく、三郎は赤く濡れた自分のつまさきを見下ろした。
「ほら、座って。足、出して」
「ちょっと……あの。自分でやりますから……」
「気分悪いなら、無理しないの」
三郎は少し恥ずかしそうにしていたが、暗示郎が手を伸ばして足をつかもうとすると、しぶしぶ腰を下ろして自分でサンダルを脱ぎ始めた。
暗示郎は煙草をしまって代わりに絆創膏を出し、傍の自動販売機へ走り──と言っても、この庭園にあるものは金を入れなくともボタンを押すだけで飲み物などが出てくるが──ペットボトルのミネラルウォーターを出した。
三郎の足元に屈みこむと、つまさきの血をそれで洗い流してハンカチで拭いた。
「爪、割れてはないね。よかった」
「どうも……」
ミネラルウォーターの残りは三郎に渡し、足の指に絆創膏を巻いた。
そういった作業の間に考えついたことを、暗示郎は三郎に問うた。
「ひょっとして……オロカに言わなきゃならないだろうなーって言葉が、考えただけで君にも刺さる、みたいな?」
「……」
三郎は、ちびちびとミネラルウォーターで喉を湿らせながら、黙って頷いた。

「……なぁんだ☆」
暗示郎は、ケロッと明るい声を出した。
「三郎ったら、そんなことで悩んでたの?」
「そ、そんなこととは何ですか……人事だと思って。自分の言葉には、耳は塞げないんですよ」
しかめっ面をして軽く睨んだ三郎を、暗示郎は笑い飛ばした。
「アハハハッ。三郎って、意外に真面目なんだね!」
「そんなことはないですよ……っ」
「否定することないじゃん、悪いことじゃないんだから。
君さ、オロカを助けたいんだったら、オロカのことだけ考えてりゃあいいんだよ。
自分のことなんて、棚上げしときゃ、いいんだよ!」
「棚上げって、そんな簡単に……」
「簡単にしちゃって、いいのいいの! 僕なんて、心の棚は何百個も持ってるよ!」
「それは、多すぎでしょう……」
「そう、多すぎるよ! それに比べりゃ、君が心に棚の五つや六つや七つや八つ持ったところで、何さ!」
「……いいんですかね?」
「いいの、いいの! 心に棚を作ったことで、オロカが救われるなら安いもんだよ!
それとも何さ、二人仲良く共倒れしたほうが誠実だとでも思ってるの?
普段は、誠実? なにそれ美味しい? って顔してる君がさ!
……って、これも僕自身のことは棚上げして言うんだけどね?」

「救われるなら、安いもの……」
三郎は暗示郎の言葉を繰り返し、少し考えた。
「……オロカさん流に言うと……
俺と、てめぇが棚を作らないことと、どちらが大事なんだ、えっ? ……って感じですかね」
ププーッ、と暗示郎が吹き出した。
「さっ三郎! そんなこと言われたの! それって愛の告白ぅ!?」
「やめてください、僕はノーマルです!
オロカさんだって、そういうふうに受け取られるかもだなんて、まるで考えずに言ってるんですよ……っ」

ふぅ、と三郎は溜息をついた。
「なんだか、何をぐだぐだとやっていたのかと、馬鹿馬鹿しくなってきましたね……」
「君、逃げることばっか考えてるから、"逃げる"と"逃げない"の二択しか無いって思っちゃうんじゃないの?」
暗示郎の言葉に、三郎は顔をしかめた。
「なかなか、きついことを言いますね……」
「あぁ、別に逃げるってことを責めてるわけじゃなくって。
"逃げる"と"逃げない"以外にも、選択肢はいっぱいあるってことだよ。
"面倒な部分は脇へ置いといて、やりたい部分だけやっちゃう"とか。
"楽しいことの片手間に、ちょこちょこっとやるようにする"とか。
"とりあえず後回しにする"とか、"他の人に押し付ける"とか。
他にもいくらでもあるのに、見えなくなっちゃうなんて損ってもんじゃない?」
「……たしかに、"逃げる"と"逃げない"の間だけでぐるぐる回っていた気は、しますね……。
見えなくなっていた……そうかもしれません」
三郎は、恥じ入るようにうつむいた。
「……貴方が居てくださって、良かったです」
「ププッ。褒めても、何も出ないよ?」
「というか……もっと早く相談しておけば良かったですね」
「それ言う? 全くだよ、三郎!!」
 
 
 
「さぁさ、落ち着いたなら、そろそろアイツの説明を聞かせてよ。
僕、はっきりわかったことといえば、君がスナフキン好きな事くらいなもんなんだもの」
「説明……ですか。いいですけど……」
三郎は、気が進まなげに胃のあたりをさすりながら、再びミネラルウォーターを口にした。
「ただ、そのかわり……」
「ん?」
「吐きそうになったら、何もしていただかなくて結構ですから、後ろを向いてくださいね」
「ははっ、君がそうして欲しいだろうってことなんて、百も承知だよ♪」
「それはどうも……」
マインドパペット1.5 水色の庭園
20.
 
三郎は、オロカの血を吸っていたモノの説明を始めた。
「あれは、パイド・パイパーというエフェメラだと思われます。ほぼ、間違いないでしょう」
「またエフェメラ? 近頃、多いねぇ……」
「そうですね……何なんでしょうかね……」
「パイド・パイパーは常に幻覚を身にまとい、本当の姿を見せることはありません。
人によって、違うものに見えるのです。たとえ、パイド・パイパーが気づいていない相手でも。
それは……油断を誘うためと言われていますが、好きな本の登場人物に似るのだそうです」
「好きな本? じゃあ、"三国志"が好きだったら関羽とか張飛とかのガチムチなヒゲ親父が出てくるわけぇ?」
「ん……まぁ、そういうこともありえるとは思います。
たいがいは、その場に現れてもおかしくない容姿の人物が優先されるようですが……」
「図書館にガチムチはないかぁ」
「……来ちゃいけないこともありませんがね……」

三郎はミネラルウォーターを一口飲み、説明を続けた。
「パイド・パイパーは、標的と定めた相手に取り憑き、本を渡します。
その本を読んだ者の精神は、幻術によって生み出された異世界に引きこまれます。
幻覚といえば普通は、見たり聞いたりできるだけで、触ることができないものと相場は決まっています……
が、その幻は五感に訴えかけるとてもリアルなもので、実際に体験したように感じられるそうです」
「それでパイド・パイパーっていうんだ。
"あっち側"に連れて行っちゃうってわけだね。はは、思い出すなぁ……」
「何をですか?」
「うん。前にもちょっと言ったけど……子供にも、子供なりにいろいろあるもんだからさ。
"ハーメルンの笛ふき男"を読んだ時には、僕も"あっち側"に行ってみたい気持ちだったなってこと。
まさに、置いていかれた、足の悪い子供の気分だったね!」

  ──その子供は、それから何年たっても、かなしそうでした。
   どうしてかときかれると、いつも、こうこたえました。
   「友だちみんな、町にはもういない。つまらないんだ!
   笛ふき男が見せてくれると言った、たのしいけしきを、友だちはみんな、見ているのに、ぼくだけは見られない。
   そのことが、あたまからはなれないんだ」

   「そこは、水がほとばしり、くだものの木々がそだち、いろうつくしい花々がさきこぼれ、
   なにもかも変わっていて、いままで、知られなかったところ。
   そこは、クジャクよりもきれいなスズメがとんでいて、犬は、しなやかな鹿よりはやくかけぬけていき、
   ミツバチは、人をちくりとさす、針すらもっていなくて、そして、ワシのつばさをはやした馬が生まれてくるところ。
   そこでは、ぼくのわるい足もすぐになおるだろうと、ほんとうに、そんなふうに、ぼくにはおもえたんだ。
   音楽がきこえなくなったとおもったら、たったひとり、山のこちらがわにいることに、ぼくは気がついたんだ。
   そんなつもりはなかったのに、ぼくは、とりのこされたんだ。
   あるくとき、ぼくはいまも、わるい足をひきずっている。
   やくそくの地のことは、あれから二どときいたことがない!」──

「行ってもいいですよ。帰ってこれるならね」
少々皮肉っぽい微笑とともに三郎が言うと、暗示郎は大袈裟に手を振ってみせた。
「行かない行かない! いくら物珍しいところでも、一人で遊んだってじき飽きるって、今ならわかるもの!」
「……そうですか」

「しっかし、今にして思えば、笛吹き男も罪つくりだね。
子供たちは何も悪いことしてないのに、大人連中が約束通りネズミ退治の報酬を払わなかったからって、攫っちゃうなんてさ」
「……そう言う人も居ますね。
しかし、僕は笛吹き男の犯した最も重い罪に比べれば、たいしたことはないと思いますよ」
「最も重い罪? 他に何かあったっけ?」
暗示郎は首を捻った。
三郎は、静かに答えた。
「連れていかれた子供たちについては……
幻想の国に住み、ずっと暮らしていくのなら、それは幻想ではなく第二の現実であるとも言えなくはありません。
しかし……置いていかれた子供は、それから何年たっても悲しそうだったと言います。
体は現実に残したまま、心を幻想に囚われてしまった。
笛吹き男が中途半端なことをしたばかりに、その子供は現実を見つめることができなくなってしまったのです」
「そうか……そうだね。ずっと悲しみに沈んでいる子を見ている、周りの大人達も辛いだろうしね。
まさに、オロカに放置プレイされてる君のようにねぇ〜」
「……別に、それは僕だけでは……」
「うぅ〜ん、僕ぅ? 辛くないとは言わないけどォ〜
僕は、辛さのあまり貼り紙に当たり散らしたり、血が噴き出るまで壁を蹴りまくったりはしてないけどなァ?」
「……」
三郎は、黙って帽子のつばを指でつまんで下げた。
 
 
 
「で、オロカを幻想の国から連れ戻すには、その本を取り上げて焼いちゃうとかすればいいのかな?」
「いえ、その本自体も幻覚なので、見たり触ったりできるのは取り憑かれた相手であるオロカさんだけなのですよ。
そして、パイド・パイパーを殺すことができるのもオロカさんだけ。他の者は一切、傷つけることはできません。
一番問題なのが、パイド・パイパーに血を吸われた者は、現実への興味を失ってしまうという事です。
パイド・パイパーを倒すまで、ずっと……」
「やっかいだなぁ……じゃあ、どうすればいいの?」
「さて……どうにかして、現実へ引き戻すしかないでしょう。
オロカさんは、本質的には幻想の中に引き篭っているような人ではないと、思いたいですね」

暗示郎は、それを聞いて首を捻った。
「その間、パイド・パイパーが大人しくしてるかなぁ?
僕達に襲いかかってきたり、オロカを人質にとられたりしたらどうしようか?」
「そうですねぇ……倒すことは無理でも、押さえつけることくらいはできなくはありませんが……」
「え……三郎が?」
暗示郎が、ひょろりと細長い三郎の体格を見やった。
彼自身も人の事は言えないが、およそ荒事が似つかわしいとは思われぬ風貌である。
「えぇ。ただ、室内では無理です。外でないと……」
「そっか……」

暗示郎は、ひょいと三郎の手からペットボトルを取り上げて、残りのミネラルウォーターを飲み干した。
「ねぇ、オロカを外へ誘いだしたら、パイド・パイパーもついてくるかな?」
「オロカさんを誘いだしたら、ですか……」
三郎は、少し考えた後、答えた。
「可能性はあると思いますが? 向こうも、僕達に見られた事に気づいたようですから……
オロカさんを誘い出せば……彼を隔離され、接触できなくなる事を恐れて、追ってくるかもしれません。
不死身同然と言っても、それが永遠に続くわけではなく、血を吸ってからしばらくは……と、言われていますから。
それに、不死身同然である事そのものが、油断を生むかもしれませんし……」
「ふむふむ」
「あと、パイド・パイパーが追って来なかったら来なかったで……
その時は図書館ごと封鎖して、不死身でなくなるのを待つのも手ではありますね。
具体的に、どれほどの期間、不死身なのかは良くわかっていないんですがね。確かめるのに成功した者が居ないので。
血を吸ったパイド・パイパーは怪力の持ち主なので、長い間閉じ込めておけるかが問題ではありますが……」
「じゃあ、やってみて損はないね。僕が誘い出してみるよ。君は外で待ってて」
「なにか、いい考えがあるのですか?」
「まぁね。上手くいくかどうかは、やってみないとわからないけどね〜♪」

マインドパペット1.5 水色の庭園
21.
 
準備をしてくると言って立ち去った暗示郎を見送り、三郎は周囲を見渡しながら庭園を歩きまわった。
大きな楓の樹の前に立つと一つ頷き、ベルトから吊り下げた小物入れから剪定用の鋏を取り出した。
口笛を吹き、それに合わせて鋏をシャキン、シャキンと鳴らして拍子をとった。
  ──早く芽を出せ カキの種 出さねばはさみで ほじくるぞ──

"さるかに合戦"で蟹が歌った旋律が響き渡ると、それに恐れおののくように、樹はゆさりと大きく枝を揺らした。

  ──早く実がなれ カキの木よ ならねばはさみで ちょん切るぞ──

三郎は、背中を向けて歩き出した。
すると、ずるりずるりと樹は根を大地から引きぬいて、それを足のように使って、三郎について歩き出した。
三郎は図書館の入口に樹を配置すると、口笛を吹き続け、鋏を鳴らし続けながら、時が来るのを待った。
 
 
 
閉架書庫でぐったりとしていたオロカは、ピクリと指を動かした。
彼の首筋から血を吸っていたパイド・パイパーは、慌てて口を離した。
手を肌の上に滑らせると、にじみ出る血も傷跡も、跡形もなく消えた。

オロカは、ぼんやりとした様子で目を開けた。
「どうしたの? もっと、夢を見ようよ」
彼からは少年の姿に見えるパイド・パイパーが、オロカに革張りの書物を差し出す。
「あぁ……うん……後で」
オロカは開いたままの扉の隙間を見つめながら、ほとんど無意識に転がっていた刀をつかんだ。
そして立ち上がり、ふらふらとした足取りで歩き出した。
「待って、待ってよ! 外は、危ないよ!!」
パイド・パイパーは本を抱えたままオロカの前に回りこんだが、彼は足を止めなかった。
押しのけるようにして、前に進んだ。
 
 
 
「来たよ!」
暗示郎が図書館の中から飛び出してきた。
漂う匂いに三郎が暗示郎の手元を見ると、七輪に金網、その上でタレに漬け込まれた肉が焼けていた。
なんちゅうもので誘いだしてるんですか──とでも言いたげに三郎は眉をひそめたが、文句をつけている暇はなかった。

オロカがゆらり、ゆらりと肩を揺らしながら、歩いてくる。
その後ろから、暗示郎からはアリスに、三郎からはスナフキンに見えるパイド・パイパーが追ってくる。
タイミングをはかり、三郎は口笛を止めた。
不自然な角度で停止していた樹が、ドドドーンと倒れた。
轟音にオロカと暗示郎が振り返ると、パイド・パイパーは樹の下敷きになってもがいていた。
「すごいや三郎、こんなことできたんだ!」
暗示郎の賛辞に、三郎は首を横に振った。
「いや……たいして便利じゃありませんよ。
言う事を聞いてくれるのは、僕が育てたり、手入れをしたりした植物だけですからね」
「へぇ〜。それでもすごいって!」

「おい、大丈夫か……?」
オロカが少年に見えるパイド・パイパーへ緩慢に手を差し伸べようとすると、つかつかと歩み寄った三郎がその手をつかんだ。
「なに、するんだ……?」
「斬りなさい、オロカさん」
「えっ……?」
「貴方からどう見えるか知りませんが、これは有害なエフェメラです。化け物です。
貴方に取り憑いて夢を見させ、その隙に血をすすっていたんですよ!」
幼い頃の憧憬の対象を汚された私怨も混じっているせいか、三郎は語気を荒げた。
「……」
ぼうっ、としたままオロカは三郎を見やった。
「……嫌だ」
「オロカさん!」
「まだ、終わってない……まだ、夢を見ていたい……」
「最後まで見終わる頃には、死んでいますよ!」
「だったら、何だ……起きていたって、死んでるようなものじゃないか……」

バシッ、とオロカの頬が力いっぱい張られた。
「いい加減にしてください!」
左手をさすりながら、三郎は怒鳴った。
「オロカさん……ビルボも、アリスも、ドロシーも、みんな冒険が終わったら家に帰ってきたんですよ!
行ったら、帰ってこなければ駄目です! 帰ってこれないなら、行っては駄目です!
現実がどんなに辛かろうと、退屈だろうと!!」
「……」
しかし、オロカはまだ、ぽかんと呆けたままだった。
まるで、言葉が右から左へ通りすぎて行ったかのようであった。
「三郎。僕は、君の言いたいことわかるけどさぁ……。
今までろくに本とか読んだことないなら、オロカに例え話したってピンと来ないんじゃない?」
「……それも、そうですね……」
暗示郎の指摘に、三郎は頷いた。

「……」
三郎は、しばし考えこんだ。
口を開きかけて、それから躊躇うようにオロカから視線を逸した。
「……オロカさん」
視線を逸したまま、オロカの両肩に手をかけた。
「……卑怯ですよ」
ピクッ、とその言葉に反応して、オロカの頬のあたりが動いた。
「人の気を惹くだけ惹いておいて、自分一人だけさっさと幻想に逃げ込むなんて、卑怯ですよ」
顔を背けたまま、三郎は横目でオロカの顔を見やろうとして……見ることができなかった。
「帰ってきてください……オロカさん。お願いします……」

ぐっと、突然オロカが三郎の手首をつかんだ。
驚きに目を見開いて、思わず三郎はオロカを見た。
オロカは眉を吊り上げ、口元をひくつかせていた。
「おまえが言うな!」
「えっ……?」
「おまえだって、そのうち行っちまうくせに! おまえが言うな!!」
ぐいっと手を引かれて、三郎はよろめいた。
オロカは腕を広げて三郎の胴を受け止めると、全力でぎゅうぅぅぅっと彼を抱きすくめた。
「行かないでくれ、三郎! 俺を置いて行かないでくれ!!」

「……ッ!」
三郎は、恐怖の混じった表情を張りつかせ、全身を硬直させて虚空を見つめていた。
しばらくして表情を少し和らげ、困りましたねぇ、というように首を振った。
それから、ゆっくりと自分の胸に顔を埋めているオロカのツンツンした頭を見下ろした。
「貴方は……やっぱり、棚上げとかさせてくれないんです、ねぇ……」
ひくっ、ひくっとオロカはしゃっくりあげていた。
三郎は、遠慮がちにそっと再びオロカの肩に手を置いた。
慰めようとしているようであり、わずかに突き放そうとしているようでもあった。
「ごめんなさい……オロカさん。
貴方が幻想に逃げ込んだ原因は……僕にも、あったのですね」
「……馬鹿野郎……勝手すぎる……勝手すぎるんだ、てめぇは!
てめぇは行っちまうくせに、俺には帰ってこいとか! 勝手すぎるんだよ!!」
「すみません……本当に、ごめんなさい……僕は、身勝手な人間です……。
僕は、庭師である前に旅人で……。一箇所に留まって生きてはいけないんです……」
「わかってる! わかってるんだ、止められない、なんてことは!
ただ……言わせやがれ、この野郎ッ! 言わせない空気漂わせるんじゃねぇ!!
どうせガキっぽいって笑うんだろう! 笑いたきゃ笑えぇッ、こん畜生ぉッ!!」

ガタン!

大きな音に三郎が振り向くと、パイド・パイパーが身にのしかかっていた樹の幹を押しのけ、立ち上がっていた。
スナフキンが鋭い牙を剥く──反射的に三郎は飛び退こうとしたが、オロカに抱きつかれたままでは身動きが取れなかった。
「オロカ! 離し……」
言い終わる前に三郎は突き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。
オロカはダンッと踏み込み、刀を振り抜いた。
交錯──
突っ込んできたパイド・パイパーは、胸を真っ二つに切り裂かれた。

ギャアァァァッ!!

悲鳴があがった。
少年に──アリスに──スナフキンに見えていたそれは、瞬間、何百もの生き物の醜悪な部分だけをかき集めたような姿と化した。
そして、大気に溶けるように消えていった。

「……俺のダチを傷つけるんなら、夢なんかいらない」
呟くように口にしたオロカを、三郎は見上げた。
オロカは、まっすぐな目でパイド・パイパーが消えた空間を睨みつけていた。
「……オロカさん、あの……」
三郎は、倒れた勢いで吹っ飛んだ帽子を拾って、土を払いながら立ち上がった。
「なんだよ──」
──卑怯者、と続けようかとオロカは一瞬思ったが、やめた。
「……約束します。僕は必ず帰ってきます。だから……」

ぐぅぅぅぅぅぅ。

オロカの腹から、すこぶる大きな音が鳴り響いて、彼は顔を赤らめた。
二人が振り返ると、視線の先では暗示郎が網の上の肉をひっくり返していた。
肉の焼ける、理屈抜きにうずうずさせるようないい匂いが漂っている。
「あ、こっちのも焼けたみたいだけど、食べる?」
「……食べる」
オロカが答えると、きゅるるるる、と二回目の腹の虫が鳴いた。
「うんうん、そうだねぇ。
たいせつなのは、自分のしたいことを、自分で知ってるってことだよねぇ♪」
「そんなの、知ってるに決まってるじゃないか?」
「……ふぅ」
三郎は、小さく溜息をついて帽子を被り直した。
少しだけ、安堵が混じったような溜息だった。

「そういえば……」
ちょっぴり、鈍い痛みが残っていた。
焼肉を口に入れようとして直前で止め、オロカは三郎にぶたれた右頬をさすった。
「三郎、おまえ左利きだったのか?」
「え?」
「あ、そういえばさっき、左手でビンタしてたね」
暗示郎も続けて指摘すると、三郎はしげしげと自分の左手を見つめた。
「いえ……一応、両手利きです。元は、左利きですが。
ただ、右手を使うよう躾けられまして、今でも人前ではそうする習慣が染みついているんですよ」
「人前?」
今は人前じゃないんだろうか、とオロカは少し不思議に思った。
「まぁ……その、とっさに左手が出ただけですよ……」
ゴシゴシと、何かごまかすように三郎は左手をコートの裾でこすった。

「あぁ……うまいぃ……とけるぅぅ…………」
幸せそうに、オロカが肉を頬張った。
「カルビもいいけど、レバーもいっぱい食べなよ、オロカ。君、血ぃ吸われてるんだから」
「どれでもいいから、早く焼いてくれよ、早くー」
「さぁさ、三郎も食べよ♪ 焼肉パーティ突入〜♪」
暗示郎が取り皿を勧めると、三郎は苦笑を浮かべた。
「……サンチュがあるんでしたら」
「もちろん、あるある♪」
「……そうですか」
しぶしぶ、という素振りで三郎は七輪の傍に腰を降ろした。

スッ、と物陰に隠れて三人の様子を伺っていた者が、その場から離れていった。
 
 
 
三郎は背の低い本棚の前に立つと、片膝をついて一番下の段から一冊の本を抜き出した。
適当なページを開くと、恐ろしげなトゲトゲの大蜥蜴が、散らばる宝石の上に陣取っている挿絵が目に飛び込んできた。
三郎は、その下の文章に目を落とした。

  ──ムーミントロールとスナフキンは、がけの上にのりだして、のぞきこみました。
   すると、見えたではありませんか。
   おそろしい大とかげが、ガーネットの山の上に、うずくまっているのが。
   「ううむ」
   と、ムーミントロールはうめきました。
   スニフは、地面にすわりこんだまま、ないています。

   「すんだことだよ。ね、きみ」
   と、スナフキンがいいました。
   スニフは、しゃっくりあげました。
   「ガーネットが! ぼく、一つもとってこなかったよ」
   スナフキンはスニフのそばにこしをおろして、やさしくいいきかせました。
   「そうだな。なんでも自分のものにして、もって帰ろうとすると、むずかしいものなんだよ。
   ぼくは、見るだけにしてるんだ。
   そして、たちさるときには、それを頭の中へしまっておくのさ。
   ぼくはそれで、かばんをもち歩くよりも、ずっとたのしいね」
   「ガーネットは、リュックへいれられたんだ。
   見るだけと、手でもって自分のだと思うのとは、ぜんぜんちがうのに」

   スニフは、かなしそうにいってたちあがると、音をたてて、はなをかみました。
   それから、みんなはもの思いにしずみ、すこしばかりふさぎこんで、
   うす暗い谷間の中をひきかえしていきました──

三郎はにっこりと、旧友に向けるような笑みを帽子の下で浮かべた。
「お久しぶりです、スナフキン」
 




 
【パイド・パイパー】

【パイド・パイパー】

 エラー属
 
 
パイド・パイパーの名は、"子供達を楽しげな笛の音で誘い、山に空いた穴の向こうに連れ去った"というドイツの伝承"ハーメルンの笛吹き男"に語られる人物に由来する。
パイド・パイパーとは"縞模様の服をきた笛吹き"という意味であり、笛吹き男がそのように自らを称した言葉である。

パイド・パイパーは、本来、多種多様な生き物の醜悪な部分だけを合わせたような姿をしているが、その正体が明らかになるのは死亡時のみである。
生きているときは常に幻覚をまとい、見る者によってその姿は千差万別に異なって見える。
油断を誘うためという説が一般的であるが、見る者の好きな本(特に、幼児期に好きだった本というケースが多い)の登場人物に似せられる。
そして、パイド・パイパーは定めた標的に言葉巧みに近づくと本を渡し、読ませることで、精神を幻術で生み出した"異世界"に引きこむ。
それは視覚や聴覚だけでなく五感全てに訴えかけるリアルな幻覚で、犠牲者は本当に体験をしたように感じられるという。
なお、その内容は犠牲者の好みに合わせたものが作り出され、個々に異なるようである。

精神が"異世界"に落ち込んでいる間、無防備となった犠牲者の肉体からパイド・パイパーは血を吸い取る。
血は単に餌となるだけでなく、パイド・パイパーをしばらくの間いかなる攻撃によってもダメージを受けなくする。
元々のパイド・パイパーの身体能力はたいしたことはないのだが、この状態では筋力・俊敏性ともにかなり上昇する。
ほぼ不死身と言ってよくなるのだが、唯一の例外は犠牲者本人で、明確な"倒す"という意志さえあるなら、一撃で消滅させることができる。
命中しさえすれば方法は問わず、例えば石ころを投げてぶつけるだけでも構わない。
また、上昇した筋力も、犠牲者本人に対しては発揮することができず、非力なままである。
ただし、犠牲者は一度でもパイド・パイパーに血を吸われると、現実への興味を失ってしまう。
それは、血を吸ったパイド・パイパーを滅ぼすまで続く。
仮にパイド・パイパーの正体を第三者から伝えられても、犠牲者は現実に戻る事を拒否して、"異世界"に引き篭って楽しむことを選ぶケースが少なくない。
パイド・パイパーは数日〜十日間ほどに渡って血を吸い続け、やがて犠牲者が衰弱して死亡すると、次の犠牲者を求めて立ち去るようである。

対処法としては、犠牲者とパイド・パイパーと引き離し、血の効果が薄れるのを待ってから倒すのが有効である。
その場合、怪力を持つパイド・パイパーを閉じ込めて逃さぬための、何らかの方策をとることが必要となる。
別の方法としては、パイド・パイパーを捕獲ないし足止めして、その間に犠牲者を説得するのも不可能ではない。
しかし、上記で述べた理由から、成功例はごくわずかである。

 


【出典】

・サーカスのライオン/発行:ポプラ社作:川村 たかし 絵:斎藤 博之
・ハーメルンの笛ふき男/発行:童話館出版 作:ロバート・ブラウニング絵:ロジャー・デュボアザン 訳:長田 弘
・きりぎりすくん/発行:文化出版局 作・絵:アーノルド・ローベル 訳:三木 卓
・ホビットの冒険/発行:岩波書店 作:J.R.R.トールキン  絵:ポーリン・ベインズ  訳:瀬田 貞二
・月の沙漠/作詞:加藤 まさお  作曲:佐々木 すぐる
・ムーミン童話全集/発行:講談社 作・絵:トーベ・ヤンソン  訳:下村 隆一
・さるかに合戦/日本の昔話

第4章「楽園に火を放て(前編)」>>

水色の庭園
 
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