第4章「楽園に火を放て(前編)」





22.
 
三郎は、口笛を吹き、鋏を鳴らし始めた。
図書館の出入り口を塞ぐように倒れていた楓の樹が、根を踏ん張り、みしみしみしと音をたてて起き上がった。
そのまま脇を通り抜けていく三郎の後を、楓の樹がのしのしと歩いて追いかけていく。
楓の樹が生えていた場所まで来ると、三郎は立ち止まった。
楓の樹の根が、ずぶずぶと地面に潜っていく。
忌まわしいものでも見てしまったかのように、三郎は眉を寄せた。
「このまま留まり続ければ……根が生える」
三郎は、一歩後ずさった。
「早く逃げないと……根が生える」
三郎は、もう一歩後ずさった。
焦った様子でねじ込むように鋏を収め、片方ずつ足を上げてサンダルの底についた土を払った。
まるで、足の裏から根が生えていないかを確認するように。
三郎はトンッと地を蹴って樹の枝をつかみ、懸垂の要領で一気に身体を持ち上げた。
樹の枝に腰掛け、長い足を宙にぶらぶらとさせると、ようやく少し安心したように溜息をついた。
コートのポケットからハーモニカを出し、唇に当てる。
"月の沙漠"の旋律が、ひそやかに流れだす。

  ──広い沙漠を ひとすじに 二人はどこへ 行くのでしょう
   朧にけぶる 月の夜を 対の駱駝は とぼとぼと──

三郎はハーモニカを、人を目の前にして吹いたことは一度もなかった。
吹くのは一人で居る時だけ──ただ、自分一人への慰みだった。
終いまで吹きおえると、三郎はそっと呟いた。
「僕を理解できる人間など、この世のどこにいるのでしょう……。
僕自身でさえ、僕がわからないというのに……」
 
 
 
暗示郎は、風に乗って聞こえてきたハーモニカの音色に、ふと耳を傾けた。
「あれっ……誰が吹いてるのかな? ねぇ、オロ……カ?」
隣を歩いていたはずのオロカの姿が見えず、暗示郎は首を巡らせた。
「……」
オロカは五、六歩後ろで立ちすくんでいた。
ものも言わず、溢れる涙で頬を濡らしていた。
「どっ……どうしたの、オロカ!?」
「さ……っ」
オロカは、袖口で目を拭った。
「寂しい……寂しいよ……」
 
 
 
翌日、オロカは空いている時間を狙ってオープンカフェに足を運んだ。
ふんわりと甘い香りが流れてきて、くんっと鼻を動かした。
じゅわぁっ、と唾が口の中に湧いて出る。
「あれ、オロカ」
暗示郎が振り返った。
手には、チョコレートやらシュガーパウダーやらシナモンやらがたっぷりかけられたドーナツが入った籠を抱えている。
「……っ!」
じゅるっ、とオロカは口の端からこぼれそうになった涎をすすり上げた。
「……好きなの?」
暗示郎の問いかけに、オロカはぶるぶるぶるんと首を横に振ってみせた。
「そっ……そんなことは! 大の男が、食うようなものかっ!!」
そっぽを向いたオロカに、暗示郎はにこぉっと笑いかけた。
「ねぇ、これ注文間違って作りすぎちゃったんだけどさぁ、オロカ食べてくれない?
明日でも食べられないことはないけど、やっぱ味が落ちるしぃ。
舌の肥えたお客さんに食べさせられないよ。ねっ、助けると思って♪」
「そ……それなら……いいぞ」
暗示郎がさりげなく差し出した紅茶には目もくれず、オロカはガツガツとドーナツを頬張り始めた。
その表情や漏らした呟きをチェックしながら、暗示郎は"試食アンケート"と書かれた用紙にペンを走らせた。
「ふぐっ……なんだこれ?」
「きな粉だよ」
「キナコ? ん、ちょっと喉につかえるけど、結構いける……」
「オロカって、本当に幸せそうに食べるよねぇ……」
「べっ……別に、食べてりゃ幸せってわけじゃ、ないぞ!」
「ふふっ、そこまで言ってないじゃん」

「ねぇ、あれから閉架書庫に行ってみた?」
「……むぐ……いいや?」
暗示郎に問われて、オロカはきな粉ドーナツを飲み込みながら首を横に振った。
「僕は行ったよ。読んだことのない本がいっぱいあるんじゃないかと思って。
そしたらさぁ、ドア開けたら物置だったんだよ!」
「……へぇ?」
「つまりさ、閉架書庫自体がアイツの作った幻覚だったわけだね。
やぁ、考えてみたら、司書さんも居ないのに閉架があるわけなかったんだよね〜。
三郎も『司書も居ないのに閉架とか、何様でしょうかね』とかなんとか言っちゃって!
アハハハッ、三郎も気づいてなかったんだね!!」
オロカは、そもそも閉架書庫がどういうものなのか良く知らなかったので、何が面白いんだろうと思いながらセサミドーナツにかじりついていた。
しかし、次の話題はぽかんとして聞いていられるものではなかった。

「で、三郎といえばオロカ……あれは吹っ切れたの?」
「ん?」
「俺を置いて行かないでくれ〜って言ってたやつだよ……」
「……ん」
セサミドーナツをくわえたまま、オロカはしばし黙った。そして口を開いた。
「正直……行ってしまうのは、寂しいとは思う……いや、寂しすぎる……。
三郎の居なくなった後のことなんて……考えたくもない。
会ってからそう長いこと経ったわけでもないのに、なんだか居ることが当たり前になってしまった。
空気みたいな奴、と言えば普通は居るんだか居ないんだかわからないという意味なんだろうが、空気が無くなったら苦しいじゃないか。
……うぅん、何が言いたいんだかわからなくなってきた……」
「……そう。いや、うん、わかるよ、言いたいことは」
「でも……なんというか、口に出したら少しだけスッキリした、というか……」
「スッキリ……ねぇ」
暗示郎は眉間に指を当てて、難しい顔をした。
「言うほうはそれでいいんだろうけど……言われるほうはねぇ……」
オロカは、どきりとした。
うつむいて、苦い紅茶を一口すすった。
「わ……悪い事を、言ってしまったかな……」
「んん……いや、気にすることないよ。理性がブッ飛んでたんでしょ、あの時は。仕方ないよ」
「そ、それはそうなんだが……でも……」

ごにょごにょと言葉を濁しているオロカに、暗示郎はニッと笑いかけた。
「じゃっ。今夜も、三郎をご飯に誘おっか♪」
「……いいのかな?」
「遠慮してどうするのさ。寂しいんでしょ?
ヘンに避けるから、余計にぐちょぐちょ引きずっちゃうんだよ。
いっぱい話して、もうお腹いっぱいってなれば、笑ってバイバイできるんだよ☆
笑ってバイバイできれば、次に来る時まで、きっと待てるよ」
「そう、か……そういうものなのか。
でも……三郎は、本当に戻ってくるんだろうか?」
「……」
暗示郎は、もう一つカップを出して、自分の分の紅茶をティーポットから注いで口にした。
「三郎はねぇ、隠し事はいっぱいするけど、嘘の約束はしない人だよ。
よっぽど、他に何か重要な狙いがあるような場合は、まぁ別として。
約束したら守らないといけなくなるからって、最初っから軽々しく約束しないんだ。
言ったじゃん、『僕は必ず帰ってきます』って。あの後、きっと『待っていてください』って言おうとしたんだよ。
三郎が『帰ってくる』って言葉を使うだなんて。まして『待ってて』って言うだなんてねぇ、すごいことだよ。
それなりに付き合い長いけど、僕だって聞いたことないよ。
オロカ、それだけ三郎は君に『もう一度会いたい』って思ってくれてるんじゃないかな」
「そう……か」
オロカは、紅茶を顔をしかめながら飲み干した。
舌が痺れるような苦さ。
しかし、なんだか悲しい味だとオロカは思った。
「ふふっ、やっと全部飲んでくれたね」
暗示郎は笑った。
オロカはふと、ピエロの顔に描かれた一滴の涙を思い浮かべた。

「さって、何作ろっかな〜。
昨日は肉スキーのオロカに合わせて焼肉だったから、今日は日本食スキーの三郎に合わせて鍋にしよっか♪」
「鍋? 食べられる鍋……?」
「あぁ、調理道具のことじゃなくてね。
鍋に肉やら魚介やら野菜やら入れて、ぐつぐつ煮込むの。
スープにもいろんな味が染みでて、混ざり合って生まれるハーモニー♪ とおっても美味しいよ♪」
暗示郎の説明を聞いて想像しただけで、オロカはまた口の中に唾が湧いてくるのを感じた。
「そっ……それは、なんか、うまそうだな」
「うんうん。マロニーもあるよ。あと、カニカマをしゃぶしゃぶすると、意外に美味しいんだよね〜」
「マロニー? カニカマ?」
「食べればわかるって♪ みんなでつつこぉ〜☆」
「ん、けどな……」
オロカは首を捻って、ちょっとした心配事を問うた。
「三郎は、その……"皆でつつく系"の飯って、苦手なんじゃないのか?
昨日の肉料理の時も、なんか居心地悪そうにしてたような」
「ちっちっち。わかってないね、オロカ」
暗示郎は指を振ってみせた。
「だ・か・ら、面白いんじゃない♪」
「へっ……?」
 
 
 
三郎は半球の屋根で覆われた建物へと足を向けた。
来客を迎え入れて門番が扉を開き、三郎が通るとその背後で扉が閉められた。
水色の絨毯の上を、サンダル履きの足が踏みしめていく。
左右に十人のお付きが立ち並び、その奥にはマルセルがふわりと浮かんでいる。

「どうなさったの、三郎?」
三郎は、うやうやしく一礼した。
「実は……お暇を頂きたく存じます」
「暇? まだあなたの仕事は終わっていないんじゃなくて?」
「えぇ、確かに。最低限、僕でなければできないようなところは済ませておきましたが。
僕の都合でのことですので、報酬はお約束の半分で結構です。
この埋め合わせは──次回立ち寄らせて頂いた折も庭をお預けくださるならば、その時は必ず」
「……どうして?」
「私用です。今夜にでも発とうと思います」
それ以上聞くなと言わんばかりに、事務的に言い切った。

「これ以上居ると……根が生えるから?」
ぎょっとした顔をして、三郎は視線を上げた。
マルセルは、微笑んでいた。
「根が生えて、どうして悪いの、三郎。
気に入った場所に、居続けたいと感じる。それは、自然なことよ。みんな、そうしてきたわ。
そろそろ、腰を落ち着けたら? 私たちは、歓迎するわ。
あなたが手を入れた庭園は、輝くように美しくなったわ。
そして、それを見たみんなも、とても嬉しそうに笑っていたわ。
あなたは、"ここ"に必要なのよ」
「それは、何度もお断り申し上げたはずです」
「えぇ、何度もお願いしたわ。そして、そのたびに断られた。
でも、前とは違うわ。あなたは変わったの。みんな、そう言ってるわ」
「変わってなどいません。
……いいえ、表面的にはいくらか変わって見えるかもしれませんが。
本質的には、僕は何も変わってはいません」
「それは、あなたが気づいていないだけ」
「僕のことを一番知っているのは、僕です。貴方に、何がわかるというのですか?」
「あなたは……"ここ"に、居たがってるのよ。本当は」
「違います」
きっぱりと、三郎は首を横に振った。
「僕は、"ここ"から逃げ出したい気持ちでいっぱいなのです」

「三郎が……」
マルセルが、高々と手を上げた。
「……"ここ"に居たがってると、思う人!」
「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」「はい」
十人のお付きは、挙手しながらすっと足を動かした。
自分を、取り囲もうとする動き──瞬間、それと察知した三郎は、タンッと床を蹴った。
空中でくるりと逆さになると、そこに足場があるかのように宙を蹴った。
疾風のように、三郎は飛んだ。
素早くとんぼを切って、扉の前に降り立った。
その勢いのままに、扉を開閉するレバーを押し下げようとする──が、ガチッと硬い音を立てただけで、それはびくともしなかった。
三郎は顔をしかめ、慌ただしく視線を巡らせた。
前に彼が訪れた時にはいくつか置いてあった、鉢植えの大型観葉植物が無くなっていた。
「今日は、この部屋には置いていないわよ、三郎」
足止めに使おうとした三郎の考えを見透かしたかのように、マルセルが告げた。
「ねっ……みんな言ってるわ。あなたは、"ここ"に居たがってるんだって」
急に息苦しさのようなものを覚えて、三郎は喉元に手を押し当てた。
「僕の勘も、鈍ったものですね……踏み込む前に、気づくべきでした。
いや、それ以前に挨拶などせずに立ち去るべきでしたか……」

「今夜にでも発つ……」
マルセルは、三郎の言葉を繰り返した。
「あなたが時空を"渡る"ことができるのは、やはり夜だけだったのね。
あなたが居なくなるのは、いつも夜だったもの。それも、私の記憶に間違いが無ければ、いつも晴れた夜だったわ」
「失言でしたかね。よく、覚えていましたね……。
生まれつき高い適性を持つ者や、もっと力のある術者ならば、条件などないのでしょうが……」
三郎は逃げるのを諦めて、答えた。
下手に抵抗して傷つけられるより、交渉に活路を見出す方を選んだのである。
マルセルは、鍵を閉めよなどと門番に命じては居ない。
ならば既に「三郎が次に来たら、閉じ込めるように」とでも命じてあったか、あるいは何らかの合図でも決めてあったことになる。
と言うことは、たとえこの扉を突破したとしても、第二第三の備えがあることは容易に推測できることであった。
「例えば、あなたのお兄様のように?」
「本当によく、ご存知で……」

同じような顔形。同じような頭髪。同じような服装。
十人のお付きが、退路の断たれた三郎を半円状に取り囲んだ。
集団というものに若干の苦手意識がある三郎ならずとも、圧迫感を覚える光景である。
動揺を押し隠して、三郎は営業用の微笑を列の奥に浮かぶマルセルに向けた。
「草木一本無い部屋に庭師を閉じ込めて、何をさせようというのです?
僕は、庭仕事以外には何の芸もありませんよ?」
常人離れした動きを見せておきながら、しゃあしゃあと言い放った。
「えぇ、そうね。ここでは仕事をしてもらえないわね」
マルセルは頷いてみせた。
「だから、ひとつ賭けをしましょう」
「賭け、ですか? あまり好きではありませんがねぇ」
「難しいことじゃないわ」
マルセルは、空中に両手を差し伸べた。
ふっ……と、新しい良心ロープがその手の上に現れた。
「これを首に結わえつけて、ほどくことができたら、"ここ"から出してあげる」
「それなら、初めてお会いした時に試したではありませんか。何度やっても、無駄ですよ」
「えぇ、試してもらったわね。あなたは、いとも簡単に結び目をほどいてみせた。そして、言ったわ。
"僕を縛りつけておける者など、この世のどこにも居ませんよ"……って」
「はい。その通り、申し上げました」
「でも、あなたは変わったわ。だから、私は今度はほどけない方に賭けるわ」
「……」
「僕は何も変わってはいません、ってあなたは言ったわよね。
変わっていないなら、試せるはずでしょう?」
「……」
つぅっと一筋の汗が、額から鼻筋の脇へと流れ落ちていった。
三郎は、帽子のつばの角度を直す振りをして、それを手で遮って隠した。

マインドパペット1.5 水色の庭園
23.
 
オロカと暗示郎は、そろそろ三郎が仕事を終える頃合いを狙って、夕飯に誘いに出向いた。
しかしその姿はなかなか見当たらず、夕闇が深まろうとしていた。
「おっかしいなぁ……どこ行っちゃったんだろ」
「なぁ……暗示郎」
オロカは不意に嫌な予感に襲われて、暗示郎に声をかけた。
「なに?」
「三郎って、"皆でつつく系"の飯が苦手、なんだよな?」
「それっぽいけど?」
なんでまた同じ事を聞くんだろうという顔をして、暗示郎が首を傾げた。
「肉も、たいして好きじゃなさそうだよな?」
「嫌いってわけじゃないみたいだけどね」
「それに、体調もあまり良くなかったんじゃないか?」
「……良く分かったね。胃が痛いとか言ってたけど」
「じゃあ、なんで昨日は肉食ったんだ?」
「そりゃ、雰囲気に流されたというか……」
「それだけか?」
「ん?」
一瞬口に出すのを躊躇ったが、オロカは言った。
「あの、な……。"最後だから付き合ってやろう"ってつもりだったってことは、ないか?」
「……」
暗示郎の顔から、表情が消えた。
「オロカ、行こう!」
「どこへだ?」
「三郎の部屋だよ。まだ、旅支度とかしてるかもしれない!」
「そ、そうか。よし、行こう!」
先に着いた暗示郎が、呼び鈴を鳴らしていた。
オロカはそれを一瞥し、早足に建物の脇へ回った。
ガラス窓越しに見えるカーテンからは、明かりは漏れていなかった。
「ん……?」
オロカは、暗がりに目を凝らした。
窓の傍で、ふわりと何か細いものが動いた気がして、近づいていった。
「オロカ、どうしたの?」
ひょい、と背後の角から暗示郎が顔を出した。
オロカは指さした。
ダンボールで穴を塞いだ窓。
隙間が開き、そこから良心ロープが外へ伸びて、風で揺れていた。
「まさか、泥棒……?」
暗示郎が呟き、足を止めた。
「この臭い……!?」
オロカは呟き、走りだした。
中に居るのが誰かはわからなかった。
しかし、オロカの嗅覚が警報を鳴らしていた。
オロカはガラッと窓を開け、窓枠に手をかけて地を蹴り、一気に飛び込んだ。

「三郎ッ!」
三郎が、ベッドの上で横向きにぐったりとしていた。
シーツや口元は吐瀉物で汚れており、床に転がった瓶からは零れた酒が広がっていた。
周囲にはおびただしい数のPTP包装──薬の錠剤やカプセルを包むものが散らばっている。
「三郎、しっかりしろ! どうしたんだ!!」
オロカは三郎の肩に手をかけ、揺すった。しかし、反応はまるで無かった。
声を聞いて駆けつけ、窓から覗いた暗示郎が息を飲んだ。
「ふ、服毒自殺?」
「自殺ッ!? なんで、そんなッ!!」
「医者! 医者呼んでくる!!」
「いや、運びこんだ方が早い!」
オロカは三郎を抱え上げ、窓から飛び降りた。
「暗示郎! 先に行って、医者に準備させ……」
オロカは言葉を詰まらせた。
とても見慣れた、しかし決して見たくないものを見てしまった。
三郎の首に、良心ロープがくくりつけられていたのである。
「なっ……なぜ!? なぜ、おまえが……」
オロカは思わず、その結び目に手をかけた。
しかし、結び目は元からひとつの塊であったかのように、いくら指に力を込めても全くほどけなかった。
オロカ自身の首にあるものと、同じように。
「オロカ! それより、早く!!」
オロカは頭が真っ白になりながらも、暗示郎に促されて三郎を抱え直した。
 
 
 
「逃げるなって……言ったじゃないか」
薄暗い廊下で椅子に腰掛け、オロカは呟いた。

「現実がどんなに辛かろうと、退屈だろうと……
帰ってこれないところに逃げちゃいけないって……言ったじゃないか……三郎……」
 
 
 
どれほどの時間が経過したか──
「……オロカ」
暗示郎に肩を叩かれて、オロカはゆっくりと視線を上げた。
暗示郎は笑みを浮かべた。しかし、明らかに作り笑いとわかってしまうような、不自然な笑い方だった。
「大丈夫、助かる……まだ意識は戻ってないけど、命には別状ないって。
もう少し遅かったらヤバかったかもしれないって言ってたけど、間に合ったんだよ……君のおかげだね」
しかし、そう聞いてもオロカの表情に安堵の色は浮かばなかった。
肩を落としたまま、再び目を伏せた。

オロカは、自分の首に巻きついている良心ロープを、ぐっと握りしめた。
「……俺の、せいか? 俺が、あんなことを言ったから……
だから、こんなものに縛られて……それで……それで絶望して……」
暗示郎は首を横に振ってみせた。
「オロカ。三郎が、人に何か言われたくらいで、考えを変える人だと思う?
そりゃあね、三郎は良くも悪くも大人だから……
敵を作らないように巧く立ちまわって、言うことがコロコロ変わったりはするよ?
でもね、こと自分の生き方については……あぁ見えて、呆れるほど頑固な人だよ」
「……」
「だから……縛られるような人じゃなかったのに、縛られるようになったとすれば……
それは、三郎自身が変わったんだよ……君のせいじゃない」
「……いや……いや!」
オロカは、自分の腿に拳を振り下ろした。
「俺のせいだ……!」
「いや、だから……」
「俺のせいだ! 仲良くしちゃ、いけなかったんだ!
どうして……どうして、そんな簡単なことに気づかなかったんだ、俺は!!」
「オロカ……」
「うるさい! ほっといてくれッ!!」
「……わかったよ。君にゃ、一人になる時間が必要そうだね……」
暗示郎はオロカを残して、廊下を歩いていった。

暗示郎は、ドアを開けて中を覗き込んだ。
白衣の男性が、背中を向けて胃洗浄に使った器具を片付けている。
「ドクター。明日また、見舞いに来るんで……とりあえず、帰ります。あと、お願いします」
「あぁ、わかった。着替えとか、持ってきてやってくれ。
それと……調べたら、薬品庫が盗みに入られていたようだ。
たぶん、この患者の仕業だろう。私の管理不行届だった、すまなかった」
「いやぁ……僕に謝られても」
苦笑して、暗示郎は頭をかいた。
「あ、ドクター。貴方の国じゃ法律がどうなのか知らないけど、ベッドに縛り付けたりしても文句は言いませんから。
三郎はものすごく身軽で足が速いから、落ち着くまでそうしといたほうが安全かも」
「そうかい。考えておくよ」
作業の手を止めぬままに、医師は頷いた。
「やりたくはないが。始終見張っていられる人手は無いし、それも仕方ないかもしれんね」
 
 
 
オロカは一人、図書館に入っていった。
低い本棚の前で立ち止まり、一冊の絵本を抜き出した。
ちょっととぼけたようなライオンの表紙絵が、彼を出迎えた。
ゆっくりと、ページをめくった。

  ──だしぬけに サイレンが なりだした。
   「火事だ」
   と、どなる 声が した。
   うとうとして いた じんざは、はねおきた。
   風に ひるがえる テントの すきまから 外を みると、
   男の子の アパートの あたりが、ぼうっと 赤い。
   ライオンの からだが ぐーんと 大きく なった。

   じんざは ふるくなった おりを ぶちこわして、まっしぐらに 外へ はしりでた。
   足のいたいのも わすれて、むかし、アフリカの 草原を はしったときの ように、
   じんざは ひとかたまりの 風に なって すっとんで いく──

オロカは、カッと火が燃え立つように、胸が熱くなるのを感じた。
──このライオンのように、誰かのために戦いたいと感じたのは嘘か、俺? いいや、嘘じゃない。
誰かを守りたいと思ったなら、まっすぐに走っていくべきだ。まっすぐ、前だけを見て。
「落ち込んでる場合じゃない……」
オロカは絵本を閉じ、胸に抱きしめて、ぎりっと天井を睨み上げた。
「三郎を、助けなくては……!
そうだ……俺のせいなんだから、俺が、助けないと、いけないんだ!!」

「三郎を……ここから逃してやらなくては……!」
マインドパペット1.5 水色の庭園

24.

 
オロカは絵本を本棚に戻すと、これからどうすべきかと考えながら、ぐるぐると歩きまわった。
足元に気が回らず、良心ロープに引っかかって転びかけた。
「あぁ、もう!」
癇癪を起こして良心ロープを蹴りつけ、ぐりぐりと踵で踏みにじった。
「そういえば……こいつは、どこに繋がってるんだ?」
ふと疑問が浮かび、オロカは呟いた。
なんとなく"魔女"に繋がっているようなイメージを持っていたが……
もしそうだとするなら、何百人もの人間が好き勝手に動きまわれば、いくら幽霊とはいえ振り回されそうだ。
確かめてみるか。うまくすれば、何も庭園全てをぶち壊さなくとも、根元だけ破壊すれば済むかもしれない。
オロカはそう考え、図書館の備品から懐中電灯を持ち出し、良心ロープをたどって外へと歩き出した。
夜闇の中とはいえ月明かりに加えて懐中電灯の光があり、夜目のきくオロカにとって、さほど歩くのに不自由はなかった。
しかし、その暗さが想像力をかきたてる。
この先に、とんでもない化け物が居たりしたらどうしようか……。
オロカは、担いだ刀の柄をぎゅっと握りしめた。
暗示郎を誘おうか──とも考えたが、真夜中のことである上、先程自分がとってしまった態度を思うと躊躇われた。
 
 
 
良心ロープは建物群を離れ、森の中へと続いていく。
葉陰がどんどん濃くなり、月明かりが遮られて暗さを増していく。
一本、二本、三本と、どこかに居る他人に繋がっているのであろう良心ロープが、宙を漂っているのが目に入る。
しだいにそれは数を増してきて、またいだり、くぐったりしながら先へ進む。
そうして歩いて行くと、急にぽっかりと穴が開いたような、木々の無い空間に出た。

地面に、頑丈そうな金属でできた両開きの大扉が、上向きに設置してある。
扉の真ん中には穴が空いており、無数の良心ロープがいったん高く上がった後、束を成してその中へ吸い込まれている。
まるで、巨大なイソギンチャクの足元に立っているかのような光景であった。
オロカはおっかなびっくり扉の上に足を置き、体重をかけても何も起こらないのを確認した。
その後、ゆっくりと扉の穴に近づいてみたが、揺らめく良心ロープが邪魔でその奥は見えなかった。
オロカは意を決して刀を置き、懐中電灯についていた紐を首にかけると、扉を閉ざすカンヌキを外した。
そして扉に両手をかけ、渾身の力を奮って、ずしりと重い扉の片面を持ち上げた。
オロカの身長分だけ、隙間が開いた。
扉を左肩に乗せて片手で支え、刀を持ち直すと、懐中電灯の光を奥へ向けた。

何かが、闇の底で蠢いていた。
オロカは、壁面すら見えぬ巨大な空洞に目を凝らし、そして息を飲んだ。
マルセル──何十──いや、何百? ひょっとしたら、光が届かないだけのことで、何千?
おびただしい数の、マルセル。
一人一人の境界は曖昧で、どろどろと溶け合ってくっつき、動いてはにゅるりと歪んで伸びた。
オロカは総毛立って、思わず後ずさった。
彼が支えていた扉が、自重で落ちかかる。
しまった、音を立てれば注意を引いてしまう──そう思い、手を差し出してそれを止めようとした時、突然跳ね上がるように扉が開いた。
大量の液状化マルセルが溢れ出し、あっという間にオロカの腰から下を包み込んだ。
逃げようにも、粘度が高く生温かいそれが足をとらえて離さない。
「う……わっ!」
反射的にオロカはマルセルの一人に向かって刀を振るったが、ずぶりと刀身が潜っただけで血の一滴も出なかった。
まるで、練った水飴にスプーンを突っ込んだ時のような手応えだった。
慌てて刀を抜こうとしたが、今度はねばっこく絡み付いて、いくら力を込めても抜けない。
液状化マルセルがぐぐぐっ、とせり上がり、首の高さまで一気に飲み込まれ、足が浮いた。
焦りが更に増した。このままでは息ができなくなると、彼はもがいた。
しかし、ねっとりとしたものに取り込まれた手足は自由にならず、ずぶずぶと身体が沈んでいくのを止められなかった。

頭の先まで飲み込まれ、全身を生温かく柔らかい感触に包まれた。
ぎゅっと目をつぶったオロカの耳に、押し寄せる波のように、優しげな囁き声が聞こえた。
「わたしはあなた」
「あなたはわたし」
「わたしはあなた」
「あなたはわたし」
「わたしはあなた」
「あなたはわたし」
誘われるように、ゆっくりと、堅く閉じていたまぶたを開いた。
いくつもの水色の目が、数センチと離れぬ至近から自分を見ていた。
「さぁ、ひとつになりましょう」
「ひとつになりましょう」
「ひとつになりましょう」
「ひとつになりましょう」
「ひとつになりましょう」
何故か、オロカの焦りや恐怖が、甘美な毒で麻痺したかのように薄らいでいった。
奇妙に、心地良いのである。
自分が溶け出して、おおきく、あたたかい"何か"と一体になっていくような。

……あぁ、もうどうでもいいや。
オロカは抵抗をやめて目を閉じ、"何か"に身を委ねた。
母親の胎内に帰ったような、どこか懐かしいぬくもりにたゆたい、彼はまどろんでいた。

ふと、脳裏に一人の男の影がよぎった。
……いや。
オロカは目を見開いた。
ふつふつと、熱いものが胸の奥から湧いてきた。
ここで"俺"が消えたら、三郎はどうなる? だれが、あいつを助けるんだ?
あいつは、ここじゃ生きていけない。
ちょっとの間、留まるだけならできても、ずっと暮らしてはいけない。
また死を選ぶか?
それとも、自分を殺して、愛想笑いを浮かべて、オープンカフェでくだらない話をしてケーキをつついている連中と同じようになって生きていくのか?
──嫌だ。
そんなあいつは、見たくない。絶対、見たくない。

「違う! 俺は、俺だ! おまえじゃない!」
オロカは、叫んだ。
「わたしはあなた」
「あなたはわたし」
なおも、声が彼の意志を取り込もうとする。
「違う! おまえはあいつを救えるのか! 救おうともしないくせに! 繋ぎとめて離さないくせに!
だったら、おまえは俺じゃない!! 俺が、あいつを助けるんだ!! あいつを助けたいのが、俺だ!!」
オロカは、叫んだ。
肺の中の空気を全て絞り尽くしても構わぬとばかりに、叫び続けた。
やがて、気が遠くなった。
 
 
 
「……オロカ。……オロカ」
呼び声に、オロカは顔をこすりながら目を開いた。
夜明けの光が、まぶしかった。
目をしばたたかせ、明るさに慣れると、オロカはそこにマルセルが浮かんでいるのに気づいた。
ぎょっとして、跳ね起きた。
しかし、あのどろどろと溶け合っていた無数のマルセルではなく、一人のマルセルであった。

「あなた、ここを開けたの?」
マルセルは指さした。
示された先では、持ち上がっていた扉の片面が閉まり、カンヌキも元通りになっていた。
「……ふん。立入禁止とは、書いてなかったぞ」
オロカが皮肉を言うと、マルセルは首を横に振ってみせた。
「いえ、責めてるんじゃないの。
ここを開けた者は、誰一人として"戻って"これなかったのに……よくもまぁ、"自分"を保っていられたわね」
マルセルの口調は半ば呆れ、半ば感心しているようであった。
オロカは黙って、落ちていた刀を拾って抱き寄せた。
褒められてはいるようだったが、何も嬉しくはなかった。

何も、できなかった。あんな途方も無い相手を、どうしたら倒せるのか。
焼くとか? 三郎達がサビシ草の実を焼き殺したように。
いや、刀よりはマシかもしれないが、ちっぽけな炎など燃え広がる前に飲み込まれ、もみ消されてしまうだろう。
大海に松明一本投げ込んだところで、いかほどのものか。
オロカは考えれば考えるほど、己の無力感にさいなまれた。
──せめて俺に、ドグマのような力があれば──。

「ねぇ、オロカったら」
「うるさいな!」
「もぅ……」
噛み付くようにオロカが声を荒げると、マルセルはちょっと拗ねたように、腰に手を当て唇を尖らせた。

「あぁ、そうそう……」
マルセルは急に、にこっと笑った。話題をそらそうとしたようだった。
「ねぇ、三郎には会ったかしら?」
オロカは視線を伏せたまま、顔をこわばらせた。
「まだなの? あの人、ここで暮らせることになったのよ。
良かったわね。一緒に居たかったのでしょう?」
「俺の……」
オロカは全身に怒りをみなぎらせて、ゆらりと立ち上がった。
「俺のために三郎を縛りつけてやったみたいに、言うな!」
「何を怒ってるの、オロカ?」
マルセルは、全く理解できないと言いたげに、小首を傾げた。
「三郎と、別れたくなかったのでしょう?
良かったじゃない。あなたの望みどおりになって」
「黙れ!!」
オロカは血を吐くように怒鳴った。
「貴様が無理矢理、縛りつけたせいで!
そのせいで、三郎は! 絶対に逃げちゃいけないところに、逃げようとまでしたんだ!!」
「絶対に、逃げちゃいけないところ……」
マルセルはオロカの言葉に事態を悟ったらしく、眉をひそめた。
「そう…そうなの……」

「でもね、オロカ。
三郎も含めて、私は一度だって無理矢理に相手を押さえつけて首に良心ロープを巻いたことなんて無いわ。
それはね、一種の"契約"だからなの。
相手が自分の手で良心ロープを結ばなければ、効果が発揮されはしないのよ」
責任逃れともとれるマルセルの言葉が、オロカの怒りを更に煽った。
「だから何だ! 貴様のことだ、どうせそうせざるを得ないように三郎を追い込んだに決まってる!
俺にした時だって、そうだったんだからな!!」
「否定はしないわ。
でも、三郎に"誰かと繋がっていたい"という思いが芽生えなければ、良心ロープの結び目がほどけなくなる事はなかった」
ずきり、と罪悪感の棘がオロカの胸に突き刺さった。
「三郎は、変わったの。みんな、そう言ってるわ。
変化したのなら、それを受け入れるべきなの。みんな、そう言ってるわ。
ちょっと、変化した自分に戸惑っているだけなのよ、三郎は。
順応力には、個人差というものがあるわ……あなたが、なかなか"ここ"に馴染めなかったようにね。
でも、きっと時間が解決してくれる……あなたが、いつのまにか"ここ"に馴染んだようにね……」

「……みんな、かよ……」
罪悪感の痛みが怒りに転化し、胸の内の炎をいっそう激しく燃え立たせた。
「みんな!みんなって、いつだって貴様は!!
悪いのは俺だ、三郎だ、みんなだ、私じゃないのって、そう言いはるのかッ!!」
「別に、悪いだなんて言ってな……」
「うるさい! それ以上、責任転嫁するな、卑怯者!!」
オロカはマルセルを睨みつけ、指を突きつけた。
「いつだって、みんなみんなって、責任がどこにあるか曖昧にして!
結局は、自分一人に責任が降りかからないように立ちまわってるだけだろッ!
そのくせ、自分の思い通りになるように、巧く巧く事を運びやがって!
自分が逃げてるってわかってる三郎より、よっぽど卑怯だ!!
自分がエゴイストだってわかってるドグマより、よっぽど自分勝手だ!!」
「そんな、酷い……私には、そんなつもりはないわ……お願い、わかって」
マルセルは媚びるような薄笑いを浮かべて、オロカを見つめた。
オロカは容赦せず、言葉を重ねた。
「たとえ原因の根っこが三郎から生えてようと、関係ない!
貴様がその根っこを利用して、三郎が縛りつけられるように仕向けたんだろうが!
貴様が自分の都合のために、三郎の意志を踏みにじってるってことに、変わりあるものか!
貴様だって本当はわかってるくせに、見えない振りするな!! てめぇ自身に、嘘つくなッ!!」

「……だったら、何?」
マルセルの顔から表情が消え、ひどく冷めたような口調でそう言った。
いつも高く、明るい声が、妙に低く響いた。
ふわふわと浮いたまま、マルセルはオロカを見下ろしていた。
憎悪をぶつけ、怒鳴りちらしたオロカは、はぁはぁと息を荒げていた。
しばらくの間、立ちつくしたまま息を整え、胸の内を焦がす炎が収まるのを待った。

ガチャン。

投げ捨てられた刀が、大きく金属音を立てた。
オロカはその場に膝をついて伏し、額を硬い扉の表に叩きつけた。
「なっ……」
いきなり土下座をしたオロカに、マルセルは驚きをあらわにした。
「頼む。三郎を、逃がしてやってくれ! 頼む!!」
「ちょっと、あなた……何、やってるの?
自分を"ここ"から出せって言ってきた時だって、そんなには……」
「俺のことなんか、どうだっていいんだ!!」
オロカは額を扉にすりつけたまま、拳をそれに叩きつけた。
「どうしても庭師が必要だって言うなら、俺が勉強して庭師になるから!
そりゃ、三郎ほどいい庭師にはなれないだろうが、頑張って近づくから!
本当は、俺だって三郎と別れたくなんかない!
でも、三郎が三郎でなくなってしまうより、ずっとマシだ!
俺は……俺は、自由な三郎が、好きなんだ!!」
溢れた涙が、逆向きに額を伝い落ちた。

「……悪か…った、わ……私、が……」
ぎこちないマルセルの言葉に、オロカは何度も何度も袖で目元を強く拭ってから、顔を上げた。
涙など、マルセルには絶対見られたくなかったのだ。
額から、じわりと血がにじんで滴った。
「申し訳ないことを、したわ……」
マルセルは、もう一度謝意を口にした。
悲しそうな顔をしていた。
「でも……私には、できないの。
したくない、という意味ではないの。
仮に『解放してあげたい』と思ったとしても、そのための力を私は持っていないの。
一度結んでしまったら、もう……駄目なのよ。私には……どうしようも……」
「そんな……」
オロカは頭を抱えて、再びうずくまった。
そんな彼から逃げるように、マルセルはふわっと上空に浮かびあがって、立ち去った。
マインドパペット1.5 水色の庭園
25.

 
暗示郎はノックし、返事がかえってくるのを聞くとドアを開けた。
「ドクター。どうですか、三郎は……?」
「あぁ、アンジェロ君……」
書き物をしていた医師は、顔を上げて振り向いた。
「もう安定して自発呼吸もできるようになったから、人工呼吸器は外したよ。今は、普通に眠っているだけだ。
腎臓や肝臓に負担はかかってるが、幸い、障害が出るほどじゃなかった。無理は禁物だがね。
嘔吐していたとのことだったけども、それが無かったら最悪、腎不全になってたかもしれないな」
「そうですか。よかった」
「あと問題といえば、血圧がかなり低いってくらいだな。投薬はしてるんだが」
「元から低血圧っぽいですけど、関係ないですかねぇ?」
「さて、まぁいくらか個人差はあるもんだ。量を増やせばじきに効いてくるだろう。
一応……縛ってはあるが、こっちが見てない間に目を覚まして"再発"したり、抜けだされたりすると困るからってだけだから……。
輸液に気をつけてさえくれれば、外してくれても構わんよ。まともに走ったりできる状態でもなし」
「はぁい、わかりましたァ」
暗示朗はペコリと頭を下げて持参した紙袋を抱えなおすと、病室へと向かった。
 
 
 
病室の前まで来ると、ドアの隙間から良心ロープが伸びているのが見え、暗示朗は改めて溜息をついた。
小さくノックをし、反応がないのを確認すると、暗示朗は静かにドアを開けた。
部屋の中は静まりかえり、ただスタンドにかけられた点滴の液だけがポタッ、ポタッと落ちていた。
三郎は、胸から下を布団で覆われて、ベッドに横たわっていた。
だらりと投げ出された細長い両腕。手首が、ベッドの柵に縛りつけられているのが見える。
暗示朗は足音を忍ばせてベッドの足元に近づき、まず布団をめくりあげて足首を縛りつけていた紐を解いた。
次にベッドの側面に回って右手首の紐を解き、それから点滴の管に触らないように注意しながら左手首の紐を解きにかかった。
ふと、暗示朗は顔をあげた。
三郎が、薄く目を開けていた。
「あっ……ご、ごめんね!」
暗示朗は、慌てて紐をポケットに押し込んで隠した。
しかし、見られた──というより、三郎の目には何も映っていないかのようだった。
「大丈夫? 痛いとこ、ない? あ、トイレとか行きたくない? 行きたいんなら、付き合うけど」
三郎はそれに答えず、自由になった右手を半ば引きずるようにゆっくりと動かすと、自分の首元を探った。
良心ロープが、その指に触れた。
何ひとつ表情を浮かべぬまま、三郎は乾いた唇を動かした。
「ままならない……ものですね」
「え?」
「死ぬか、これが外れるか、どちらかになると思ったのですがね……」
「そっ、そんな、賭けでもしたみたいな……」
「賭けましたが、それがなにか? どうやら不成立だったようですが……」
「なにか?じゃないよォ……心配したんだからね?
僕はともかく、オロカの落ち込みようったら、見てられなかったよ」
「……」
「そんなこと言ったら、アイツにブン殴られるよ?」
「……」
興味などない、とでも言うようにそっけなく、三郎は目を閉ざした。
「殴りたければ、殴ればいいじゃありませんか……ご勝手に」
「三郎ッ!」
「……」
珍しく暗示朗が声を荒げたが、三郎は構う素振りも見せなかった。

「出て行って、もらえますか? 人の声を聞きたい気分ではありません」
うっとうしそうに、三郎は言った。
「そう言われたって、放っておけないよ」
「別に、またやるつもりとかはありませんよ。
成立しない賭けをしたって、意味がありませんから」
「……っ」
「信用できないと言うなら、縛ればよろしい」
「……怒ってるの? 縛ったこと。
ごめんよ、目が覚めた時に君が何するか、わからなかったからさ……」
「いいえ……」
かすかに、重たそうな頭を振った──というより、揺すった。
「既に縛られているのですから、何本か増えたところで、別に……」
「三郎、あのさぁ……」
「聞こえませんでしたか? 貴方と話をしたくなんか、ないんです」

暗示郎はしばらく思案してから、再び声をかけた。
「三郎、その、君……形から入ってるの?」
「……」
暗示郎の問いかけに、三郎はほんのわずかに片頬を動かした。
「何にも関心を持たなくなれば、良心ロープから逃れられるかもと思って、まず関心を示さないようにしようっての?」
「……」
「そう……」
沈黙を肯定と受け取って、暗示郎は頷いた。

「なら……止めないよ。やってみると、いいよ。
それで本当に逃れられるかもしれないし、だったら君を振り向かせようってのは、僕の我がままだ。
オロカが戻ってきたら、アイツにもそう言っておくから」
「……」
「でも、君のことを心配しないっていうのは、できないよ。
それは、僕が勝手にやってることだから、君は気にしなくていい。
借りを返さなきゃとか考えたり、それ以前に恩義とかそういうの感じたりとか自体、一切いらない。
そんなの、僕にとっても邪魔っけなだけだしぃ〜」
「……」
「どうせその様子じゃ、だるくて面倒くさくて、な〜んにもやる気出ないんでしょ?
僕のこと、杖とか介護用ロボットとかだと思って、身の回りのことぜ〜んぶ、丸投げしちゃえばいいよ。
声聞きたくないなら、必要最低限のこと以外は、口きかないからさぁ」
「……」
「それは……『勝手にすればいいじゃありませんか』とは、言えないかな?」
「……」
三郎は、けだるそうに寝返り未満の身じろぎをした。
「……勝手に……すれば、いいじゃありませんか……」
受け入れたというより、断るのが面倒くさい、といった様子で三郎は口を動かした。
しかし暗示郎は気にした素振りも見せず、腕組みをしてウンウンと頷いた。
紙袋を床に置いて椅子に座ると、背負っていたディバッグから文庫本を取り出して開いた。
マインドパペット1.5 水色の庭園
26.
 
オロカは急に、どっと疲労が押し寄せるのを感じた。
投げ捨てた刀をたぐりよせると、杖がわりにして立ち上がり、よろよろと歩いた。
森の中へ入っていくらか進むと、木の根につまづいて転倒した。
そのまましばらく顔を伏せたままじっとしていたが、いつしかすうっと穴の底へ落ち込むように眠りについていた。
そして、庭園に来る前の事を夢に見た。 
 
 
  
「いいかげん、新しい武器に替えたらどうだ?」
オロカが刀の手入れをしていると、声をかけられた。
「団長……。いや、俺はこれでいい」
傭兵団の長は、顎鬚をしごきながらオロカの手元を覗き込んだ。
「そうは言ってもなぁ。ずいぶん使い込んで、刃こぼれまでしてるじゃないか。
それでなくたって、街中で戦うならともかく、戦場で刀剣の類なんて不利すぎるだろう。
槍のほうがリーチが長いし、密集隊形で槍ぶすまを作れば、騎兵の突進を抑制もできる。
そこに弓兵が雨あられと矢をぶちこむのが、地味だが堅実な戦い方ってもんよ。
ウチのような、馬をろくに揃えられない貧乏傭兵団にとってはな。
向き不向きはあるから弓を覚えろとは言わんが、足並みを揃えてくれたほうが助かるんだがなぁ」
「俺は……役立たずか? 邪魔か?」
オロカが不安を覚えて問いかけると、団長は首を横に振った。
「いや。普段は目立たないが、こりゃヤベえって時には何度もおまえに助けられた。
覚えてるか、隊列の側面から騎兵に奇襲された時。
皆が逃げ腰になってるっていうのに、おまえは一人で飛び込んで行って、その刀で先頭の馬の脚をぶった切ったよな。
あれで一瞬、敵がひるんだ隙に態勢を整えられなかったら、きっと全滅してただろうな。
突っ込んでくる馬の迫力ってな、理屈じゃ語れんものがある。逆に突っ込んでいける奴なんて、そうそう居ねぇよ。
言葉には出さないが、皆、おまえには感謝してると思うぜ」
「……ありがとう」
団長の讃辞に、オロカは少し赤面してモゾモゾと応じた。
「ただ……武器を替えればもっといい働きができることは目に見えてるのに、どうして刀に拘るのかなと思ってさ。
いくらでも、新しいものを支給してやるのに。何も捨てろって言うんじゃない、脇へ置いときゃいい話じゃないか」
「……」
オロカは刀の柄を握った。
慣れ親しんだ獲物──モスタリアから持ち出せた唯一の品(外したくても外せぬ首輪は別として)は、手にしっくりと馴染んだ。
「武器を頂くのは……主と決めた人から、だけだ」
「えらく堅苦しい考え方をするもんだな。
そういやぁ……異国人というのは知ってるが、おまえどこの生まれなんだ?」
「モ……」
オロカは答えかけて、止めた。
モスタリア──その国の名を口にしても、誰も知っている者は居ないのだ。
あの日"落ちた"後しばらくしてから、オロカは初めて地図というものを見て、載っていた国名のひとつひとつの読み方を教わった。
しかし、モスタリアなる国名はどこにも無かった。だから出身を聞かれると、こう答えるようにしていた。
「いや……砂漠に住む、遊牧民の出だ」
「砂漠ぅ? へぇ、そりゃあ遠くから来たもんだ。
まぁ、そういう風習があるってなら仕方ないか。だが、その刀が折れたら、さすがに考えろよ?」
「……わかってる」
「で、だ。用事はそれだけじゃない。おまえに、頼みたいことがあるんだがな……」

その時、傭兵団が受けていた任務は、珍しく戦場へ出ることではなかった。
参戦していた大規模な内乱が一段落ついて停戦交渉に入ったため、仕事にあぶれたのである。
別の、戦のある国へ流れていく前に、旅費や物資調達などにかかる資金稼ぎのために請け負った、雑用のようなものであった。

ある農村から、税として納められるべき作物や家畜などが届かない。
様子を見に行った役人も帰らず、音信不通。
これは、村ごと山賊にでも占拠されているか──あるいは、たちの悪い伝染病でもはやったか──。
状況的に、より可能性が高いと思われたのは前者であった。
なぜなら、仕事がなくなって食い詰めた傭兵達が山賊と化すのは、よくあることであったからだ。
そうと決まったわけでもないが、とにかく異常事態であるから調査し、可能であれば原因を排除せよと、傭兵団は差し向けられたのであった。
 
 
 
斥候役を命じられたオロカは、色づいた木々や薮に身を隠しながら、ゆっくりと村に近づいて行った。
鎧の立てる金属音を嫌って脱いできたので、要所を補強した革服を着ただけという軽装であった。
まだ秋──過ごしやすい頃だというのに、肌に感じる風はいつもより冷たく感じられた。

万一見つかった場合のことを考えるに、集団戦でなく個人戦ならば一番おまえが長けているから、とか団長は言ってはいたが。
その実、失っても一番痛くない駒が俺だからじゃあないのか?──などとも、オロカは考えた。
もし原因が病気か何かであったなら、集団戦向きか個人戦向きかなど関係ない。
無学な俺より、その手の知識がありそうな奴なら、他にいくらでも居るだろうに……。
しかし、団長の頼みとあらば断るわけにはいかない。
右も左もわからぬ俺を拾ってくれ、言葉をはじめとして生きていくのに必要な様々なことを仕込んでくれた恩義がある。
"主"というより、身寄りのない俺にも"親父"が居たとしたらこんな人だろうか、という感じだが……。

「おかしいな……」
オロカは低く身を伏せたまま呟いた。
草木の合間に家や畑が見えてきても、一向に人の気配がしない。
耳をすませても、話し声はおろか家畜の鳴き声ひとつ聞こえない。
「全滅か……?」
そうだとしても、死体が放つ腐臭がしてもいいはずである。
オロカは物陰から物陰へと身を隠しながら、慎重に村へと踏み込んでいった。
もう一度耳をすませてから、ガチャリと一軒の家のドアを開けた。
しかし人の姿はない。死体も転がっていない。隣接された家畜小屋も覗いてみたが、鶏一羽いない。
住居だけでなく倉庫や水車小屋なども含め、何軒も何軒も同じことを繰り返したが、同じ結果に終わった。
見落としがなければ村全ての人の居そうな場所を確認し終え、オロカは"この村は無人である"との結論を出した。
オロカは村の中心にある小さな広場に出ると、火をおこし、持参した狼煙をあげた。
 
やがて村に傭兵団がやってくると、オロカは団長に状況を説明した。
団長は話を聞くと、茜色に染まった空を見上げた。
「じきに日が暮れる。今日はそのへんの家に適当に分かれて泊って、明日の朝引き返すぞ」
「いいのか?」
オロカの問いに、団長は頷いた。
「たぶん、村を占拠した山賊か何かが、俺達の接近に気付いて、村人や家畜を残らず連れて撤退したんだろう」
「家畜はともかく、村人もか?」
「人買いに売るか、奴隷としてこき使うか、だろうな」
「それは……助けないと」
「どうやってだ? どこへ逃げたかもわからんのに。無理無理、まぁ手間賃くらいはもらえるさ」
「……」
団長はさっさと傭兵達に指示を始めたので、オロカはそれ以上口を出すことはできなかった。
 
やけに冷え込む夜であった。
オロカは団長と他二人の傭兵、それに軍医と従軍神父を兼ねる男と共に、村長の家と思われる一番大きな建物に泊った。
粗末なベッドはいくつかあったが団長らに譲り、毛布に包まって床に横になった。
それでも野宿に比べればはるかにマシであるにもかかわらず、村人の行方を考えるとなかなか寝付けなかった。
しかし、真夜中に至るころには、行軍の疲れもあって眠りに落ちていた。
 
 
 
翌朝、オロカは玄関のドアを開けて驚いた。
伸ばした手の先すら霞んで見えるほどの、酷く濃厚な白い霧がたちこめていたのである。

「団長!」
オロカの呼び声に、起きてきた団長たちも目を丸くした。
「なんだこりゃあ……山の上でもないのに。
とにかく……戻るのは無謀だな。霧が晴れるまで待つしかねぇだろう。
おいオロカ、他の家に泊ってる連中にも知らせてきてくれ」
「わ、わかった」
オロカは答えると、家の壁に手をついて歩いて行った。
 
 
 
翌日には晴れるであろうと思われた霧は、なかなか消える気配を見せなかった。
二日経っても三日経っても霧はたちこめたままで、むしろ初日よりも濃くなっているようにすら感じられた。
団長は、会計役を兼ねる傭兵団のナンバー2や、槍兵頭、弓兵頭といった主要人員と顔を突き合わせて、ブツブツと食料の心配をしていた。
この仕事の報酬で食料を買い込む予定であったので、あまり備蓄がなかったのである。
加えて悪いことに、村の中にもろくに食料の類は残されていなかった。
暖をとるのに必要な薪は、豊富に蓄えられていたのだけが救いだった。

オロカは少し開けたドアの隙間から外を見ながら床に腰を下ろし、一人、黙り込んでいた。
「どうしたのですか、オロカ?」
軍医兼神父が、声をかけてきた。
「なんでもない……」
オロカがぼそぼそと言うと、小さな溜息が返ってきた。
「気がふさぐのはわかりますがね……自然が相手では、悩んでも仕方ありませんよ。
あぁ、今日も冷えますな。どれ、風邪の予防に薬湯でも煎じましょうか」
静かな口調でそう言いながら、軍医兼神父は厨房へ引っ込んでいった。
オロカは何となしに、上着の上から二の腕に触れた。
先の戦の折、彼に手当てしてもらった、まだ完治していない小さな傷跡がそこにはあった。

「自然が相手……か」
オロカは、ぼそりと呟いた。
何か根拠があるわけではないが、オロカは単なる自然現象ではなく、悪意を持つ何者かに捕まったような気がしていた。
魔物だの、魔術師だのと口にすると「またオロカの迷信が始まった」と馬鹿にされるので、口に出すことはなかったが。
仮に「モスタリアではそういうのも実在した」と言い張ったところで、そのモスタリアを誰も知らないのだから、言っても仕方のないことであった。

俺がこの村に皆を呼び寄せたりしなければ……。
今更言っても仕方のないことではあるが、オロカは押しつぶされそうなほどの責任の重さを感じていた。
「いつまでも何やってんだ、オロカ。そこ閉めろ、寒いぞ」
苛立ちの混じった団長の声が飛んできて、オロカはいたたまれなくなり、言葉も返さずに外へ出てドアを閉めた。
 
 
 
「何者なんだ! 俺達を閉じ込めて、どうする気だ!!」
刀の柄を握り締めて、オロカは霧の向こうに向かって叫んだ。
声は、白い巨大な塊のようなそれに吸い込まれて消えていった。
触れられもせぬ冷たい大気の壁に圧迫感を覚えながら、オロカはしばらく佇んでいた。

だしぬけに、何かが霧の中からぬっと姿を見せた。
「あら、まだ人がいたの?」
高い、女の声。水色の髪をした、少女だった。
首には、ふわふわと漂う奇妙な紐のようなものが括りつけられている。
足元は白く溶け込み──否、足はない。宙に浮かんでいる。
オロカが驚愕に固まっていると、少女は首をかしげた。
「私、マルセル。あなたは?」
「オ……オロカ……」
「オロカ? 変わったお名前ね」
「化け物め! 覚悟ッ!!」
オロカは刀を振るった。
マルセルは避ける様子も見せなかった。
真っ二つにした──と思ったのも束の間、半分ずつになったマルセルは、断面からにゅっと欠けた部分が生えてきて二人になった。
「わっ! わわわっ!!」
あまりの不気味さにオロカは思わず数歩退き、壁に背中が当たった。
「まぁ、乱暴ねぇ……駄目よ、そんなことしたら」
二人のマルセルは、子供を叱るように腰に手を当てて「メッ!」と言った。

「あなたも来る?」
「どっ、どこへだ。あの世なら、まだ行かないぞ!」
「違うわ」
二人のマルセルはすうっとくっつきあって一人に戻ると、ふるふると首を横に振った。
「村の人たちは、楽園に招待したの。みんな生活に困っていたようだから、二つ返事で来てくれたわ」
「そんなふうに言いくるめて攫ったのか! 奴隷にでもするつもりか!」
「まぁいやだ。それは、楽園にも人が増えたから、なるべく自給自足ができるように少しは働いてはもらうけど。
この国の為政者のように、一日中農民を働かせておいて作物のほとんどを取り上げ、空腹を抱えさせておくなんて、酷いことはしないわ」
「うっ……」
オロカは言葉に詰まった。
長年続いた戦のために重税が課せられており、特に農村部は毎年のように貧窮にあえいでいるとは、噂に聞いていた。
戦が終わったからと言って税の額はすぐには下がらないだろう、戦で大量に金や物を浪費した穴を埋めるためにも……とも。
「おまけに、なんだかんだと理由をつけて、暴力の脅威から守ってくれるわけでもない。
税として納めるために荷車に積んであった農作物とかを、ごっそり傭兵崩れらしき山賊達に奪われてしまって……
数年前に被害にあった時と同様、おそらく税を免じてくれはしない。
もう貯蓄も底をついてるし、冬への備えを全て取り上げられれば飢えて死ぬしかないって、みんな言ってたわ。
酷い話だとは思わない? ノブレス・オブリージュって言葉は、この時代には無かったのかしら?」
「の、のぶ……?」
「あぁ、わからない? 私なりの解釈だけど、要するにね……
武力を持った者が貴き者として君臨し、その下で働く者の汗と涙の結晶を取り上げる権利を主張するならば。
その武力をもって下の者を守るのは最低限、果たして当然のことなの。
その他にも、公園とか橋とかみんなで使うものを作ってあげたりとか、下の者に奉仕する義務がありますよってことなの。
どうかしら。あなたも、そう思うでしょう?」
「……」
オロカは、ますます何も言えなくなった。
化け物だか魔術師だか知らないが、言うことはもっともだ、と思えたからである。
むしろ今まで、上の者が下の者から搾取するのはある程度までは当たり前であるように捉えていたので、そういう考え方もあったのかと感心すらしていた。
せめて、無理矢理連れ去ったならば言えることもあったが、農民たち自身も納得の上でと言うのが本当だとするなら、文句のつけどころが無かった。

すっかり黙り込んだオロカに、わかってくれたようね、と言いたげにマルセルは何度も頷いて見せた。
「で、ね。招待した時、みんなが持って行けるだけの物は持ってはいったけれど。
まだ農具とかいろいろ嵩張るものが必要だって言うから、村ごと持っていくことにしたの。
住むところはあっちにもあるけど、家畜小屋や納屋なんかはそのまま使えるしね」
いきなりの展開に、オロカは仰天した。
「む、村ごと!? 待て、その前に俺達は出るぞ!」
「無理よ」
マルセルは、あっさりと首を横に振った。
「既に空間が切り取られているもの。たとえば村の北側から外に出たら、南側から戻ってくるわ」
「なんだそりゃ!? とにかく、俺達をここから出すんだ!
俺はともかくとして……故郷には家族が居て、稼ぎを仕送りしているような奴らだって何人も居るんだからな!!」
「まぁ、そうなの」
何か、感心したようにマルセルが言ったので、オロカは慌てて頷いた。
「そ、そうだ! 楽園だかなんだか知らんが、勝手に連れていかれちゃ……」
「いえ、そうじゃなくて」
「ん?」
「その人たちの事じゃなく、あなたのこと。
一見、荒っぽい人に見えたけど、結構真面目で仲間思いなのねぇ……」
「はぁ?」
急に褒めるような事を言われて面食らい、オロカは目をしばたたかせた。
「しかも、『自分はともかくとして』だなんて……
『自分は犠牲となっても、みんなを救ってほしい』と率先して申し出ることのできる、崇高な精神! 素晴らしいわ!!」
「そっ……それは、言葉のアヤというか……」
「決めたわ! あなたのような人こそ、みんなのために必要だわ。
楽園を見守り、喧嘩が始まったりしたら体を張って止められるような人も、これからは必要になってくるに違いないわ!」
「ちょ! ちょっと、勝手に決めるな!!」

「さぁ、これを……」
ふっ、とマルセルの手に、彼女の首にあるものと同じものが現れた。
差し出されたものを良く見ると、束ねられた髪で作られたロープだった。
「あなたの首に巻いて、縛ってちょうだい」
「なんで、そんなことを!」
「そうしてくれたら、連れていくのはあなただけにするわ。あなたのお仲間は、ここから出してあげる」
「うっ……」
マルセルは、にっこりと微笑みかけた。
「約束するわ。お願い、それがみんなのためでしょう?」
骨まで染みるような、冷たい風が吹き抜けた。
マインドパペット1.5 水色の庭園

27.

「みんな、みんなッて、言うなあぁぁッ!!」
オロカは叫び、目を見開いた。
土と枯葉が、目と鼻の先にあった。
「ゆ…夢……か……」
はぁぁぁっ、と重苦しい溜息をつき、ごろんと寝返りを打って仰向けになった。
「痛ッ!」
その瞬間、すぐ傍からどこかで聞いたような低い声が上がった。
「腕! 腕をどけんか、おのれはぁッ!!」
何か小さいものが、二の腕の下あたりでジタバタともがいている。
オロカは不思議に思いながらも、とりあえず言われた通り腕を上げた。
「えっ……!?」
オロカは、己の目を疑った。
野性味のある顔立ちに、ばさついた黒髪。
ドグマが居た。親指ほどのサイズの、小さな小さなドグマが。

マインド パペット

「ド、ドグマ……な、なんで、そんなちっちゃくなって……?」
「馬鹿者」
尻餅をつくようにして倒れていたドグマは立ち上がり、パッパッと服に付いた土を払った。
そんな成りでも、きっちりと軍服を着こんでいるのが妙におかしかった。
「これは単なる、依代に過ぎんわ」
「よりしろ?」
「髪を埋め込んだ人形に血を注いで作った……
まぁ、分身のようなものと考えれば良かろう。
偵察などの用途で良く使われる、簡易な魔具だ。
理解できたか、低能が!」













「ぁ……あ、うん……」
小さくても、態度は相変わらず、すこぶる大きかった。
「まったく、踏んでも蹴っても目を覚まさんから、わざわざ時間を置いてからまた出向いてやったというのに……
この寝坊助が! こんなところでダラダラと寝潰れておるからだ!
睡眠などという時間の浪費は、必要最低限でさっさと切り上げんか!!」
「す、すまん……」
なんでそこまで叱られないといけないんだろうと思いながらも、勢いに負けてオロカは肩を縮めた。

「……ドグマ」
オロカは両手を伸ばして、ドグマの小さな体をぐっとつかんだ。
「ぐぉっ……」
一瞬、ドグマがぎょっとした表情を浮かべて声を漏らしたのにも構わず、オロカは彼に額をくっつけるようにして頭を下げた。
「ドグマ、頼む! 力を貸してくれ!
もう……俺には、どうしたらいいか、わからないんだ!!」
「やっ、やめんか、離せ……っ! 人形とはいえ、感覚は共有して……いっ」
口調は偉そうなままだが声が相当苦しそうだったので、オロカは慌てて手の力を緩めてドグマを地面に下ろした。
「すまない……その、つい、おまえと"かよわさ"というのが結びつかなくて……」
「ふんっ」
ドグマは鼻をならし、二、三度胸を押さえて咳きこんだ。
その様子を見ながら、オロカは考えた。
感覚を共有している……ということは、この人形の手足をもいだりしたら、ドグマは"手足をもがれたような激痛"を感じるのだろうか?
だとするなら……別れる前、友好的な関係だったとはおせじにも言い難かったにも関わらず……
俺がそういう事はしないと、ある程度は信用してくれたから、俺の目前に出てきたという事なのかもしれない。

ドグマは、露骨に舌打ちした。
「ったく、貴様は……頭を下げれば、誰でも何でも言う事を聞いてくれるとでも、思っておるのか?」
オロカは改めて姿勢を正して地面に座ってから、答えた。
「……代わりにドラゴンの首でも取ってこいと言うなら、取ってくる」
「本気で言っているのか?」
「あぁ、本気だ。ドラゴンっていうのが本当に居るのかどうかは知らないが、とにかく本気だ」
オロカがじっとドグマを見据えると、彼は再び舌打ちをした。
「ちッ……まぁ、話は聞いてやろう」
ドグマはぴょんとジャンプしてオロカの上着の裾をつかむと、よじ登ってポケットの中に潜り込んだ。
「立ち話も何だ、貴様の部屋へ行け。そうそう、あれも忘れるな」
ポケットの中から伸ばされた指が示す先を見ると、草陰に見覚えのある爆撃機の玩具が置いてあった。
オロカは言われた通りそれを拾い上げ、自室へと向かった。
あまり長い間寝ていたという気がしなかったが、森を出て仰ぎ見ると、太陽は既に真上を越していた。
 
 
 
オロカはドグマと爆撃機の玩具を机の上に下ろし、自分は椅子ではなく床の上に膝をついて座った。
そうしてようやく、二人の視線の高さが合った。

「ドグマ。実は……貴方の弟を助けてほしい」
「弟だと!」
ドグマは眉を吊り上げた。
「私に、イエソドを救えと抜かすか!?」
「イエ…ソド……? 三郎って、本当はイエソドという名なのか?」
「三郎?」
ドグマは首をかしげた。
「イエソドの奴が、コソコソと名を偽ったりするとは思えんな……。
三郎……ふむ、ひょっとして髪をずるずる伸ばした、ひょろっこくてキツネ目の……
いつもこう、くねくねと逃げ腰なくせにお高くとまった、女の腐ったような野郎のことか?」
「う…うん……たぶん、そうかと……」
酷い言い様だとは思ったが、三郎の特徴として外れてはいないのでオロカは頷いた。
「そういえば、そんなのも居たな。印象が薄い奴なので、忘れておったわ」
「覚えててやれよ……」
こんなのから逃げ回っていたとは、つくづく三郎は不憫な奴だとオロカは思った。

オロカが事情を話すのを、ドグマは黙って聞いていた。
話に区切りがつくと、一言、吐き捨てた。
「はッ! 惰弱な野郎だ。どうせ死ぬなら、玉砕覚悟で一矢でも報いよ!!」
「だ、惰弱って……辛かったんだろうに、そこまで言う事は……」
「そんな弱虫、今回の事が無かったとしても、世間の荒波にもまれて生きてなどいけぬ。
わざわざ助けてやる必要など無いわ!!」
「そりゃあ……貴方は強いから、誰だって弱く見えるんだろうが……」
「馬鹿者」
ぎろり、とドグマは睨みつけた。
「始めから強い奴などおらん。強くあろうとするかどうかだ」
「それは、そうかもしれない……」
オロカは、いったんは認めた。しかし、やはり反論したくなった。
オロカは三郎のことが、ドグマが言うほどには脆弱とは思えなかったのである。
三郎の強みを例えるならば、雪が積もっても折れない、しなやかな柳の木の枝。
一線を超えては人を寄せ付けぬきらいはあるものの、基本的には人当たり良く、口も達者。
トラブルは器用にスマートに、受け流し身をかわしていけそうだ。世渡りならばむしろ、お手の物だろう。
今はきっと、急所にハマってしまっただけに違いない。柳の枝も、手でつかまれてしまえば容易く引きちぎられるように。
しかし、弱点なんて何にだってあるはずだ。
ダイヤモンドでさえ、硬いというのはあくまで傷がつきにくいというだけの事で、ハンマーで叩けばあっけなく砕けると聞く。
「そうかもしれない……が」
オロカは首の良心ロープをいじりながら、言葉を継いだ。

「俺にも、正直……どうして死を選ぶほどの事なのか、理解しきれるわけじゃない。
でも、理解できないからって、三郎が弱いってことになるのか、絶対に?」
「あン?」
「同じ災難が降りかかっても、それをどの程度『痛い』と感じるかなんて、人によって違うんじゃないのか?
俺にとっては『嫌だけど、我慢できないほどじゃない』と思える事でも……
貴方にとっては『死ぬほど耐えがたい』って事だって、無いとは言えないんじゃないかと思うが」
「ほほぅ? どんな事だと言うのだ。具体的に、百文字以内で述べてみよ」
「うーん……」
オロカは考えこみ、答えた。
「貴方は……意外と、無力になったら脆いような気がする」
「何だと?」
ひくっ、とドグマは顔をひきつらせた。
「例えば……そのちっちゃい体から出られなくなって、魔力も枯れ果てて……
しかも狭い鳥籠の中にでも放り込まれて、誰かに餌をあてがわれて飼われるとなったら、貴方は生きていけるか?」
「そんなもの、どうにかして脱出手段を講じるわッ!」
「どうしても不可能だったら? 飼い主が魔術師だったり、鳥籠が魔法の品だったりとかで」
「それは……私に限らず誰だって、まともな神経があるなら耐えられるわけがなかろう。
それとも何か? 貴様はペット扱いされ、一生鳥籠暮らしで、受け入れられるとでも言うのか?」
「俺? それは……飼い主によるんじゃないかと……」
大仰に、ドグマは顔を歪めた。
「信じられん! いい飼い主なら妥協すると!?」
「ん……まぁ……」
「人としてのプライドは無いのか? 貴様、人の形をした犬じゃないのか?」
「だって……案外、仲良くなれるかもしれないし……
そうでなくとも、何年か我慢すれば飼い主のほうが飽きて、放してくれるかもしれないし……。
で……俺より貴方のほうが弱いと思うか?」
「そんなわけがなかろう! 貴様がおかしいだけだ!!」
「どっちがおかしいかなんて、わからないが……
俺は耐えられる、貴方は耐えられないという事だってあるのは確かだろう? 弱点なんて、人それぞれだ。
三郎だって、どちらかと言えば打たれ弱くはあるんだろうが、もの凄く弱いとは言い切れないじゃないか?
三郎には三郎の強みがある。俺や貴方より三郎の方がしたたかに生き延びる状況だって、きっとあるはずだ」
「言いたいことは多少わからんではないが、詭弁だ、そんなものは!」

「詭弁……うん……やっぱり、詭弁かな……」
オロカは、ぽりぽりと頭を掻いた。
「俺から見ると、三郎はちょっとおかしい奴に思えるけど……
そのおかしい所も含めて、俺はあいつが好きだから……だから、死んでほしくないんだ」
「……」
ドグマはしばし黙り込み、呆れや苛立ちや苦笑いの混じった、複雑な表情をにじませた。
「だったら……ぐだぐだと言葉を弄さず、そう言えばよかろうが」
「そうだったな……すまん」
オロカは素直に、ぺこりと頭を下げた。

「ふん。しかし、わからんな。アレが好きだという気が知れん。あんな奴が何の役に立つのだ?」
「人を好きになるかどうかなんて、役に立つ、立たないだけじゃないと思うが……あえて言うなら……」
「ふん?」
「さっき世間の荒波が云々と言っていたが……
波に逆らって、自分の行きたい方向に突き進む力というならば、三郎は貴方には遠く及ばないと思う」
「他に何があると言うのだ?」
「いい流れを読み、器用に波に乗って、最小限の労力で遠くへ遠くへと行く事にかけては、三郎は長けていると思うぞ。
まぁ……波まかせだから、自分の行きたい方向とはいくらかズレているかもしれないし……
そもそも最初から行きたい方向なんて、はっきりとは決まってないかもしれないが……
でも俺は、急流を遡りたいなら貴方の船に乗るが、大海を渡りたいなら三郎の船に乗る」
「ほぅ……なかなか上手いことを言う。
流れを読み、波に乗る……要は、交渉事などには向いているという事だな。才と言うには小賢しいが、物は使いようか」
ドグマは爆撃機の玩具にもたれて、腕を組んだ。
「何年ぶり……であったかな。アレも私が知るより、多少は成長したかもしれん。
まっ、物は試し、ちょっとはツラを見てみてやっても良いか」
オロカは理解に若干の間を要したが、ドグマがそういう言い方で自分の申し出を聞き入れてくれたのだと気づいた。
「ありがとう、ドグマ……」
「ふんッ……れ、礼を言うのは早い。交換条件も、まだ出してはおらんぞ」
ドグマは、ついと横を向いた。
ドグマも照れることがあるのか、とオロカは口元が緩みそうになるのを懸命にこらえた。
マインドパペット1.5 水色の庭園
28.
 
「それで……貴方は、人を操ったりする他に、直接焼き払ったりはできないのか?」
「私が他力本願みたいに抜かすな!」
ドグマは噛み付くように(このサイズとしては)大きな声を出した。
「す、すまん……いや、そういうつもりじゃなく、ただ純粋にどんな事ができるのかと……」
「ふン!」
オロカが謝罪すると、ドグマは鼻を鳴らして答えた。
「その気になれば、街の一つや二つ、火の海にするくらいは容易いわ」
「……? なら、どうして前の時はそうしなかったんだ?」
「庭に寄生する豚ども自身の手で、庭に火を放ってやったほうが、胸がすくであろうが」
「そっ……それだけの理由で、あんな……他人を玩具にするようなことを……?」
「何か文句でも? それに……」
「それに?」
「……無視できぬリスクがあるからだ。
生物の支配を行う際には、少々意志のベクトルをいじってやるだけで良い。
おおまかな命令に沿う形で目前の事柄への具体的な対処を考えるのも、身体を動かすのも、支配された側が勝手にやることだ。
いちいち、右足を出せ、次に左足を出せなどと、詳細な指示を出すわけではない」
「確かに……俺が人を集めろと命じられた時も、細かい手段まで逐一指示されたわけじゃなかったな……」
「そういうことだ。一方、無生物の支配を行うならば、そうはいかぬ。例えば、これ……」
ドグマはそう言いながら、爆撃機の玩具をコツコツと叩いた。
「このスーパーフォートレスを実物大とし、無数に分裂させ、焼夷弾をもって一帯を焼き払うことは可能だ」
「……ちょっと良くわからないが、凄そうだな」
「しかし、これに脳ミソは搭載されておらんので、私自身が操るのに集中しなければならん。
無防備な状態で突然に強襲を受ければ、いかに私と言えども即座に対応しかねる」
「なるほど……吟遊詩人の歌に出てくる悪の魔術師なんかは、普通に高笑いしながら火の玉とか投げてくるが、実際にはなかなか融通が利かないものなんだな……」
「そういうのは元素魔術だ。私は、支配魔術の方が得意なのだ!
確かに速射性では元素魔術に劣るかもしれんが、攻撃範囲から見ても応用の幅から見ても、支配魔術の方がはるかに効率が良いわ!!」
「……」
そうか、直接火の玉を飛ばしたりするのは不得意なのか、とオロカは納得した。
「さっきも話したように……俺が倒れていた場所の傍にある扉の奥に、化け物がいる。
たぶん、良心ロープはあれに繋がっているのだと思う。あれを倒しさえすれば……」
「無理だ」
ドグマは、一言で切って捨てた。
「無理って……なぜ?」
「常人にはわかるまいが、膨大な死霊の気が放出されておったわ。
既に死んでいる者を殺すことはできん。庭園の管理者と同様にな」
「……見てたのか?」
「扉の中身は見ておらんが、アレと貴様が話しているのはな。気の放出を察知して、様子を見に行ったのだ」
フッ、と小さくドグマは笑った。
「死霊に己が非を認めさせるなどという、離れ業をやってのけたのは褒めてやろう」
「……」
何の成果もあげられはしなかったが、結果的にドグマが俺を少し見直してくれたのなら、良かったのかもしれない。
オロカはそう思いながら、疑問を口にした。
「ドグマ。それは……励ましてくれているのか?」
「だっ、誰が!!」
ダン!とドグマは拳で爆撃機の玩具を叩いた。

「……それはさておき!
やはり、この世界をぶち壊すのが一番手っ取り早いであろうな」
「本当に、それで出られるのか?」
「疑っておるのか? 狭間の世界など、惑星でも衛星でもない。
ちっぽけな浮き島のようなもの、脆いものだ。そして、破壊すれば時空断層が生じる」
「時空……時間と空間? 断層って、地震で地面がズレる奴だっけ?
時間とか空間とかって、揺れたりズレたりするものなのか?」
「する。まぁ、浮かんでいるのは元々不安定な場所だからな。
そして、瓦礫も住民も時空断層から過去へと引きずり落とされて行く。
それぞれが、バラバラの時代、バラバラの場所にな。
それらをロープ一本で繋ぎとめることなどできん。必ずや寸断され、消滅する」
「落とされる……バラバラに……」
オロカの記憶から、連想されるものがあった。
「ひょっとして……モスタリアも同じように?」
「いかにも。モスタリアも崩壊し、住民は過去の時代へ散り散りとなった。
例外的に、ごく一部……時空渡りの能力がある者たちの中には、未来へ跳んだ者も居るがな」
ぐっ、とオロカは身を乗り出した。
「貴方は、モスタリア人なのか!? 三郎も?
そういえば三郎も、住んでいたとまでは聞いていないが、知っているとは……」
「さて……昔のことなど、忘れたな」
「ドグマ!」
「既に存在せぬ世界の事など、どうでも良かろう。
で? 壊れかけた男一人と引き換えに、この世界をぶち壊す覚悟は決まったのか、どうなのだ?」

「……」
オロカはしばし目を閉じて、物思いに沈んだ。
以前は忌み嫌っていた庭園にも、いつの間にか愛着を抱いていた。
梅の木。三郎の部屋。バラの若木。オープンカフェ。金木犀。図書館。焼肉を乗せた七輪。
それらの場所で呟いた言葉や、三郎や暗示郎と交わした会話の切れ端。
さまざまなものが、心の中に思い浮かんだ。
その全てと、天秤にかけた。
「決まったか?」
再度ドグマに問われ、オロカは目を開いた。
「考えるまでも……ないのかもしれない。
だが……あと少し、踏ん切りがつかない。今日一日でいい、考えさせてくれないか?」
「よかろう。では、交換条件を申し渡しておく。それも合わせて考えておくがいい」
「あぁ……」

「最初に……条件とは少し違うが、リスクについて述べておく。
可能であれば拾ってはやるが、貴様なり奴なりが時空断層に落ちれば、再会はできないものと思え。
私はもちろん、奴も時空渡りの能力は有しておるはずだが……
はぐれた者がいつの時代のどこの国に居るかなど、探すことは不可能とは言わんが、おそろしく手間がかかる」
「別れるのは、とっくに覚悟の上だ……むしろ、別れなくていい可能性があるのが嬉しいくらいだ」
オロカはそう言って、頷いた。

「条件として、まず一つ目。
向こうも、対抗手段を用意もしていないほど平和ボケはしておらんだろう。
前と同じ手は使わん。先に述べた手段、このスーパーフォートレスの焼夷弾で焼き払う。
その間、貴様が私の警護をせよ。無論、この依代ではなく、私の本体をだ」
「それは、当然だな……」
オロカはもう一つ、頷いた。

「二つ目の前に確認するが。
貴様が庭園の管理者から常時、受けている命令は何だ?」
「えと……侵入者の撃退と、住人が喧嘩などの騒ぎを起こしたら止めること。
異変があれば報告しろと言われたこともあるが……
あれは命令と言うより、自主的にやって当然だろうと叱られただけだったな……」
「ふむ。では、前回も今回も、私やこの依代を侵入者とは認識しておらず。
また前回の場合には、侵入者と認識した頃には、既に私から支配の上書きをされていたというあたりか」
「え……あぁ、これ、ただの人形なんだろう?
こんなちっちゃいのが何かできるっていうわけでもないだろうし、侵入者だとかって気はあんまり……」
「……」
ひくっ、とドグマが片頬を吊り上げた。
「あっ、いや、別に、馬鹿にしたわけじゃ……。で、えと、支配の上書き……?」
「知りたくば解説してやろう。
原則的に、一つの対象に支配は同時にいくつでも及びうるが、現れる効果は一つだけなのだ。
それを俗に、支配の上書きと呼ぶのだ。
前回の場合、貴様は管理者から恒久型の支配を受けていた。
そこへ私が一時型の支配を与えたため、元からあった支配は一時的に停止状態となった。
そして私が支配を解いたので、元からの支配が復活したというわけだ」
「えと……うん……」
両手を重ねたり外したりしながら話を聞き、オロカはなんとか理解した。

「では問題だ。貴様が私を警護するに当たって、予想される障害とは?」
「え、えっ?」
「それぐらいわからんのか。
ヒントだ。術者の力量に圧倒的な開きがあるのでなければ、支配というのは術者の近くに居た方が強制力が高い。
最も強制力を高めるのは、手などの体の一部、ないし術を補助する為の魔具で触れていることである。
加えて一時型と恒久型、位置条件が同じならばどちらの強制力が高いと思うか?」
「恒久型、かな……?
あ……普段は貴方から前と同じように一時型の支配を受けていれば、貴方の命令下で行動できるが……。
マルセルが近くに寄ってきたら、マルセルの命令を聞かないといけないわけか?」
「正解。ではもう一つ問題だ。この障害の解決法は?」
「……ヒントは?」
「やらん。自分で考えよ」
「……」
オロカは解答の手がかりを求めて、じっとドグマを見つめた。
"この"ドグマも、縫い針のように小さな指揮棒を腰へ下げていた。
オロカは思い浮かべた。指揮棒を振るう、恐ろしい程の力に満ち溢れたドグマを。
「マルセルと貴方は……幽霊とかそういうのは置いといて、魔術師として比べるなら、貴方のほうが強いんだな?」
「わかっていて私を頼ったのではないのか?」
「では……」
ごくり、とオロカは唾を飲み込んだ。
「解決法は……貴方から、恒久型の支配というのを、受け入れることか?」
「正解。条件が完全に同じならば、術者の力量差がものを言う」
「つまり……」
「二つ目の条件。私の部下になれ、オロカよ」
「……」
言葉を失ったオロカに、ドグマは告げた。
「即答の必要は無い。良く、考えるのだな」
「あ……あぁ……」

「では、最後に三つ目」
ドグマはそう言って、机の上にごろりと寝そべった。
「ここで待っていてやる。決意が固まったなら、手始めは自分でするのだな」
「手始め……?」
「焼いてくるのだ。例の、梅の木とやらをな」
「う……っ」
嫌だとは言えなかった。
ドグマが言い出した事を変えさせるのは難事だから、というだけではない。
自分の勝手で大切な物を焼くのに、自分の手を汚さず他人任せにするなど卑怯だと思えたからだ。
「今日一日、と言っておったが。返答は明朝で良いぞ。そのくらいまでは、依代の効果は持つ」
「わ……わかった」
オロカは頷いてそう返すと、部屋を出ようとした。

「ん……ちと、待て。もう一つあった。私には、どうでもいいことであるがな……」
「え?」
呼び止められたオロカは、振り返った。
 
 
 
オロカは病院へ足を向けた。
三郎の病室の場所を聞き、廊下を歩いて行くと、ちょうど暗示郎が中から出てくるところへ鉢合わせた。
「あっ、オロカ……」
「すまん……任せっきりにして……」
「それは全然いいんだけど、ちょっと……」
暗示郎はオロカの袖を引いて、待合室へと誘った。

二人は待合室の椅子に、向かい合わせで座った。
「ちょっと、言いにくいんだけどさ……」
「……何だ?」
口ごもる暗示郎に、少しだけオロカは身を乗り出した。
「君……三郎には会わないほうがいいかも」
「何で! ……どうしてだ?」
思わずきつい口調で詰め寄ってしまい、背を起こして軽く深呼吸してから、もう一度ゆっくりと問いかけた。
「うん……焦らないで、落ち着いて聞いてね?
三郎はね、何にも関心を示さないから。何を言っても人事みたいに、『ご勝手に』って。
今じゃ、それさえ言わない。何にも口を開かない。
食事をスプーンで口元に持っていけば少しは食べるし、トイレとか行こうとするのに肩を貸せばつかまってくれる。
でも、それだけ。ずっと黙って、一日中ベッドの上でぼーっとしてる」
「……っ」
「そうかなと思って聞いてみたけど、肯定も否定もされなかったから、はっきりとは言えないんだけどさ……
心を閉ざして、何にも興味持たなくなれば、良心ロープが外れると思ってるんじゃないかなー、って……」
「三郎……」
「今は、ね? 待とうよ。頑張れだの、現実を受け入れろだの言っても、ただ重荷になるだけだよ」
「待てば、何か解決するのか?」
「だから、焦っちゃダメだよ、オロカ!」
膝の上で握りしめていたオロカの拳に、暗示郎は手を重ねた。
「いま三郎に必要なのは……時間だよ」
暗示郎はオロカを諭すというより、自分に言い聞かせるように言った。
時間が解決してくれる──と、思いたい。そう言っているかのように、オロカには聞こえた。

「三郎に、会わせてくれ」
「会っても、辛いだけだと思うよ? 僕に任せてくれて、いいんだよ」
「俺に気を使うな……おまえだって辛いくせに」
「辛くなんか、ないってぇ。変に気を使いすぎると、三郎の方が気にしちゃうしさぁ。
余計なことは言わず身の回りの事をホイホイってしてあげて、あとは気楽に本とか読んでるだけだしぃ〜」
暗示郎は、コロコロといつもの明るい声を出した。
「それは……。一所懸命、向こうに気を使わせないようにしてるだけだろ?
おまえのことだから、そりゃ……きっと、巧いんだろうが……気にしない振りが……」
「そんなんじゃないってばぁ〜」
にこにこと、暗示郎は笑った。
「やめろ!」
大きく、オロカは顔をしかめた。
「おまえの作り笑い……見ていて、痛い」
「……」
暗示郎は、手で顔を覆った。小さく、肩を震わせていた。
「……すまん」
オロカは、その肩に両手を置いた。
「泣くなとか、言わない。むしろ……泣きたい時には、泣いてくれ」
暗示郎は顔を覆ったまま、こくこくと、声も上げずに頷いていた。
オロカはしばらくそのまま、彼が落ち着くのを待っていた。
震えの収まった頃合いを見て、そっと肩から手を離した。
「大丈夫……別に……そう、頑張れだの、現実を受け入れろだの、そんな事は言うつもりは、無い。
ただ……俺が、三郎の顔を見たいだけだ。
三郎に、俺を見させようとなんて、しない……何も、せかさない……」
暗示郎から、返事はかえってこなかった。
しかし、止められはしなかったと判断して、オロカはゆっくりと病室へと向かった。
 
 
 
オロカは、そっとノックをした。反応は無かった。
ドアを開け、床の近くに漂っている良心ロープをまたぎながら病室へ入った。
ベッドの傍に椅子を運んで、傍に刀を立てかけ、座った。
三郎が、こちらに顔を向けて、横になっていた。
目は半分開いていた。しかし、何も見ていないようだった。
痩せたな、とオロカは思った。たった数日で変わるわけもないのに、なんだか肌も白くなったように見えた。
少し椅子から腰を上げて、三郎の胸元を見た。
こんな状態で、本当にまだ離してくれないのか。そう疑問を感じたのだが、良心ロープは確かに首に巻きついていた。
無意識なのかどうか、わずかに三郎は体を動かした──否、動かそうとして止めた。
布団で胸元への視線を遮るように、体の角度を変えようとしたのを。
良心ロープを見られたくないのか。そして、見られたくないということを気づかれたくもないのか。
オロカはそう思った。それで、三郎の目を見つめた。
三郎はまぶたを閉ざした。全身で拒否されているのがありありとわかった。

人形みたい──と、普通は今の三郎の状態を、そう言うのかもしれないが。
こんな人形は居ない。人形は、反応を見せないようにしようと頑張ったりしない。
三郎は、俺を見ている。ただ、懸命に見ないふりをしている。
その時点で、俺に関心を持っていないわけがない。だから、こんなことをしたって良心ロープがほどけるわけがない。
そう指摘しようかと、オロカは思った。
しかし、やめた。三郎自身が、それに気づいていないわけがない。
やってみるまでわからなかったとしても、もうわかる頃だ──そう考えたのである。

「三郎……」
オロカは椅子から立って、布団越しに三郎の体に手を当てた。
反応は無い。だがオロカの手には、三郎が反応を見せまいと、ぎゅっと体をこわばらせているようにも感じられた。
「馬鹿だな……そんなに、頑張らなくたって、いいのに……」
"抵抗"という言葉がオロカの脳裏に浮かんだ。
抵抗といえば、たいがいは武器をとって戦ったり、集団で練り歩いて大声を上げたり、座り込んで場を占拠したりと、何らかの積極的な行動を取ることを指すのだろう。
しかし、今の三郎にはそういう行動を取るエネルギーが無いのだ。
尽きかけた気力で精一杯できる抵抗が、"拒否"を示すことなのだ。
庭園の──時空の狭間に浮かぶ、世界の全てを。
その世界の一部に、俺や暗示郎も含まれてしまっているのが、悲しいところだが。

「……現実を受け入れろとか、誰が言うか……」
オロカは、呟くように言った。
「……おまえが、意地でも現実を受け入れまいとしてるのに、誰が言うか……」
ドグマが三郎を見たら、引きこもってるだの、逃避してるだのとしか言わないかもしれない。
やっぱり昔と変わらぬ弱虫だ、とか蔑むかもしれない。そんなことをして何の意味があるのだ、とか嘲笑うかもしれない。
しかし……ネガティブなやり方には違いないだろうが……
意味があろうが無かろうが、必死で抵抗しているなら、もう、いいじゃないか。認めてやっても。
理屈として通っていないのは重々承知で、そんなふうにオロカは思った。

「現実なんか、糞食らえだ。所詮、作り物の現実じゃないか。あの女が作った、小ぢんまりした現実じゃないか。
俺が、ぶっ壊す。そして、本物の現実におまえを引っ張っていって、解き放ってやるぞ。
おまえは、風なんだろう。風は、鳥籠の中なんかに吹かないよな。本物の広い世界を、流れたいように流れろよな……」
ぽん、ぽんと布団越しに三郎の体を優しく叩き、オロカは刀を担いで病室を出ていった。

一人きりになった病室。
三郎の唇が、かすかに動いた。
オロカ──と、声に出さずに名を呼んだようであった。

マインドパペット1.5 水色の庭園
29.
 
「暗示郎。ちょっと、いいか?」
待合室に戻ったオロカが声をかけると、暗示郎は顔を上げた。
目元が少し赤く、腫れぼったくなっていた。
俺が向こうへ行った後もずっと泣いていたのかもしれない、とオロカは思った。
しかしその顔は、どこかすっきりとしたようにも見えた。
オロカの手招きに応じて着いてきた暗示郎は、入り口に掲げられた札を見やって小首を傾げた。
「なぁに? 連れション?」
「いいからっ」
オロカはトイレに入り、更に個室へと向かった。
「早くっ」
小さく、しかし鋭く暗示郎を呼ぶ。
「いいけどぉ……」
くねっ、と暗示郎はしなを作ってみせた。
「襲わないでネ?」
「襲うかっ!」
思わず突っ込みを入れながらも、冗談が言えるくらい元気が出たなら良かったと、オロカは考えていた。

二人でトイレの個室に入るとオロカは鍵を閉め、念のため耳をすませた。
周囲に人の気配が無いのを確かめると、ポケットから小さな紙包みを出した。
先程の話の終わりに、ドグマが爆撃機の玩具の中から引っ張り出して、オロカに渡したものであった。
「暗示郎。頼みがある。こういう事は、おまえのほうが向いていると思うから……」
オロカはそう言いながら、暗示郎に紙包みを握らせた。
「薬?」
暗示郎は呟いて、薄い紙ごしに透けて見える、内封された粉を見やった。
「そうだ。これはサンプルだが……。
できれば、何も聞かずに……これと同じ物を、できるだけ多くの人に、飲ませてくれないか?
もちろん、おまえや三郎も含めてだ。食べ物や飲み物に混ぜても、問題ない」
「……」
意図を探るように、暗示郎はじっとオロカの目を見つめた。
オロカは静かに見つめ返した。
理由は言わないほうがいいだろう。暗示郎が何かの命令をマルセルから受けている可能性も、無いとはいえない。
その内容によっては、知ってしまえば首が絞まるかもしれない。そう判断したのである。
「そう言われてもなぁ……」
暗示郎は、困ったように首筋をポリポリと掻いた。
「じゃあさ、理由は聞かないからさ……どういう薬かだけ、教えてくれない?」
「ん……」
どうしたものかとオロカが迷っていると、暗示郎は紙包みを軽く振ってみせた。
「サンプルってことは、試しに動物とかに飲ませてみてもいいんだよね?」
「わ、わかった……」
オロカは頷いて、明かした。
「飲んだら、一時間後に石化する。丸一日経てば、元に戻るらしい」
「石化ぁ? そ……」
そんなものをどこから、と聞こうとしたようだが、暗示郎は言葉を飲み込んだ。
「……何か、行動を起こすんだね?」
「あぁ」
力強く、オロカは頷いてみせた。
「みんなに飲ませる分をもらえるのは、いつ?」
「明日だ」
「わかった、方法を考えておくね」
暗示郎が自分のポケットに紙包みを収めるのを見て、オロカはほっと息をついた。
 
 
 
オロカと別れて、暗示郎が病室へと引き返していくと、中からガシャン!と金属音がした。
「三郎?」
慌ててドアを開けると、点滴のスタンドが倒れていた。
その傍で、三郎が床に手をついてうずくまっていた。
「三郎、大丈夫!?」
暗示郎は駆け寄り、三郎の横顔を覗き込んだ。
「はい……少し、立ちくらみがしただけです……」
小さいが、ちゃんとした返事があった事に驚いて、暗示郎は大きく目を見開いた。
その変化に比べたら、顔を背けたままである事など、ささいなものだろう。
暗示郎はスタンドを起こしてから、手を差し出した。
三郎は彼の手につかまり、おぼつかぬ足取りで立ち上がってベッドの脇に腰掛けた。
「なんだって、二日かそこら動かなかったぐらいで、こんなに足が萎えてしまっているんでしょうね……」
「あぁ、うん、それは……きっと、筋肉が衰えたとかじゃないよ。
体力がまだ十分じゃないんでしょ。でなきゃ、血行とかが悪いとかさ。あぁ、それに治療に使った薬のせいかもね?」
目が合わないまま投げかけられた問いに、暗示郎は口調に少々戸惑いを滲ませながらも、適当な推測を並べた。
「点滴も、本当はもう抜いてもいいんだけどって先生言ってたよ。取ってもらおうか?」
「はい……ちょっと、今ので針がズレたかもしれませんし、ね……」

処置を終えて出ていく医師と入れ違いに、暗示郎は病室に入っていった。
自動販売機から出してきたグレープフルーツジュースの蓋を開けて差し出すと、三郎は目を逸したままそれを受け取り、口につけてぐっと傾けた。
「……あぁ、酸っぱい」
きゅっと目を閉じて、三郎はそう言った。
「あ、ごめん、嫌いだった?」
「いえ……好きですよ。……まぶしいなぁと、思っただけです」
「まぶしい……か」
いい表現だなぁ、と暗示郎は口の中で呟いた。
「ねぇ……オロカに何か、言われたの?」
「……」
三郎は黙って、グレープフルーツジュースをもう一口飲んだ。
「いや、言いたくないんなら、いいけどさ」
「いえ……その……えぇと、ですね……」
何やら、恥ずかしそうに三郎は口ごもった。
「……そんなに頑張らなくて、いい……と」
「……ぁー、ぅー」
「……」
頭を抱えた暗示郎に、三郎は少しぎこちなく首を巡らせ、ようやく視線を向けた。
「どう、しました?」
「なんで僕ぁ、そんな簡単な言葉が出てこなかったかなぁ……言葉は僕の、商売道具なのにさ……」
「……あの人が……脊髄で物を言ってるだけの事じゃないですか……?」
「……ぷっ」
暗示郎は、小さく吹き出した。

三郎はゆっくりと立ち上がると、一歩一歩、確かめるように歩き出した。
「どこ行くの?」
「ちょっと……中庭くらいまで……」
「付きあおっか?」
「いえ、いいです。一人で、歩きたいんです」
「そう……行ってらっしゃい。あ、ちょっとこれ、着てきなよ」
暗示郎が寝間着姿の肩にガウンを着せかけると、三郎は小さく頭を下げて、素直に袖を通した。

「我ながら……現金ですよね……
まったく、これじゃ、誰かが救いの手を差しのべてくれるまで、不貞寝して待ってたみたいな……
あぁ……みっともない、みっともない……子供ですか、僕は……恥ずかしいったら……」
三郎は呟きながら、よろよろと頼りない足取りで廊下を歩いた。

広い廊下に出ると、曲がり角で一瞬大きくぐらつき、壁際の手すりにつかまって体を支えた。
「はぁ……体が重い……なんでこんな、動けなくなっちゃったんですか……
……あぁ、もぅ……力、入らないし……はぁ……」
壁にぐたっと肩をもたれかけさせ、ブツブツ弱音を吐いた。
しかし一つ溜息をつくと体を起こし、手すりに乗せた手を滑らせるようにして、再び歩を進め始めた。
「あんまり頑張らなくて、いいから……ちょっとだけ……ちょっとだけ、頑張ってみましょう……
逃がしてくれると言うのなら……いつでも、逃げられるようにしておかないと……自分の足で、ね……
ほら、また前みたいに抱えられてとか……そこまで手を煩わせるわけには、いきませんでしょう、ねぇ……」
自分をけしかけるように、同じようなことを繰り返し繰り返し、何度も呟いた。
 
 
 
暗示郎は、ベッドの三郎が座っていた場所に腰掛けて、投げ出した足をぶらんぶらんと揺らした。
「さて……どうしよっかなぁ。食事の中に入れるのが手っ取り早いけど……
何を注文されるかわからないし……盛りつけてから入れるとなると、見つかるかもしれないしなぁ……
それに、たいがいの人は食べにくるけど、料理好きな人は自分で作って食べてるしなぁ……
タイミングも問題だよなぁ……効果が出る時間がバラバラだとまずいよねぇ……」
ポケットに手を突っ込んで紙包みをいじりながら考えていたが、不意にピョンと立ち上がった。
「そうだ!」

暗示郎はオープンカフェの裏手にまわり、倉庫を開けた。
ダンボールを開け、中に入っていた瓶を取り出してラベルを確認すると、ニヤッと小さく笑った。
裏口から厨房を覗くと、マスターが振り向いた。
「おぅ、アンジェロ。友達の方はもう、いいのか?」
「はぁい、少し元気になってきたんで。
ところで、ちょっと今、在庫見てきたんだけどぉ。
栄養ドリンクの賞味期限、もうじき切れちゃいそうですよ〜?」
「あれなぁ、毎日いいもん食ってるのにわざわざこんなもの飲む必要ないって言って、注文する客が居ないんだよ」
「もったいないね。試供品とか言って配ったらどうかな」
「そんな、面倒じゃないか」
「僕がやるよ。マルセルも、金取らないくせに無駄にすると怒るじゃん」
「むっ……それもそうだな……」
マスターの承諾を取り付けると、暗示郎は倉庫に戻り、今度は紙コップを探しにかかった。
「飲まずに捨てられたら困るから、その場で飲ませないとね……
さてさて、飲みたがらない人には、何て言いくるめようかな……」
マインドパペット1.5 水色の庭園
30.
 
夕闇の中、オロカは一人佇んでいた。
視線の先には、火がつきやすいよう、枯れ草や枯れ枝を周囲にめぐらせた梅の木があった。
延焼を防ぐため周囲の木々も、梅の木に近い枝は切り落としてある。まだ、大火事を起こすのは早いからだ。
念のため、水を満たしたバケツや消火器(オロカは使った経験が無かったが)もいくつか用意しておいた。
季節というものがないこの庭園では、花が散っても一年を待つこともない。
枝には、既に小さな蕾がついていた。それを見ると、改めて心が痛んだ。
「ごめんな……おまえのことは好きだけど……三郎の方がもっと大切なんだ。
おまえはそんなつもりで生えてるんじゃないだろうが……おまえも三郎を閉じ込める檻の一部なら……
……ごめん……勝手だな……許してくれとか言う権利は、俺には無い……恨んでくれていい……」

マッチを擦り、ゴミ捨て場から拾ってきたボロ布に火を着けた。
それから数ヶ所に分けて枯れ草に火を移した。
枯れ草から枯れ枝へと火は広がり、やがて生木の焦げる臭いが立ち込め始めた。
大きく燃え立った炎が梅の木を包んでいくのを、オロカはじっと見つめていた。

「ん……?」
オロカは目をしばたたかせた。
そろそろ燃え尽きるかという頃合い。炎の中に、水色の影が揺らめいていた。
あれは何だろう、と刀を手に様子を伺っていると、影は音もなくすうっと消えていった。
もしや、鉄格子の一本が消えたという証だろうか、とオロカは考えた。
今では疑念も薄れていたものの、庭園に火を放てば出られるというドグマの言葉に説得力が伺えた。
 
 
 
「意外と早かったな」
真っ暗な部屋に戻ったオロカを、ドグマの声が迎えた。
「焼いてきた」
闇に向かってオロカは頷き、電灯のスイッチを入れた。
ドグマはまだ机の上に寝転んでいた。
オロカは机に近づくと、ぺこりと頭を下げた。
「……すまん」
「何がだ?」
「いや……人形は飯は食わないんだろうけど……寒かったんじゃないか?
気を回さなくて、悪かった。明かりもつけないままで……」
ドグマがあまりにも小さくかよわいので、"保護"してやらなくてはという気持ちにオロカは自然となっていた。
「この程度で音を上げるほど、やわではないわ。
第一、確かに暑さ寒さといったものも感じはするが、あくまでも感覚上の事。
本体の保温さえちゃんとしておれば、風邪などひかん。そのへんに抜かりはない」
「でも……」

オロカは、手を伸ばした。寝そべったままだったドグマは反応が遅れて、捕まえられた。
「何をするか!」
ドグマはジタバタと暴れた。
しかし非力に過ぎて、潰さないように力を加減しているオロカの指を振りほどく事もできなかった。
バッタみたいだな、などとオロカは顔に出さないよう気をつけながら、密かに思った。
「くぅっ……」
ドグマは、悔しそうに小さく声を漏らした。
力づくでの脱出を諦め、腰の指揮棒に手を伸ばそうとしたが、両腕を押さえつけられているせいで思うようにならない。
その動作も、今のドグマが無力に等しいと信じ込んでいるオロカの目には、単にもがいているようにしか映らなかったが。
空中に持ち上げられてしまうと、ドグマはチラッと床を見下ろし、暴れるのをやめてオロカを睨みつけた。
床までは、ドグマの身長の数十倍もの高さがある。落ちれば、大怪我をしかねない。
「ふン……ッ。脅迫のつもりか? 
確かにな、拘束されれば任意のタイミングで本体に意志を戻せなくは……なる。
が、どうせ時間になれば自動的に戻る。たとえその前に依代を潰したところで、その瞬間に本体に戻るだけだぞ。
せいぜい強制切断のショックで一時的に……そう、あくまでも一時的に、だ。
神経が麻痺し、ろくに動けなくなる程度……の、時間の無駄、にしかならんっ」
強がってはいるが、ドグマの声にはいつもの覇気が乏しかった。
以前、特に根拠もなくオロカがした指摘は、見事に的中してしまっていた。
ドグマが"無力になる事"への拭いきれぬ恐怖心を、心の奥底に押し込めている事が。
"あくまでも一時的"という言葉に、嘘は無かった。
が、見えず聞こえず動けもしないという虚無の牢獄──
──それは、時を経れば必ず回復する事であっても、彼には想像すら耐え難い苦痛であった。

ドグマをさいなむ恐怖と苦痛を完全に把握したわけでもなかったが、オロカは悪い事をした、無神経だった、と反省した。
「あー、いや、違う。運ぼうとしただけで、その……。一緒に、布団に入らないか?」
オロカの提案を聞いて、ドグマは露骨に顔を歪めた。
「ペっ、ペット扱い、すなっ!」
「いや、ペットだなんて思っていないが……じゃあ、えっと……」
ドグマを手のひらの上に乗せ、掲げるようにすると、オロカは再びぺこりと頭を下げた。
「お願いする。一緒に布団に入ってくれ。頼む」
オロカの嘆願に腕を組む──と見せかけて。
自由になった両腕で自らを掻き抱くようにして、怯えの名残を紛らわしながら、ドグマは虚勢を張って叫んだ。
「……かっ、勝手にしろ!」
そうか、立ててやれば、それなりに言う事を聞いてくれるのか。
オロカは、ドグマの操縦法がちょっとわかった気がした。
 
 
 
オロカは傍に刀を立てかけると、ドグマを手に乗せたままベッドに上がった。
ドグマはオロカの手から飛び降りると、さっさと布団に潜り込んだ。
明かりを小さくして横になり、オロカは何を話そうかと考えた。
雰囲気が悪くなる事も危ぶまれたが、以前からの疑問を投げかけてみることにした。
「なぁ……ドグマ」
「何だ。寝るなら、とっとと寝ろ」
「貴方は、三郎が嫌いなのか?」
「嫌いかだと? 好き嫌い以前に、忘れていたと言ったであろうが」
「そんなに印象、薄い奴かな……」
「噛みついても来なかった奴に思考の時間を割くほど、私は暇ではない」
「絡んできて欲しかったのか?」
「ち・が・う! 興味が無いと、言っておるのだ!
そもそも前提として、誰でも彼でも兄弟仲良くしたがってるなどと思うな!!」
「俺は……身内なんて一人も居ないから、兄弟が居るって事そのものが羨ましいけど……
だから、仲良くしたいと思わない、興味すら無いっていうのが、わからない」
「……」

ドグマはしばらく黙りこんだ末、ハァと溜息をついて説明した。
「いいか。貴様は何か幻想を抱いておるようだが……兄弟というのはな……たまたま血が繋がっているというだけにすぎん。
性格も違えば、嗜好も違う。まして私とあいつは腹違いの兄弟であるが故、育った環境も立場も違う。
おまけに、仮に本人にはその気がなかったとしても、周囲の者は何事においてもライバルとして競わせたがる」
「そうだったのか……」
オロカは以前、三郎はひょっとして育ちがいいんじゃないかと推測した事を思い出した。
確かに上流階級では、兄弟が跡取りの座をめぐって対立する事例が多いとは良く聞く話であった。
「そうだ。気が合わぬ奴と、血が繋がっているからといって、親しく付き合わねばならぬ理由がどこにある。
まぁ……そうだな。確かに、昔はあいつの事が嫌いだった時期もある」
「どうして? 『噛みついても来なかった』って断言するって事は……『仮に』とかじゃなく……
周囲はともかくとして、三郎自身は勝負を避けてたのが、貴方にはモロ分かりだったんじゃないのか?」
「『噛みついても来なかった』、というのは競争だけの話ではないが……その点で言うなら、だからこそ、だ」
ドグマは、憤然として鼻を鳴らした。
「あいつの考える事は、こうだ。
強くなろう、オリジナルの技術を編み出そう、そして人より上に立とう、などいう気はさらさら無い」
「ふぅん?」
「例えば武術においては、相手を殺傷するための武器の使い方など、覚える必要は無い。
襲われたりした時にある程度身を守り、逃げきるに必要なだけの体術を修めれば良い。
魔術においては、着実に実力を鍛え研ぎ澄まし、それを証明して周囲から認められる必要など無い。
自分にとって便利な術や魔具の操り方だけ、つまみ食いしてそこそこに習得すれば良い……そんな様にな」
「……魔術って、つまみ食いでもそこそこできるものなのか……」
「その魔具すら、作成技術の習得や、作成行為自体にかかる労力・時間を惜しんで、他人に作らせたもののようだ。
作成者自らに合わせた、いわゆる"専用品"でない魔具というのはな……
ある程度の実力さえあれば誰でも使えるかわりに、備える魔力はたいがい高くない。
しかしそれで妥協し、かつ誰よりも巧みに使いこなす。
しょせん"汎用品"には限度があるとはいえ、そのギリギリいっぱいまで活用してな」
「本当に器用なんだな、三郎は……」
「要するに、奴はたいした努力もせず、中途半端にそこそこにではあるが、要領よくさらっと技術を身につけていくのだ!」
「それのどこが、気に障るんだ?」
何をどう身につけたいかだなんて人それぞれじゃないか、と思いながらオロカは首を傾げた。
「気にも障ろうというものだ!
時空渡りなど、普通できるようになるまで、何年地道な訓練を続けねばならんと思っている!
今の私でさえ……時空潮流に巻き込まれるなどの失敗を犯し、抜け出る為に魔力を使い果たして、漂流するはめになるような事も……ごくまれには、ある!
それほどの、高等技術だ! それを、あやつめ……!」
「よくわからんが、危険を伴う難しい事なのか。漂流……あぁ、あれ、失敗だったんだな……」
オロカはドグマを初めて発見した時、彼が意識を失って木に引っかかっていた事を思い出した。
「あんなやり方ではなく真面目に努力しておれば、どれほどの術師になれるものかと、嫌でも思わされる!!」
「三郎は……貴方が嫉妬するほど才能があったのか?」
「だれが嫉妬しておるか! 術者としての実力は、結果的には私の方が遥かに上に決まっておる!
あんな半端者に後れを取るはずもない! 嫉妬など、するまでもないわ!!」
「でも……」
「ただ単に、腹立たしいのだ!
本気でやりさえすれば、きっと弟君の方が上に違いない、そんなふうに周りの者が私とあやつを見比べるのが!
それとも何か? 私が勝ちを譲られていると、私の不戦勝にすぎぬと、そう言いたいのか!!」
ぐぐぐっと、殴りたい者が目の前にいるかのように、ドグマは拳を固く握りしめた。

「……変な事を気にするんだな、貴方は……いや、その周りの人達もだが……」
しばらく考えてもドグマの気持ちが良くわからなかったので、オロカは率直に言った。
「変、だと?」
ピクッとドグマはその言葉に反応して、オロカを睨みつけた。
「あぁ、変だ。だって、不戦勝なわけないじゃないか。完全に、貴方の勝ちに決まってる」
「何故、そう言い切れる?」
「えぇと……」
どう言ったら自分が直感的にそう判断した理由をわかってもらえるかと、考えてからオロカは口に出した。
「だって……"努力"なんて言葉にしてしまうと簡単に聞こえるが、誰でも努力ができるわけじゃない。
だから、『もし努力してたら凄い実力が身についていたに違いない』だなんて、言い訳にもならない」
「……ほう?」
「貴方は努力家だったんだな。気が短そうに見えるから、てっきり天才肌なのかと思ってた。
貴方は努力ができていた人だから、努力すればって簡単に思うのかもしれないが、それって凄い事だ」
「褒めたいつもりがあるなら、気が短いは余計だ」
「すまん。えぇと、つまり……三郎には欠けてた重要な能力が、貴方にはあったという事だ」
「能力?」
「あぁ。"地道な努力ができる"という、能力だ。
三郎のようなタイプも俺は格好いいとは思うが、貴方のような人は尊敬するな」
「……」
「貴方は、思っていたほど悪い人じゃないみたいだ」
「……フン!」
ドグマは横になったまま、くるりと背中を向けた。

「努力した経験など無いかのように、言うではないか」
「俺?」
「他に誰がいる。刀など、地道な努力も無しに自在に振り回せる武器ではないぞ。
形ばかりの生半可な修練では、刀の方に振り回されるのが落ちだ」
「へっ……?」
彼にとっては意外な言葉に、オロカはつい間抜けな声を出した。
「努力なんて俺、してないぞ? だって……体を動かすの、好きだし。
辛いとか苦しいとか、そういうの一線を超えれば快感になってくるし。
一日訓練をやり終えて、あー疲れたー、って思っても、あぁ充実した一日だったなって思うと満足して眠れるし」
「……」
「好きだからやれてただけで……勉強とかそういう嫌な事は、やってもサッパリわからんから、早々に投げてしまったぞ。
一応、ちゃんと勉強したと言えなくもないのは、モスタリアから落ちた後、そこの言葉を覚えた時ぐらいだけど……」
「……」
「それだって俺が努力したというより、周りの人達が努力して、根気よく仕込んでくれただけの事だ。
俺、何度同じ事を聞き返して、呆れられたか知れないし……随分、世話になってしまった。
そもそも、いきなり言葉の通じない異国に放り出されるなんて事にならなければ、学ぼうだなんて……」
「馬・鹿・かッ!」
一音一音区切るようにして、ドグマは吐き捨てた。
「剣術にしろ、語学にしろ……そういうのも、世間一般では"努力"と言うのだ!」
「え……」
オロカは、ドグマの小さな背中をしげしげと見つめた。
「そう……かな? ありがとう……」
「……」
ドグマの返事は無かった。
オロカはしばらくそれを待っていたが、諦めて目を閉じた。

オロカが熟睡に入ったのを確認すると、ドグマはモゾモゾと布団から這い出した。
シーツを伝って慎重にベッドから床へと降りると、ポケットからチョークのような物を取り出した。
そして、床面に複雑な魔法陣を描き始めた。

 
 
 
まだ薄暗さの残る早朝──
オロカが眠りから覚めかけて、うとうととまどろんでいると、突然腹に蹴りを叩きこまれた。
「ぐぇっ!」
「いつまで寝ている。さっさと起きろ!」
腹をさすりながら目を開けて見上げると、そこにドグマが──
──人形のドグマではなく、本物のドグマの長身がそそり立っていた。
「あ……」

──命令させてもらうわ。侵入者を見つけたら、あなたの力で倒してね。
  倒すのが到底無理なほど強敵だったら、極力みんなや楽園に被害が出ないように立ちまわること。いいわね──

マルセルの言葉が脳裏をよぎった。
今のドグマは意識不明の遭難者ではなく、ちっぽけでかよわい人形でもなかった。
斬らなきゃ? いや、駄目だ!
そう思ったとたん、オロカの首の良心ロープがぎゅうぅぅっと締まった。
「ぐ……うぅぅ……っ」
かぁっと頭が熱くなり、ぱくぱくと口を動かしても空気が胸の奥まで入ってこない。
オロカは苦しさのあまり、思わずのたうち回った。勢いで、布団が蹴り落とされた。
若干冷静さを取り戻し、良心ロープに手をかけて少しでも隙間を作ろうと試みたが、喉に食い込んだそれはびくともしない。
そんなオロカを気遣う素振りも見せず、ドグマは手袋に包まれた指を彼に突きつけて言い放った。
「オロカ。我に忠誠を誓え。くたばる前に、契約を結ぶがいい」
「……っ」
オロカは声もろくに出せず、どうすれば、と救いを求めるように見上げた。
「私との契約方法は簡単だ」
ずい、と軍靴に覆われた片足がオロカの目前に突き出された。
「口づけしろ」
「……!」
それは、最大級の屈辱であった。
ドグマに仕えるという事については、慣れれば案外そう悪い相手でもないかもしれない、と受け入れつつあった。
しかし、そこまでのことをせよと言われるとは思いも寄らず、武人として──否、それ以前に人としての矜持が邪魔をした。
「ぁ……ぐっ……」
時間の経過と共に、ますます首が絞まる。
脳への血流を阻害され、オロカの頭はぼうっとなり、体の力が抜けていく。
「躊躇っている暇があるのか?
目的を果たすよりも、己のプライドを守る方が大事と思うならば、勝手にするがいいがな?
このまま窒息死するなり、私に斬りかかってくるなり?」
ドグマはいったんベッドから降り、立てかけてあった刀を取ると、オロカの手が届く位置に放った。
そして、空の両手を見せびらかすようにひらひらと振ってみせた。
「そら、今ならタクトを手にしてはおらん、斬れるかもしれんぞ?」
どん、とオロカの目前に再び片足が振り下ろされた。刀と靴が、彼の視界に並んだ。

目的──
オロカは目を閉ざして、三郎の姿を思い浮かべた。
何も見ていない、半開きの目。
無気力に横たわりながらも、全てを拒否してこわばらせた体。

あいつはここじゃ生きていけない! あいつを救いたい!
その為なら、ほんの一時、恥辱に耐える事など、何だ!!

オロカは目を見開くと、痺れた両手にぐっと力を込め、ドグマの片足をつかんで引き寄せた。
叩きつけるように勢いをつけて、唇をドグマの軍靴に触れさせた。
その瞬間、ふっと首が楽になった。
オロカは強いめまいに襲われ、ベッドに倒れ込んだ。

「……ふむ」
ドグマはオロカの鼻先に指を持って行き、首筋に手を当てて、息と脈があるのを確かめた。
「間に合ったようだな。まぁ、よくやった、と言ってやる。
本当は別に靴でなくとも、手袋だろうと上着だろうと、何でも良かったのだがな……
心から私に心酔したわけでもあるまいが、少なくとも生半可な覚悟ではないという事は、見せてもらった」
ドグマの賛辞は、意識を失ったオロカの耳には聞こえていなかった。
「褒美に、貴様が用済みになったら、自由にしてやろうぞ……
居たければ居るがいいし、去りたくば去るがよい。
私の場合は"この靴を自ら焼き捨てる"、それだけで良いのだからな……」
 
 
 
「オロカ、おっはよー♪」
明るい声とともに、暗示郎が部屋のドアを開けた。
「ふぇっ……あ、あんた、誰?」
ベッドの上で倒れているオロカの傍に屈んだ、見慣れぬ体格のいい男──ドグマを目にして、暗示郎は身を固くした。
正確に言えば、二人は初対面ではなかった。
が、ほんの一時、しかもいくらか距離を隔てての交わりであった。
だから、暗示郎もドグマも互いの容姿まではほとんど覚えていなかった。
「……」
ドグマは振り返って、ギロリと暗示郎を睨みつけた。
「私は、私だ!」
「え、えーっと……」
暗示郎は四、五秒の間ドグマを──加えて、ドグマとオロカとの距離感を観察した。
そして、ころっと態度を低くした。
「すみませぇん。僕、オロカの友達でアンジェロって言います。友達はみんな暗示郎って呼ぶけど。
で、えーと、オロカとどういう御関係なのか、教えてもらえますぅ?
あ、もちろん、何を聞いてもマルセルに告げ口したりはしませんよ、ハイ! オロカとの友情に賭けて!」
あんな奴なんかにねぇ、的なニュアンスを滲ませて、暗示郎はマルセルの名を口にした。
ドグマは、すくっと立ち上がって答えた。
ベッドの上ということを差し引いても、小柄な暗示郎とは相当の身長差があった。
「こいつの主君だ。つい先程からな」
「しゅ……。あの、もしかして三郎とも、何か……」
「一応、アレの兄だが?」
「にっ……似てなーぃッ!」
「それがどうかしたかッ! 似ているなどと言う奴がおったら、気色悪いわ!!」
「いえ、すいませーん!」
暗示郎は面食らいながらも、ある程度状況を理解した。
「いやぁ、あっはっは。
三郎と違って、見るからに強そうで意志のしっかりしてそうな方なので、兄弟だなんてとても思えなくってぇ……
僕、思わず耳を疑っちゃってぇー、ごめんなさーい!」
「ふン、調子のいい奴だ! で、何の用だ、おべっか使いが!!」
そう罵りながらも、ドグマはまんざらでもなさそうだった。
シメシメと口の中で呟きながら、暗示郎は説明に入った。

「それで、あのー。オロカから、石化の薬を皆に飲ませるように、頼まれたんですよー。
貴方からお預かりすればよろしいんでしょうかー? 非才ながら誠心誠意、がんばりまーす!」
「そこまで知っているならば、口からでまかせではないようだな」
ドグマは顎をしゃくって、机の上に放り出されていた袋を示した。
「それだ。持っていけ!」
「わっかりましたぁー! あと、終わったら連絡とかは……」
「これを貸してやる」
ドグマは軍服の上着につけているいくつかの勲章のような物のうち、一つを投げてよこした。
「その飾り部分を押しながら喋れば、通話可能だ。この庭程度の広さなら、どこでもな」
「承知しまっしたー! 助かりまーす!!」
ひょい、と暗示郎は敬礼の真似事をしてみせた。
「あ、オロカは……気を失ってるだけ、ですよね?
目を覚ましたら、『三郎が喋ってくれた、君のおかげでね』って言っといてもらえます?」
「ふん……よかろう!」
「ありがとうございまーす。じゃっ、失礼しまーす!」
暗示郎は、そそくさと薬の入った袋を手に取ると、部屋から走り出ていった。

「うっひゃあ、友情だって! 誠心誠意だって! 口が腐るぅ!!」
廊下を小走りに駆けながら、暗示郎はぺっぺと小さく唾を吐く仕草をした。
「しっかし……主君、だってぇ?
友達のために一生に関わることを決めちゃうなんて、オロカも良くやるねぇ……
大丈夫なのかな、あのデカいの? 目付きが凶悪だけどなっ?
オロカを犯罪に巻き込んだりとか、しないだろうねぇ?」
少しばかり心配しながらも、とりあえず目先の目標を達成するための段取りの方へと、暗示郎は頭を切り替えていた。
マインドパペット1.5 水色の庭園

31.



「いつまで寝ぼけておるか、たいがいにせよ!」
バシバシバシンッ!と強烈な往復ビンタをくらって、オロカは意識を取り戻した。
「ドッ……ドグマ?」
ひりひりと痛む頬をさすりながら目を開けると、ドグマが胸ぐらをつかんでいた手をパッと離して、彼をにらみつけた。
「ようやく起きたか、この寝坊助が!」
ドグマはズボンのポケットから金色の懐中時計を出して、文字盤に目をやりパチンと蓋を閉めた。
「20分ほど前に、アンジェロとかいう小僧から連絡が来た。
あとは愚弟に石化薬を飲ませて、自分も飲むだけだとな」
愚弟といえば普通はへりくだって言う表現だが、ドグマは実際に三郎の事を見下していると言いたげだった。
「アンジェロ? あぁ、暗示郎のことか……」
「そろそろ準備を始める。伴をせい!」
ドグマはベッドから降り、ずかずかと早足でドアに向かって歩き出した。
床の付近を漂う良心ロープをまたいで通ろうとしたが、上げた高さが足りなかったのか、足に引っ掛けた。
「あっ……」
オロカが注意を促す間もなく、ドグマは躓いて派手にひっくり返った。
ベタン!と両手を床について、顔面衝突をかろうじて防いだ。
「……ッ」
「おっ? おい……大丈夫か?」
ドグマらしからぬ失態に、ついニヤけてしまった口元を手で覆いながら、オロカは声をかけた。
「馬鹿者! 貴様が先に立って歩かんからだ!
護衛なら護衛らしく、進んで盾になろうという気概を見せんか!!」
がばっと顔を上げてドグマが怒鳴った。
「も、申し訳ない……」
「フン!」
ドグマの八つ当たりに平謝りしつつ、オロカは首の良心ロープに触れた。
「さすがに、これが無くなるわけじゃないんだな……」
「言ったであろう、支配が"停止"するだけだ。"消滅"するわけではない。
それでも命令を聞かずとも良くなるだけ、ありがたいと思え」
「そうだな……」
床で打った膝を軽くさすりながら立ち上がり、ドグマは思い出したように伝えた。
「そうそう……アンジェロとやらが言っておったぞ。愚弟が喋ったとな」
「えっ……!?」
オロカは驚きに目をしばたたかせた。
「そうか、三郎が……良かった。
さすが暗示郎だな。良く、あんな状態の三郎の世話を、献身的に焼いてくれたもんだ。
俺だったら、あの沈黙に長くは耐えられない……」
そう言ったオロカを、少々眉を寄せてドグマは見やった。
「……あっちは、貴様のおかげで……と、言っていたがな」
「は?」
オロカは首を捻った。
「俺? 俺が……何か、したっけ?」
一応三郎に言葉をかけはしたが、オロカとしては半分独り言のつもりだったのである。
「……貴様は」
ドグマは大袈裟に肩をすくめて、溜息をついてみせた。
「事情は良くわからんが、言える事はひとつある」
「ん?」
「私にせよ、愚弟にせよ、あのアンジェロとかいう小僧にせよ……
己とまるで異なるタイプの者にも、長所を見出す事ができるというのは、いい事だ。
だがな、己の長所にも少しは自覚というものをせよ! 度が過ぎると、ただの嫌味だぞ!!」
「えー……」
俺に長所なんてあるのだろうか?
せいぜい刀を振り回せる事くらいだろうが、ここじゃそれが役に立った試しが無い。
パイド・パイパーとか言う奴は斬りはしたが、後で聞いたら小石一つ投げても倒せたらしいし……
そうオロカは思ったが、そう言うとまた怒られそうなので慌てて頷いた。
「わ、わかった……」
「ふン!」
 
 
 
ドグマは人目を避けてか森の中に入ると、地面に爆撃機の玩具を置いた。
「いつでも火を放てるようにしておく。周囲を警戒せよ」
「了解」
オロカは短く答え、刀を手にして、辺りに視線を巡らせた。
ドグマはしばらくタンッタンッタンッタンッと軍靴の爪先で地面を叩き、リズムを取るようにしていた。
やがて、おもむろに指揮棒を振り始めた。
「変化に怯え 変化を生み出す──」
「えっ……?」
周囲の警戒を命じられたにも関わらず、思わずオロカはドグマの居る方を振り返っていた。
ドグマが歌っていた。
地の底から響きわたるがごとく、低く重厚な声。
それでいて、歌詞の意味を理解する前に心の底まで一気に押し入ってくるような、良く通る声で。
「それが進化か臆病者め 絶対不可侵の己を持てば 何に怯える事も無い──」
いかん、見とれてる場合じゃない。見張りをしなければ……そうオロカが思い、視線を戻そうとした瞬間──
ガクンッ、と何か強い衝撃でも受けたように、ドグマの全身が大きく弾かれた。
関節という関節をピンッと伸ばしきり、その手から指揮棒が転がり落ちた。
「ドグマ!?」
何が起きたのかわからなかったが、ともかく異変を察知して、オロカは地を蹴った。
丸太のように、全く受身を取ろうともせず倒れこもうとしたドグマの長身を、半ば自分の体をぶつけるようにして受け止めた。
「ドグマ、どうした! ドグマ!?」
ドグマは大きく目を見開いたまま、硬直していた。
誰かに魔術か何かで攻撃されたのか、とオロカはドグマを抱えたまま、辺りに視線を走らせた。

『しくじった……』
「えっ!?」
頭の中に、自分の意志でない言葉がポンッと唐突に響き、オロカはこめかみに手を当てた。
『……私だ。ただの念話だ、馬鹿者』
「ド、ドグマ?」
『そうだと言っておろうが。
とりあえず、私の額に貴様の額を押し当てろ。それが一番、消耗が少なくて済む。
元々、契約した者に対しては、たいして労力の要る事ではないが……今は、わずかなりと節約が必要だ。
あぁそれと、目を閉じさせろ。乾いてかなわん』
「そっ……それはいいが、喋れないってことか? まばたきもできないのか?
それって、心臓動いてるのか? 息はできてるのか?」
『苦しいことは苦しいが、なんとかできておるわ、早くせい!』
「わ、わかった……」
オロカは慌ててドグマのまぶたを指で押さえて、目を閉じさせた。
『痛ッ』という言葉が、小さく頭に響いた。

「何があったんだ?」
オロカはドグマの額に自分の額をくっつけて、問いかけた。
決して冷え性などではなく、むしろ体温は高い方であるはずなのに、ドグマの肌は妙にひんやりとしていた。
『最悪だな……反動をくらっただけでなく、オーバーフローを起こして魔力容量がほとんど底をついた』
「おーばー? 魔力ようりょう?」
『ゲームで言えば、最大MP……と言ってもわからんか』
「わからん」
『要するに、魔術を使うのに必要な、スタミナみたいなものが流出してカラっぽに近いという事だ……糞ッ』
「なんで、そんなことが……」
『皆まで言わすな、術の制御に失敗したのだッ!
まぁ……確かに、考えてみれば条件はあまり良くなかった。
水属性のステージで火属性の術を使うという、アウェー状態は元より承知の上。
その程度のハンデは、くれてやるというつもりだったが……
瞬間移動の直後で、それなりに消耗はしていた……大出力の術を使うには、少々障りがあったか……
それに……体のサイズが急に変わったせいで、イメージに不可欠な空間認識力に狂いが生じていたかもしれん』
「だっ……」
だったら、日を改めれば良かったじゃないか──と言いかけて、オロカは口をつぐんだ。
ドグマのような強気すぎる性格では、疲れたから休みたいなどとは言いづらかったのかもしれない。
あるいは、そもそも休息が必要という事に、自分で気づいていなかったのかもしれない。
自分の気力体力を過信して、つい限界を超えて働き過ぎてしまうといった失策は、ドグマはいかにも犯しそうなタイプだ。
こういう主に仕える部下は、気を利かせて「念には念を入れて、どうか御休息を」と勧めないといけないのだろう。
いつ、灯火が消えるように息を引きとってもおかしくないと思ってた三郎が、少しでも持ち直したのなら尚更だ。
目が覚めた時にはもう始まっていたとはいえ……いや、そもそも俺が無様に気を失ったりしたのがいけなかったんだ。
オロカはドグマに主従の契約を迫られた時、即断即決しなかった事を深く後悔した。

『寝れば魔力は回復するが、既に薬をバラ撒いた以上、のんびり寝てもいられんな……どうするか……』
「薬……回復する薬みたいなものは、ないのか?」
『存在はするが、あれは貴重だ。持ち合わせが……いや、待てよ。それだ!』
「あるのか?」
『まだ持っているかもしれん。私がではなく、愚弟がな』
「三郎が?」
『玉璽だ。あれは魔翠玉でできている』
「ぎょくじ……っていうと、確か……」
『要するにハンコだ』
「そうか、王様とかが使う……って! 何で、三郎がそんなものを!?」
『奴が盗って逃げ……いや、そんな昔話はいい! 探して持って来い!!』
「だっ、だが……貴方を置いていって、大丈夫なのか?」
『貴様一人で行くのと、私を担いで行くのと、どちらが目立つと思っている!
脳ミソが足りない癖に余計な事を考えるな! とっとと行かんか!!』
「わ、わかった……!」
オロカはそっとドグマを地面に横たえると、三郎の部屋へ向かってまっしぐらに走っていった。

魔力を回復する算段は着いたが、もう一つ問題が残っていた。
ドグマは、オロカが遠ざかった頃合いを見て、こわばった手足をそろそろと動かそうとした。
とたんに、ぎしっと錆びた機械がきしむような感触と共に、ビリリリッと電流にも似た激痛に全身を貫かれた。
「──!!」
見栄っ張りな彼にとっては幸いな事に、悲鳴が声として出るには、体の自由が利かなすぎた。

熱暴走を繰り返したあげく、回路があちこち焼き切れ、赤錆にまみれたスクラップと化して転がっているロボット──
ふとドグマは、そんなものを己の五体に幻視した。
そして言葉を発する者も居なくなった、森の静寂を意識した。
じわじわと、気丈を装っていた彼の心を"無力という恐怖"の闇が侵食していた。
 
 
 
「三郎、こんなとこに居たの? 探したよォ〜」
病院の屋上で柵にもたれて座っていた三郎は、暗示郎の声を聞いて閉ざしていた目を開いた。
既に寝間着姿ではなく、きちんと服を着こみ、いつものコートと帽子を身につけていた。
「廊下や中庭だと……どうも、人が通るもので。ちょっと、跳んでみたかったですし」
「跳ぶって、冗談でも嫌な事言わないでよ」
暗示郎は眉をひそめて、柵をちらっと見やった。
「いや、そういう意味じゃありませんよ。飛び跳ねる練習を、ね。
その後、少し休憩をしていたところで……」
そう言って三郎は、サンダル履きの爪先をちょいと上げて見せた。
「なぁんだ、寝てたの。どうりで、呼んでも返事がないと思った」
「えぇ、まぁ……」
三郎はコートの内ポケットから懐中時計を取り出し、文字盤に視線を落としてパチンと蓋を閉めた。
蓋の表面は焦げ跡が酷かったが、ところどころわずかに銀色の光沢が残っていた。
「寝る気ではなかったのですが、どうやら、うとうととしていたようで……」

「やっ、せっかく動き回れるようになったのに悪いんだけどさ……」
暗示郎は声を潜めて三郎に近寄り、ディバッグから紙包みと水筒を出した。
「これ、飲んでくれる?」
三郎は、いぶかしげな目つきを紙包みに向けた。
「それは……もしかして、魔法薬ではありませんか?」
「ごめん、説明してる時間無いんだ。悪いようにはならないから、とにかく急いで」
「そう言われましても……」
「僕も飲むから、ねっ!」
三郎はじっと暗示郎の瞳を見つめ、何やら切羽詰まった様子を察した。
「わかり……」
ました、と答えかけた時、三郎の第六感がピリッと警報を発した。
素早く身を起こし、そのまま全身をバネとして大きく飛びずさろうとした。
しかしその足が地を離れる一瞬前に、階段に続くドアの影から、高く鋭い声が走った。
「動かないで!」
その声に打ちのめされたように、三郎はがくんと膝をつき、前のめりに倒れこんだ。
「さぶろ……」
彼を支えようと手を伸ばしかけた暗示郎もまた、足腰から力が抜け、尻餅をついた。
水筒がガチャンと床に転がり、紙包みが木の葉のようにふわりと落ちた。

半開きだったドアが開いて、マルセルの水色の頭が覗いた。
その手には、三郎と暗示郎、二人の首から伸びる良心ロープがぎゅっと力を込めて握られていた。
ゆらりと近づいてくる彼女の浮かべる微笑を目にし、二人は寒気を覚えた。
普段は、命令に背いた者の首を良心ロープが自動的に締めるだけで、それ以外は基本的には野放しにされている。
しかしその気になればマルセルもまた、ドグマと同様、支配下にある者を操る事は可能なのだ。
「駄目よ。こんなオイタをしちゃぁ……」
メッ、と小さな子供を叱るように、マルセルは告げた。
そして、暗示郎の足元に落ちた紙包みを拾い、彼のディバッグに手をつっこんだ。
「あっ……」
暗示郎は手を伸ばしてそれを妨げようとしたが、腕に力が入らず、床から持ち上がりもしなかった。

「ごめん、三郎……僕が、前もって言っておけば……」
「……」
三郎は倒れたまま、小さく首を横に振った。
暗示郎は、三郎がまた絶望に打ちひしがれてしまうのではと心配するように、彼の横顔をおそるおそる見やった。
しかし、三郎の眼差しは、まだ何かを諦めてはいなかった。

マインドパペット1.5 水色の庭園

【出典】

・月の沙漠/作詞:加藤 まさお  作曲:佐々木 すぐる
・サーカスのライオン/発行:ポプラ社 作:川村 たかし  絵:斎藤 博之

第4章「楽園に火を放て(後編)」>>


水色の庭園
 
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