第4章「楽園に火を放て(後編)」




32.
 
「なるほど……」
三郎と暗示郎に口を割らせ、マルセルは眉をひそめて考え込んだ。
「ところで、三郎。懐に何を隠しているの? 武器か何かかしら? ちょっと出して、見せてちょうだい」
マルセルの言葉と共に、三郎は両腕に少し力が戻ってきたのを感じた。
脚はまだ完全に萎えたまま。良心ロープもマルセルの手に握られたまま。
サンダルに備わる魔力を用いたとしても、飛び跳ねて命令の聞こえない場所まで逃げる事は到底できそうもない。
また試すまでもなく、別の時空へ渡るといった事も、良心ロープに繋がれたままでは絶対に不可能であると解っている。
が、彼は状況を改善する好機を見出し、素早く計算を巡らせた。
「これ……ですか?」
三郎は床に手をついて身を起こすと、コートのボタンを外し、懐から薄桃色をした片翼だけの羽飾りを抜き出した。
「それは……何かの術を補助するための魔具かしら?」
「えぇ。"ペ天使の偽翼"──"サブリミナル・リング"の生成をサポートし、操る為のものです。
隠していた訳ではないですが、昨日からこうしてちょこちょこと魔力をチャージしていたのですよ。
技術はセンスがあればどうにかなるものですが、魔力容量は一朝一夕で増加が見込めるはずもありませんからね」
「と言うことは、貴方が使う目的ではなく、誰かに使わせるつもりだったのかしら?」
「そうです……と言っても当初は僕が使うつもりで、ある付与魔術師の方に作ってもらったのですよ。
"ペ天使の偽翼"は扱うのにたいした修練は要らず、汎用品の枠を超えて比較的高い魔力を備える。
ただし、魔具の方が使い手を選ぶタイプですから、適した素質や素養が必要、と。
まっ、"サブリミナル・リング"は風属性の術ですので、ちょうど僕と属性が合ってますし……
運が良ければ楽して特技が増える、試して損はないかな〜などと」

魔術には、いくつもの系統がある。
支配魔術、時空魔術、付与魔術、死霊魔術、元素魔術、幻覚魔術、治癒魔術などと呼ばれている。
その中でさらに、土水火風の四属性に一つ一つの術がグループ分けされる。
(ただし、属性は違うが似たような効果の術、というのも存在する。特に、基礎的な術には多い。
また、水と風、土と火など友好的な二つの属性の中間に位置する術も、少ないながらも存在する)
術者もまた、生まれつき土水火風の属性を備えている。
術者の属性と術の属性が合っているかどうかで、習得の難易度や効果の強弱に違いが生じるのである。
ちなみに場所も属性を持つ事があり、系統や術の種類にもよるが成功確率や効果の強弱に影響を及ぼすこともある。
例えば、元素魔術は比較的、他系統よりも場の属性の影響を受けやすい傾向にある。
火属性の"ファイアーボール(火球を生み出しぶつける術)"は、水中ではほぼ使えない。

「それでどうだったの、素質の有無は?」
「駄目でしたね。"サブリミナル・リング"を飛ばすまでは行けるんですけど、当たってもろくに効果が現れませんで。
捨てるのももったいないですから、別の付与魔術師と会った時にでも交換してもらおうと、しまいこんであったんですよ」
「あら、あなたらしくもないこと。
術の習得過程がおそろしく早い天才児が居るって噂、モスタリアの外にまで届いていたわよ?」
「いえいえ、天才だなんて! 何かのお間違いではないですか?
僕など人よりちょっとばかり早熟だっただけの、ただの器用貧乏ですとも。
まぁ……要は、支配魔術の素質は僕には無いってことですね。
もし"ペ天使の偽翼"を使いこなせれば、苦手分野にもひとつくらい強みができると思いましたが……
世の中、なかなかにしてそうウマい話はありません」
フッ、と息を漏らして、三郎は口元にうっすらと微笑を浮かべた。
「あらあら?」
マルセルはにこやかに笑みを浮かべて、三郎の顔を覗き込んだ。
「支配魔術が苦手分野? そんなはずはないでしょう? あなたの血統から見て、どう考えても!
まだ、敵対属性の術だから手が出なかったとかならわかるけど、同一属性の術の効果が弱いはずがないわ!!
それに噂はこうも伝えているわ……
エイリアスが世にも稀な達人になることができたのは、血統のせいだけではない。
"天才"の弟に負けまいと、血を吐くような"努力"を積み重ねたからだ、とね……」
どう?と言いたげにマルセルは胸を張って、笑顔を貼りつかせたまま三郎を見下ろした。
三郎も、爽やかな笑顔でそれに応じた。
「いえいえ、兄とは比べものにならない半端者で!
僕との相性がいい、植物を操るのが精一杯なのですよ!!」
「まぁ、謙遜しなくたっていいのよ! ウフフフ……」
「謙遜ですって? そんなのではありませんよ、フフッ……」

「何この二人……この状況で、なに笑ってんの?」
蚊帳の外の暗示郎は一人、薄ら寒さを感じながら呟いていた。

「そういうわけで、暗示郎さんに使ってもらおうと思っていたのです」
「えぇっ! 僕ぅ!?」
魔法だかマジックアイテムだかの話なら自分には関係ない、そう決め込んでいた暗示郎は仰天した。
「ま、待ってよ! 僕は魔法使いでも何でもないよ!
魔法なんてパソコンゲームやテーブルトークRPGでしか使ったこと無いよ!!」
「いえ、僕が見たところ、貴方には素質がありそうです。
さっきも言ったように、たいした修練は要りません。ものは試し……ね」
「そうね、暗示郎向きの術かもしれないわ……"サブリミナル・リング"は。
調べてみないとわからないけれど、暗示郎も風属性な気がするし」
「ちょっとぉ!!」
「暗示郎さん……心配ありません、僕がしっかりレクチャーしますから」
ぽん、と三郎は暗示郎の肩に手を置いた。

『聞こえますか、暗示郎さん?』
不意に、頭の中に自分の意志によるものではない言葉が響き、暗示郎はビクッと肩を震わせた。
『僕です、三郎です。大丈夫、この会話は僕達にしか聞こえていません。
触れ合っていれば、他者から傍受される事はありませんから。
とりあえず、顔に出さないで……表では、適当にゴネておいてください、こちらの話が終わるまで』
暗示郎は、マルセルに気取られないよう、ごく小さく頷いた。
「ヤダヤダヤダァ、それってオロカ達と戦えってことでしょぉ?
そりゃあ捕まった時、三郎はそういうことさせられるのかな〜って思ってたけど、なんで僕も?
僕まで巻き込まないでよぉ、三郎! ウェイターが魔法で戦うバトル物なんて聞いたことないよぅ!!」
「貴方、イタリアに居た頃からウェイター歴は長かったと聞きましたが、所詮アルバイトでしょう?
本業は、薬学部の学生だったんでしょう? 古来より、薬学と魔術は密接な関わりが……」
「そんな無茶苦茶なァ!
薬は薬でも、魔女が笑いながら鍋のドロドロかき回してる、あぁいうのと一緒にしてるんじゃないの!?
ソッチの世界じゃどうか知らないけど、お薬はゲームのポーションみたいに一瞬で傷が治ったりしないんだよ!!」
『……はい、その調子です』
三郎と暗示郎は、表面上はちょっとした喧嘩のようなやり取りを続けた。
幸いマルセルは口を出さず、説得を三郎に任せているようだった。
"命令して強制的に従わせる"よりも"自主的に行動してもらう"方を好む嗜好のせいだろう。
──と言えば優しく聞こえるが、結局いつも支配下にある者は"形式的には自主的に、従わざるをえない"のだが。

『暗示郎さん。僕に伝えたい事をはっきり言葉として意識して……
言いたい言葉を頭の中から、触れ合っているところを通じて僕へ叩きこむ……
……そんなイメージで、念じてみてください。そうすれば、貴方の伝えたい事を受けとれます』
「……」
暗示郎は、不安げにかすかに眉根を寄せた。
『大丈夫、どうせ僕の力量では表層意識のごく浅いところしか読み取れません。
貴方が伝えたくない事までは、わかりませんから……ま、仮に覗けたとしても、覗きたくなんかないですし、ね』
暗示郎は再びごく小さく頷き、言われたとおりにした。
『えっと……こう、かな? 聞こえる?』
『はい、聞こえます。受けとりやすいですよ。
随分、すんなりとできましたね。やっぱり貴方には支配魔術の素質がありますよ』

『素質、素質ってさぁ、マジ言ってるの? マジ戦えって言うの? しかも、オロカと、君の兄ちゃんと?』
『すみません、巻き込んでしまって。
本来は貴方の言うとおり、マルセルにそういう意図があったとしても、戦わされるのは僕だけだったと思いますが……
この魔具も、まさか石化して逃げるなどとは思いませんでしたもので、逃走時に少しでも役立ててもらえればと……』
『その魔具ってやつは、そんな事だろうと思ったけどさ。
でも僕、オロカや君の兄ちゃんと戦うために練習するなんて、嫌だよ。
それに、たとえ満足に戦えるようになったとしても、向こうを殺しちゃったらどうするのさ』
『……』
三郎は、少しの間黙った。しかし、表での会話に合わせて、首を横に振ってみせた。
『確かに、修練で手を抜く事は許されません。
マルセルも幽霊とはいえ優秀な魔術師ですから、そんなことをすればすぐにバレます。
実戦でも、同じ事です。おそらく感情をコントロールされ、正気を保ってはいられないでしょう。
手を抜こうと、考えもしないはずです。しかし……』
『しかし?』
『相手を殺す事になど、成り得ません。断言してもいいです』
『どうして?』
『兄は、人格的には好きになれませんが……実力は、僕のような半端者とは違って本物だからです。
四大系統のうち禁呪とされる死霊魔術を除く三系統、支配・時空・付与魔術をマスターし。
更にそれらを複合してオリジナルの術をいくつも編み出した、一級──いえ、バケモノ級の魔術師ですから』
『バケモノって……どのくらいさ?』
『そうですね……科学的にではなく、魔術的に核爆発を起こせるくらいに』
『ゲゲッ……平和的に原子力発電所でも経営しててくれりゃ、儲かるだろうに』
『アメリカには、なんだかあの人の息がかかってるんじゃないかと思える、怪しい発電所や研究所もありますけど……
もっとも、表立ってあの人の名前は出てはいませんがね……』
『ゲゲゲゲッ……聞きたくなかったなぁ、それ……胡散臭さすぎ……』

『それに……オロカさんも、居ますから』
『オロカが……何さ』
『あの人は、魔術には縁がありませんけど……幾多の死線をくぐり抜けてきた、プロの傭兵ですから』
『うん……まぁ、ね』
『それに……あの人は、絶対に諦めない。
どうにかして……気絶させるなり何なりして僕達を止めて、助けてくれます。
少なくとも、あの人が諦めないうちから僕達が諦めたら、格好悪いではありませんか。
できることを……少しでも、しましょう。あの人達を信じて』
暗示郎は、じっと三郎の目を見つめた。
三郎は、彼に柔らかい微笑みを返した。
『そういえば、石化の薬ってさ……
たぶん、石になってたら安全だけど、生身にはヤバいって事をしようとしてるんだよね。
それを取られちゃったからには……こっちから近づいていって、助けてもらわないと巻き込まれちゃうわけか……』
『えぇ。もちろん、それも考え合わせてのことです。
兄は、少々の犠牲は厭わない性格ですし……オロカさんも、目の前に居ない僕達は庇いようが無いでしょう……
……と言うか、僕達はとっくに薬を飲んだものだと思い込んでる可能性すら、ありますよね』
『……しっかしさぁ。"オロカ達を信じる"、って言ったらそれなりに聞こえはいいけどさぁ。
それって言葉を変えたら、"僕達が負ける方に賭ける"って事じゃないの? 情けない話だよねぇ』
『……それは、言いっこなしです……』
軽口を叩きながらも、暗示郎は腹をくくった。

暗示郎が戦いに加わる覚悟を決めた事を悟り、三郎は一瞬目を逸らしてから再び彼を見つめた。
『もう一つ、お願いしたい事があるんですが……』
『何?』
『念のため、僕の一番得意な時空魔術を封印します。手を貸してください。
先程、探りを入れてみたところ、どうやらマルセルは僕が支配魔術を得意とすると思い込んでいるようです。
ですので支配魔術まで封印するわけにはいきませんが、そちらはたいした脅威ではないでしょう。
幻覚魔術も少々かじっていますが、使い方次第ではそこそこ厄介なものの、直接的な殺傷力はありません。
しかし、時空魔術だけは、状況によっては……』
『そこまでしないと、マズいの?』
『兄はともかくとして、オロカさんは……
不可視の障壁で囲ってさしあげただけで、アウトでしょうからねぇ……
素早い相手を囲うのは難しいですが、オロカさんはあまり俊敏性の方は……』
『そりゃ、アウトっぽいね……』
暗示郎は、パントマイムのように見えない壁をペタペタ触っているオロカを思い浮かべた。
『支配魔術って奴は、オロカに使っても大丈夫なの? 名前は物騒っぽいけど。
血統がどうとか言ってたけど、本当に苦手なの?』
『支配魔術はねぇ……素質だけじゃ、駄目なんですよ。性格的な要因が絡む事も、少なくないんです。
今やってる念話みたいな平和的なものならともかく、操ったりとか攻撃的なものは、特にね……
操れるのは植物だけ、というのは嘘ではありません。僕は人間を直接操るのは、向いてないんです。
サブリミナル・リングの効果がろくに現れなかった、という点から見ましても、ね』
『僕ならいいわけ? 性格的な要因ってぇ、どんな性格なら向いてるってのさ?
僕と、君の兄ちゃんとが、同じような性格とも思えないけどなぁ〜』
『まぁ……一言でいうなら……フェロモンを撒きちらしているような人、ですね』
「……ッ!?」
暗示郎は、思わず吹き出しそうになった。
『いえ、その……カリスマ的な魅力のある人、という言い方もできますが』
『そっちにしといて! お願い! フェっ、フェロモンて!!』
フェロモンをムンムン出しているドグマを想像し、暗示郎は笑い転げそうになった。

『で、封印っていうのは、どうやるの?』
『まず、修練中はある程度身の自由が許されるでしょうから……
その間、なるべくマルセルの気を引くような言動を心がけてください。
もし、マルセルが僕に話しかけた時にぼんやりしていたら、なるべくフォローを入れてください』
『あぁうん、そのくらいなら何とかなりそう。その後は?』
『準備が終わったら、合図します。
そうしたら、さりげなく僕に近づいて、体のどこでもいいので指で×印を描いてください。
それで、僕は時空魔術を使えるという事を忘れます。
他人から使えと命じられても、使い方を思い出せません。
仮に封印されている事に気づいたとしても、誰に、どこへ印をつけられたか、覚えていません。
解く時は、思い出すようにと念じながら、同じ場所に軽くタッチするだけで構いません。
封印を施すの自体は僕がすることですから、失敗は御心配なく。ただ、印の場所を忘れないで下さいね』
『要するに……君が、自分で自分に"鍵"をかけるから、それを僕に持ってろってこと?』
『えぇ、そういうことです。お願いします』
『それって、僕にもしもの事があったら、一生解けないなんて事は……』
『あぁ、簡易な封印ですから、24時間経てば自動的に解けます。
本格的な封印儀式を、マルセルの目前でするわけにもいきませんしね』
『ふーん、ならいいけど……
そんな事して、君の兄ちゃんにうっかり殺されないようにね?』
その言葉を聞いて、三郎はひくっと頬を引きつらせた。
たまたま、マルセルが他所を見ていたのが幸いであった。
『そっ……それが、一番気がかりなんですがね……あははは……
まっ、まぁ、オロカさんが何とかしてくれますよ、きっと……ははは……』
『もー……』
明らかに三郎と不仲そうだったドグマの素振りを思うと、暗示郎は不安になった。
が、オロカが何とかしてくれるに違いない──否、何とかしてくれると思いたい、という心境は三郎と同じだった。
マインドパペット1.5 水色の庭園
33.
 
──ドクンッ──ドクンッ──ドクンッ──ドクンッ──ドクンッ──
ドグマは静寂の中、己の心臓の鼓動だけを聞いていた。

──ドクンッ──ドクンッ──ドクンッ──ドクンッ──ドクンッ──

体は指一本たりと動かせず、まぶたすら開けられない。

──ドクンッ──おと──ドクンッ──すば──ドクンッ──まっ──ドクンッ──

ふと、心臓の鼓動に混じって、人の話し声が聞こえた気がした。
空耳と決め込み、気を向けまいとした。
しかし、他に気を逸らすべき対象も無い。
知らず知らず、聞かないようにすればするほど、ますます耳を澄ませていた。

「弟君の魔術の才能は、素晴らしいな!」

──ドクンッ! 一段と、心臓の鼓動が跳ね上がった。

「まったくだ! 将来が楽しみだ」
「あの年齢であんなレベルの術を使いこなす子供が、今まで居たか?」
「それもただ使えるというだけではない、想定される内で最高の効率を上げてみせる。
しかも、ろくに修練も積んでいないらしいというのが信じられん!」
「あぁ、確かに練習嫌いが玉に瑕だが、まだ子供だから飽きっぽいのは仕方ない」
「強いて言えば、土壇場での粘り弱さも気にはなるが、そんなものは場数を積めば何とでもなるだろうしな」
「きっと、ゆくゆくは大物になるな!」
「場合によっては乗り換える事もできるように、今のうちから繋ぎだけは取っておくか」
「そうだな、それが賢いやり方というものだな」

──ドクンッ──ドクンッ──ドクンッ──ドクンッ──ドクンッ──

闇の中、ぼんやりと何かが見えた。
ドグマは目を凝らした。
少年──黒髪の少年が走っていく。
自分の子供の頃にそっくりな──
『待て! どこへ行く! おまえは誰だ!!』
ドグマは念話を飛ばしたが、少年は反応を見せなかった。
 
 
 
闇を切り開くように、さぁっと光景が開けた。
少年は、ピカピカに磨かれた石造りの廊下を、息を切らせながら走った。
ほっそりとした、彼より背丈の低い少年が前を歩いている。
黒髪というのは同じだが、彼の硬くピンピンと跳ねたそれと髪質は異なり、ゆるやかなウェーブを作ってさらりと背中を流れていた。
彼は細身の少年に追いつくと、やや乱暴に肩に手をかけて立ち止まらせた。
「何ですか、兄上……?」
振り向いた細身の少年──弟が、大人びた口調で言った。



「おまえ、なぜ昇級試験を受けない?」
「あぁ……」
硬い口調で少年が問うと、弟は熱気を逸らすように少し横を向いて答えた。
「なぜ、だなんてたいした理由なんて……興味が無いんです」
「なに?」
「あんなものに、何の意味があるんですか?
大勢の試験官に取り囲まれて術を見せびらかして、点数つけられて。
君の実力は何級相当だ〜おめでとう〜ぱちぱちぱち。と、ただそれだけじゃないですか。何の役にも立ちません」
「そんなことはない。より上の級へと目標を持って修練を積む事がスキルアップに繋がるんだろう。
それに、自分の実力の程度を認められる事で、どの程度の事を任されるかが決まるんだ」
「実力をわざわざ人に認めてもらう必要なんてありませんよ。実力なんて、自分で把握できてればそれで十分です。
兄上が実力をひけらかして、褒められて、それで自信がつくと言うのならやればいいじゃありませんか」
「ひけらかす、だとッ!」
少年は、ぐっと弟の胸倉をつかんだ。
「貴様、なぜそうはっきり見える形で結果を出そうとしない! なぜ隠す!
隠したって、おまえに才能があるって事なんて皆知ってるぞ!!」
「は、離してください……」
弟は、薄笑いを浮かべた。
少年の目にはそれが卑屈なものに映り、ますます腹が立った。

「皆知ってる、だなんて……あれは、良くわかってもいない人が勝手に憶測を並べて、勝手に期待してるだけです。
先生は、言っていましたよ。傾向的に、風・水属性の術師は早熟型、火・土属性の術師は晩成型が多い。
そして、歴史に名を残すような大魔術師は、たいがい晩成型なのだと。
それには、ちゃんとした理由があるんだそうです」
「……何だ」
「魔力に限らず、エネルギーというのは何でも、大きければ大きいほどコントロールが難しいものです。
だから、高い魔力を持って生まれた者の方が、なかなかコントロールが身につかず、不器用に見えるんです。
暴走を防ぐため、本能的に自分で自分にリミッターをかけてしまっているというケースすらあるそうですよ」
「……過去の大魔術師に、伸び悩んだ経験を持つ者が多かったからといって……
伸び悩んでる奴が皆、大魔術師になれるというわけではないだろう」
「それはそうですけど……でも兄上は、きっと晩成型ですよ。
時間をかけてコントロール技術を身につければ、貴方はぐっと伸びるでしょうよ。焦らない事です。
ただでさえ火属性の術には、威力が高いかわりに暴走しやすく消耗が激しいものが多いんですから」
「……」
少年は、手の力をゆるめた。
弟は、華奢な腕で自分を抱きしめるような仕草をして、そそくさと離れていった。
いかにも、自分は臆病な小物ですと言いたげに。
 
 
 
少年は、昇級試験の結果が貼り出された掲示板を眺めていた。
やはり、弟の名はそこに載っていなかった。
「……どうせまた、勝ちを譲られたみたく、遠まわしに言われるんだ」
チッと舌打ちして、廊下を歩き始めた。
ふと足を止め、前方を見つめた。
夕方の日が、曲がり角の先に居る誰かと誰かの、長い影を伸ばしていた。

「……そう。あの女の息子に、そんなことを言われたの」
「はい」
短く答えられたそれが弟の声である事に気づき、少年は身を固くした。
「それで、何と答えたの?」
「……母上の、おっしゃった通りに……」
「そう。それでいいわ。
当分の間は、直接勝負をしては駄目。早熟だといっても、まだ年齢差を埋めきれる程ではないものね。
決定的な差がつく時まで、ひた隠しにして……相手を持ち上げて持ち上げて、いい気にさせておきなさい」
「決定的な差だなんて……そんな、抜かせる事を前提みたいに言わないでください……
兄上の方だって、成長するんですから……」
「いいえ! じきに、頭打ちになるわ」
断言した女の声に、少年はびくりと身を震わせた。
「浮気性のあの女の事ですもの、本当に夫の種かどうか、わかりゃしないわ!
いずれ兄弟の力量差を目の当たりにした時、皆は理解するのよ。
どちらが正当な血統を受け継ぐ、跡取りにふさわしいかを!!」
「……」
「わかったの? わかったら修練をサボらず、あのエセ長男を一日でも早く追い抜きなさい!!」
「……はい……」

二つの、長い影。大きい影と小さい影が重なって一つになった。
影の中に何かが蠢いたような気がして、少年は目をこすった。
ニィィ……ッ
影の中で、何かが笑ったように見えた。

──立チ止マレ。立チ止マレ。ソノ時、貴様ノ頭上ヲ飛ビ越スゾ──

ゾクッ、と少年の背筋に寒気が走った。
少年は踵を返すと、後も見ずに走りだした。
 
 
 
ギィィ……ッ。
扉が開き、真っ暗だった部屋に光が差し込んだ。
長身の男が薄暗がりに踏み込んでいき、部屋に置かれていたグランドピアノの下を覗き込んだ。
「やはり、ここに居たのか……」
男の視線の先で、少年が仰向けになって寝転んでいた。
「先生……」
グランドピアノの裏側を見つめながら、少年は男──家庭教師に問いかけた。
「どうして俺は……先生に、習うんだろうな。……学校とかでなく」
「それは……前にも説明したと思うが」
「……」
少年が黙っているので、家庭教師はふぅと溜息をついて、以前にも彼にした説明を繰り返した。
「ここ、モスタリアではな。一般市民、つまり下層階級の文明レベルはあえて中世程度に留めおかれている。
だから、学校で行われている授業も、中世なら通用する程度の内容でしかない。
……と言っても、実際の中世では庶民は学校なんぞ行ってなかった。字すら書けない者がほとんどだった。
それを考えれば、はるかにマシなんだがな」
「……」
「しかし、上層階級の者はそうはいかん。
もっと進んだ、最新の学問を修め、その知恵と知識によって下層階級の愚者どもを統治しなければならない」
「……」
「力においても、同じ事が言える。
下層階級の者は、剣だの槍だの、原始的な力を振り回していればそれでいい。
上層階級の者は、魔術というもっとはるかに大きな力を身につけ、それによってモスタリア全体を維持せねばならん。
このモスタリアが時空の狭間に漂う、脆く不安定な浮き島にすぎぬという事すら、下層階級の者は知るまいがな。
真実を知り、力を手にするのは、ごく一部の者で良い。だから、大勢が通う学校など要らないのだ」
「……」
「それとも何か? おまえは学校なぞに行きたかったのか?
あんなものは、ただ学んだ気にさせるだけの学校ゴッコだ。
下野して、カビの生えた古臭い学問を修めてきたとて、決して上には戻ってこれんぞ」
「……」
少年は黙り続けていた。
家庭教師はその様子を見て、ゆっくりと首を横に振った。
「それじゃあ……こういうことか?
同じ年頃の子供がたくさん居る、学校みたいな環境だったなら……こうも弟と比べられはしなかっただろうに……と?」

「……先生」
少年は、やっと重い口を開いた。
「俺は……弟が恐い。
いつか追いつかれる……いつか追い抜かれる……いつか追い落とされる……」
家庭教師は、ゆっくりと床に腰を降ろした。
「その気持ちは……わかるぞ。先生も、長男だからな。
成長という面では、たいがいの事が次男三男に有利なものなんだ。
長男って奴は、一人で立ち上がり、歩き出さなきゃならない。
しかし次男三男は、自分の前で歩いてる長男を見よう見まねして立ち、歩けばいい。
周りの大人だって、長男の時は子供をどう扱えばいいのか戸惑うことばかりだ。
試行錯誤しながら身につけたノウハウが、次男三男の時には生かされる」
「……」
「にも関わらず、世間は長男が一番である事を求める。一番でなければ長男の資格が無いとな。
そのプレッシャーに負けた奴が、"惣領の甚六"だの"愚兄賢弟"だのと言われるんだ」
「俺は……本当は長男なんかじゃない」
「いいや。おまえは、誰が何と言おうとれっきとした長男だ」
「……しかし」
「納得できんのなら、強くなれ!」
力強い叱咤が、ドンッと少年の胸に響いた。
「誰も追いつけないほどに、抜きん出て強くなれ。
そうすれば、おまえは誰からも後ろ指をさされぬ長男になれる!」
「……」
少年は、ぐっと拳を握りしめた。
その様子を見て、家庭教師はゆっくりと立ち上がって背中を向けた。
「それと……もう、子供じゃないんだ。"俺"じゃなく、"私"と言うんだな」
「わかった……」

少年は部屋に明かりをつけると、グランドピアノの前に座った。
そして、指を叩きつけるように激しい演奏を始めた。
ベートーヴェンの"交響曲第5番 ハ短調 作品67"──日本では"運命"の通称で知られる曲。

魔術師にとって、音楽は決して趣味や娯楽だけではない。
基本的にどの術にも、発動させるために必要な"呪文"と"動作"が存在する。
(術者の力量が上がれば、低レベルの術から順に不要になったり簡略化されたりしていくが)
呪文は、棒読みにすればいいわけではない。音楽と同じように、律動(リズム)と旋律(メロディー)が伴う。
(三郎が口笛と鋏の音で木を動かしたように、言葉が存在しない呪文すらある)
オリジナルの術を編み出すということは、必然的に作曲をするという事でもある。
故に、楽器の演奏という行為も、立派な魔術の修練の一部なのである。

夜中には迷惑な修練ではあった。
しかし、あまりの鬼気迫る演奏に、誰も制止に入る者は居なかった。
「ベーゼンドルファー……ベーゼンドルファーよ……」
少年は、ブランド名を名前代わりに、グランドピアノを呼んだ。
「俺──いや、私に力を与えてくれ!」
 
 
 
「……まだやってるのか」
家庭教師は、図書室を覗き込んで呆れたように言った。
閲覧用の机に書物を山と積み上げて、少年はノートを取っていた。
家庭教師はチラッと腕時計を見た。夜中の1時を過ぎていた。
「もう遅いぞ。いい加減、休め」
「睡眠なんて、三時間もとれば十分だ」
「おまえがショートスリーパーなのは知っているが……それでもこう連日では体を壊す」
チッ、と舌打ちして少年は席を立って書物を片付け始めた。
「わかった。早起きするからいい」
「いや、駄目だ」
家庭教師は指を突きつけた。
「明日の午前中は休み! 実習も座学もだ。これは命令だ、破ったら……わかっているだろうな。
魔術だけでなく、一般学習や武術の教師にもそう言っておくからな」
「……ピアノならいいのか?」
「駄目に決まってるだろう!」
バン!と拳で扉を殴りつけて、家庭教師は去っていった。
「休み……? 何をすりゃいいんだ……?」
少年は、困ったように呟いた。
 
 
 
少年は、目的もなく街をぶらぶらと歩いていた。
買うつもりもなく道端に軒先を並べる露店に目をやりながら歩いていると、話し声が聞こえてきた。
「ありゃあ、若様じゃないか?」
「本当だ……お伴は居ないようだが、お忍びかな?」
「お若いのに、どことなく風格があるよねぇ。うちのガキ共とはえらい違いよね」
少年は、少し口元を緩ませて呟いた。
「……私が私であるだけで目立つってのは、ちょっといいもんだ」

ドン!と不意に何かが足腰にぶつかり、少年は歩みを止めて慌てて前に目を向けた。
弟よりも幼い子供が、尻餅をついていた。
すまん、と声をかけながら手を差し出すと、子供はぎゅっとその手を握りしめて彼を見上げた。
「若様! 若様は、魔法使いだよね?」
「……そうだが?」
「僕も、魔法使いになりたい!」
「えっ……」

──下層階級の者は、剣だの槍だの、原始的な力を振り回していればそれでいい──

家庭教師の言葉が耳に蘇った。
「それは……この国のシステム上……」
少年が口ごもっていると、周囲の大人達が駆けつけ、無理矢理子供を引き剥がした。
「なんて無礼な事を!」
「申し訳ありません! どうか、お手打ちだけはご容赦を! どうかご慈悲を!!」
少年が戸惑っていると、取り押さえられたままの子供が叫んだ。
「おかしいよ! みんな、魔法使いにはなれないって言うんだ! おかしいじゃないか!
勉強すれば魔法使いになれると思って、頑張って学年で一番になったのに!
どんなに頑張ったって、なりたいものになれないなんて、おかしいよ!!」
「……!」
稲妻で撃たれたような衝撃を、少年は受けた。
「そうだ……この国はおかしい。今まで疑問にも思わなかったが、たしかにおかしい」
数秒の間うつむいて考えに沈み、それからぐっと視線を上げた。
空を覆いつくす、透明なドーム状の天蓋が目に入った。若干の閉塞感を伴う光景であった。

「いいかげんにしろ! 子供だからって、お上を批判するなんて許されることじゃないぞ!」
拳を振り上げかけた大人を、少年は制止した。
「……もう良い。むしろ、感謝する。
何を成すためにトップを目指すかという、肝心な事を考えていなかったのに気づかせてくれて、な。
そうだな、もし私がこの国の頂上まで駆け上がったら、もう少し風穴を開けてやろう。
全員にとはいかないが、素質と意欲のある者に対してだけでもな」
あっけにとられている人々をよそに、少年はくるりと踵を返した。
「……それと、そこの子供。
今後は勉学だけでなく、音楽も習っておけ。きっと魔術を覚える時、役に立つぞ」
「あっ……ありがとう、若様!」
子供の声を背中に受けて、少年は走りだした。
「……そうだ。魔力だけでなく、体力も必要だな。飛んで行かず、走って帰るか!
運動をするなとは、言ってなかったしな!!」
リズミカルに右足を左足を出しながら、ワーグナーの"ワルキューレの騎行"の鼻歌が漏れていた。
半日の余暇も、少年にはたいして休息とはならなかったようであった。
 
 
 
「立ち止まったら駄目だ……前へ前へ、進まないと駄目だ……」
少年は呟きながら、古びた書物を手に、複雑な魔法陣を床に描いていた。

──暴走を防ぐため、本能的に自分で自分にリミッターをかけてしまっている──

以前、弟が言っていた事は、良く調べてみると本当の事だった。
ただ、もう一つ困った事も判明した。
そのリミッターと俗称される一種の自己封印は、一度かけてしまったら自然には外れない。
たとえ、本来備えている魔力をコントロールするに足る技術を身につけたとしても。
その理由として──
術の使用を不可能にする。魔力や魔力容量を制限する。特定の場所の出入りを禁じる。蛙などの無力な肉体に変える。
種類はいろいろとあるが、基本的に封印というものは、自分にかける事も可能である。
その際、解くための"鍵"を設定しておくのが普通だが、無意識に行った自己封印には"鍵"が存在しない。
しかも、本来の高い魔力をもってかけた封印であるので、封印を強引に解くのは非常に難しいのだ。
そのため、大魔術師に成り得る潜在能力を持った者も、多くは成れずに終わる。
リミッターの存在に気づかなかったか。リミッターを外せなかったか。
あるいはリミッターを外す危険性を恐れ、手を出せずじまいであったか……。

少年は魔法陣を書き終えると、間違いがないか慎重に、書物と何度も見比べた。
ひとつ頷くと魔法陣の中心に歩を進め、しばらく瞑想して精神を集中させた。
そして、歌うように高く低く、呪文を唱え始めた。リミッター解除を行うための儀式の呪文を。
長い長いそれを口ずさみ、決められた動作をなぞっていくうち、少年は異変に気づいた。
全身が、異様に熱を帯びている。吹き出す汗も、用を為さない
10分以上続けているとはいえ、たいして激しい動きではない。
加えて、この日のために武術訓練だけでなく、自主的に体力づくりも心がけてきたにも関わらず。
喉が枯れる。頭がぼうっとする。足がふらつく。目がかすむ。
それでも少年は集中を途切れさせず、一時間に渡る呪文詠唱をやりきった。

「やっ……た……ッ!?」
喜びも束の間、今までとは比較にならぬ、猛烈な熱さがこみ上げてきた。
炎の嵐のようなそれが、体内を焼き尽くさんばかりに駆け巡っている。
「うっ……うぅっ……あ、熱い……苦しい……っ」
がくりと膝が崩れ、床に手をついた。魔力を大量に消耗しているだけでなく、体力も気力も既に限界だった。
「だ……誰か……誰か、助けてくれ……! だれ、か……」
かすれた声を聞きつけてくれる者は、誰も居なかった。
『助けて!』
誰かに届く事を願って念話を飛ばそうともした。
しかし、苦痛のせいか、消耗しすぎたせいか、焦りのせいか、それとも他の原因のせいか……
まったく集中というものができなかった。
"言葉"のイメージを結ぼうとする端から、ほどけていくかのように。

少年は、この儀式を決行する事を、誰にも明かさなかったのを後悔した。
この儀式は、百年近くもの間、誰も行ったことが無いという。
どんな危険があるか知れないし、そもそも書物に記された方法が間違っている可能性すらある。
そう言って、家庭教師をはじめとする、密かに相談した誰もが反対したのである。
「ただ書かれている事の、上っ面を真似るだけでなく……呪文の構成を理解できるまで、待ったのに……
どこにも間違いは、無かったはずなのに……なぜ……」

熱は冷める気配も無く、ますます燃え盛っていくようだった。
「こ、このままじゃ……このままじゃ……私、は……!」
死の恐怖が、彼の心に押し寄せた時──
突然、見えない何かがドォォォッ!と爆発するように全身から吹き出した。
「うわぁぁぁぁッ!!」
少年の目の前は真っ暗になり、意識が闇に落ちるように途絶えた。
 
 
 
少年は、自分が横たわっている事に気づいた。
熱さや苦しさは、もう感じなかった。
身を起こそうとしたが、まるで体の動かし方を忘れてしまったようにピクリとも動けなかった。
うめき声ひとつ出ない。まぶたを開けて周囲を見る事もできない。
肌に伝わる感触からすれば、ベッドに寝かせられているようであった。
薬品じみた臭いもする。どうやら病院のようだった。
『誰か……私を運んでくれたのか? 私は、どうなったんだ?』
彼は、念話を発しようとした。しかしそれは叶わず、"言葉"が頭の中から外へ飛び出していかなかった。
『おかしい……確かに魔力の消耗は激しかったが、寝ていたのに何故、回復していない……?』
彼は、ハッとその原因に気づいた。そして、全身の血の気が引く思いがした。

魔術を学ぼうとする者が最初に教わり、無意識的にそうなるように骨の髄まで叩きこまれる事がある。
それは、"魔力枯渇"と呼ばれる状態に陥らないようにするため、魔力を全て使い切らない事だ。
魔力が0になってしまうと、二度と回復しない──または、回復に非常に長い時間がかかると言われている。
その原因は明らかになっていないが、一説によると"魔力を回復するのも魔力である"からとされている。
だから、魔術師にとっての"限界"とは"0"のことではなく、常に"0の一歩手前"なのだ。

『まさか……まさか、あの時……私は魔力の全てを、吐き出してしまったのか!?
儀式が成功したのかどうか、わからないが……
成功して魔力や魔力容量が飛躍的に増加したとしても、魔術が使えるよう回復しなければ意味が無い!!』

絶望に気が遠くなりそうになる中、彼の耳に話し声が聞こえてきた。
「……おそらく、意識は戻らないでしょう。戻ったとしても、まず一生体をほとんど動かせないでしょうね。
魔力も回復せず、蝋燭に火を灯す事すらできますまい」
「そうですか……」
少年の心臓の鼓動は、どきりと跳ね上がった。
医者(モスタリアの上層階級の医者は、ある程度は魔術も学んでいるのが一般的である)と思われる男の声に答えたのは、弟の声だった。
「プライドの高い兄が、そのようなざまで生き長らえる事は望まないでしょう」
「……でしょうな」
「惨めでしか無い……」
その場に何人居るかわからないが、弟の言葉に反論する者は誰も居なかった。
『待て! どれだけ時間がかかるかわからんが、回復の見込みが0というわけでもないだろう!
何がプライドだ! 勝手に決めるな!!』
必死に"言葉"を叩きつけようとしたが、誰の元にも届いた手応えがなかった。
『駄目か……私から念話を送りつけるのは、今は到底無理……
しかし、せめて誰かが私の思念を読み取ろうとしてくれれば、可能性はあるのに……!
何故誰も、試そうとしない! 例え自分ができないとしても、できる者を呼んでこようと、なぜしない……!』
「では……そのようにしますか」
「えぇ」
弟が、頷く気配があった。
「表向きは、即死だった……そういうことで。手は、僕が汚しましょう。この事は内密に」
「無論です。実際には良くある事でも、表沙汰になれば我々の首が飛びます」
『待て! 待ってくれ!!』
必死の制止も通じず、弟一人を残して複数の足音が遠ざかっていった。

弟の足音が、ゆっくりと近づいてきた。
ポンッ……と、その手が少年の肩に置かれた。
『兄上……意識、ありますよね?』
弟の念話が響いた。
『貴様……気づいていたのか?』
『えぇ、僕だけはね。しかし、弱々しい思念だ……読み取るのも一苦労ですよ』
『卑怯者め!』
『卑怯ですって? 何をおっしゃいますか。
僕は、何もしていないではありませんか。ただ、貴方が自滅するのを待っていただけで。
儀式が危険という事は……僕のところへは相談に来なかったんですから、教える必要なんてありませんよね?』
『くっ……!』
『あの事を伝えた時から、いつかやるとは思ってましたが……まったく、馬鹿ですね。
わからなかったんですか? 力を失うという事は、己の生殺与奪の権利を他人に譲り渡すという事であると……!』
『やめろ……やめろッ!』
『大丈夫です……苦しませはしませんから、ご安心を』
『誰か……誰かッ! 気づいてくれ! 助けてくれ! 死にたくない!!
私はちゃんと生きてる! 意識はある! ただ動けなくて、魔力が枯れて、示せないだけだ!!』
『さぁ……おやすみなさい』
スッ、と弟の手が、早鐘のような鼓動を打つ心臓の真上に置かれた。
『うわぁぁぁぁーッ!』
 
 
 
『うわぁぁぁぁーッ!』
ドグマの念話は"絶叫"を上げた。
初めは少年を"見ていた"はずが、いつの間にか完全にドグマと少年は重なり合っていた。
『あっ、あぁっ、あああぁァァァーッ!!』
マインドパペット1.5 水色の庭園
34.
 
小走りに走っていたオロカは、ハッと足を止めた。
空気の振動にも似た、何かを感じ取ったのである。
「気のせい……かな?」
キョロキョロしながら踏み出すと、念話が彼の頭に響いた。
『ぎゃあァァァァァッ!』
「ドッ……ドグマ!?」
何かに襲われたのか!──と、敵が何かなど考える前に彼は突進していた。
「……あれ?」
オロカは状況が理解できず、思わず棒立ちになった。
残していった時のままの姿勢で、ドグマが地べたに横たわっている。
周囲には野ネズミ一匹おらず、血を流しているわけでもない。
『あぁァァァァっ! ひあぁァァァァァッ!』
にも関わらず、ガンガンと頭が痛くなるほどの荒れ狂った念話をドグマは無茶苦茶にばら撒いている。
「なに、やってるんだ? 節約しなきゃとか言ってたのに、何、無駄な事……
おい、ドグマ? どうしたんだ、おい!」
『ぐわあぁァァァッ!』
「なんだか知らないけど……パニックしてる……の、か?」
どうすりゃいいんだ?と戸惑っていたが、こちらまでパニクっている場合じゃないと、オロカは思い直した。
これ以上近づくと頭が破裂しやしないかと、正直恐くはあった。
しかし、放っておいても悪い事にしかならない気がした。
オロカは意を決して、ズキズキ痛む頭を抱えながらドグマに近づいた。
「まったくドグマは……恐がり方も、豪快だな……っ」

「ドグマ!」
ドグマの上半身を起こそう──としたが、腰が折れ曲がらなかった。
なので、よいしょと抱え上げて左腕と膝で支え、空いた右手でドグマの頬を強く張りとばした。
ところが、それでも反応らしいものはなかった。
オロカは少し考え、駄目元で自分とドグマの額をくっつけた。
 
 
 
一筋の光も無い闇の中、ドグマは恐怖に怯え、混乱しきって"叫び"続けていた。
しかし、何かが闇の向こうから聞こえてきた。
ドグマは息を飲んだ。

「変化に怯え 変化を生み出す──
それが進化か臆病者め 絶対不可侵の己を持てば 何に怯える事も無い──」

力強い、歌──否、正確には呪文である。
ドグマ自身のオリジナル、支配・付与魔術を複合して創りだした呪文であった。

ドグマは確かに生まれつき膨大な魔力を持っていたが、決して"天才型"とは言えない。
その巨大な暴れ馬のごとき魔力を制御し、思うがままに操るために、若い頃から不断の努力を続けてきた。
結果的には彼の方が実力が優っているとはいえ、"天才型"と呼ばれるのは弟の三郎の方だろう。
この呪文をドグマが編み出したのにも、並々ならぬ苦労と創意工夫があり──
──加えて、(使うだけなら丸暗記でも良い)呪文の構成を理解し、音楽的な知識や感性をも磨くという、長い下積み経験がもたらした成果だ。
それを成し遂げた時、ドグマはとっくに三郎と実力差がついていたにも関わらず、"天才に勝った"という実感を初めて得た。
そして、天才を──三郎を恐れなくなった。
 
 
 
『……オロカ?』
「あぁ、正気に戻ったか……良かった」
ドグマをぎゅっと抱きしめるようにしていた腕の力を抜き、オロカはふぅと安堵の溜息をついた。
『……音痴だな。それでは魔術師にはなれんぞ』
「いや、別になる気もなれる気も無いから、いいけど……」
『……チッ……馬鹿か、私は……
当時はともかくとして……ウィローにそんな野心など無いと、とうにわかっておるのに……』
「? 何の話だ? ウィローって誰の事だ?」
『いや、ただの夢だ。気にするな』
首が自由に動くなら、プイと向こうを向いていただろうな。そうオロカは思った。

『それで、玉璽は見つかったのか?』
「そっ、それが……」
オロカはドグマと額を合わせたまま、頭をポリポリと掻いた。
「玉璽、って……どんな形だったか、聞いてなかったなと、あとで気がついて……」
『……! 手ぶらで戻ってきたとでも抜かすか!!』
「いっ、いや! たぶんこの中だろうと思って、トランクごと持ってきた!!」
バン、と傍らに置いた三郎のトランクを軽く叩いてみせた。
『……ならよい。こういうのだ』
オロカの頭の中に、言葉ではなく映像が浮かんだ。
全体がしっとりとした光沢を持つ緑色をしており、四角い台の上に龍をかたどった彫刻──そんな意匠であった。
「わかった、ちょっと待っててくれ」
オロカはドグマを再び横たえると、トランクを開けた。

これぐらいの大きさかと、一つの布袋を手に取り、紐を解いた。
ボンッと何かが飛び出し、慌ててのけぞった。
顎をかすめて伸びた脚立が、ガランと地面に倒れた。
「ハ、ハシゴ! ハシゴが小袋の中から!!」
『馬鹿者、いちいちビクつくな! 基礎的な時空魔術だ!!』
「ふ、ふーん……へー……便利だな……」
危険は無いのはわかったが、これでは時間がかかって仕方なさそうであった。
せめて、どんなのに入っているかがわかれば──と考えた時、ハッと思い当たるものがあった。
「そうか、あれか!」
オロカはトランクの奥に手を突っ込み、覚えのある手触りを探りだした。
以前、三郎の頼みでノートを探した時に見つけた、高価そうな刺繍入りの布袋であった。
紐を解くと、頭に送り込まれた映像どおりの、精緻極まる見事な龍の彫刻が見えた。

「あったぞ、ドグマ! これをどうすればいいんだ?」
オロカはドグマと額をくっつけて、問うた。
『よし。では適当な大きさに砕け』
「えぇっ!?」
『そして、それを私の口に含ませろ。飴のようにな』
「こっ、こんな立派なものを……?」
『気にしている場合か! 亡国の玉璽になんぞ、価値など無いわ!!』
「いっ、いいなら、いいけど……」
もったいないとは思ったが、確かに気にしている場合ではない。
オロカは刀を手に取ると、適当な大きさが取れ、かつ脆そうに見えた龍の角の部分に柄頭を振り下ろした。
見た目ほど硬い材質ではなかったらしく、案外あっけなく角の先っぽが欠けた。
オロカはドグマの顎に両手をかけると、食いしばった歯を無理矢理こじ開けた。
『いだだだだだ! 先に一声かけんか!!』
「悪い!」
上の歯と下の歯の間の隙間から、角の先っぽ──魔翠玉の欠片をねじ込んだ。
それから、うっかり気管を塞いでしまったりしないように、ドグマの体を丸太のように回転させ、横向きに寝かせた。

『よし……魔力が回復し始めた……あとは……』
ドグマは右腕をほんの少し、ひくっと痙攣させるように動かした。
『痛ぁッ! 痛ぃ痛ぃ痛い! あぁ痛いッ!』
「おっ、おい……」
『糞ッ。右腕だけでも動けば、なんとでもなるのだが……痛くッて、動けん……』
"あの"ドグマがやたら痛い痛いと連発するので、オロカは面食らった。
でも……そう言えば人形の時から、痛いとか何とか言ってたな……
あれは、人形の体だからひ弱なんだとばかり思ってたが、もしかして……
オロカはしばし考え、聞いた──というより、独り言を呟いた。
「ドグマって……意外と、痛がりなのか?」
同程度の痛みでもどの程度耐えられるかは人によってかなり違う、とはオロカは傭兵としての経験上、知っていた。
『……わ……悪かったなッ!』
「別に、恥ずかしい事じゃ……そうか……こう見えて、相当、育ち良さそうだしな……」
『どう見えると言うのだ、どうッ!!』
「いや、それより……ちょっと、すまん」
オロカはドグマの着ている軍服の袖をまくり上げると、少しだけ力を込めて右腕を押さえた。
『痛ァ──ッ! 痛いと言っておるのがわからんかッ!!』
「やっぱり……ドグマ、力を抜けよ。簡単なことじゃないか。
こんな、筋が切れそうなほどビンビンに力入れたまま動かそうとしたら、痛いに決まってるだろう?」
『力を入れてるから痛いのではない! 痛いからますます力が入るんだ!!』
「ニワトリでも卵でも、どっちが先だっていいが……もうっ……我慢してくれよ、痛いぞ?」
『なっ、何をす……ギャアァァァァ!』
ドグマの"悲鳴"にも構わず、オロカは彼のガチガチに硬くなった腕から肩にかけての筋肉を揉みほぐしにかかった。

「よーし、うまいうまい、少し力抜けてきたじゃないか」
オロカはなだめるように声をかけながら、ドグマの右腕を抱え込むように持ち上げ、力を込めた。
肩が上がるようになり、肘を曲げられるようになった。
『……の、む』
「え、何だ?」
『……指もたの…む』
「あぁ、わかった」
念話が前より、はっきりと届かなくなってきた。
魔力は回復中のはずだから、気疲れしてきたのかもしれない。
ずっと喋ってれば喉が痛くなるみたいに、念話だって疲れるだろう。
そんな事を考えながら、オロカはピンと伸ばされた指を一本一本揉んだ。

『も……い。タク……に…らせろ……』
もういい、タクトを握らせろ……かな、とオロカは推測しながら落ちていた指揮棒を拾い、ドグマに持たせた。
しっかりと指が握りを捉えられず、隙間から落ちそうになった。
「おい、もうちょっとほぐしたほうがいいんじゃないか?」
『い……いい。手を添…て、私の言…よう……を振らせろ……』
「あ、うん……」
指揮棒を握るドグマの拳の上から、オロカは片方の手で半ば包むように添え、もう片方の手で腕を支えた。
そして、指示を聞き違えてはなるまいと、額をくっつけた。
『まず上にあげ……次は左下……次は……』
指示通りに、しばらくドグマの腕を動かし続けた。
そのうち、筋肉にわずかに力の入る向きから、なんとなく動かす方向が読めるようになってきた。
『よし……もう一度右……左上……終わり!』
オロカは、疲れというより緊張からにじみ出た汗を拭いながら、支えていた手の力を抜いた。
ドグマの右腕──だけでなく左腕も曲がり、両の手のひらが地面につけられた。
ぐ、ぐぐぐっ……と、まだいくらかぎこちなさの残る動きながら、ドグマは自力で上半身を起こした。
『……を言う』
「え?」
『礼を言う、と言ったのだ!』
「あぁ、うん、それはいいが……まだ喋れないのか?」
『……』
ドグマはゆっくりと自分の顎をなでさすった。
「……あぁ、忘れておったわ」

飴を舐めるように口内を動かしているドグマに、オロカは問いかけた。
「いったい……何だったんだ?」
「教えてやってもいいが……その間、他のところもマッサージしろ。時間を無駄にするな」
「わかった。えぇと、足から?」
「足は自分でもできるから後でいい、まず首筋と肩、左腕」
「ん」
オロカは頷き、ドグマの背後に回ってかがみ、首筋から順にほぐし始めた。

ドグマは、自分でも足をさすったり曲げ伸ばししたりしながら話し始めた。
「要するに……術の制御に失敗したので、その効果が歪んだ形で、術者たる私に跳ね返ってきたのだ」
「えと……それで?」
「無生物を支配しようとしたら、逆に私の肉体が無生物に支配された……
言い方をかえれば、随意筋の八割方が、自分は無生物だと思い込んだ。硬直はそのせいだ。
その思い込みを、いま解いたというわけだ」
「へぇ……」
なんとなくしかわからなかったが、オロカは頷いた。
「もっとも、それでここまで大騒ぎになるのは私ぐらいなものだろうが……」
「ん?」
「……言っておくが、痛がりだからという意味では、ないぞ」
「じゃあ、なんだ?」
「私は魔力を消耗しすぎると、運動機能が著しく低下するのだ」
「なぜ?」
「神経の働きを、魔力で補っているからだ」
「? そのほうが速く動けるとか……?」
「違う。損なった部分を補っているのだ」
「は?」
「だから……はっきり言わんとわからんのか。私は障害者だと、そう言っておるのだ」
「えっ……えぇっ!!」
オロカは思わず大きな声を出してしまった。
頑健そうな体格。自分にビンタを食らわせたり、蹴り飛ばしたりした、腕力や脚力。加えて、大きすぎる態度。
なにもかもが、彼の持っていた障害者というイメージ(偏見や思い込みも含まれていたが)からかけ離れていたのだ。

「……なんだ。そんなに珍しいか、障害者が」
「いや、そんなふうには全然、見えなくって……何、俺、障害を持った奴に蹴倒されたのかっ!?」
「……テクノロジーが全てであったとしても、技術が進歩すれば義手や義足が生身より優る事は十分ありえる。
魔術が絡めばなおさらだとは、思わんか?」
「そ、そんなもんなのか……」
「まぁ、先天的な障害ではないから、そう見えんと感じるのも無理はない。
障害を負う前はちゃんと武術訓練も受けておって、方天画戟ぐらいなら振り回せたぞ」
「ほうてんがげき?」
「中国のハルバードだ」
「へぇ……」
中国がどこかはわからなかったが、ハルバードと聞いてオロカは感心した。
ハルバードとは、槍の側面に斧とフックを取り付けた重量のある長柄武器で、相当の腕力と技量がなければ使いこなせない。
「次、背中から腰」
「あ、うん」
ドグマはごろりとうつぶせに横になった。

「まぁ、障害といっても悪い事ばかりではない。
不自由な思いをした経験があったからこそ、大勢の連中がついてきたのかもしれん。
恵まれすぎた奴より、底辺から這い上がってきた者に、人は魅力を感じるものだ」
「……と、言うと?」
背中を上から下へ揉みながらオロカが問うと、ドグマは顔をしかめて答えた。
「あれよ、若気の至りというヤツで事故を起こしてな……
魔力は枯れて回復せんわ、体は全く動かんわという状態になったのだ。
意識が朦朧としておったのではっきりせんが、ヤブ医者どもが安楽死の相談までしていた気がする」
「あ、安楽死……」
自分が殺されるかどうかの相談を、動けないままに聞くだなんて……
オロカは、想像しただけでゾッとした。
「まぁ、体の方はリハビリを受けて、どうにか身の回りの事だけは苦心しつつもこなせる程度にはなったが……
まだまだ不十分な段階で放り出されて、下層階級の連中に混じって、独力で生きていくはめになった。
せめて、車椅子ぐらいはつけてほしかったところだな」
「……酷い話だ」
自分がモスタリアから落とされた時より過酷かも、などとつい比べてしまいながらオロカは話を聞いていた。
「占い師やら薬師やらの真似事をして食い繋いだが……
何が腹が立つと言って……連中が世話焼きだったのは、まぁ、助かったといえば助かったが……
寄ると触ると"あの若様がお気の毒に"という目で人を見るのが気に入らん!
あぁ、日夜杖にすがってヨタヨタ歩き、時々にっちもさっちも動きが取れなくなったりしてはいたとも、しかしそれは……
貴様らの親父やお袋もたいして変わりはしまいと、余程言ってやろうかと!!」
「……言わなくてよかったな」

「そんな暮らしをしばらく続けておった頃、愚弟が訪ねてきてな」
「三郎が?」
「玉璽の、龍のヒゲが欠けているのに気がついたか?」
「え? あぁ、本当だ、言われてみると……」
よくよく龍の彫刻を見ると、ほんのわずかに片方の髭だけ短いように見えた。
「なんでも、親父が玉璽を落っことした時に折れたらしくてな。
親父はそれに気づかなかったらしく、奴がこっそり拾って持ってきたわけだ。
魔力が完全にカラになってしまうと、自然回復ができなくなってしまうのだが……
魔翠玉を使って少しでも回復すれば、あとは自然回復できるだろうとな。おかげで魔力は回復できた。
そして、さっき言った術を編み出して、神経系の障害を補い、体も自由に動くようになった」
「なっ……!」
オロカはドグマの父に対して、強い怒りを覚えた。
「なんで、貴方の父親は!
自分の息子がそんな事になってるのに、最初からヒゲ一本、折ってやろうとしなかったんだ!!」
「ふん……ッ」
ドグマは小さく鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。
「簡単明瞭な事よ。息子より玉璽の方が大事だったのだろう。
玉璽を傷つけると国が傾く、との伝説もあったことだしな。
あるいは……私より愚弟を後継者にした方が、引退後も御しやすいとでも思ったか」
「……」

「まぁ、その伝説も本当だったのかもしれんな」
「え?」
「私が魔力と身体能力を取り戻した後も、そんな生活で満足しておるとでも思ったか?
己を支持する民衆を率いて、クーデターを起こしてやったのよ!
本来私に譲られるはずだった玉座を、私は奪いとってやったわけだ!!」
「……」
ドグマの行動に正当性があるかどうかは、オロカにはわからなかった。
オロカは当時のモスタリアの事情を良く知らなかった。ドグマも、あまり細かくは語るつもりが無さそうだった。
しかし、そんな父親なら息子に倒されても仕方ないかな、とはちらりと思った。
「……俺は子供だったから、良く知らなかったけど……昔あった内乱っていうのは、そういう事だったのか……
ただ……私怨だけでは、モスタリアの民だってついてこないよな?」
オロカの言葉を否定しないという事は、モスタリア人──しかもその統治者だった事を否定しないという事であった。
「……フッ!」
ドグマは、ただ一笑しただけだった。

「しかし……」
オロカは首を捻った。
「なんだ」
「それが本当なら、三郎は貴方の恩人じゃないか。なんで愚弟とか何とか、言うんだ。
前言ってた、噛みついてこなかったとか何とか、別の事情があるにしろ……」
「……次、胸筋、腹筋、脇もだ」
「あ? あぁ……」
ドグマはごろんと仰向けになった。
自分でも再び、足を振り上げたり、足首を回したりし始めた。
オロカは言われたとおり、鎖骨の下あたりをさする事から始めた。
「奴の要求通り、交換条件として眼帯をしてやったのだから、貸し借りはない」
「眼帯?」
「意思を持つ、妙な眼帯だ。私をある程度、制御するためのな。今はどこかへ行ってしまったが。
それに……動機がな。不純なのだ……あいつは」
「不純? 三郎が、貴方を助けてやった理由がろくでもない……ってことか?」
「私はいくつか改革を行ったが……それについて奴に意見を求めた時、何と抜かしたと思う?」
「えー……っと」
オロカはしばらく考えた。ふと、三郎が言いそうな言葉が思い浮かんだ。
「まさか……『面倒くさい』とか言ったんじゃ……」
「その、まさかだ! 奴は──政治など面倒だから、私に押し付けただけだったのだ!!」
「……はぁ」
オロカは呆れた。
しかし、半分は本当に面倒だったのだろうが、半分は三郎なりに何か考えがあったんじゃないかな、などとも思った。

ドグマは、ぺっと口から魔翠玉の欠片を吐き出した。輝きは失せて、ただの石ころになっていた。
「オロカ、マッサージの続きは後にして、もう二、三片、玉璽を砕け」
「まだ足りないのか?」
「庭中に火を放つには、全然足りん。あの術は、消費がでかいのだ。
それに今のは、神経作用を補う方に、優先的に回したからな」
「そうか、わかった」
オロカは応えながら、張りの戻ってきたドグマの声に安心した。

マインドパペット1.5 水色の庭園
35.
 
二、三片──と指示されはしたが、オロカは多めに五、六片、玉璽を砕いた。
思わぬ消耗が無いとも限らない、いつでも使えるようにしておいたほうがいいだろう、と判断したのである。
「ドグマ、これ……」
オロカは魔翠玉の欠片を渡そうと、立ち上がって足腰の屈伸運動をしていたドグマに近づいた。
「……ッ!」
ドグマは一瞬、オロカの背後を見やって目をむいた。
「しゃがめ!!」
言うなり、ドグマ自身も片膝をついた。
なぜ?などと聞ける形相ではなかった。オロカは反射的に腰を低く屈めた。
二人の頭上を、金色に輝く輪が駆け抜けていった。
金の輪は奥にあった樹に当たると、前の部分だけ貫通し、輪投げの輪のように樹を囲んで宙に静止した。
「なっ、何だ!? 敵か!!」
オロカは刀を片手に立ち上がり、ドグマを背後に庇って振り向いた。
しかしドグマは、オロカのもう片方の手から魔翠玉の欠片をもぎ取りながら、彼の横に出た。
「ドグマ?」
「盾になれ、とは言ったが……前に立たれても、"サブリミナル・リング"には視界の妨げにしかならん。
決して受けて防ごうとはするな、避けろ!」
「サブリ……なんだ、それは?」
「効果は使い手次第だが、とりあえず当たらなければ無問題!」
「わ、わかった」
30mほど離れた樹の幹の影から、柔らかい金髪の頭が半分、覗いた。
「暗示郎!?」
オロカの呼び声には応えず、暗示郎は指先から金の輪を生じさせ、彼に投げつけた。
「何を呆けている、避けろ!」
ドグマの怒鳴り声に、オロカは慌てて横に跳んだ。
シュィィィン!と風を切って金の輪が、一秒前まで彼が居た場所を通り抜けていった。
「魔術? 魔術なのか、あれは? なんで、暗示郎はただの、イタリア人のウェイターだぞ!?」
ドグマは魔翠玉の欠片を一つ口に放り込み、残りをポケットに突っ込みながら、オロカの疑問に答えた。
「たぶん、補助魔具を譲られたのだろうな。管理者か……あるいは、愚弟に」
「三郎が!?」
「支配を受ければ、やれと命じられた事は何でもせざるを得まい。
ウェイターだろうとウェイトレスだろうと、即席の戦力に仕立てあげる事でも、な。
チッ……癪だが、今は半人前の術でも、くらいたくはないな……魔力を消耗すれば、抵抗力も落ちる」
「そうかっ、マルセルの奴……!」
非戦闘員を戦いの道具にするなど、最低だ。
オロカはそう考え、マルセルに怒りを感じた。

 

暗示郎は木陰から全身を見せると、両手を使って次々に金の輪を投げつけてきた。
身につけている片翼の羽飾りと相まって、まるで狂った天使のような姿だった。
オロカとドグマは金の輪をかわしながら、言葉を交わした。
「どうすればいいんだ!」
「普通なら、支配の上書きをすれば済むところだが……その手は、駄目だな。
場所ははっきりとはわからんが、感じるぞ、死霊の気を」
「マルセルが近くに居るって事か!」
「おそらくな。位置条件が同じなら、向こうの"恒久型"支配が勝つだろう。
となれば、原始的な手段に頼るしかないな」
「原始的?」
「殺すか──」
「!」
「──あるいは、気絶させるか、だな」
「わかった、やる!」
ドグマが魔術などぶっ放せば、暗示郎は気絶などで済まず、
勢い余って殺されてしまいかねない。
そう考えたオロカは、飛んでくる金の輪の合間合間に、少しずつ前進を始めた。


「さて……奴は、どこだ?」
暗示郎の方はオロカに任せ、ドグマは周囲に視線を走らせた。
ビシッ!
目を向けたのと反対方向から、ふくらはぎのあたりへ鞭を撃たれたような衝撃が走った。
「ぬッ!」
ドグマが下を向くと、彼の両足を軸に細身のロープで結ばれた二つの丸い重りが
シュルルッと素早く回転していた。
「しまっ……」
ロープに足を絡め取られて、一瞬立ち往生したところへ、黄金の輪が迫った。
「!」
黄金の輪とほぼ同時に、別のものがすっ飛んできた。
ドグマはそれに体当たりをくらって、ひっくり返った。
地面で打った背中をさすりながら、思わずつぶっていた目を開くと、
彼の上にのしかかっているオロカが見えた。
「大丈夫か、ドグマ?」
「……グッジョブ」
オロカはドグマを抱え上げ、彼の長い足を引きずりながら薮の影に滑り込んだ。
オロカの背中からわずか二、三cmしか離れていないところを、続いて放たれた金の輪が駆け抜けていった。
「何だ、これ?」
オロカはドグマの両足に巻き付いているロープと重りを見やった。
「ボーラ……武器というより狩猟具だな。魔力は感じん、切れ」
「わかった」
オロカは刀の刃こぼれしていない部分で、ロープを切ってドグマの足を解放した。

 

「こんな小賢しい手を使うのは……」
ドグマは立ち上がりながら、キッ、とボーラが飛んできた方向を睨みつけた。
「そこか……!」
ドグマが一本の樹を見据えて指揮棒を振り上げようとした時、その樹がパシュッ!と閃光を放って消え失せた。
眩しさにドグマが顔をそむけた隙に、トーンッ、とその場からコートをまとった人影が高々と跳んだ。
「三郎!」
オロカが叫んだ。
三郎は見えない足場があるかのように空中を蹴って向きを変え、葉陰の奥にサッと姿を消した。
「幻……? それに何だ、あの動き……!?」
オロカがドグマを振り返ると、彼はひどく嫌そうな顔をしていた。
「どうした?」
「いや……奴め、格上との戦い方をちゃんと心得ているではないか、と思ってな……」

「地の利が悪いな……」
ドグマが呟いた。
「地の利?」
「うむ。こんな事になるのなら、森の中を選ぶのではなかった」
ドグマの返答に応じるかのように、口笛の音がかなりのスピードで遠ざかっていくのが聞こえた。
「あっ……三郎は、樹を操るんだったな」
「全部の植物が予め手を入れられているとは限らんが……いや、違うな。
手つかずの植物だと失敗の可能性があるからやりたがらんというだけで、力量的には支配可能か。
それに、水と風の中間属性の術だから、水属性のステージだとホーム同然だな」
「植物の支配は、上書きできないのか?」
「……私と敵対属性の術で勝負しようとは思わん。それに、相性も悪い」
「相性?」
「例えれば……樹が女だとして、私と愚弟から同時に求愛されたら、どちらになびくかという……」
「……貴方ほど樹に嫌われそうな男も珍しいな」
近寄るだけで焼き焦がされそうな男に、樹が惚れるとも思えなかった。

マインド パペット

「……キライ……キライ……キライ……」
暗示郎の声に、オロカはハッと身を固くした。
暗示郎は、二人の隠れている薮を大回りに迂回しながら、呟いていた。
「キライ……キライ……みんな、嫌いだよ……
みんなはいいよね? 僕にゲロしたいことゲロすれば、スッキリするのかもしれないけどさぁ……
僕はどうなるの? 僕だって、気持ちの沈む日くらいあるんだよ?
僕ぁねぇ、望んでピエロにはなったかもしれないけど、公衆便所になった覚えはないんだよ?
みんな、僕の事、悩みのひとつもないお気楽極楽なガキだと思ってるでしょ?
嫌い……! みんな、大っキライ……!!」
ズキッ、とオロカの胸が痛んだ。
日頃、暗示郎を"都合良く使える相手"にしてしまっている自覚が無いでもなかった。
「あっ、暗示郎……」
「聞き流せ」
ドグマは、淡々と言った。
「でっ、でも、あいつあんな事を……」
「聞き流せ、と言うとるのだ。
私も他人を操る際、"熱狂"という感情を増幅するのは知っているだろう。
管理者も同様……ただし、増幅するのが"負の感情"という違いがあるだけだ。
そんなもの、誰だって心の奥底に抱えている。私にも、そして無論、おまえにもだ」
「ふ……?」
「つまるところ、心の闇だ」
「……あ、操られて言ってるだけなんだよな? 本当のあいつじゃ、ないんだよな?」
「そう考えたくば、勝手にしろ」

わさり、わさりと三郎が去った方向の樹々が動き出すのを見やり、ドグマは口を開いた。
「さて……愚弟の相手は、私がするしかないな。おまえは……」
「いや、待ってくれ」
命令される前に、オロカはドグマの言葉を遮った。
「やっぱり、暗示郎より三郎の方が強いよな?」
「それは、いかに半端者であれ、魔術を覚えたばかりの素人より上に決まっている」
「なら、俺が三郎と戦う」
「……何?」
「貴方は消耗してるし、体の具合だってまだ万全じゃないだろう?」
サブリミナル・リングをかわす際のドグマの動きが、オロカにはいまひとつ"重そう"と見えていた。
ボーラに足を取られたのも、その影響があってのことかもしれない。
三郎の異様なまでの素早さ、身軽さを見た後では、魔術に無知なオロカからでも、今のドグマには危うさが伺えた。
「それに魔力を回復してる最中だといっても、それは極力温存しなければならないんだろう?」
「それは、そうだが……」
「だったら、俺がなんとかやってみる」
「なんとかって……おまえは愚弟の実力を把握しとるのか? 樹を操るだけが能ではないぞ?
基礎の時空魔術ごときでビビッていたのは、どこのどいつだ?」
「貴方だって、魔術をほとんど使わずに三郎を倒せる勝算があるってのか?
今、『私がする"しかない"』って言ったのは……
いつもなら余裕だろうけど、今の状態じゃあんまり自信が無いから、じゃないのか?」
「……む」
図星をさされて、ドグマは反論に詰まった。
「それに……」
「それに?」
「いくら仲が悪いッたって、やっぱり兄弟が戦ったりするもんじゃない!」
ドグマの返答も聞かずに、オロカは刀を構えて薮から飛び出した。

「……っ」
ドグマは一瞬、制止しようと口を開いた。
しかしその言葉を飲み込み、代わりに簡略化した付与魔術の呪文を早口に発した。
「炎よ宿れ、我が敵を蹂躙する力となりて!」
ボゥッ! と激しい炎がオロカの手にする刀の刀身から噴きあがった。
「うわっ!?」
攻撃を受けたのかと思ったオロカが声を上げ、足を止めた。すかさずドグマが説明を加えた。
「ちょっとした援護をくれてやった! 柄までは燃えん、安心するがいい」
凝縮するように炎が治まると、刀身は鍛えている最中の玉鋼を思わせる赤々とした光を放っていた。
「ありがとう!」
振り返らぬままにオロカが言い、再び駆け出した。
「ふン! 礼は、愚弟に勝ってから言え!!」
ドグマもオロカの背中から目を逸らし、回りこんできた暗示郎の方へと向き直った。
マインドパペット1.5 水色の庭園
36.
 
大魔術師。世にも稀な達人。バケモノ級の実力者。
それらの表現が決して誇大ではないドグマとて、万能ではない。
第一に、高速で移動しながら呪文を唱えるといった行為は、ドグマにはできない。
それはコントロールにおいて天性のセンスの良さを持ち、加えて魔具"逃げ道サンダル"の性能を極限まで引き出すことのできる、三郎ならではの特技なのである。
第二に、ドグマ個人というより火属性の術、およびレベルの高い術の傾向ではあるが、術を使う際の魔力消費量が大きい点である。
普段のドグマならば豊富な魔力容量を備えている為にさしたる短所にはならないのだが、今のように消耗した状況では響いてくる。
第三に、術を発動させるまでに時間がかかる事が多いという点である。
これも、彼の最も得意とする支配魔術の傾向でもあるが、それだけではない。
例えば、全く同じ条件下で(呪文を簡略化するかしないか等)ドグマと三郎が同じ術を使ったとしたら、先に発動するのはほぼ三郎の方である。
修練を積み、加えて支配魔術の補助魔具"力のタクト"を用いる事によって一部は改善できてはいるが、高すぎる魔力を制御する為に、ある程度は甘受しなければならない部分であった。
己を過信しがちな性格とはいえ、ドグマもそれらの短所を自覚出来ないほど愚鈍ではない。
オロカという"盾"を欲したのも、その為である。
「馬鹿のひとつ覚えとは言え、厄介だな……」
ドグマは呟いた。
"サブリミナル・リング"には、命中しなければ効果がないという欠点がある。
そのかわり発動が遅い傾向にある支配魔術でありながら、例外的に発動時間がごく短く、連射が可能だ。
特に、呪文無しでこれを使える力量がある術者は、脅威である。
オロカがこの場を離れた為、ドグマに襲いかかる金の輪の数は二倍になっていた。
彼は攻撃に転じる隙を見いだせず、ひたすらそれらを避け続けていた。
「それにしても、覚えたばかりでいきなり無詠唱で使ってくるとは……こいつも、"天才"か?」
息継ぐ間もなく金の輪を投げ続ける暗示郎の姿に、一瞬、三郎が重なって見えた。
「……ッ!」
足がもつれ、バランスを崩した。
ドグマは体勢を立て直す事を放棄し、そのまま早口に簡略化した呪文を唱えた。
「我は拒む、我に触れんとする全て……をッ!」
詠唱に集中していたので受身を取る事ができず、まともにガツンと地面へ叩きつけられた。
小さくうめき声を上げたドグマの元に、金の輪が風を切って飛来した。
しかしそれはドグマに命中する事なく、手前で弾き返され明後日の方向へ飛んでいった。
"インビジブル・ウォール"、見えない壁を生じさせる風属性の時空魔術。
「"天才"などには、負けてやらんッ! 絶対にな!!」
"努力の天才"としての意地が、不自然な体勢での術の発動を成功させていた。

ドグマは倒れたまま、地面を手のひらでバンッと叩いた。
そして"クレイ・ゴーレム"──土から巨大な動く人形を作り出す、土属性の付与魔術の呪文を唱え始めた。
「物言わぬ土塊よ、我は汝に生命の息吹を……」
"サブリミナル・リング"は、相手の潜在意識に働きかけ、思いのままに操る術である。
最低でも動物並み以上の知能や感情のある対象にしか、効果を発揮しない。
簡単な命令を理解し実行するのみの限定された知能しか持たず、感情の無いゴーレムを使って攻撃する事は、有効な戦術であった。
「……いや」
ピタリ、と呪文は中断された。
ドグマの脳裏には、ちらりとオロカの姿が浮かんでいた。
「殺したら……泣くかな?」
ゴーレムは、岩をも砕く怪力の持ち主である。
そして、"手加減しろ"などという高度な命令を理解する知能は無い。
その豪腕による打撃は、体をたいして鍛えても居ない者など、一発で屠ってしまう可能性が高い。
「他はどうでも良いが……部下の望みは、多少は考慮に入れてやらんとな……やれやれ、主君も楽ではないわ!」
何度か金の輪を見えない壁にぶつけて、その存在に気づいた暗示郎が、迂回しようと走り始めた。
ドグマは少しよろめきながら立ち上がると、うつむき加減に指揮棒を振りながら、別の呪文を唱え始めた。
彼の最も得意とする、火属性の支配魔術──その呪文を。
 
 
 
根を足のように使って、樹が歩いてくる。棍棒のように、太い枝がブンッと振り下ろされた。
「せえぇぇッ!」
オロカは突進して枝の下をかいくぐり、赤光を放つ刀を横薙ぎに振るった。
熱したナイフでバターを切ったような柔らかい手応えとともに、樹の幹を断ち切った。
ずずぅん、と地響きを上げて樹が倒れた。
「すごい……行ける!」
攻撃をくらったら大怪我は免れないだろうが、樹の動きは単純で、スピードもそれほど速くない。
刀に術をかけてくれたドグマに感謝しつつ、オロカは襲ってくる樹を次々に切り倒しながら前進した。

突き進むたび、徐々に近くで聞こえるようになってきた口笛の音に、オロカは視線を上げた。
「居……たッ!」
横に伸びた樹の枝の上に、三郎が立っているのが見えた。
更に二、三本の樹を切り倒すと、一気にオロカは距離を詰めた。
三郎を載せた樹を切り倒し、落としてやろうと──しかし、ふと疑問が浮かんだ。
おかしい……さっきは、移動しながら口笛を吹いてたじゃないか。なぜ、逃げない?
オロカは走る速度を緩めた。その足に、何かが引っかかった。極細のワイヤーだった。
幸い、立ち止まりかけていたので転倒はまぬがれたが、危険を感じて横っ飛びに転がり逃げた。
ブンッッ!!
凄い勢いで、虚空から何かが飛び出した。
鋭く尖らせた竹槍を何本もくくりつけられた、しなやかな若木だった。
木を曲げて固定し、ワイヤーが外れると反動で飛び出す罠。
その上から幻影を被せ、周囲の景色と溶けこませるようにして隠してあったのである。
「あ、危なかった……」
オロカは胸をなでおろした。
まだ、罠が揺れている。
幻影が残り空中から生えたように見え、間抜けではあるが、切っ先の鋭さと勢いの名残は冗談で済まない。
軽く枝のたわむ音がして、彼は頭上を振り仰いだ。
三郎を載せている樹ではなく、奥にある別の樹の上から、もう一人の三郎が跳んだ。
「あっちが本物か……待て!」
慌てて立ち上がったオロカに、小馬鹿にしたような冷笑を向けて、三郎は空を駆けて行く。口笛を吹きながら。
後を追おうとしたオロカの前に、再び動く樹々が立ち塞がった。
「糞ッ……何本、倒せばいいんだ!」

何度目かも忘れた、追跡の中──
「うわっ!?」
オロカは結び合わされていた草につま先を引っ掛け、転倒した。
勢い良く頭から薮に突っ込んでしまい、慌てて身を起こそうとして……しゅるるっと目前のつる草が動き出すのを見た。
「し、しまった! やばい……ッ!!」
逃げる間もなく、つる草に体中、絡みつかれていた。身動きできない。刀を振るう腕も、身をかわす脚も。
ずるり、ずるりと、もがく彼の背後から樹が近づいてくる。
「うおぉぉぉッ!」
渾身の力を全身から振り絞って、体を地面から引き剥がした。ブチブチブチッとつる草が千切れた。
振り下ろされた樹の枝をギリギリで転がってかわし、立ち上がりざまに刀を叩きこんで幹を両断した。
「……はぁッ……はぁッ……はぁッ……」
汗まみれ、泥まみれ、草まみれのオロカの心に、だんだん焦りがつのってきた。
幾度、動く樹々を倒し、罠を切り抜けて距離を詰めても、そのたび三郎に逃げられてしまうのだ。
いっそ樹を無視して振り切り、三郎だけを追おうか──とも考えはした。
しかし、たとえ三郎との接近戦に持ち込んだとしても、素早い彼にやすやすと決定打を浴びせられるとは思えない。
少しでも手間取るうちに、放置した樹々に取り囲まれ袋叩きにあったとしたら、いくら樹の動きが雑だといっても避けきれないだろう。
だから、倒さないわけにはいかない。倒しても三郎の痛手にはならないと、わかっていても。
徒労とも言える戦闘を長時間続けるうち、彼は振り回す刀に、そして己の手足にずっしりと重みを感じてきた。
まるで全身に砂袋をくくりつけられ、中身を少しずつ、少しずつ増やされているような感覚だった。
まだ余力はある。けれどもいずれ、疲れが溜まって動きが鈍る。そして──樹に頭をカチ割られる。
「はぁッ……はぁッ……!
あぁッ、三郎らしいといえば、らしいがッ……はぁッ……つかず離れず、嫌らしい戦い方だなッ!!」
疲れを吹き飛ばそうと、オロカは大声で叫んだ。

「──僕らしい、ですって?」
不意に口笛の音がやみ、三郎の声がした。周囲の樹々も、動きを止めた。
ハッとして、オロカは顔を上げた。まだ距離が離れているので、葉陰が邪魔で三郎の姿は見えない。
「貴方に、僕の何がわかるって言うんですか? さも、人の事をわかってるみたいに言って。
あぁまったく、どいつもこいつも僕に自分の都合のいいイメージを押し付けて……わかったような気になって……
……そして、僕がそのイメージに反する言動を取れば、裏切られたみたいにギャーギャー怒り出すんですよ。
あぁ、嫌だ嫌だ、つきあってられませんよ。何で僕がそんな、無駄な時間を費やさなければならないんですか?
さっさと消えてください。みんな、この世から、居なくなってください……」
「そっ……」
そんな事を言わないでくれ。確かに俺は未だに、おまえの事が良くわからないよ。
でも、わからなくたって、俺はおまえと過ごす時間が楽しい。おまえの事が好きだ。
おまえだって、自分とは違うとは言いながらも、俺の事いい奴だって少しは認めてくれたんじゃなかったのか?
──オロカはそう言いたかった。しかし、口をつぐんだ。
マルセルに心を操られているなら、何を言ったって無駄だろう。
体はまだ動くが、息があがって胸が苦しい。口を動かすよりも、この隙に乱れた息を整えよう。
「ん……?」
ふと思いつき、オロカは小さく声を漏らした。
そういえば、ドグマは言っていた。
人を操る時は、大雑把な命令を与えるだけであって、どう行動するかの細かい指示を与えるわけじゃない、と。
じゃあ、おそらく三郎はマルセルに俺達を倒せと命じられただけで──
──罠を仕掛けたり、逃げまわって翻弄したりしてるのは、三郎自身の判断なんだ。
それに……そうだ、負の感情を増幅させられている、とも言っていた。
良くはわからないが、感情を膨らませるってことは──それは、冷静じゃない、っていうことじゃないか?

「いいや、わかるとも!」
オロカは声を張り上げて、三郎に答えた。
「何がです?」
「だって、おまえはいつだって、逃げてるじゃないか!
いつも逃げる奴が、今も逃げまわってて……
それを、おまえらしい逃げ腰野郎の戦い振りだッつって、なにが悪いんだ、えッ!」
「……何ですって?」
空気が凍りつきそうな、冷ややかな声が返って来た。
「ただ、逃げながら戦うのが有効な戦術だと思えばこそ、逃げているだけですよ?
その鈍足で追い掛け回して殴る事しか能がない人には、わからないでしょうけどね?
僕は、その気になれば何だってできるんです。
僕は、ひけらかす事を好まない……それだけなんです」
「やりもしない癖にやれるだなんて、偉そうな事をいうな!
やれる"かもしれない"なんてことが、自慢になるか!
本当にやれるんだったら、逃げずに戦うところを見せてみろ、逃げ腰野郎ッ!!」
乗ってこい、乗ってこいと念じながら、オロカは挑発を口にしていた。

「……いいでしょう」
「……!」
来た!と歓喜を覚えながらも顔に出さぬよう身を固くして、オロカは刀の柄を握り直した。
「ただし、もう少し……そうですね、あと十秒ほど待ってからでよろしければ?」
十秒? 何を待ってるんだ?
オロカは思わず、きょろきょろと辺りを見回した。
しかし、起こった変化は周囲からではなかった。
シュゥゥッ、と小さな音を立てて、オロカの手にする刀に灯っていた赤い光が消え失せた。
「あっ……!」
「オリジナルの術を別とすれば、武器によるダメージを増加する術の中で、間違いなく最大級なんですが……
惜しむらくは、持続時間がたいして長くはないんですよね……"インフェルノ・ウェポン"は」
ふわり、と樹上から飛び降りながら、三郎は手にしていた懐中時計をコートの内ポケットに収めた。

「それくらい、なんてことないぞ!」
オロカは怯まず、刀を構えて走り出した。
威力が高すぎては気絶させるには不向き、むしろちょうど良かった──そう考えながら。
もう片方の手で、三郎は剪定鋏をパチンと鳴らした。
「双翼よ、我を護れ」
三郎の口から発せられたのは、呪文──ではなく、魔具の力を発動させるキーワードであった。
剪定鋏の二つの刃が離れ、変形し大きくなり、三郎の両手のそれぞれに握られた。
「剣……!?」
オロカは驚いて足を止めた。
少々不釣合いなくらいに鍔の大きい二本の短剣を、三郎は手にしていた。

オロカはダンッと地を踏みしめ、三郎の腕を狙って刀を振るった。
すいっ、と三郎は一歩退き、数cm手前を刀が空を切った。
華奢な三郎の事、急所へ刀を叩きこめば殺してしまう。
オロカは三郎の戦闘力を削ぐ目的で、腕や肩などへ次々に攻撃を仕掛けた。
三郎は、最小限の動きでそれをかわし続けた。
「でぁッ!」
上半身へ刀を振るい続けたところへ、突然足へ狙いを変えてオロカは低い蹴りを放った。
しかし、トンッと素早く三郎は地を蹴って、距離を取った。
「おぉ、危ない危ない……」
三郎は、小馬鹿にしたような冷笑を浮かべた。
危ない、だと? 危なげなんて、まるで無い──完全に、見切られてる。
それに、速い──速すぎる。まるで、刀が当たる気がしない。

傭兵として戦場で培った経験を、オロカは思い起こした。
彼の"速い敵"との戦い方は、決まっていた──自分が傷つく事を、恐れない事だ。
オロカは峰打ちでブン殴って気絶させることにしようと、刀を持ち替えた。
「うおぉッ!」
オロカは雄叫びをあげて、突っ込んだ。
相手が一歩退くなら、二歩、三歩多く踏み込めばいい!
それで多少先に切られても、こちらが決定打を入れられればいい!!
オロカは一気に間合いを詰めた。
行ける!と、刀を思いっきり叩きこんだ。
ギンッ! 鋭い金属音──
オロカの刀と、三郎の左手が握る短剣とが衝突した。
スススッ、と刀は短剣の刀身を滑って勢いを逃がされ、大きな鍔でしっかりと受け止められた。
オロカは目を見張った。
彼は、両手持ちで、それも全力で刀を叩き入れたのである。
もし防がれても、その短剣ごと体へぶち込めるだけの腕力差があると見込んでいた。
その短剣の当たり所が悪くなければいいが、と願っていたくらいである。
しかし、受け止めた三郎の片手は、ブレてすらいなかった。
「……ハッ!」
短い気合の声と共に、三郎が右手の短剣で突きを入れた。
「うッ!」
オロカは慌てて後ろへ飛び退いた。
「つっ……」
オロカは痛みを感じて、胸に手を当てた。
幸い、浅く短剣の切っ先が刺さっただけだった。
少量の血は流れ出ているが、心臓や肺が傷つけられるほどの致命打には至っていない。

信じられない……速い、という事は予測がついていたが……三郎の細腕に、こんな力があるなんて!
オロカは驚愕のさめやらぬままに問うた。
「樹から下りる前に、何か腕力が増すような術でも使ったのか!?」
「空耳でも聞こえましたか? そんな呪文、唱えてませんよ」
また、あの小馬鹿にしたような冷笑が三郎の口元に浮かんでいた。
マインドパペット1.5 水色の庭園
37.
 
さすがに三郎とは比べものにならないが、なかなかの俊足を生かして暗示郎は見えない壁を迂回した。
ニヤッと一瞬、彼は笑った。
ドグマはまだ壁の方を向いて、タクトを振りながら呪文を唱えている。
まず右手、そして間髪入れずに左手から、続けざまに暗示郎は"サブリミナル・リング"を放った。
詠唱に集中しているドグマの足は、一歩も動かなかった。
風を切って飛来した二つの金の輪の前部分が、スパッと何の抵抗もなくドグマの体を貫通した。
金の輪はドグマの体を取り囲んで、宙に静止した。
輪投げの輪が、的の柱にすっぽりはまった瞬間──そこで時が止まったかのごとく。
「アハッ! タクト振ってたってことは、支配魔術ってヤツだよね?
三郎から聞いたよ。それを使えば、人を操るのはかなり速くできるって。でも、それは今の僕には効かない!
それ以外の支配魔術は効果が出るのが遅いのが多くて、一対一の戦いには向かない!
壁があるからって油断したの? 強力だからって、拘りすぎたのが敗因だね!!」
金の輪から発せられるキラキラとまばゆい光が、ヴェールのようにドグマを包み込んでいた。
暗示郎は、パチンッと指を鳴らした。
「君は、何の価値もない人間だ。生きていたって、何の役にもたちゃしない……
君に食べ物として喰らわれ、トイレに流し捨てられる為だけに刈られた命に、申し訳ないと思うでしょ?」
甘美な毒のように、優しげな暗示郎の声がドグマの意志を侵食せんと響いた。
「さぁ、今からでも遅くないよ。自分で自分の首をくくって、その先を樹に結んで……
あとは、ぽんと一歩踏み出せば。それで楽になれる、もう悩まなくていいん……」

暗示郎の言葉を遮るように、ピンッと何かが弾けるような、小さな音がした。
金の輪が、バラバラに散った。破片が、光と共に空に溶け、消えていく。
「えっ……えぇっ!?」
暗示郎は、目を疑った。
ドグマは先と何ら変わらず、タクトを振り、小声でぶつぶつと呪文を唱え続けている。
「我は侵されざる者 冬をも遠ざける沈まぬ太陽 とこしえに燃え盛る炎──
人は呼ばん我が事を 其は真なり 我こそは暴君──」
「なっ、何で……何で、効かないの!?」

術に伴う詠唱──呪文や動作には、二種類ある。
一つは、術の効果を発動させるもの。
これしか無い術の方が多数派だ──元々効果が一瞬だけというタイプ(火球や電撃などで直接ダメージを与える術に多い)、"サブリミナル・リング"や"インフェルノ・ウェポン"のように定められた持続時間が経過すると効果が消えるタイプなど。
もう一つは、術の効果を継続させるもの。
前述の発動させる為の詠唱を完了した後でこちらに移行し、呪文や動作を行使している間だけ、効果が現れ続けるというものだ。

一般的に、防御用の術の方が攻撃用の術よりも発動までにかかる時間が短い傾向にある。
ドグマは暗示郎が移動している間に、防御の術を発動させ、既にその維持に入っていたのだ。
もしこの場に居たのが三郎であれば、その事に気づいただろう。
しかし暗示郎は、そこまで詳細な説明を三郎から受けてはいなかった。
"バーニング・タイラント"──それがドグマの身を守っている術の名であった。
原理的には、自分で自分を強固に支配する術である。
それによって一切、意志を支配するタイプの術や魔具、あるいは魔物などが持つ特殊能力の効果を受け付けなくなる。
暗示郎のようにそれしか攻撃手段のない敵には有効だが、維持している間は自分から攻撃に移れないのが欠点である。

「えいっ! えぇいっ!!」
暗示郎は、矢継ぎ早に金の輪を投げ続けた。
それらは一つ残らずドグマの体を捕らえ、一つ残らず砕け散った。
ドグマはゆっくりと彼の方へ向き直り、顔を上げた。
火を噴かんばかりの、荒々しい眼光が暗示郎を射ぬいた。
暗示郎は、縮み上がった。"目だけで人を殺せる"とは、まさにドグマのような者に対する形容であろう。
今、唱えられている呪文が終わる前にドグマを殺さなければ、確実に自分が殺される──暗示郎は、そのように誤解した。
正しく状況を把握していたなら、別の攻撃手段を用意する、何らかの方法でドグマに術の維持を解かせる、ないし解けるのを待つ──といったあたりが採るべき選択であろう。
しかしドグマが発する暴力的なまでの気迫が、まさか防御専念戦術を取っているなどと、彼に感じさせなかったのだ。
「しッ! 死んじゃえ! 死んじゃえ! 死んじゃえぇぇッ!!」
半ばパニックに陥り、暗示郎は闇雲に金の輪を投げまくった。
ドグマは暗示郎をにらみつけたまま、ひたすら耐えていた。
見た目ほどには、余裕ではなかった。長時間、維持するには体に負担がかかる術であった。
全身を締めあげるような圧迫感と、徐々に込み上げてくる体内の熱が、ドグマの体力をじわりじわりと削りとっていた。
ぽたぽたと汗の雫を落としながら、ドグマは暗示郎の様子を伺っていた。
頃合いを見て、ドグマは精神集中を途切れさせぬようにゆっくりと歩を進め、暗示郎に近づいていった。

「あっ……!」
暗示郎が小さく声を漏らした。
彼が振り切った手の先からは、金の輪が出なかった。
魔具"ペ天使の偽翼"にチャージされていた魔力を使い果たしたのだ。
人間誰でも──鍛えていなくとも──生来少しは魔力容量を備えているが、そちらを使っての術のかけ方については、三郎はまだ彼に仕込んでいなかった。
三郎から、戦いに十分な量の魔力がチャージできていると見なされた為と、不慣れな暗示郎が魔力を全て使いきって枯渇に陥る事を危惧された為だ。
「終わりだ!」
ドグマは詠唱を中断し、同時に暗示郎めがけて最後の数mをダッシュした。
「きゃあぁぁぁッ!」
暗示郎が、悲鳴をあげた。
ドグマは構わず、暗示郎の腹に強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
ふしゅうっ、と空気が抜けるような声を漏らして暗示郎は吹っ飛び、ガツンと後頭部を地面で打って動かなくなった。
脳震盪ぐらいは起こしているかもしれないが、胸は呼吸で上下しており生きてはいるようだった。

「やれやれ……素人のくせに、手間をかけさせおって……」
ふぅ、と息を抜いて、ドグマはただの石ころと化した魔翠玉の欠片を口から吐き出した。
「……結局、かなり消耗してしまったではないか……」
ぶつぶつと呟きながら、蹴り上げた脚を下ろそうとした。
その時、突然の異変が彼を襲った。
脚が体重を支えきれず、がくんと膝が折れた。
「うッ……!?」
ドグマは、とっさに受身を取ろうとした。
しかし手足が言う事を聞かなかった。まともに胸板を地面に打ち付け、痛みが走った。
「ぐはッ! どう、した……魔力を使いすぎたか……?」
神経系の障害を魔力で補っている為、彼は消耗すると思うように動けなくなる。
素であれば、"ごくゆっくりとなら、杖にすがって何とか歩けなくはない"、という程までに──が、それだけではなかった。
突然、手足が彼の意志によらず勝手に動いた。
ばたん、と勢いよく寝返りを打って仰向けになると、手が自分の首を絞めようとするように持ち上げられた。
「なっ……! 干渉されている……!?」
ドグマは手に意識を集中し、何者かに動かされる手を止めた。
しかし、体がだんだん麻痺に侵されてきているため、うまく力が入らない。
じりじりと、再び手が首に近づいていく。
「うぅッ! くうぅぅッ!!」
ドグマはうめき声を漏らし、やはりいつもの半分の力も出ない脚で挟んでなんとか手を留めながら、自分の体内を意識で探った。
薄氷の張った、冷たい泥沼に腰まで浸かっているかのような──そんな、ぞくりとする感覚があった。

「私でないものが……私の中に……! マルセルとやら……貴様かッ!!」
『えぇ、そうよ』
念話が、外から伝わるのでなく、ドグマの体内から響いた。
『"バーニング・タイラント"を使われた時はどうしようかと思ったけど、解いてくれて良かったわ』
「そうか……おのれ、その手があったか……ッ!」
ドグマの脳裏に、先程浮かんだ疑念──暗示郎が、覚えたての術にも関わらず無詠唱で使いこなした不自然さが浮かび──そして、その解答が閃いた。
「貴様……そいつに憑依して、内から術の制御をサポートしておったか!」
『そうよ。三郎の教え方が良くて"サブリミナル・リング"を使えるようになってはくれたけど……
やっぱり、実戦で使い物になる程じゃなかったもの。
それに予め中に潜んでいれば、暗示郎に攻撃を仕掛けた隙をついて、無防備な貴方に乗り移れる……一石二鳥だもの』
「最初からそれを狙っていたとでも……? 嘘をつけ、そいつの相手を私がするなどと、予想がつくはずがなかろうが!」
『……あら』
マルセルは、くすくすと笑った。
『だって、優しいオロカが、貴方と三郎を戦わせるわけがないじゃない?』
「抜かせ……ッ!」
ドグマは肉体の力で抗うのでなく、気力を振り絞って自分の体からマルセルを追い出そうと試みた。
マルセルもまた、それに対抗し、逆にドグマの意志をねじ伏せようと圧力をかけてきた。
ドグマの"肉体の支配権"をめぐる、互いの首を絞めあうがごとき戦いが始まった。
しかし、この戦いはあまりにもハンデがありすぎた。

「う、うぅ……つっ……うぐっ……お、おのれ……」
ドグマの心身は疲れきっていた。
せめてものそれを緩和する行為──手を伸ばし、ポケットの中にある魔翠玉の欠片を取り出して、口に放り込む──
たったそれだけの動作すら、手足の痺れと、取り憑いたマルセルによる妨害とが相まって許されない。
時が経つにつれ、神経作用を補っていた魔力も、ますますほころびを見せていく。
体のあちこちの筋がひくっ、ひくひくっ、と痙攣を起こし始め、そのひきつれるような苦痛と不快感が精神集中を妨げる。
障害があるといっても、そう頻繁に起こる症状ではないはずだったが──それまでに体を酷使しすぎたのだ。
今のドグマでは、マルセルを追い出すどころか、己の意志を意識の奥底へ押し込められぬよう踏み留まるのが精一杯であった。

『苦しそうね、エイリアス……そんな消耗しきった、ガタのきた体で戦おうというのが、そもそもの間違いだったのよ。
無駄な抵抗はやめて……さぁ、気を楽にして……私に全てをゆだねなさいな』
「私を……その名で、呼ぶな……っ! 誰が……、死霊ごとき、に……あ…うぅぅ……っ!!」
痙攣に苦しむ彼の声は、不規則な呼吸に乱され、途切れ途切れになった。
『弱々しい声だこと……』
どこかで聞いたような事を、マルセルは告げた。
その言い様は、まるでドグマを憐れむかのようであった。
まるで対等な勝負などとは言えぬ戦い──服を着たまま水中に落とされ溺れまいともがく者と、それを橋の上から棒で突いて沈めようとする者との構図にも似ていた。
マインドパペット1.5 水色の庭園
38.

オロカは、荒い息をついていた。
体のあちこちに傷を負い、血を流している。
致命傷とは言えない浅手ばかりだが、ズキズキと痛む。
よく耐えてはいたが、少々動きが鈍るのは避けられなかった。
対する三郎は、まだ一発もオロカの攻撃をくらっていない。
流れるような体捌きでかわし、あるいは手にする双剣で受け続けていた。
三郎は守りを重視し、相手に隙が生まれた時にしか攻撃しない──
それも無理には踏み込まず、一発入れてすぐに引く──
そんな堅実な戦い振りであったが、結果的にはこの差であった。
このままじゃ、速さに差がつく一方……いつか、やられる。
一気に、決めなければ!
血の雫が伝い落ちる両腕で刀を握り直すと、オロカはもう一度突っ込む決心をした。
相手は二刀流、守りと攻めが同時にできる。カウンターをくらう危険は大きい。
が、やはり傷ついてもこちらも打ち込められればいいという覚悟でなければ、三郎の動きをとらえることはできない!
「おりゃあぁぁぁッ!」
防御を捨てて振りかぶった刀を、全力で叩き下ろした。
三郎は左手で握る短剣で、それを受けとめた。
やはり、その腕は揺らぎもしなかった。
しかし、今回はオロカもそれで驚きはせず、止まりもしなかった。
「らァァァァッ!!」
勢いを止めず刀に体重をかけ、さらにぐいぐいっと脚に力を込めて突進をかけた。
できれば転倒させ──無理でも近くの樹に押し付けてしまえば、俊敏な身のこなしも封じられると踏んだのである。
押し込まれて若干のけぞるような体勢となり、かすかに三郎の顔に焦りが浮かんだ。
「汝を蝕むは、夢幻の刃!」
三郎は、素早く簡略化した呪文を唱えた。
ビリリッ、と思いっきり肘を固いものにぶつけた時のような鋭い痛みが、オロカの右腕を貫いた。
「うッ!」
オロカは一瞬、怯んだ。
両手で柄を握っていたことが幸いし、刀を取り落とす事は防げた──が、動きが止まった。
その隙に三郎はスススッと滑るように後ずさりし、距離を取った。
"ファントム・ペイン"──触覚を騙し、傷をつけるのでなく痛みそのものを感じさせる、風属性の幻覚魔術であった。

何だ、今のは? 魔術を使ってまで、鍔ぜりあいを避けた?
なぜだ? 腕力があるなら、力勝負を受けたっていいはず……本当は、そうでもないのか?

──あいつの考える事──相手を殺傷するための武器の使い方など、覚える必要は無い──

不意に、ドグマの三郎評がオロカの脳裏に浮かんだ。
相手を殺傷するための武器──じゃない武器だとしたら──?
身を守るための武器──?

「そうか……ドグマの言ったことは、間違いじゃなかったんだ!
それは……武器じゃない! 盾だ! 剣の形をした盾を、両手に二つ持ってるんだ!!」
ピクッ、と三郎は柳眉を動かした。しかし、すぐに薄い嘲笑を口元に浮かべた。
「……今頃わかったんですか? 最初から、言ってるじゃありませんか。『我を護れ』──とね。
そのとおり、この魔具"ダブルウィング"に備わっている魔力は、ダメージ増加などではありません。
刀身に見えない力場を張り、それによって受けとめた際の衝撃を吸収する──それに特化しているんです。
まぁ、副産物として打ち合っても折れにくくなるという利点も生じてますが。
あとはオマケで、軽量化くらいなもので」
「やっぱり、腕力が凄いというわけじゃなかったんだな……」
「当たり前です。僕は、庭師ですよ?
そりゃあ、そこそこ力仕事もしますから、デスクワークしかしてない人よりかは腕力があるつもりですけど……
それにしたって、貴方のような野蛮人に力で優るわけがないではありませんか」
「や、野蛮人……!?」
ひくっ、とオロカの片頬が吊り上がった。

しれっとして三郎は説明を続けた。
「形状の元となっているのは、マインゴーシュという白兵戦用の補助的な武器です。
パリーイングダガー、とも呼ばれますね。
普通は、利き手にレイピアを、反対の手にこれを持つものなんですけどね」
「マイン……ゴーシュ? レイピア?」
「マインゴーシュはともかく、レイピアも知らないんですか? 仮にも剣士のくせに?
ファンタジーじゃ、良く出てきますよ。エルフとか女戦士とか、あと貴族とかが使ったり……
"ロードス島戦記"くらいなら図書館にもありますから、少しは絵本以外もお読みになったらいかがです?」
「……うるさい!」
普段の三郎にならともかく、馬鹿にしきった口調で勧められた本を読んでみる気にはなれなかった。
「あぁ、そうか……フィクションでは色々な時代の武具が混在してますけど、実際の歴史上では確か……
なんでも、武器が発達すれば、鎧もそれに合わせて発達するというイタチごっこを繰り返してきた。
でも、銃が登場すると、いくら装甲を分厚くしても防げないものだから、重い鎧は的になるだけと衰退した。
レイピアは、そうした銃の時代になってから発達した、細身の剣……
鎧越しにダメージを与える必要があった時代には必要だった重さや頑丈さを削った、洗練された刺殺武器ですものね……
貴方が知らないのも、無理はないですね。いやぁ、これは失敬、失敬……」
「……む」
時代、時代って何だか癇に障る言い方だと思いながら、オロカは問うた。
「じゅう……って……何だよ?」
「あぁ……」
三郎は、せせら笑った。
「銃ですか? 知らなくても、いいですよ?
でも、良かったですね……貴方が落とされたのが、骨董品の通用する時代で。
銃弾の飛びかう戦場だったなら、刀なんて鉄クズ同然ですよ?」
「骨董品……! 鉄クズ、だと……ッ!!」
カッ、とオロカの頭に血がのぼった。
「言ってくれたな、この野郎ッ! その口にブチこまれてからも、鉄クズとか言えるかッ!!」
逆上したオロカは、立て続けに刀を打ち込んだ。
三郎は小馬鹿にしたような冷笑を浮かべて、舞うように軽やかなステップを踏んだ。
力任せに振り回される刀は、かすりもしなかった。
嵐のように激しい──だが無駄の多い、単調な動きを幾度も繰り返している己に、熱くなったオロカは気づかなかった。

オロカはとめどなく多量の汗を流し、肩で息をしていた。
体が重くて仕方がなかった。
疲労という名の、全身にくくりつけられた砂袋の中身が、もはやぎっしりと詰まっていた。
ふと、彼は我に返った。
三郎を見ると、汗もたいしてかいていなければ、息すらちっとも乱していない。
おかしい……俺も、持久力には自信があるほうなのに……
なんで、こいつはこんなタフなんだ? ただでさえ、病み上がりみたいなもんなのに?
ハッとオロカは気づいた。そして、寒気を覚えた。

……違う! タフなんじゃない。こいつは、体力を温存するのが巧いんだ!
俺は重い刀を力いっぱいブン回し続けて……三郎は最小限の動きでかわし続けている。
持ってるのは刀よりはるかに軽い短剣、しかも受けるのに力のいらない奴。
攻撃は牽制か、俺が体勢を崩した時にしかしてこない。決して、欲張らない。
これだけやってる事に差があれば、体力の残りに差が出て当然だ!
しかも……考えてみれば、剣の勝負になる前だって……
俺は動く樹と格闘しまくってて、三郎は魔術か何かで飛び回ってただけだった。
もしかして……
三郎は、元々樹で殴って仕留めるつもりはあんまりなく、俺の体力を削っておくのが主目的だったんじゃないか?
俺の挑発に乗ったと見せかけて、本当は最初から頃合いを見て剣の勝負に移る気だったんじゃないか?
ひっかけたつもりが、ひっかけられてた!
こいつは……俺が疲れるのを、待ってたんだ!!

せめて、息だけでも整えなければ……
オロカはそう考え、時間稼ぎのため三郎に言葉をかけた。
「なんだ、おまえ……ちっとも攻撃してこないじゃないか。
盾二つ持って、守ってばかりでどうやって勝つ気だ?」
「……マインゴーシュは斬ることもできる盾、であることを忘れてもらっては困りますね……」
「そんな果物ナイフで人が殺せるものか! こんなカスリ傷を重ねたって、死にゃあしないぞ!!」
オロカは、三郎に負わされた傷のひとつを示して強がった。
三郎は、目を細めて答えた。
「確かに、この短く軽い刀身には、貴方の体を真っ二つにするような力はありません。
けどね……人間、そんな事をされなくたって……頸動脈なり、心臓なりを一突きされれば……死ぬんですよ?」
短剣で己の首をかっきる、滑らかな仕草。すぅーっ、と三郎の口元に氷点下の微笑が浮かんだ。
ぞくぞくっと背筋に冷たいものを覚えながら、オロカは己の残り体力を推し量った。
もう、いくらも持たない──けど、あとちょっとだけなら、行ける。

「やれるもんなら……やってみろ!」
オロカは必要以上に肩を上下させながら刀を構えると、足をもつれさせ気味に踏み込み、振るった。
無論、三郎は余裕でかわした。
刀が空を切ってバランスを崩した──と見えるようにオロカはたたらを踏んだ。
そして地に突き立てた刀を支えとし、転ぶのを防いだ。
三郎はトンッ、トンとバックステップを踏んで距離を取った。
様子を見ている──それが、オロカにもわかった。
「く、そぉ……はッ…はぁッ……ちょこまかと、逃げまわり…やがって……くそッ!……くそぉぉッ!!」
オロカは苦しそうにあえぎながら嘆きにも似た叫びを上げ、わざと膝をがくがくっと震わせてみせた。
もう、立っているだけでやっと──気が空回りするばかりで、一歩も足が前に進んでくれない──というように。

三郎が、俺が疲れ果てたところを見計らって攻めに転じるつもりなら──
完全に動けなくなってから来られるより、まだちょっとは動けるうちに来てもらったほうがいい──
そして、迎え撃つ──それに賭ける!  

「もう、終わりですか? では──こちらから、行きますよ!」
三郎は地を蹴り、さらに空を蹴ってグンッと一気に距離を詰めた。
「うぉっ!?」
体重をかけていた刀を構えるのが一瞬遅れ、刀の間合いの内側に入られた。
三郎の握る短剣が迫る──
首か? 胸か?
どっちだ──いや──違う!
オロカは、自らも突っ込んだ。己の勢いで短剣に貫かれるのも恐れず。
ギンッという金属音。そして、ドスッという鈍い音がほぼ同時に響いた。

三郎の手が、オロカの首輪から伸びる鎖にかかっていた。
その手から取り落とされた短剣が、地面を転がっていた。
三郎の狙いは首でも胸でもなく、オロカの弱点──他人に握られれば全身の力が抜けてしまう、鎖だったのである。
ドグマの評価は間違いではなかった。三郎は、防御の技に長けてはいても、攻撃の力に乏しかった。
また、短剣で急所を突くという事は、すなわち相手の懐に飛び込むという事でもある。
急所を外せば、いくらか傷をつけたとしても、攻撃直後の無防備な体勢で反撃を受けるおそれもある。
だから三郎にとっては、急所を刺し貫くより短剣を捨てて鎖を捕らえるほうが、安全・確実に勝利をつかむ手段だった。

しかし、その手は──まだ力を込めて握られてはいなかった。
その寸前に、オロカの拳が三郎の鳩尾にめり込んでいたのだ。

「おみ……ごと、です……」
三郎の唇から呟くような言葉が漏れ、がくんと膝が折れた。
オロカは慌てて左手だけで持っていた刀を手放し、その華奢な長身を抱きとめた。
「三郎、おまえ……まさか、ちょっとは正気が残ってたんじゃ……?」
三郎の返事はなかった。完全に、気絶していた。
しかし、口元に浮かんでいるのは冷笑ではなく、いつもの柔らかな微笑だった。
マインドパペット1.5 水色の庭園
39.
 
痙攣の症状は、時を追うごとに治まるどころかより激しく、ドグマの体の筋をビクンビクンと震わせていた。
たまらない苦痛と不快感に、精神集中が思わず緩めば──
たちまち握りつぶされるような圧迫感と共に、意志が闇の中へと引きずり落とされようとする。
「うぅっ……うーっ……ぐぅぅ……っ……」
ドグマの口からは、病んだ獣のようなうめき声が漏れていた。
手足が、彼の意志によるものというよりほとんど生体反射で、ひくひくと空をつかむように動いた。
『体があるって、不便ねぇ……こんな、ちょっとした刺激で、心を乱されて……』
マルセルの念話に、哀れみと嘲笑が混じっていた。
 
 
 
これでもかというほどに積み重ねられた、ドグマに不利な状況──
しかし、ひとつだけ幸運と言える事があった。
マルセルが、欲を出した事である。
始め彼女がしようとしたように、ドグマ自身の手でドグマの首を締めさせる、それを続行していたならば──
もっと早く決着はついていただろう。まず間違いなく、ドグマの負けという形で。
しかし、予想以上にドグマが弱っている事を悟ったマルセルは、ドグマの意志を意識の奥底に封じ込めようとしていた。
そうして"肉体の支配権"を奪い取る事に成功しさえすれば、ドグマは生きた操り人形も同然となる。
その膨大な魔力を、取り憑いたマルセルの意のままにできる。

マルセルは、ドグマに匹敵するほどの強大な魔力を持ち合わせている──というわけでは、決してなかった。
少なくとも、単体では。
庭園の地の底に在る、無数の液状化マルセル。
それが"母"とするなら、彼女はへその緒で結ばれた"娘"であった。
良心ロープで結ばれ、それ伝いに供給される魔力に依存していた為に。

かつて存在した時空の狭間の国"モスタリア"に比べれば、ここ"水色の庭園"はそれこそ箱庭同然の規模にすぎない。
なぜなら、マルセル一人では"母"の力を借りても、その程度を維持するのが限界だからだ。
(もっとも、あくまでドグマと比較すれば弱いというだけであって、それだけの事を一人でできる魔術師など、そうそう居ないが)
"母"の力そのものはドグマを上回るかもしれないが、人としてのはっきりとした具体性を持つ意志に乏しかった。
だから、実際に行使できる力は、一種の"端末"とも言えるマルセルの器に収まるだけでしかなかった。

時空の狭間には、いくつもの世界がある。その誕生は謎に包まれている。
はるかな昔、誰かが創造した人工物なのか。元からあった自然物に人が手を加え、住みやすくした物なのか。
規模は様々で、個人の邸宅級から小国級まで幅広い。気候も地形も様々だ。
しかし、どの世界にも皆、共通する事がある。それは、管理者によって広くも狭くもなるという事だ。
放っておけば狭間の世界は、波に侵食される岩のように土地が縮小していく。
それを食い止め、維持する──あるいは広げるためには、時空魔術による儀式が必要となる。

通常、小国級規模の狭間の世界は、数人〜十数人の術師による集団儀式によって維持される。
"モスタリア"でも、最後の管理者にして統治者たるエイリアスの先代までは、そうであった。
しかし、エイリアスは──実の弟に"バケモノ"呼ばわりされるだけあって──独力の儀式による維持をやってのけた。
例外は、彼が働き過ぎで風邪をこじらせたり、持病が悪化したりした短期間のみ、代行として集団儀式が為されただけであった。

エイリアス──今はドグマと呼ばれる、彼の魔力。それは、マルセルにとってすこぶる魅力的な蜜であった。
ドグマの魔力を意のままにできれば、庭園をもっと拡大し、もっと好きなようにできる──
もっとたくさんの住民を移住させることができる──
そして、いっそう理想の"楽園"に近づけられる──
マルセルは、その未来予想図に酔った。
しかし、妄想を現実のものとするためには、いささか時間を要したのである。
いくら衰弱しているとは言っても、やはりドグマとマルセルでは地力に開きがあったために。
 
 
 
カチッ……カチカチッ……
小さな、陶器のかちあう音がしていた。
しかし、その音に気づいた者は誰もいなかった。

音は、気絶したままの暗示郎の背に負われた、ディバッグの中からしていた。
庭園から逃げ出す時に備えて色々と詰め込まれた中に、彼のお気に入りのティーポットがあった。
白くて丸っこい、シンプルだが可愛らしさを感じさせるデザインの。

暗示郎が地面に叩きつけられた衝撃で、ティーポットは粉々に割れてしまっていた。
が、破片のひとつひとつが勝手に動き出し、繋ぎ合わされていく。
やがて傷一つない元通りの形になると、すぅっと注ぎ口から青紫の霞が漏れ出した。
霞は誰に見られる事もなく暗示郎のディバッグから抜け出て、流れていった。
 
 
 
オロカは、気を失って倒れている三郎のすぐ脇で大の字に転がり、まだ乱れの残る息を整えていた。
ドグマがそうそう負けるとも思えなかったが、暗示郎が殺されないかの方が心配だったので、本当はすぐにでも飛んで戻りたかった。
しかし疲労のたまりきった体では、なかなかそうもいかなかった。
「んっ……?」
何かの気配を感じて、オロカは閉じていた目を開いた。
引きずるほどに長いスカートが印象的な、髪を結い上げた若い女性が浮かんでいる──
青紫色の、半ば透き通った女性が──
「マルセルの手下か!」
オロカは傷の痛みに顔をしかめながら、慌てて身を起した。
「……」
女性は黙って、悲しげにオロカを見つめた。
「違う……のか?」
オロカの問いかけに、女性は長い睫毛に縁取られた目を伏せた。
すうっ、とほっそりした腕が森の奥を指し示した。
それは、オロカと三郎、二人が来た方角だった。
「ドグマ達の元に……早く帰れって、言いたいのか?」
こくり、と女性は頷いた。
物憂げで、頼りなげなその様子に、オロカは女性を信用してやりたいという気になった。

刀を杖とし、よろりとオロカは立ち上がった。
まだ目を覚まさぬ三郎を、置いて行きたくはなかった。
しかし担いでいけるような体力は残っておらず、加えて一分一秒の猶予もない事態かもしれぬとあらば、背に腹はかえられない。
「ごめん、三郎……すぐ戻る」
呟くようにそう言い残すと、オロカは重い足を引きずって歩き始めた。
 
 
 
マルセルは、少々焦っていた。
すぐにでもねじ伏せられると思っていたドグマが、あと一歩のところで意識の奥底に落ち込まずに粘っているのだ。
身体の痙攣も、今のところは止む気配を見せないが、いずれ鎮まるだろう。
ドグマが消耗した魔力を回復しない限り、マルセルの有利そのものは揺るがないとはいえ、彼女の思惑通りに事を運ぶのは難しくなるかもしれない。
森の奥に姿が消えて、物音さえも届いてこないが、三郎とオロカの勝敗も気になるところであった。
マルセルは、ドグマを力で屈服させるのでなく"心を折る"方法を思案した。
そして、一つの手をひらめいた。

『あなた……エイリアスと呼ぶな、とか言っていたけど……ウィザード・ネームはドグマ、でしたっけ?』
「それが……どうした……」
ドグマは、苦しい息の下から答えた。
『そう、わかったわ……みんな、いらっしゃい』
マルセルは、"外"に念話を発した。
それに応じて、どこに身を潜めていたのか、十人の水色髪の男女が整然と歩み寄ってきた。
もうドグマの手は勝手に動かされる事はなくなっていたが、代わりに全身が抑えこまれ、見えない鎖で縛られたようにほとんど身動きができない。
己をぐるりと取り囲んだ彼らを、ドグマは横たわったまま、じろりと見やった。
彼らは今のところ呪文の類を唱えてはおらず、武器らしいものも手にしていなかった。
が、容姿の似かよった者がずらりと居並ぶ、存在そのものが不気味であった。
『みんな。彼に、"コール・アニマ"の儀式を』
「……何の、術だと……?」
それは、ドグマも聞いたことのない術の名だった。

邪魔だと言わんばかりに、水色髪の男女はぐったりとしている暗示郎をドグマの傍から引き離し、地面へ投げ捨てるように転がした。
そして、合わせて二十の手がドグマに伸ばされた。
彼のまとう軍服の上着のボタンを外し、ズボンを引っ張る。
「何を……するかッ!」
ドグマは威嚇の声を上げたが、自由の利かない手足では抵抗らしい抵抗も出来ない。
ただ、どうやら男女はすぐさまドグマを殺そうという素振りではなさそうだった。
そうと見た彼は、体の力を抜き、動こうとするのをやめた。
雑魚にいいようにされたとしても、最終的に頭目たるマルセルに屈しなければよい事と、放置を決め込むことにしたのである。
また、不本意ではあっても、抗っても無駄ならば──
"じたばたとして、みっともないところを見せない"というのが、せめてものできうる抵抗でもあった。

彼のたくましい──見た目には頑健そのものの──裸体が剥き出しにされた。
水色髪の男たちの手が、ドグマの体をわずかな身じろぎも出来ぬよう押さえつける。
水色髪の女たちの唇から、どこか眠気を誘うようなハミングがこぼれ始める。
彼女らは、ドグマの全身の肌にしなやかな指先を押し付け、図形を描くように走らせた。
それは、へそを中心とした、見えない魔法陣だった。
全て描き終えると、彼女らは陣の要となる箇所へ、同時に口づけした。
「……うっ」
肌に伝わる柔らかい感触に、ドグマは顔をしかめた。
彼女らの指先がなぞった跡から、芳香を放つ粘り気のある液体が、湧き水のようにとろとろとあふれ出した。
水色髪の男女はそれを伸ばし広げ、摺り込むようにして、ドグマの肌を撫で回しはじめた。
ぬるぬるとした感触がくすぐったかったが、勝手に身体を弄られているという心理的要素以外には不快とは言えなかった。
「気色悪い……が、私がこんなもので音を上げるとでも……何のつも……りッ!?」
ドグマが息を飲み、声が途絶えた。
ドグマの全身が、変容しつつあった。
若い頃ほどではないものの良く発達した筋肉が、太く大造りな骨格が、きしみをあげて一回り小さくなっていく。
肢体のラインが丸みを帯びていき、黒髪がずるずると伸びて肩を覆う。
そして胸が二つに割れ、尻とともに膨れていき、股の間にあるべきものが小さく縮んで身体の中に埋没して無くなった。
ドグマの身体は、大柄で肉感的な、野性味のある美女のそれと化していた。
筋を震わせる痙攣だけが、元の身体の名残を示していた。
「な……何を……しおったッ!?」
声すらも、野太かったそれでなく、低めではあるが確かに女性の声に変わっていた。
『見ての通りよ……ドグラちゃん?』

『さぁ……ドグラを、もっと"女"にしてあげなさい』
水色髪の男女は頷いて、撫で回す手に力を込めた。
「あ……ぐっ! はぐっ! ぐぐぐっ!!」
豊かな乳房を揉みしだかれる、感じたことのない感触に、ドグマは悲鳴じみた声を漏らした。
針を刺されてもわからぬような、完全な麻痺では無い事が、逆にうらめしく思われた。
『男は──言うのよ、ね。自分が襲った女は、みんな襲われたがってたんだって。
胸元やら太ももやら肌を露出して、胸やお尻を揺すって、男を誘ってた……
自分は挑発されただけだ……だから、襲われる女の方が悪いんだ、って……』
ドグマの胸や尻、太ももなどを揉んだり撫でまわしたりしている者たちを残して、半分の五人が動いた。
水色髪の女が二人、それぞれにドグマの片腕に体重をかけて地面におしつける。
水色髪の男が二人、それぞれにドグマの片足を抱え込み、大きく開かせる。
「や……やめ……ッ……!」
最後に残った水色髪の男が、ドグマの股の間に顔を埋めた。
生ぬるい息がかかり、ねちょりと湿った蛇が這いまわった。
ぞぞぞぞっと寒気が、ドグマの背筋を駆け上がった。
『訴えを聞いたお役人も──男だから──言うのよ。
嫌なら、逃げればいい。それが無理なら、大声で助けを呼べばいい。
なんで、そうしなかった? しなかったってことは合意の上だ……』
怖れに歪んだドグマの顔が見えるかのように、マルセルは告げた。
『こんな目にあっている時に、どうやって助けを呼べって言うのよ……ねぇ?』
「……ッ」
ドグマの身体はぶるぶるぶるっと震えていた。痙攣によるものだけでなく。
歯の根が合わず、かちかちと音を立てていた。

「イッ! イィィィィ──痛ぁ──ッ!!」
舐めまわされる刺激がやんだかと思うと突然、ずぶり、と指が突き刺さった。
脳天までつんざくような激痛が、ドグマの全身を貫いた。
『気持よかったんだろ? 感じてたんだろ?って……そう、男たちは言うのよ。ねぇ……感じる?』
『だ……誰が……感じるか! 愚弄すなッ!!』
もはやまともに言葉も口から発する事ができず、ドグマは念話で返した。
『そう……気持ちいいわけが、ないわよねぇ、こんなの……』
「あ…あァァ……ッ……」
ぐしゅっ、ぐしゅっと指が出し入れされた。
そのたびに走る、傷口をナイフでえぐられるがごとき痛みに、ドグマは背をのけぞらせるようにして身をこわばらせた。
ぎしぎしと、折れんばかりに背骨がきしんだ。が、痛みのせいで力が抜けなかった。
ドグマがもがくのを見物するかのように、マルセルは彼の身体を縛る力を少しだけ緩めているようだった。
遅れてそれに気づいたドグマは、じたばたしまいと心に決めたことも忘れ、必死で両脚を閉じようとした。
が、やはりいつもの力の出ない脚は、抱え込む男二人の腕を振りほどく事ができなかった。
『ただ、体の方がそれを受け入れようと反応してるだけ……ただ、それだけなのにねぇ……』
ドグマは、ぎょっとした。
下腹の内──肉壁をこすりながら上下する、異物の感触──
それが、ひりつくような硬く乾いたものから、次第にぬるっ、ぬるるっとした柔らかく濡れたものに変わっていく。
否──変わったのは異物がではない。
体に開けられた穴の方が変化を見せつつあるせいで、ねじ込まれる異物がそのように感じられるのだ。
彼はその、気づきたくもない事実に気づいてしまった。

「オアァァァァ! ォアァァァ!」
ドグマの口から、出したこともない、さかりのついた猫のような声が漏れていた。
にゅるにゅるとした液体をまとった異物が蠢く、体の芯が熱い。熱くてたまらない。
潜り込んでくる途中は妙に──許しがたい事に──心地よく──
最深部まで突き上がった瞬間に、激痛が体を切り裂く──
幾度も幾度も、"快"と"不快"がめまぐるしく入れ替わる。
理性による処理限界を超えた刺激で、頭の奥が焼き切れそうに痺れ、白い闇が徐々に広がっていく。

また来る、と身構えた激痛が来ず──
不意に穴の手前の方で、ぬるぬるっ、ぬるぬるっと異物が上下し、掻き回した。
「ァ……オォォォ……オッ……」
"快"のターンが、じらすように続いた。
こんな、一人では何もできなさそうな者たちから──
奴隷へ"ありがたい御慈悲"でもかけるかのように"快"を与えられているという、屈辱──
精神的にはよりいっそう、"不快"極まる──
なのに、自分の耳にさえ"快"であるかのように聞こえる、口から漏れる声──!

マルセルが、それを聞いて嘲笑った。
『フフッ……こういうの……男は何て言うか、知ってる? "体は正直だな"……って、そう言うのよ……ね』
『違う……! こんなのは……こんなのは、私ではない……ッ!』
ドグマは、認める事などできなかった。
自分の口からほとばしる、常軌を逸したあえぎ声を。
自分の体から潤滑油めいたものが──しかも、侵入者を受け入れるために──分泌されている現象を。
自分の意志を踏みにじる暴力から、ほんの数%だけでも"快楽"などというものを感じてしまっている己自身を。
しかし、マルセルはくすくすと笑いながら宣告した。
『今は……これが、あなたなのよ……ドグラちゃん』

『あ……あぁぁっ……私はっ! 私はアァァ!!』
ドグマは怯えた。苦痛に、不快感に──それももちろんではあるが、それだけではない。
ドグマにとって、"自分"こそが世界で一番揺らがないものであるはずだった。
その"自分"が、いともたやすく揺らいでいる。絶対不可侵であるべき、"自分"が。
"自分"が、"自分でないもの"になってしまう──否、既になっている──
"モノ同然に扱われている事に、悦びを感じる女"などという唾棄すべき存在に、"自分"がなっている──
ドグマの思考は、その恐怖と混乱を受け止めきれず、急速に広がりきった白い闇に占められ、停止した。
それは精神の崩壊を防ぐための、本能的な逃避だったかもしれない。
が、今の状況では決して逃げこんではならぬ、致命的な逃げ道だった。

『ねぇ……まだ、続けるの、抵抗を?
それとも……もう、やめる? 楽にして欲しい? してあげましょうか?』
『……』
ドグマは白い闇の中、ふつっ、と何かが切れるのを感じた。
『もう……嫌だ。もう……いい……』
『……!』
マルセルは狂喜した。ドグマの心を折った、攻め時は今だと──
 
 
 
「てめぇら! 何してやがるッ!!」
怒鳴り声が響いた。駆けつけたオロカの叫びであった。
水色髪の男女は、空気を震わすような気迫に圧され、ビクリとした。
一瞬、彼らは全員、ドグマを弄んでいた手──あるいはドグマを拘束していた手を離した。
そのとたん術が解け、ドグマの身体はむくむくむくっと急激に一回り大きくなった。
肩幅の広い、がっちりとした男のそれ──本来のドグマの身体になった。
「あ……?」
いたぶられていた女が居たはずの場所に、ぐったりと放心した様子で、裸身のドグマが横たわっている──
オロカは一瞬、訳がわからず立ち尽くした。
何も彼は、女の正体がドグマとわかった上で、怒号を発したわけではなかった。
ただ、一人の女が大勢の奴らに寄ってたかって嬲られていると、それが男として許せずに義憤に突き動かされただけだった。
しかし状況が飲み込めると、彼の心の中に爆発するがごとき怒りが噴きあがった。
「てめぇらァァァッ! なんて! なんてことを──ッ!!」
妙なもので、陵辱されたのが三郎や暗示郎だったなら──もちろん怒りはするだろうが──これほどまでには、激情に駆られなかったかもしれない。
オロカにとって、ドグマは"男"でなければ──
"強く"、そして良きにつけ悪しきにつけ"主体的"でなければならなかった。
"女"にされ、"弱く"、"受身"に回されるなど、あってはならぬ事だった。
今までに、ドグマにも案外脆いところはあるのだと知る事となってはいても、それは動いてはいなかった。
オロカは、"男"というもの──古臭い捉え方だったが──そのものを汚されたように激昂していた。

「……ッ!」
ドグマは、少しゆるめられていた見えない鎖が再びきつく体を絞め、自らの動きが封じられるのを感じた。
皮肉な事に、彼が白い闇の中から覚醒したのは、その圧迫感によるものだった。
『逃げなさい』
マルセルが念話を発した。弾かれるように、水色髪の男女がオロカに背を向けて走りだした。
「待ちやがれ! 一寸刻みにしてやるッ!!」
オロカは、疲れも忘れて刀を振りかぶった。
横たわったままのドグマを間に挟む形で逃げる男女を追い、突進しようとした。
「おぉぉぉッ!」
「来るな、オロカァッ!!」
一喝──それが、オロカの雄叫びをかき消した。野太く、良く通る男声──ドグマの声が。
そのとたん、オロカは見えない壁に突き当たったかのように、前に進めなくなった。
ドグマは何か術を使ったわけではない──使いたくとも、マルセルの圧力に抗いながらでは、せいぜい短い念話程度しか使えはしない。
それは、オロカがドグマの支配下にあるが故に発動した"強制力"によるものだった。

ぜいぜいと荒い息をつきながらも、ドグマは冷静さを取り戻していた。
部下の前でみっともなくへたりこんでいるわけにはゆかぬという、見栄とも意地ともつかない心情がそうさせた。
「ドグマ!? しかし、あいつら……」
「誘いに乗るな! そこから、一歩たりと前に出るな!!」
ズキッズキッと疼く──もうそんな穴など存在しないはずなのに──痛みの名残をこらえながら、ドグマは制止の言葉を重ねた。
「誘い……?」
「私は、管理者に……この死霊めに、取り憑かれておるのだ!
何とか、まだ完全には肉体を乗っ取られてはいない、が……オロカ、私からおまえに乗り移られてみろ!
精神的には無防備同然なおまえごとき、すぐさま乗っ取られるに違いないわ! そして……」
ひくひくっと、未だしつこく痙攣を続けている己の手を、いまいましげにドグマは見やった。
消耗している事が一番の問題だが、加えてこれも術の行使の妨げであった。
念話のように、無詠唱で使える低レベルなものならともかく──
簡略化した呪文を唱える場合でも、一見ほとんど動作などしていないように見えるが、指先ぐらいは正確に動かす必要があるものが多いのだ。
「不本意だが、今、おまえに斬りつけられれば……対応などできん!」
オロカという邪魔が入れば、マルセルも欲をかかず、殺害に走るに違いなかった。
まだマルセルからの支配も消えたわけではないオロカをどうするかは不明だが、少なくともドグマについては。
『まったく……意外と、立ち直りが早いのねぇ……』
舌打ちでもするかのような念話が、ドグマの内に響いた。
マインドパペット1.5 水色の庭園
40.
 
「取り憑かれてる……だって……?」
オロカは、横たわったままのドグマを見やった。
声を出してる──意識ははっきりしてるのに、起き上がってこない──いや、起き上がる事もできないのか。
見えない力で、がんじがらめにされてるってことか。
その上、気丈にふるまってはいるけど、ボロボロにされて、あんなに苦しそうで……
動けない奴を、よってたかって痛めつけ、辱めるなんて……汚いにも程がある!
彼の胸の内に、再び怒りがこみあげてきた。
「マルセル! ドグマを放せ!
貴様、三郎の事、悪かったって言った舌の根も乾かぬうちに……今度は、兄貴のドグマまで縛りやがって!
どんだけ他人を縛りまくったら気がすむんだ、この束縛女ッ!!」
『……なに、勝手なこと言ってるの……?』
オロカのあげた非難の声に、不機嫌そうなマルセルの念話が返って来た。

『確かに、三郎には悪い事をしたと思っているわ。でも、それはそれ、これはこれ。
楽園に危害を加える片棒を担いだなんて、三郎も暗示郎もタダでは許せないわ。
もちろん、あなたもね。しっかり、償いをしてもらうわよ!
ましてや、首謀者たるこの男を痛めつけて、何が悪いというの?』
「戦いにだって、最低限のルールってものがある!
戦いだから何でもしていいってわけじゃない!!」
『まぁ、元傭兵のくせに、綺麗事を言うのね。
そんなの、ある程度戦力に余裕がある側だけが言える事なのよ。
ドグマが、手加減をして勝てる相手に見えるというの?
なりふり構わず、弱ってる時に叩きのめさないで、いつ勝てるというの?』
「だからって、やり方が汚すぎるじゃないか!
完全に身動きできないまでにドグマを追い込んだなら、後はあんな事しなくたって勝てるだろ!
傭兵だってな! 倒れた敵をそれ以上苦しませずに一撃でとどめをさしてやる、それぐらいの礼儀と慈悲はあるんだ!
それに、だ! 戦争ってものはな! 自分の信じるものを貫くために、命を賭してぶつかりあうものなんだ!
そうである以上、たとえ敵同士であっても、敬意を持って戦うんだ!
何を信じるかが違ってるだけで、敵にだって信じるものがあるんだからな!
それをおまえは何だ! 勝者は敗者に何をしてもいいとでも思ってるのか!!」

オロカの生きてきた時代には、そうした"戦いの不文律"が根付いていた。
たとえオロカのように本気でそれを信奉していなくとも、体面上は守ろうとする者も少なくなかった。
が、口角泡を飛ばして怒鳴ったオロカに、マルセルは当然のように言い放った。

『そのとおりよ! ただし、単純に"敗者に"と言うんじゃないわ。
あなたが言う、礼儀だ、慈悲だ、敬意だっていうのは、あくまでも対等に何かを奪い合う敵同士の話でしょう?
この男は、暴力を振りかざして一方的に平和を乱し、弱者を踏みにじる──"侵略者"なのよ!
"侵略者"を撃退するためだったら、どんな卑怯な手を使ったっていいのよ!
私には守るべきものがある、綺麗事に拘ったためにそれを奪われるわけにはいかないの!
そして、領土を蹂躙した報いとして"侵略者"から何を奪いとったって許されるわ、これは正当な行為なの!
この男が"悪"で、私が"正義"なのだから!!』
「女のくせに、男を女にして犯すなんて事をしといて、何が"正義"だ! 笑わせるな!!」
『最初に犯したのは、この男よ! この楽園は、私の領土であると同時に、私の体であるも同然だわ!!』
「陵辱されたら陵辱してもいいだなんて事、あってたまるかァッ!!」

オロカは、マルセルの姿が見えればブン殴りたいくらいだった。
が、前に進めないのでその場で地団駄を踏んだ。
 
 
 
「……ウザい」
ぼそっ、と小さくドグマは呟いた。
所詮、立場が違う者同士、話し合いで何か解決するはずがない──ドグマはそう考えていた。
しかし、オロカにそんなつもりはないだろうが、時間稼ぎをしてくれるならありがたかった。
マルセルはオロカとの言い争いに夢中で、ドグマの意志をねじ伏せるのを中断し、身動きを封じているのみである。
かといってドグマがマルセルを追いだそうと試みれば、たちまち反撃にかかってくるだろうが──
極力、気を引かぬようにしさえすれば、疲れきった肉体と精神を少しは休ませる事ができる。
徐々に、痙攣の症状が治まってくるのをドグマは感じていた。
「……ふぅ」
彼は目を閉じて体の力を抜き、ゆっくりと深呼吸を繰り返していた。

不意にドグマは、すーっと意識が引っ張られるように落ちていく感触を覚えた。
慌ててカッと目を開き、ぶるっと小さく頭を振った。
「ね、眠い……何を、こんな時に……寝ている場合では……」
猛烈な眠気と倦怠感が襲いかかってきて、視界がぐらぐらと揺れた。
マルセルはまだ、オロカとの口論にエキサイトしている。何か、悪さをしているというわけではない。
ドグマ自身が長時間苦痛と緊張にさらされ続け、それが途絶えて気が緩んだ為に、溜まりに溜まった疲労がどっとのしかかってきたのである。
普段なら、自分の頬をひっぱたくなり、顔を冷水で洗うなり、ガムなどを噛むなり、色々対策法はあるだろう。
しかし、今はじっとしているしかない。じっとしているから、余計に眠い。
「うぅっ……眠い……眠いぞ、糞っ……
駄目だ、今寝ては……奴の思う壺に……あぁっ、しかし、ね、む、いぃ……っ!」

仮にも戦いの最中に眠いとか、冗談のような話であるが、当人にとって眠気を堪えるのは結構な苦痛であった。
囚人を鎖につないだままずっと立たせておき、居眠りしかければ叩いたり水をひっかけたりして眠らせない、という拷問も存在するくらいなのだ。
しかし、少しでも眠るわけにはいかない。
ドグマはショートスリーパー、つまり余程消耗しているのでなければ睡眠時間が短くても平気な、ある意味便利な体質だ。
だが、その分眠りは深い。
いったん寝付くと自然に起きるまで、軽く踏まれたり蹴られたりした程度では目を覚まさない。
三郎のように、わずかな殺気を察知して飛び起きる、などという器用な真似はできないのだ。
熟睡こいている間に、あっさりマルセルに意志を封じ込められてしまうに違いなかった。
 
 
 
オロカとマルセルの言い争いは、平行線をたどったまま動かなかった。
双方、譲る気が全くないのだから無理からぬ事である。
「あぁっ、女は感情だけで動くから嫌なんだ!」
『女性差別はやめてって、前から言ってるでしょ!』
あまり豊富とは言えないオロカの語彙が尽きてきた。

オロカは話題をそらすように、ドグマの方へと問いかけた。
「おい、ドグマ……こいつ、なんとか追い出せないのか?」
その言いように、いらいらして眠気と戦っていたドグマはブチッとキレた。
「貴様に言われずとも、ずっとやっとるわァ──ッ!!」
大声を上げたおかげで、眠気がいくらか、吹き飛んだ。

辛抱に辛抱を重ねたかいあって、ドグマを悩ませていた痙攣はほとんど治まっていた。
「いかにツギハギだらけであろうと、私は私! 死霊ごときにこの体と魔力、くれてやるものかぁッ!!」
『いつのまにか、震えは鎮まったみたいね……でも、あなたが弱りきってることに変わりないじゃない!』
オロカの見ている前で、再び追い出そうとする者とねじ伏せようとする者の争いが始まった。
一見、ドグマが倒れたまま、ろくに動かぬ手足でもがいているだけのようにしか見えない。
しかし、魔術的な事にうといオロカの目にも、精神と精神、気迫と気迫の格闘が見えるようであった。
「ドグマ……」
ドグマの闘志にオロカはしびれ、胸が熱くなった。
しかし、やはりドグマの虚勢の裏から、隠しきれぬ疲労が透けて見えてしまう。
少しばかり息を入れただけでは、たいした足しにはならないだろう。
今までずっとやってきて駄目だったなら、もう時間が経てば経つほど不利になるだけじゃないのか──
ドグマの苦しげな息づかいを聞きながら、オロカはそう思った。

「ドグマ……何か俺に、手伝える事はないのか?」
「無い……っ。黙って、見ておれ!」
オロカは、きょろきょろと辺りを見回した。
離れたところに転がっている、玉璽が目に入った。
「せめて、あの石を……」
「だから、近寄るなと言っておるのだ!
それとも何か? 大道芸よろしくそれを放って私の口へ入れられるとでも言うのか!」
「それは……」
幼い頃から修練に修練を重ねた剣技は別として、オロカはあまり器用とは言いがたかった。
三郎なら簡単にやってみせるんだろうな、と思うと余計に悔しかった。
何も出来ぬはがゆさに、爪が食い込み血がにじみ出そうなほど、拳を固く握りしめた。

「……むしろ、代わってやれればいいのに……」
「なに?」
「俺にはどうせ、貴方を守る事くらいしかやる事が無いんだから……
取り憑かれたのが俺だったなら、よかったのに……!」
「……」
その言葉に、ドグマはしばし思案した。
「それも……手の一つでは、あるのだが……」
「え?」
オロカは少々驚いて、問い返した。
「何もない空中に追い出そうとしているからこそ、難しいのだ。
それよりも、受け入れる意志がある者の中に"移す"方がはるかに容易い」
「そうなのか……それで?」
「憑依中の死霊が、呪文や動作が必要な術を行使する場合、憑依対象の口や手などを使わなければならない。
という事は、おまえが予め自分で自分を縛っておけば、物理的な攻撃が不可となるだけでなく、念話のようなごく簡単な術しか使えなくなる。
"サブリミナル・リング"も、そこの小僧が使っていたような補助魔具が無ければ、おそらく無詠唱では使えまい」
ドグマが横目で、ちらっと見やった。
水色髪の男女の手で移されたまま動いていない暗示郎が、そこには横たわっていた。
「いい手じゃないか! どうして、早くそれをやれって言わなかったんだ?」
「……」
ドグマの瞳が、つとオロカから逸らされた。
「……私とて……人並みに恥ずかしいと思う事ぐらいは、ある!」
「は? 恥ずかしい?」
オロカはきょとんとした。が、すぐに言葉を継いだ。
「何だか知らないが、恥ずかしがってる場合じゃないだろ!
俺は貴方の部下だ、遠慮なんてするな!
誰かに言ったり、しないから! 墓の下まで、持って行くから!!」
「……では、やれ。特に、指を念入りに縛れ。終わったら、ここまで這ってこい!」

オロカに下された指示を聞いて、マルセルは一転してドグマの体から外へ出ようとした。
ドグマは今までとは逆に、マルセルを追い出そうとするのではなく、己の中に閉じ込めようと意識で彼女を捕まえた。
『離しなさい!』
「離さん!」
立場が逆転した。

ドグマの消耗は激しく、魔翠玉を使うにしても回復に少々時間がかかる。
すぐには体も自由に動きはしないというのも、戦う上で不利すぎる。
それに──既に死んでいる死霊を殺す事はできない。
だが、ドグマの立てた作戦がうまくいけば、一時的に封じ込める事ができる。
ドグマは、勝負に出る事を心に決めた。
 
 
 
オロカは、放り出したままだった三郎のトランクに駆け寄った。
先ほど中を漁った時に見つけてあった、園芸用の縄と針金を取り出した。
まず縄で足首を縛り、手首にも巻きつけ、歯でくわえて引っ張って結び目を締めた。
それから口を使ってしっかりと針金で指と指を結わえつけた。
準備が整うと、芋虫のようにドグマの元へと這い進んだ。
その途中、彼にドグマが声をかけた。
「よいか! 死霊めは、術が使えぬとあらばおまえの体から出ようとするだろう。
しかし、できるかぎり出すな! 私が魔力を回復するまではな」
「どうやって?」
「己を頑丈な鉄の箱だとイメージせよ。
中で一匹、ネズミが暴れている──が、ビクともしない。そのようにな」
「ん……」
言われたとおりの事を、オロカは頭の中で想像してみた。
「できるかどうかわからないが……やってみる!」

オロカはドグマの傍らに這い寄った。
近くで見ると、ドグマが疲れきっている事が更にありありとわかった。
冴えない顔色。多量の脂汗。苦しげに上下する胸板。熱のこもった吐息。
そして何より目が──いつもギラギラとしているドグマの目の光が、やけに乏しい。
自分が頼んだ事とはいえ、これほどまでに弱っているのに戦い続けてる──
申し訳なさがこみあげると共に、やっぱり凄い人だな、と感嘆した。

「ドグマ、大丈夫か……俺は、いつでも、いいぞ」
「……う…うむ……」
ドグマがぜいぜいと喉を鳴らしながら、オロカを見やった。
「もっと、顔を寄せろ……」
「ん……ちょっと、すまん……こうか?」
ドグマの胸の上に半ばのしかかるようにして、オロカは顔と顔を近づけた。
ドグマは手足にぐっ、ぐっと力を込めた。ほんの2、3cmだけ、ゆさゆさと体を揺さぶった。
何度か繰り返したが、見えない鎖でがっちりと縛められた体は、それだけ動かすのが限界だった。
「くっ……それじゃ届かん……もっと、だ……」
「ん、あぁ?」
オロカは、鼻がぶつかりそうなほどに顔を寄せた。
ドグマは両肘を地面につけ、意識を集中して渾身の力を振り絞った。
わずかに、体が持ち上がった。
「ぅ、え……?」
オロカは、予想だにしない事に、凍りついたように固まった。
ドグマの唇が、自分の唇に吸い付くようにして合わされている。
何、やって──?

オロカの混乱しきった頭を、不快な感触が覚ました。
見えない何かが、口移しでずずずっと己の体内に潜り込んできたのである。
「う、わ……っ!?」
オロカの体が、反射的にビクンと跳ね上がった。
見えない何かから受ける圧力が、すうっと薄れる──外へ抜け出ようとしている。
「さっ……させるか!」
オロカは慌ててドグマに言われた事を思い出し、地面に倒れ込みながら心に思い描いた。
俺は、鉄の箱──鉄の箱だ!
見えない何かが、体の中で暴れだした。
ぐぐっ、ぐぐぐっと膨らみ、強烈に内から圧迫された。
「うぅっ……!」
破裂する? いや、こんなもの!
いたぶられたドグマの苦しみに比べれば、こんなのどうって事あるものか!!
ギリギリギリ、と噛み締められた歯が音を立てた。
『出しなさい! あなたに構っちゃいられないのよ!!』
マルセルの突き刺さるような念話が、体の中から響いた。
出さない! 絶対に、出さないぞ!!
オロカは心の中で叫びながら、苦痛にのたうち回った。

「……オロカ」
しばらくして、己の名を呼ぶ声を聞き、オロカは硬く閉じていた目を開いた。
ドグマが上半身を起こし、まだ十分には力の入らない脚をさすりながら、彼を見下ろしていた。
口に含んだ魔翠玉の欠片をころりと舌で転がして、静かに問いかけた。
「まだ、もう少しかかるが……持ちそうか?」
珍しく、ドグマの声に人を気遣うような色が混じっていた。
「じ、時間かかるってなら……ふ……服でも、着てろよ……
それじゃ、格好つかないだろ……大魔術師、ドグマ……」
「……」
「我慢するって事だったら、俺は誰にも負けない……貴方にも、だ!」
「……良く、言った!」
フッと小さくドグマは口元に笑みを浮かべると、脱ぎ散らかされた服を拾い上げ、袖を通した。
 
 
 
「……よし」
ドグマはただの石ころと化した魔翠玉の欠片をプッと吐き出し、新しいものを口に放り込みながら立ち上がった。
「我は拒む、我に触れんとする全てを!」
唱えた呪文に応じて、ドグマとオロカの間に"インビジブル・ウォール"──見えない壁が生み出される。
「我は拒む、我に触れんとする全てを……我は拒む、我に触れんとする全てを……」
ドグマは何度も何度も同じ呪文を繰り返した。
側面、背面にも壁が生じ、倒れているオロカを壁が四角く囲った。
さらに上部を天井が閉め、最後に下部を床がオロカを若干跳ね上げ気味に閉ざした。
「汝は成らん、完全なる檻に!」
キンッと小さな音を立てて全ての壁、天井、床がくっついて一体化し、ひとつの箱となった。
力が抜け、がくりとドグマが両膝をついた。七連続の呪文詠唱で、急激に消耗したのだ。

術の発動があまり早くないドグマが、動きまわる敵を見えない壁で囲うのは困難である。
普通にやるなら対暗示郎戦で用いたように、敵と自分の間に壁を立てて、障害物として使える程度だ。
しかし、"入れ物"であるオロカごと敵を囲ってしまうならば、容易だった。

「よし……オロカ、もう良いぞ!」
「わ、わかった……」
オロカが気を緩めると、しゅるっとマルセルが彼の体から飛び出した。
バンッ、と見えない壁に彼女はぶつかった。
「……つっ……。なんだ、十分な魔力が込められてないじゃない。
ふふっ、焦りすぎよ、ドグマ。可愛い部下が心配で心配で、回復を待ちきれなかったのね?」
マルセルが壁越しにドグマを見やり、可哀想なものでも見るように笑った。
「そんな……ドグマ、逃げろ! 逃げてくれ!!」
オロカは、思わず叫んだ。
ドグマは立ち上がろうとした。が、膝ががくがくと震えて体重を支えてくれず、再び腰を落とした。
回復は再開されているが、体の自由を取り戻すまで、まだ少しの時間が必要だった。
「動けないのか、ドグマ! しっかりしろ!!」
「……」
ドグマは是とも非とも言わず、口を閉ざしていた。
「うふふ。身動きのきかないうちに……また同じ事をされないよう、今度はしっかりと殺してあげるわ!」
「やめろ、マルセル!」
オロカは、手足を縛める縄を引き千切ろうともがいた。肉に縄が食い込み、痛みを発するのも構わず。

ノックするように、壁がマルセルの手の甲で軽く叩かれた。
「空間よ還れ、あるべき姿に!」
マルセルは、空間の変化を解除する効果のある、水属性の時空魔術の呪文を唱えた。
が、見えない壁は揺らぎもしなかった。術者の力量差のために──
それでも本来ならば、魔力を節約して創りだされた壁であるために、望みはあるはずだった。
「力が……母様の力が、来ない!」
マルセルは、悲痛な叫びを上げた。

ドグマは少々ぐらつきながら片膝を立て、口元に薄い笑みを浮かべた。
「……貴様が自分の力だけで魔術を行使しているわけではない事は、調査済みだ……ならば、この程度で十分よ」
「け……計算の上、だったのか?」
オロカの問いかけに、ドグマは顔をしかめて応じた。
「当たり前だ。私を誰だと? 情に流されて仕掛け時を誤るような男と思うてか!」
「そうだったな……ふぅ……」
オロカは安堵の溜息をつき、手足の力を抜いた。

見えない壁は、持続時間が切れるか、生じさせた術者より優る魔力によって解除されるまで、どんな力が加わろうとも決して壊れる事はない。
そして、壁は光と音以外の何者をも通さない。人間も、武器も、死霊も、魔力でさえも。
隙間なく壁に囲われた者が魔術を行使したとしても、いかなる効果も外へは届かない。
壁を貫通している良心ロープは、例外と言えば例外だが、それもがっちりと固定されているので引っ張って動かす事さえできない。
魔力の遮断効果を持つ壁に挟みこまれているせいで、"母"からの魔力も良心ロープを伝ってマルセルに送られてこなくなっていた。
もはやマルセルの良心ロープは、足枷にしかならない──別の時空へ渡る事ができなくなる、という足枷に。

「空間よ還れ、あるべき姿に……空間よ還れ、あるべき姿にッ!」
マルセルは、幾度も術を試行した。しかし、それは全て無駄に終わった。
きぃっ、と彼女は壁に爪を立てた。
「出しなさい! でないと……」
マルセルは壁越しにドグマを睨みつけた。
「オロカを! あなたの部下を、殺すわよ!!」
「……」
ドグマは何も言わずゆっくりと立ち上がり、じろっとオロカを見下ろした。
覚悟の上だろうな──そう、目が語っていた。

「マルセル!」
床の上に転がったまま、オロカは声を張り上げた。
「やりたきゃ、やるがいい! 俺の主は、その程度のことで動じやしない!!」
「なんで! なんでそんな簡単に、死ねるのよ! あなた、酔ってるんじゃないの!?
男っていうのはこれだから! 馬鹿ばっかりなんだから!!」
ヒステリックに甲高い声でわめいたマルセルに、オロカは笑ってみせた。
「おまえが男を馬鹿にするなら、永遠にわかりゃしない!
酔いたいものに酔って、為したいことを為せるのが、男って生き物だからだ!!」
マインドパペット1.5 水色の庭園
41.
 
マルセルはもはや挽回は不可能と悟ったのか、呪文を唱えるのをやめ、見えない壁の隅でうずくまってしまった。
しくしくという嗚咽の声が、オロカの耳に聞こえてくる。
彼の心に、ちらりと罪悪感がよぎった。
しかし、ここで情けなどかけては駄目だと彼は顔をそむけ、壁の向こうのドグマに視線を向けた。
「あとは……庭を焼き尽くすに足る魔力が、貯まるのを待てばよし……」
ドグマは呟き、ふらりとよろめいて、壁に手をついた。
そのまま腕の上から額を押し当てるようにして、壁にもたれかかった。
「どうも……何度も使ったせいか、回復効率が落ちているようだが……
まぁ、この状況なら……問題……な、か、ろ……」
かくかくっ、とドグマの膝が揺れたかと思うと、ずるずるずるっと壁に張り付いたまま崩れるようにしゃがみこんだ。

「ド、ドグマ!?」
オロカは泡を食って、大声で名を呼んだ。
「ドグマ、どうしたっ? おい、大丈夫かっ!?」
「な……何でも……ない」
ドグマの顔は、血の気が引いて青ざめていた。
寒気に襲われ、かすかに震えてさえいた。
ドグマは顔を伏せて、隠している気になっていたが──
その伏せている壁が透明なのだから、内側、しかも下から見上げているオロカの目からは丸見えだった。
「何でもなくないだろっ、どう見たって!?」
「うぅ……」
ドグマは壁から片手を離し、目をこすった。
「ね……眠い……」
「へぇっ!?」
オロカは思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。

「眠い……ん、だと……言って……」
「あ、あぁ、聞こえてるけど……」
もっとも、めっきり覇気の乏しくなったドグマの声が聞き取りづらいのは、確かであった。
オロカはよじよじと、ドグマと壁を挟んで目と鼻の先となるまで這っていった。
「そっ、そうだよな……疲れてるんだよな……
え、えぇっと、その……い、一旦寝てからとかじゃ、駄目なのか? 火をかけるのは……」
「……駄目、だ。余分に魔力を消費すれば、壁の持続時間を引き伸ばす事もできたが……そうしては、いない」
「まだ十分に回復してなかったのか? もう少しくらいなら、俺も我慢できたのに……」
「それもあるが……」
「……が?」
「……」
ドグマは口ごもった。
普段であれば、ショートスリーパーであるドグマは、一日三時間も眠れば平気だ。
が、今の心身ともに疲弊しきった状態では、一旦眠れば最低でも丸一日は目を覚まさなさそうであった。
そうなれば、狭い密閉空間に居るオロカは窒息してしまいかねない。
人質を取られた際の戦術として、"そんな者は要らぬ"とばかりの態度を取りはしたが──
実のところ、ドグマはオロカに"できれば死んで欲しくはない"という感情を抱いていたのである。
しかし、そんな裏事情をマルセルの目前で明かすわけにもいかない。
「……20文字以内で理由を考え、述べよ」
「ヒ……ヒントは?」
「やらん」
つっけんどんに、ドグマは言った。

「……で、どのくらい持つんだ、この壁?」
「1時間……といったところか……」
「なら、ちょっとでも横になって休んだらどうだ? 眠らなくても、多少は楽だろ?
時計あるなら、見えるところに置いといてくれれば、声かけるぞ?」
「横に……あぁ、駄目だ、駄目だ……横になったりしたら、5秒で寝る……
熟睡したら、壁越しに声をかけたくらいで私は起きん……賭けても良い……っ!」
いやいやをするように、ドグマは腕に押し当てた頭を振った。
本当は横になりたくてなりたくてたまらないのに、どうして誘うんだ馬鹿!とか何とか、ぐずっている子供のようにもオロカの目には映った。
「寒い……あぁ、なんだか、やけに寒い……暖まりたい……が、だるくて何もできん……したくない……」
ドグマは、ぶるぶるっと体を震わせた。
「し、したくない……?」
急にいったい、どうしちゃったんだ、こいつ? 自分にも他人にも厳しい奴のはずなのに……
オロカはどう対応したらいいのか困りつつも、なだめるように声をかけた。
「えと……貴方がそう言うんなら、よっぽどだろう……無理して動こうとすんな」
「……うぅ」
せっかくマルセルを捕まえたのにと思うと惜しいが、いったんドグマに引いてもらって改めて、とした方がいいんじゃないか──
などとも、ちらりと頭をかすめはしたが、こんな状態で逃げろというのも無理な話であった。
「ただ……座っててもいいから、もうちょっと楽な姿勢になれよ。な?」
「うむ……そう、だな……」
ドグマは今度は妙に素直に体の向きを変えると、見えない壁に背を預け、ぐたっと体を弛緩させた。
「念のため、時計も出しといてくれよ」
「うむ……」
ドグマは金色の懐中時計をズボンのポケットから取り出し、蓋を開けて地面に置いた。
それからいくらもたたないうちに、かくんっと船を漕いだ。
「お、おい、ドグマ! ドグマ!!」
どんどんどんっとオロカが縛ったままの両手で壁を叩くと、ハッとドグマは顔をあげた。
「あぁ、うむ……やはり、立って休んだ方がいいかもしれんな……」
 
 
 
「話でも、してようか?」
よろよろと立ち上がりかけたドグマを引き止めるように、オロカは声をかけた。
「話……? 別に、話す事など無い……」
「えぇっと……」
オロカは意味もなくあちこちを見やって、話題を探した。
二人に背を向けて小さく縮こまり、ぶつぶつと何かを呟いているマルセルの姿が目に入った。
「なぁ、ドグマ……」
「……ん?」
「どうして、貴方はそんなに、強いんだ……?」
「……それを聞いて、どうする」
「ど、どうってわけじゃないけど……何か話してた方が辛くないかな、って……」

ドグマは座りなおし、再び壁にもたれかかった。
「……ん……んん」
小さく、声が漏れた。どこか、ぼうっとしているようであった。
「どうしてって……血統的なものもあるだろうが……努力したからに決まって、いる……」
「うん、それはわかるが……じゃあ、どうしてそんなに努力した……っていうか、できたんだ?」
「……あぁ」
「ん?」
「愛されたかったから……だな」
「え、えぇっ!?」
愛、なんて言葉がドグマの口から出てくるなどとは思わず、オロカは大声を上げてしまった。
「強くなれば……愛されると、思ったのだ……」
「ど、どうして……?」
"強くなる"と"愛される"がどう結びつくのかわからず、オロカは問い返した。
「……母が、死んだ。いや……殺された」
「えっ……?」
息を飲むオロカに構わず、ドグマはぼうっとしたまま言葉を連ねた。
「母が、愛人と駆け落ちした。すぐに捕まって、激怒した父に処刑された」
「……っ」
「その罪が……俺にまで、振りかかる事は無かったが……」
「お、俺?」
一人称の変化に、オロカは戸惑いを覚えて鸚鵡返しにした。
が、ドグマはオロカの言葉が聞こえていないかのように、淡々と話し続けた。
「父が俺を見る目が、変わった……こいつは、本当に自分の子なのかと……」
「……」
「元から……それほど、可愛がられてはいなかった。しかし……100点を取れば褒めてくれた……前は……」
「……ぅ」
「だから……誰よりも強くなれば、血統を……父の血を引く事を、証明できると……
実の息子だと、わかってもらえると……愛してもらえると……」

頭の重さに引きずられるように、ドグマの首がかくんと横へ傾いた。
夢見るようにうつろなドグマの目が、彼の肩越しにオロカに見えた。
「……愛して、くれますか」
「えっ……?」
「……母が、俺を捨てたように……また、俺を捨てないでください……」
「……」
「もっともっと、強くなれば……愛してくれますか……
一番に、とは言いません……弟の半分……いや、十分の一くらいで、いいから……俺を、愛してくれますか……」
「ド……ドグマ……」
ぎゅうっと、オロカの胸は締め付けられるように痛んだ。

どさりと地面に倒れ込んだ衝撃で、ドグマは眠りから覚めた。
「……ん、んっ?」
ドグマは、目をしばたたかせて虚空を見つめ──それから、ハッと今の状況を思い出した。
慌てて起き上がり、懐中時計を見やると、それを地面に置いた時から15、6分ほど長針が進んでいた。
「あぁっ……いかんいかん! 危ないところだった……」
ぱしんぱしんと両の手のひらで自分の頬を軽く叩き、口に入れてあった魔翠玉の欠片を交換しながら振り向いた。
「おいオロカ、何をボサッとしている。私が寝かけたら起こさんか……んっ!?」
ドグマはぎょっとした。
ぼろぼろと溢れかえる涙で、オロカが頬を濡らしていた。

「なっ、何を、泣いている……!?
……何か、寝ぼけて言ったような気もするが……な、何か、私が酷い事を言ったか……?」
気が動転して、普段のドグマなら絶対に言いそうにない質問を口にしていた。
「酷い、酷いじゃないか!」
「な、何が酷いと……」
「そんなにまで……そんなにまで、振り向いてほしかったのに……!
きっともの凄く、もの凄く、頑張って……!
なのに、あんな仕打ち……酷い! 酷過ぎる……うぅぅ……っ!!」
「ちょっと待て! いったい、何の話だ! さっぱりわからんぞ!!」

ひっく、ひっくとしゃっくりあげているオロカの声を背に、ドグマは居心地悪そうにチラチラ懐中時計を見ていた。
しばらくして、プッと古いものを吐き出し、新しい魔翠玉の欠片を口に入れて、ドグマは背後に声をかけた。
「おい……いいかげん、泣きやまんか! 自分の涙で溺死するつもりか?」
「う、うん……すまん……」
「別に謝る必要は……あぁっ! もう!」
バリバリバリッ、とドグマは頭をかきむしりながら立ち上がった。
慰め方、などというものは彼の辞書には載っていなかった。
「愚弟を拾ってくる! 待っとれ!!」
「あ、あぁ……」
鼻をすすりながら、オロカは彼を見送った。
 
 
 
「さて……始めるぞ」
ドグマは運んできた三郎と暗示郎を、壁のすぐ脇へ乱暴に転がした。
「やめて……お願い、やめて……」
膝を抱えたまま、マルセルが哀れっぽく訴える。
それを完全に無視し、ドグマはかりかりと地面に魔法陣を描き始めた。
「何だ、それは?」
落ち着きを取り戻したオロカの問いに、ドグマは手を止めずに答えた。
「耐火の魔法陣だ。もろとも焼かれては洒落にならんだろう?
人数が多い時は、個別に耐火の術をかけるよりも、こちらのほうが効率的だ」
「なるほど……」

描き終えた魔法陣をぐるりと確認すると、ドグマは手持ちのうち最後の魔翠玉の欠片を入れ、指揮棒を手に取った。
「ドグマ……」
しばらく様子を見ていたオロカは、不安に駆られた。
──前よりかは、元気になったようだけど。
それでも時々寒そうに体を揺すったり、屈んだ姿勢から立ち上がる時にふらついたり、手でこめかみを揉んだり……
やっぱりどうも、具合の悪そうな仕草が気になる……
「大丈夫なのか、今の体調で……」
「眠気なら、少しは覚めた。
それに、仮に前のように失敗して、反動をくらったりオーバーフローを起こしたりしたとしても、魔翠玉がある分いくらかマシだ」
「だって……」
またカチンコチンに固まって動けなくなってる間に壁が消えたらと思うと、オロカは気が気ではなかった。
「今でなきゃいけないという事はないだろう?」
「この機に仕掛けずして、いつ仕掛けるというのだ。
確かに好調とは言えんが、この程度で集中を乱すほどヤワではない!」
「しかし、魔術っていうのはちょっとした狂いで失敗するものなんだろう? 頼むから、無理は……」
「私が、信じられんのか?」
「いや……」
そう言われては、見守るしかなかった。
「……頑張ってくれ」
「おまえに言われるまでもないわ!」
指揮棒が振られ、ドグマの口から重低音の歌声が紡ぎだされた。
その力強い声は大地を震わせ、庭園の──この小さな世界の果てまでも、伝わり広がっていくかのようであった。
 
 
 
変化に怯え変化を生み出す
それが進化か臆病者め
絶対不可侵の己を持てば
何に怯える事も無い

理由は知らぬ 意味も解らぬ
根拠も証拠も必要ないわ
なぜなのか どうなるか
自分が何から生まれたか
そんな事はどうでもいい

鳥たちよ爆撃だ
回る因果の風車を壊せ
「もしも」なんてどこにも無い
今ここにある事が全てだと
臆病者に教えてやれ
 
 
 
暴力的な歌詞であった。
しかし、その裏に秘められた慟哭が、オロカの胸に突き刺さった。

──自分が何から生まれたか そんな事はどうでもいい──

おまえが出した──出してしまった結論は、それか。
おまえは、その結論をもって、父親を滅ぼしてしまったのか。
かつて、愛されることを焦がれるほどに欲した、父親を。
おまえは何て、悲しい生き方をしてきたんだろう。
おまえを強くさせたものは──飢え、だったのか。
おまえが強く人を惹きつける源は──渇き、だったのか。
ドグマは同情などされたくあるまいとわかってはいても、オロカは目頭が再び熱くなるのを止められなかった。

地面に置かれた爆撃機の玩具が、膨れ上がって大きくなり、霞むようにブレたかと思うと分裂した。
「9機……今はこれで限界か。まぁ、こんなちっぽけな庭を焼くには、十分だろう」
実物大となった9機の爆撃機を満足そうに見やると、ドグマはより激しく指揮棒を振った。
「ブリュンヒルデ、ヴァルトラウテ、ゲルヒルデ、オルトリンデ!
シュヴェルトライテ、ヘルムヴィーゲ、ジークルーネ、グリムゲルデ、ロスヴァイセ!
行け、我がワルキューレよ! このふざけた偽りの楽園を焼き払うのだ!!」
9機の爆撃機は、木々をなぎ倒さんばかりの勢いで、強引に飛び立った。
散開した後、空からポッ、ポッ、ポッと焼夷弾に似せた魔力弾が次々に落とされ、地表で爆発した。
飛び散った火から更なる火が生まれ、みるみる炎の海が広がっていく。
樹々も、花壇も、建物も。石化した大勢の人々も、石化しそこねた少数の人々も。
全てが炎の中に飲み込まれていく。
「ワハハハハッ! 焼け!焼き尽くせ!! もっと!もっとだ!!」
ドグマは、狂気じみた笑い声をあげた。
上空からの光景が見えるかのように──否、実際に見えていた。
小さな世界を赤一色に染め上げていく炎の渦が。
遠隔操作を可能とするため、爆撃機の"目"に映る視覚情報がドグマの脳に送り込まれているのだ。
限りなくリアルに近いヴァーチャルの中、ドグマは一人、愉悦と高揚に酔った。
「うっ……」
オロカは、ぞくりとした。
ドグマへの恐怖と、ドグマが化け物か何かであるかのように恐怖を感じているという後ろめたさと──
その2つから逃れるように視線を逸らすと、ふとマルセルが視界に入った。
彼女はさめざめと泣きながら見えない壁に張り付き、赤い空をなすすべなく見ていた。
「あぁ……あぁ……!」
「……」
何か声をかけようか、ともオロカは考えたが、何も言葉が思いつかなかった。

やがて、グラグラグラッと地面が激しく揺れだした。
「な、なんだ?」
「始まったな」
ドグマはすっと平静に立ち返った。指揮棒を止めぬままに、そう呟いた。
彼は9機に分裂した爆撃機のうち、本体の1機に帰還を命じ、残りを消した。
そして爆撃機の"目"から送られる視覚情報を絶ち、再び自分の目でものを見るよう切り替えた。
「じきに、時空断層が生じる」
その言葉を合図にしたかのように、がくんっ、と壁に張り付いていたマルセルが前に飛び出した。壁が、消えたのだ。
「あっ……」
オロカは、身を固くした。
しかし、マルセルはオロカやドグマに構うことなく、ふらふらと空へ舞い上がっていった。
「あぁ……あぁぁ……ッ!」
奇声をあげて遠ざかっていくマルセルを、ただ見送っているドグマに、オロカはそわそわしながら問いかけた。
「大丈夫なのか、放っといて?」
「ここまで来たら、どうせ何もできぬ。仮に──私が止めたいと思っても、だ」
右手で指揮棒を振りながら、ドグマは左手でオロカの刀を拾い上げた。
そしてオロカの手足を縛る縄を切り、指の針金を外した。
今の段階ならば、術を維持しながらその程度の動作を行なっても集中を乱す事はないという自信が、彼にはあった。

すうっと、爆撃機が舞い降りた。
「さて……私は上空で待機する。おまえ達を上手く拾えるよう、祈っておるのだな」
爆撃機が、五割増しほどに大きく膨らんだ。操縦者以外の人員を乗せるために、ドグマが変化させたのである。
「あ……待ってくれ!」
オロカは魔翠玉をいくつか砕くと、ドグマの上着のポケットに入れてやった。
そして残りを三郎のトランクに収め、ドグマに差し出した。
「これ……持って行ってやってくれ。たぶん、色々と大事なものも入ってるだろうから」
「ふん。まぁ、よかろう」
ぐいっともぎ取るようにドグマはトランクを手にすると、爆撃機に乗り込んでいった。
 
 
 
大地の振動が、徐々に増していく。
「三郎……暗示郎……」
オロカは名を呼びながら、二人の体を揺すった。
が、ピクリとも動かず、まだ目が覚めそうな気配はなかった。
オロカは寂しくなって、刀を抱くように持ち、首輪から伸びる鎖を握りしめた。
「三郎……おまえはまた、旅に出るんだろうな……
ドグマがどこへ行くか知らないが……着いていく先をおまえに伝えられたら、いつか会いに来てくれるかな……?」
何気なく自分が口にした、"着いていく"という言葉の主体性の無さに気がついて、オロカは首を横に振った。
「いや……ただ着いていくんじゃ、駄目だな。
この庭園は"壊れなきゃいけなかったもの"だと、思いたい。
でも、ドグマが飢えと渇きに突き動かされるままに、次へ次へと求め続けて、"壊しちゃいけないもの"まで壊す事がないように……
見張っておかなきゃ……そうなりそうな時は、止めてやらなくちゃ……体を張ってでも、な……
あんな──自分でも気づいてないのかもしれないけど──愛されたがっている奴を一人でほかっといたら、絶対破滅するし……」

「……ん……」
小さく、三郎がうめいた。
「三郎?」
オロカが声をかけた、その瞬間──
バリッ、と足元の地面が引き裂かれた。
「あぁっ!?」
オロカは、闇の中へ放り出された。
必死で手を伸ばしたが、あっという間に三郎も暗示郎も暗がりの向こうへ遠ざかり、見えなくなってしまった。
「三郎ーッ! 暗示郎ーッ!」
オロカは、声の限りに叫んだ。

ブツッと、切れる感触が首の良心ロープに伝わった。
いつものように増えたりはしまいかと、オロカは一瞬、懸念した。
しかし、それは杞憂であった。
良心ロープは破裂するように砕け、粉々になって消え失せた。
久方ぶりに、首が軽く、涼しくなった。

ドンッ!
オロカは背中から強く、何かに叩きつけられた。
「イテテ……」
背中をさすりながら、思わずぎゅっと閉じていた目を開いた。
「あっ……!」
オロカは大声をあげた。
目の前に、三郎と暗示郎の寝顔があった。
「よし……脱出するぞ!」
操縦席のドグマが大きく指揮棒を振ると、風防が閉まり、爆撃機は急上昇をかけた。

 
 


【出典】

・ワルキューレ(北欧神話に登場する、戦死者を選定し天上の宮殿ヴァルハラへと迎え入れる戦乙女)の名前ニーベルングの指環
(Der Ring des Nibelungen) 作:リヒャルト・ワーグナー

第5章(番外編)「落ちた太陽」>>


水色の庭園
 
目次