第5章(番外編)「落ちた太陽」


42.


「我が翼よ、我と共に時空を翔けよ!」
ドグマは右手で指揮棒を振って爆撃機の維持をしながら、左手の指を動かし呪文を唱えた。
乗り物に魔力を与えることによって、自分以外の人員ごと時空渡りができるようにする術である。
一つの術を維持しながら、別の術を発動させる──
ただ単に器用というだけではできない、熟練を要する高等技術であった。
翼が風を切る音が変化し、術の成功の手応えを得たドグマは、少し気を抜いて振り返った。
オロカが背中をさすりながら、気を失ったままの三郎と暗示郎の様子を見ていた。
ドグマは、暗示郎の背負うディバッグから、持ち主とは別の気配を感じた。
ふっと、過去の一幕がドグマの脳裏に浮かんだ。

砂漠装束をまとった三郎──
差し出して見せるのは、片手に魔翠玉の小片。片手に眼帯──

「……奇縁、とはこういう事を言うのかもしれんな」
ドグマは小さく、呟いた。
 
 
 
ドグマの若かりし頃。
魔力と体の自由を失い、宮殿を追われ、下層階級に落とされた後の──とある日。

濃紺の天幕の中、蝋燭の火がいくつかゆらめき、淡い光で満たしていた。
ドグマは椅子に腰掛け、前かがみになって胸に手を当てていた。
「うぅっ……」
小さく、うめいた。
息を大きく吸い込むと、錐を刺し込むような痛みが走る。
なるべく胸郭を膨らませないように、浅い呼吸を繰り返していた。
椅子の横には、二本の松葉杖が立てかけられていた。

入り口の幕がめくられ、早朝のまばゆい光が差し込んだ。
「準備中……という札が、見えなかったのか?」
入ってきた人影に、ドグマは目を細めて非難を口にした。
「失礼しました。まだいらっしゃらないだろうと思って、中で待たせて頂こうと……
……体調がお悪いのでしたら、休めばよろしいでしょうに」
高くも低くもない、耳障りは良いが特徴のない声を、客人は発した。
ゆったりとした生成り色の砂漠装束に身を包み、顔も布で覆って目だけを出している。
「たかが肋間神経痛くらいで、休めるか」
顔をしかめてドグマが言うと、客人は少し目を細めた。苦笑したようだった。
「相変わらず、無理をなさる……兄上」
「き……さ、まッ!?」
ドグマは客人の正体を悟り、思わず立ち上がっていた。
松葉杖を取るのを忘れた──と気づいた時には、脚が体重を支えきれていなかった。
ぐにゃりと膝が折れ、再び椅子の上に尻餅をついた。
肘掛けにつかまり、床へ転落する事だけはなんとか避けた。
「くっ……」
「あれから……あまり良くは、なっていないようですね……」
「この私を笑いに来たか、ウィロー!」
「笑うなどと……」
後の三郎──ウィローは、顔を覆う布を取り外して面を晒した。
まだ幼さの残る顔立ち──それとギャップを感じさせる、大人びた物言い。
「……とんでもありませんよ。
確かに貴方の事はあまり好きではありませんが、尊敬できる部分もあると思っていますから」
「珍しく……面と向かって好きとか嫌いとか、はっきり言うではないか」
「言わなければ信用されないと思った時には、僕だって言いますとも」

「良かったら、どうぞ」
柳の枝で編んだ籠に入った、蜜柑や饅頭をウィローはテーブルの隅に置いた。
「いらんわ、こんなもの」
「持ち帰れとおっしゃいますか?」
「……ふん。面倒だと言うなら、食ってやろう。後でな」
「ありがとうございます。それにしても……」
ウィローは、テーブルの上を見やった。タロットカードや水晶玉が並べ置かれている。
「兄上が占い師とは、意外でしたね……探すのに少々、苦労しました」
「ふん。そうか?」
「えぇ。非現実的だとか、女々しいとか、言いそうではありませんか」
「あぁ、私は占いなぞ全く信じておらんとも」
「……は?」
「自分が信じていなくとも、信じている奴から金を取るくらいできる。
何を悩んでいるか、聞いてやり。どんな性格であり、どんな生き方をしてきたかを推し量り。
そして、そいつが気にしている事を因果に絡め、適当に道を示してやれば、それでいいのだ」
「……なるほど。そんなものかもしれませんね……」

「それで? 何の用だ」
胸をさすりながらドグマが問うと、ウィローは椅子に腰掛け、懐から大事そうに紙包みを出した。
「貴方が間違いなく欲しているであろう物を、お持ちしました」
開かれた紙の上に乗っている物を見やり、ドグマは目を見開いた。
「これは……まさか!」
「はい。魔翠玉です」
しっとりとした輝きを放つ、米粒ほどの緑色の小片が、そこにはあった。
「枯渇してしまった兄上の魔力も、これでほんのちょっとでも回復できれば、あとは自然回復できますでしょう」
「あの糞親父が、今更助け舟を出すとも思えん……まさか、盗んだのか?」
「いえいえ、さすがにそこまでの度胸は僕にはありませんよ。
父上が玉璽を床に落とされたので、もしやと思いまして。
それで父上が部屋を出られた後、良く探してみたところ……あったんですよ。幸運なことに」

「……わかっているのか?」
「はい?」
ドグマは懐から紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
五線譜の上に、しっかりとペンを握れぬ手で書かれた、歪んだ音符が踊っていた。
ウィローはしばらくそれらを目で追った後、推測を述べた。
「これは……察するに、フィジカル・エンチャント系の呪文ですかね?」
フィジカル・エンチャント系──
付与魔術の中で、生身の肉体に魔力を与え、身体能力を向上させるタイプの術がそう呼ばれる。
「見覚えありませんが……珍しい術なのですか?」
「見覚えが無くて当たり前だ。私のオリジナルだ」
「……へぇー」
「己の魔力を常にいくらかあてがっておきさえすれば、元のように体を動かせる。
だいたいのところまでは、できている……あとは、実際に試してみながら修正を加えるだけだ。
特に、想定される燃費をもう少し良くしたいものだが」
「たいしたものですねぇ。
オリジナルの術なんて、普通は生涯に1つできるかできないかというところでしょうに……
しかも、こんなアクシデントでもなければ魔力を回復できる見込みもない状態で、ここまでのことを……」
ウィローは、感嘆した様子で何度も頷いてみせた。
「お手伝いしましょうか? 呪文はともかく、動作を正確に行うには、そのお体では辛いでしょう。
どんな術でも、最初の1回は呪文や動作を簡略化できないものらしいですし」
「だから……わかった上で言っているのか、と聞いているのだ。
あれから色々と分析してみて、私はリミッターを外すこと自体には、おそらく成功していると見ている。
サイズだけはでかい空っぽの器に魔力が満ち、更に身体能力を取り戻したなら……」
ドグマは重い腕を持ち上げ、ウィローに指を突きつけた。
「私は、親父を滅ぼすぞ」

「……」
ウィローは、その宣言を予期していたように微笑した。
「どうぞ、ご自由に」
「……不服は無いのか? あれほど、親父に溺愛されておきながら。
いつもなんやかんや、異界土産を山と与えられたりと……」
「溺愛ではありません。偏愛、と言うんです」
「たいして変わらんではないか」
「違うんです。僕は嫌いですよ、父の事は。貴方以上に。
それに……父からもらって嬉しかった物など、ほとんどありませんよ。
何か欲しい物はあるかと聞いておきながら、じゃあこれをと僕が言った物は、ことごとく却下して。
やれ軟弱な、やれそんな物は必要ない、やれそんな物は女の持ち物だと。理解しようともしないのです」
「……」
「それで何を欲しいとも僕が言わなくなったら、こういう物を男は喜ぶものだと、勝手な願望を押し付けて。
ロボットとか、電動機関車とか、ラジコンカーとか、お城のプラモデルとか、エアガンとか……
結構、大変なんですよ。父が今日は来るとなったら、しまいこんである物を部屋に出して並べないといけなくて」
「……」
「おまけに、ですよ。
部屋の内装や家具まで、母がどんどん父の好みの移ろいに合わせて変えてしまうんです。
あれは、僕の部屋ではありません。父の"理想の男の子"の部屋です。
僕は、どこに居ればいいというんですか?」
「……ッ」
ドグマは頬を大きくひきつらせていた。
どこがどう好みに合わないか知らないが、何ももらえないより万倍マシではないか、と考えて──
「……ん、どうかなさいました?」
「何でもないわッ!」
ぷかりと心に浮かんだ妬みを吹き飛ばそうと、ついドグマは怒鳴りつけた。
キリキリッと胸が痛み、爪を立ててうめき声を上げた。
「ぁうぅぅ……ッ」
「大丈夫ですか? ご無理はなさらないでください」
「き、貴様に……心配される、いわれはない……ッ」
「……何か、失礼なことを申し上げたようで……
そんなつもりは無かったのですが、ご不快に思われたならお詫び……」
言葉を遮って、ドグマは再び怒鳴った。
「大人ぶったその態度が気に食わんのだ!」
「……」
胸を押さえて顔を歪める彼へ、ウィローはすまなそうに目礼した。
子供臭さにいささか欠けるとはいえ、まだ多分に甘さの残る目付きであった。
「そう、ですね……全部が全部、いらなかったというわけでもありません。
まぁ……これを父からもらった時は……結構、嬉しかったですけどね……」
ウィローは懐からチャラリと細鎖のついた何かを取り出した。
手を広げると、懐中時計が銀色の輝きを放っていた。
「……」
ドグマは知らず知らずのうちに、ズボンのポケットをその上から押さえた。
そこには、見せられたそれとデザインが同じ、金色の懐中時計が入っていた。

「でも……そういう好き嫌いを別にしても、僕は父が許せないんです。
父には、為政者の資格なんて無い……滅ぼしたい人が居るというなら、滅んでしまえばいい」
「何で、そのように思うのだ」
「……」
ウィローは、しばらく押し黙った。それから、父親の首でも締めるように、懐中時計を握りしめた。
「何でも……ありませんッ」
「……ははん。大人ぶっているから失念していたが、おまえもそういう時期だったな」
「どういう意味ですか?」
「さぁな……」
ドグマは、小さく笑みを浮かべていた。
こいつにも、可愛いところもあるじゃないか──
ごく幼かった頃を別とすれば、ドグマは始めて自分の弟にそんな感慨を持った気がした。

思春期──ウィローは、そう呼ばれる時期であった。
思春期というものは、潔癖かつ極端な思考に走りがちなものである。
特に、大人がちょっとでも曲がった事をやれば、激しい反発心を抱く。
父親が自ら玉璽を砕いてドグマに与えなかった事で──救えるはずの者を救わなかった事によって──
「為政者たる資格なし」とまで、ウィローに見なされてしまったのだ。
兄と自分が不仲であろうとなかろうと、関係ない──
というより、むしろそこで私情を挟めば自分も「汚い大人」になってしまうと思っているのだ。
大人びているといっても、そういう点ではまだ子供と言えた。

「話を戻しますが……条件があります」
懐中時計を懐に収め、差し出していた魔翠玉の小片を自分の手元に引き寄せて、ウィローは言った。
「ほう。何が欲しい」
「代価という意味ではありません……」
ウィローは天幕の入り口を振り返り、声をかけた。
「……ランダモーニャさん」
しずしずと、華奢な女性が入ってきた。
ヴェールで顔を隠し、裾を引きずるほどに長い巻きスカートを身につけている。
「……」
一瞬、ドグマはかすかな戦慄を覚えた。
魔力は枯れ果てても、感覚的なものは多少、残っていた。
「人間では……ないな」
「半人半妖、といったところでしょうか」
ウィローは魔翠玉を乗せた紙を膝の上に置くと、飾りのように左手首に巻いていた革の帯を外した。
それは、眼帯だった。
「ランダモーニャさん、ここに」
女性の姿が変わった。すうっと半ば透き通り、青紫を帯びた。
さらにその体は薄れていき、霞と化すと、眼帯に吸い込まれるように消えた。
「これを、はめていただきます」
片手に魔翠玉、片手に眼帯を持って、ウィローは言った。
「はめると……どうなる」
「人が変わったように、他人からは見えるでしょう。
しかし、貴方は貴方のままです。支配欲や破壊願望が、ある程度抑えられるだけでね」
「……」
「父を滅ぼしたいと思うならば、滅ぼせばよろしい。
ただ、必要以上の殺戮をして欲しくはありません。無血でというのは無理だと、わかっていますがね。
それと父を倒した後、貴方に恐怖政治を敷く独裁者になって欲しくもありません。
僕の望みとしては、それだけです」
「……」
ドグマはじっくりと考えた。
自分の体重を支えてくれない、役立たずの脚を見下ろしながら。
ウィローもせかすことなく、魔翠玉と眼帯をいったん懐にしまうと、蜜柑の皮を剥いて口にしながら待っていた。

「よかろう……それを私に、つけるがいい」
「わかりました」
ウィローはテーブルを回りこみ、ドグマの背後に立った。
眼帯がドグマの右目を覆い、視界が狭くなった。


「はい……結び目を作りました。後はご自分で引いてください。一種の、契約ですから」
「わかっている」
ドグマは重い両腕を持ち上げ、ウィローに手を添えられて革紐を握った。
ぐっと力を込めて、頭の後ろの結び目を締めた。

「ぐ……あぁ……っ!」
突如、右の眼球がカッと熱くなった。
それに一瞬遅れて、凍りつくかと思うほど、急激に全身が冷たくなった。
ドグマは、そこだけは燃えるような熱さを感じる右目を、眼帯の上からかきむしろうとした。
が、冷えきった腕はいつも以上にうまく動かなかった。
「ウィロー……ッ、こ、これは……」
「大丈夫です、兄上……すぐ、鎮まります……大丈夫……」
体が冷えたせいか、息を吸おうとしただけでズキンッと激痛が胸を刺し、ろくに呼吸ができない。
「う、うぅ……ッ」
他者の魔力への抵抗力を上乗せしてくれるのも、また自らの魔力である。
魔力が枯れきった今のドグマの抵抗力は、ごく平凡な魔術師とさほど変わらない。
熱さと、冷たさ。痛みと、苦しみ。
ひたすら、じっと耐えているしかなかった。
やがて右目の熱が、冷気に侵食されたかのように薄らいでいった。
それを感じると同時に、ドグマの意識はふつりと途絶えた。

「……兄上」
ウィローの呼び声に、ドグマは短い気絶から覚めた。
ゆっくりと、左目が開かれた。
その目からは常のギラギラとした光が収まり、湖のように穏やかで懐の深そうな雰囲気を漂わせていた。
それだけで、まるで別人のように見えた。
「……」
ドグマは、黙したまま眼帯を手で押さえた。
本当はその下で右目も開こうとしたのだが、眼球とその周辺が凍りついたように、まぶたが持ち上がらなかった。
「兄上」
ウィローはテーブルを挟んで正面の位置に戻り、ゆっくりと一礼した。
「僕自身が縛られる事を、何よりも嫌っておきながら……
自分の都合で貴方を縛る僕の身勝手さを、どうかお許し下さい……」
「……」
ドグマは手を伸ばし、机上の水晶玉を鷲づかみするようにして撫でた。
「……良い。私は"指を指す者"。それに、変わりはない。たとえ、別の名で呼ばれる事になろうとも」
人を圧するのではなく、静かに制するような──けれど強靭な意思が、その仕草からは感じられた。
現れ方が異なるだけで、彼はドグマである事に変わりなかった。

「それでは……これを、どうぞ」
ウィローが差し出した魔翠玉の小片をドグマは受け取り、舐めとるようにして口にした。
それを横目にちらりと見ながら、ウィローはふと机上のタロットカードを一枚めくった。
「……」
彼の柳眉は、わずかにひそめられた。
マインドパペット1.5 水色の庭園
43.

後の三郎──ウィローが微妙な年頃を迎えていた頃。
ドグマが父親を殺し、モスタリアの統治者にして管理者の座についた後の──とある日。
停泊中の大型船を、ウィローは見上げていた。
砂漠の中のドーム都市であるモスタリアに、普通の船が必要なはずはなかった。
時空船──時間と空間を超えて旅し、人や積荷を運ぶための船であった。
その黒い船体には白字でくっきりと記されている。エクリプス号、と。
エクリプス──日食、ないし月食という意味である。
古来、不吉とされてきた天体現象の名を船につけたがる者は、そうそう居ないだろう。
船長の変人ぶりがうかがい知れる船名であった。

サンダルの力を借り、一跳びでトンッとウィローは甲板に降り立った。
身につけた砂漠装束の裾がふわりと広がり、また元のように収まった。
ウィローは顔を覆う布を取り払うと、一人の男の背に向かって、軽く頭を下げた。
「お久しぶりです、兄上」
積荷のチェックをしていたその男、エクリプス号の船長はゆっくりと振り返った。
長身のウィローよりも、いくらか背が高い──いずれ、まだ成長期の終わっていないウィローが追いつくだろうが。
更に、ひょろっとした体形のウィローとは違い、幅、厚みともにあり、どっしりとした風格を漂わせていた。
「やぁ、久しぶりだねぇ、ウィロー。また背が伸びたんじゃないかい?」
「そんなすぐには伸びませんよ……顔を見るたびに、そうおっしゃるんですから。
兄上も御壮健そうで、何よりです」
「相変わらずカタイねぇ、君は。
兄上〜とか、そんなふうに呼ばなくたっていいと、いつも言ってるじゃないか」
「はぁ……では、えぇと……」
彼にとっては、なれなれしい口をきくのはかえって気を使う事である。
ちょっと困った後、相手がそう望んでいるのなら努めたほうが良かろうと考え、ウィローは言った。
「……イエソド兄さん」
 
 
 
「はい、お土産。いつも同じで悪いけど」
「いえいえ、これが好きなのです、お気遣いなく。ありがとうございます」
抹茶や煎茶の茶葉が入った缶を、ウィローは大事そうに受け取った。
そして周囲にある品々を、彼は物珍しげに眺めた。
「これは、日本刀ですか?」
包んであった布からはみ出ている刀に目を止め、ウィローは問うた。
「そうだよ。持ってみるかい?」
「えぇ、差し支えなければ」
イエソドは刀を片手でひょいと持ち上げ、差し出した。
缶を置いて柄を握ったウィローは、腕にかかった重みにふらふらっとよろめいた。
イエソドに手を添えられ、慌ててそのまま刀を返した。
「お、重いんですね……見た目より」
「そりゃあそうだ、鉄の塊だもの」
「兄う……いえ、兄さんが、あんまり軽々と持っているもんですから」
「ははは、船乗りなんてしてりゃ、嫌でも腕力がつくさ」
イエソドは、笑いながら刀を元あった場所に戻した。

「そういえば、兄さんが着ている服も、日本のものですよね」
「これかい? あぁ、そうだよ。日本の江戸時代のものさ」
イエソドは身にまとっている和服の袖を、ひらひらと振ってみせた。
「お好きなんですね、日本が」
「インドも中国も日本も、みんな好きだがねぇ。
だがそうだね、日本の江戸時代は好きだな。明治維新の頃も捨てがたいが」
「どうしてですか?」
「うん、江戸時代というのはね、町人文化が花開いた時代なんだ。
それまでは、文化というのは貴族や武士など特権階級のものだった。
平民は食うや食わずやのギリギリの生活を余儀なくされていて、文化がどうとかなんて余裕は無くってね」
「江戸時代になって、平民にも余裕が出てきたということですか」
「そうそう。まぁ、上からの取り締まりもそれなりにキツかったようだがね。
だが、逆に言えば取り締まらなければいけないほどに、豊かな文化が育まれていたって事だよ。
鎖国してて遅れてたような印象が強いけど、なかなかどうして。
江戸の町は人口も多く、かつ同時代の他国の大都市では類を見ないほど、清潔で機能的でねぇ。
おまけに資源のリサイクルまで根付いてて、もぅ感心してしまうくらいさ。
江戸の住民に成りきって町を歩いていると、本当に楽しいよ」
「そうですか……」
ウィローはふっと遠くを見るような眼差しをして、江戸の町中を歩いている自分を想像した。

「兄さん。実は、お願いがあるのですが……」
「なんだい、ウィロー?」
「造園技術に関する本を手にいれてもらえませんか?」
「造園……? いいけど、それをどうするんだい?」
首を傾げたイエソドに、ウィローは少し下を向いて、上目づかいに答えた。
「どうって……勉強したいのですよ。僕が」
「そうかね。そういえば、君は木や花が好きだったねぇ。
いいともさ。英国式かい? 和式かい?」
「できれば、両方……」
「いいとも、いいとも」
「それと……あの」
ウィローは、しばし口ごもった後、切り出した。
「向こうの世界で……その、資格とか取るには……どうしたらいいのでしょう?」
「資格ぅ?」
イエソドは、ウィローの顔をまじまじと見やった。
「資格って、造園技術のかい? 庭師に資格って……あぁ、確かあったか、造園技能士とか何とか言う……。
まぁ、漫然と勉強するより、目標はあったほうがいいかな」
「いえ……まずは、すぐに取れそうなものがいいんです。
とりあえず考えているのは、ピアノの調律ですとか……
あれでしたら前から調律師の方にいろいろ教わってますので、やろうと思えば一人でもできます。
結構、好きなんですよね……ピアノの中身。それに音感の良さは、音楽教師の折り紙つきですし」
「ピアノの調律師になるのかい? どうせならピアニストを目指せばいいのに」
「いや、そんなのは僕には無理ですよ」
「やる前から諦めるもんじゃないよ、若い者が」
「いえ……わかるんです。
ピアニストで食っていけるのなんて、ほんの一握りです。そして、それは僕じゃないと」
「どうしてだね?」
ウィローはその問いに、力なく微笑んで見せた。
「上の兄と、音楽の教師は一緒なんですが……」
「うん、知っているよ」
「昔は、兄より僕の方がテストの点は良かったんです。
だから、僕の方が音楽はできると思っていました。しかし……」
「しかし?」
「ぽろっと、教師が漏らしたんです。『もっと色気があるといいんだが』……と」
「色気……ねぇ」
「最初は、何言ってるんだか、わからなかったんです。
でも……ある時、兄の演奏を物陰で聞いていて、それがわかったんです。
なにかこう……ゾクゾクッ、としたんですよ。
録音した僕の演奏を聞いた時には、一度もそんな事はなかったのに」
「……」
「楽譜通りに正確に指が動かせて、人真似が上手ければ、テストで点は取れます。
でも、プロになるのに必要なのは、テストで点を取れるという事じゃない。
自分の音を持っているという事なのだと……その時、わかったんですよ。
実際、それからしばらくして兄に技術が身についてくると、全く敵わなくなりましたしね。
あの人、演奏だけじゃなく作曲までこなすんですよ。
魔術はそうだと思っていましたが、音楽も晩成型だったんですね、あの人は」
「うぅむ……」
イエソドは腕を組んで、低く唸るような声を漏らした。
「……君に必要なのは、技術的なものよりも人生経験かもしれないね」
「人生かけてやりたいのは、ピアノじゃありませんから……それはもう、いいんです」
「それが造園なのかい? しかし、君……」
じっとウィローの目を見て、イエソドは言った。
「驚いたな。君、モスタリアを出て、向こうの世界で……庭師で食って行こうというのかね?
で、そうなれるまでには時間がかかるだろうから、とりあえずはすぐにでもなれそうな調律師になる、と?」

「……はい」
ウィローは、小さな声で答えた。
彼としては、そこまで話す気ではなかった。しかし、見抜かれてしまったものは仕方なかった。
「反対、ですか?」
「いや、別に? モスタリアで──狭間で生まれた者が、狭間に骨を埋めねばならんという事はないよ。
狭間の世界を出て、向こうの世界で暮らす事を選んだ者はいくらでもいる。
現に私も、モスタリアに愛着こそ持っているが、今や"家"ではなく"港"のひとつにすぎない」
「……ですよね」
「ただ……良かったら、理由を聞かせてくれないかね?」
「……」
「ウィロー?」
「……」
イエソドは、逸らしかけたウィローの視線を追いかけるように、ぐっと身を乗り出していた。
こういう時の兄は、どんな逃げ口上を述べても離してくれないという事をウィローは知っていた。
ふぅ、と小さく溜息をつき、彼は口を開いた。
「……逃げたいのです」
「何から?」
「全てから、です……以前からも、逃げたい、逃げたいとは思っていました……
けれど……僕を自分好みの型に押し込めようとする人達が居なくなって……父が死に、母も追放されて……
もう好きなように、のびのびと生きられるはずなのに、前よりずっと窮屈で、窮屈で……たまらないんです。
なんというか……こう、気持ち悪いんです!」
「……ふむ」
「無責任だとお思いになりますか? 逃げずに戦えとおっしゃいますか?
でも、もう嫌なんです! 僕は、あそこに居たくないんですッ!!」
「まぁまぁ……落ち着きたまえ」
イエソドの大きな両手が、ウィローの線の細い肩に置かれた。


「逃げたい、という気持ちも、ちゃんとした気持ちのひとつだ。
一般的には、確かに逃げるというのは忌まれる事だ……しかし、私は否定しないよ。
だが、もっと詳しく聞かせておくれ。気持ち悪い、とは只事じゃなさそうだ」
「……」
「さぁ、そこに座って」
イエソドの大きな瞳が、じっとウィローの目を見据えていた。
身軽なウィローは、どちらかと言えば鈍重なイエソドから逃げようと思えばいつでも逃げられるはずである。
しかし、昔からウィローはイエソドに見つめられると、何故かその目前から逃げ出す事ができなかった。
「はい……」
ウィローは、若干の重苦しさを覚えながらも、勧められた木箱の上に腰掛けた。
イエソドもまた、向かいの木箱に座った。
 
 
 
「兄さんは……本当は、長男なのでしょう?」
突然投げかけられた問いに面食らうでもなく、イエソドはゆっくりと自らの顎を撫でた。
「そんな事、今更どうだっていいじゃないかね」
「兄さんがそうお思いなら、兄さんにとってはそれでいいのでしょうが……そうは思わない人も、居ます」
ウィローはイエソドの頭の先から足の先まで、視線を走らせた。
どこをどう見ても、その容姿は"長男"とされているドグマよりも年かさに見えた。
「確かにね……私という存在があるがために、"エセ長男"呼ばわりされてしまう者が居るのは事実だ。
ドグマも……あぁ見えて、意外と繊細なところがあるしね……気の毒なことだ」
「えぇ……気の毒だと、僕も思います。しかし、問題はそこじゃないんです」
「と、言うと?」
「"エセ長男"と陰口を叩く声が、今では全く聞かれなくなったのです」
「それは……"先代統治者の息子のドグマ"ではなく、"ドグマ"になったという事じゃないのかね?
いや……私もドグマでなく、エイリアスと呼ぶべきかな?」
名を直接呼ぶのは恐れ多いと、ドグマはエイリアスなる呼び名で示される事が多くなっていた。
エイリアス──モスタリア語では本来、"あの御方"といったニュアンスの言葉である。
が、今やドグマの名を知らず、エイリアスという名であると思い込んでいる者さえ、珍しくなかった。

「それだったら、いいんですけど……」
「違う、と見ているわけだね、君は?」
「えぇ……もぅ、陰口を言える状態ではないんです」
「言論統制でも敷かれているのかね?」
「そんなことは、ないんです……ただ……何というか……上手く説明できないんですけど……」
「いや、いいから、君の感じたように言ってごらん?」
「え、えぇ……その……」
ウィローは考え込み、言葉をまとめて言った。
「要するに……補佐役が、補佐役になってないんです」
「……ほぅ?」
「僕も、あまり人の事は言えません……
政治なんて興味はなかったし、自分ならどうするというのは何もなしに……
ただ父の事を統治者として認められないと、その思いだけで兄の乗っ取りを間接的に手助けしてしまった。
それでも、ささやかながら……僕にできる範囲での手伝いくらいはと、思っていない事もありませんでした。
しかし……あの輪の中に入りたくない! 怖いんです……気持ち悪いんです!!」
「ふむ……」
「誰も彼も……僕以外、何の疑問も持たず……
『あの人のやる事に間違いはない』『あの人の言うとおりにしておけば問題ない』って目であの人を見ていて……
ただただ、盲目的に崇拝しているんです。そう、崇拝……尊敬というならまだいいんですけど、崇拝、なんです。
補佐役というのはそれなりに居ますけど、決してブレーンではない。
あの人の意向を実現に移すための手足でしかない」
「……」
「一見、あの人は理想的な統治者に思えます。
民の声にも良く耳を傾け、望みを叶え、誰もが幸せになるようにと……国民の支持もとても高い。
けれど、この国はたった一人の意志のもとに、全てが決定されている。
もしもその判断が誤ったとしても、きっと誰も止めはしないでしょう。
皆、あの人の後を追い、あの人の指し示すままに、持てるもの全てを投げ打って、あの人を援助する……
それで、いいんでしょうか? 皆に崇拝され、支持され、熱望される独裁者なんて、ありなんでしょうか……?」

とん、とん、とイエソドは指で己の膝を叩いていた。
「良くないな……全く、良くない」
「兄さん……?」
ウィローは、珍しいものでも見るように首を傾げた。
イエソドは彼の知る限り、否定というものをめったにする事がなかった。
誰もが忌み嫌う事であっても、誰もが矛盾していると思う事であっても。
あれも良し、これも良しと、何でも受け入れる──
良く言えば器が大きく、悪く言えば節操のない人物であった。
「君のように、逃げたいとか考えるのならば……褒められた事ではないかもしれないが、まずまず正常だ。
しかし……考える事を放棄しちゃあ、いけないな。
人に頼るのはいい。でも、寄りかかっちゃ、いけない。おぶさっちゃ、いけない。
仮に意図せずにであったとしても、下の者をそうさせていると言うならば、それはまったく──
一般的な独裁者のイメージ……弱い者を踏みつけにし、富を独占するような連中より、よほどタチが悪い」
「そう……なのですか?」
「アドルフ・ヒトラーを知ってるかい?」
「えぇと……他国を侵略したり、ユダヤ人などを虐殺したりした、昔のドイツの独裁者、ですよね?」
「じゃあ、ヒトラーはどうして独裁者になれたのだと思うかね?」
「そういえば……どうしてなのでしょう。演説が上手かった、とかは聞いた事がありますが……」
「そう。民衆から熱狂的に支持されたから、独裁者になれたのだ。
言い換えれば、『この人に任せておけばいい』と、民が考える事を放棄したから、ヒトラーは独裁者になれたのだ。
そして、民が『この人、ヤバいんじゃないか』と思う頃には……
ヒトラーは、誰にも何も言わせないだけの力を手にしてしまっていた」
「……」

「それにね……"心をひとつに"とか、"一丸となって"とかいうのは、良い事だと思うかね?」
「……僕はそういうの、あんまり好きじゃないですが……良い事とされているのでは?」
「私は、いろんな船を見てきたからね……経験上、わかるんだよ。
確かに、大きな事……たとえば重い荷物を運んだり、時空嵐を乗り切ったりするのに"息を合わせる"のは必要な事だ。
でもね、常日頃から全ての船員がおんなじ事を考えている……
"ひとつの心しか積んでない"船というのは……だいたい近いうちに、難破するね」
「……」
「船員の心の中身は、バラバラでいいんだ。
心の向かう方向が、今日はたまたま一致しているだけ……そのくらいで、ちょうどいいんだよ」
「……昨日や明日には、船長に歯向かう者が居たほうがいいという事、ですか?」
「そう、反乱までいくとちょっと困るが……
たとえ一番下っ端であろうと、船長にバンバン反対意見を言える環境の方が健全で、長続きするね。
それに反乱と言ったが、血みどろの争いにまで発展してしまうケースというのはね……
たいがい船長が強権を発動して、船員に何も言わせないよう押さえつけてる船で起きることなんだよ」
「何も言わせない……」
ウィローには思い当たる事があった。
自分の感じていた、窮屈さ、息苦しさ……
それは、もしも自分がドグマに──エイリアスに疑問や不満を投げかけたなら。
それがエイリアスに届く前に、「あの御方に逆らうなんてとんでもない」と、周囲にもみ消されてしまうのではないか──
そんな予感ではなかったろうか、と。
「僕は……あの人に恐怖政治を敷くような独裁者になってほしくなかった。
しかし、考えが足りなかったかもしれません……」
 
 
 
「いや……まだ、間に合う。エイリアスは、もぎ取った新政権の地盤がためをしている段階なのだから。
それに君だって、全てが凝り固まってしまうまで動かないほど、鈍かないはずだ。
君の感じているのは、あくまでも"兆候"だろう?」
「……兄さん?」
「よし、エクリプス号は副船長に任せて、モスタリアにしばらく腰を据えて組織作りに励むとしよう」
「組織……ですか?」
「前から、話はあったんだ。
我々、時空商人は今までバラバラに活動していたけど、組合のようなものを作ったほうがいいんじゃないかとね。
それがなぜ現実のものとならなかったかと言えば、その組合のトップに誰がつくかがなかなか決まらなかったからだ。
有力者といわれる人は何人もいるが、皆、歳を取り過ぎている。
が、私がやるんなら支持するよと言ってくれている有力者は、結構いてね……
その理由が主に血筋によるものだというのは少々気に食わないけれど、まぁ利用できるものは利用させてもらおうか」
「はぁ……」

「で、ウィロー。エイリアスはモスタリアを維持する儀式を一人でやっていると聞くけど?」
「は、はい、そうですが……?」
急な話の展開についていけず、ウィローは戸惑いながらも問い返した。
「彼の体調が悪い時なんかは、どうしているんだい?」
「今までは、そういう事はありませんでしたので……
それに、あの人の事ですから……『自分が体を壊すなんてありえない』とでも思っているのかもしれません」
「ははは、ありそうな話だ。では、君から勧めてあげなさい。
もしもの時に備えて、従来の集団儀式によって代行できるよう人員を定め、定期的に訓練しておくべきだと」
「えっ……しかし……」
ウィローは、主だった魔術師の顔を思い浮かべ、首を横に振った。
「それは……現状では、難しいですよ。
力のある時空魔術師は、ほとんどが戦死したり、追放されたり、自分から出て行ったりで……数が揃いません。
もしかしたら、そういう非常時には僕にと期待してる人も居るのかもしれませんが……
僕は、その……前にもお話したように、まだ……あの」
「あぁ、わかってるよ。君にやれと言うんじゃあ、ない」
イエソドは、ひらひらと手を振ってみせた。
「エイリアスが人選に困っているようだったら、折を見て言って欲しいんだ。
君が打診してみたところ、時空商人組合が協力を申し出てきたと……ね」

「なぜ急に……そんな気を起こされたのです?」
ウィローの問いに、イエソドは微笑んだ。
「モスタリアは、モスタリア国民にとってだけではなく……
モスタリアを市場や中継地として利用している、我々時空商人にとっても重要な場所だから……というのが建前で、ね」
「本音を……聞いてもよろしいのですか?」
「ここまで話せば、わかるだろう?
もちろん、一介の商人の身で政治に口出しする権利を獲得するための、足がかりを得たいのさ」
「やっぱり……ですか」
ウィローは、小さく溜息をついた。
「うん。反対の声はあげなければならない。
そして私自身だけでなく、反対の声を誰でも上げられるようにしなければならない。
それは私の……"年上の弟"としての、務めだと思うからね」
「"年上の弟"……」
始めてはっきりと事実を認めたイエソドの言葉を、ウィローは噛みしめるように繰り返した。
つくづく、複雑な家庭だと思いながら。
ウィローは顔を上げてイエソドを見やった。
その深い闇のような瞳に静かな闘志が燃えているのが、ウィローには見えた。

「しかし、組合の……といっても実質、兄さんの申し出をあの人が聞きいれるでしょうか?
あの人は兄さんには複雑な思いを抱いているでしょうから、『情けなどかけられたくない』と意固地になるかもしれません」
「聞くだろうさ。私が直接言っても駄目だろうが、可愛い弟が健康を思いやって言ってくれている事であれば」
「可愛い? 僕が、ですか?」
「はははっ!」
おかしそうに、イエソドは笑った。
「君が思うほど、エイリアスは──ドグマは君を嫌っちゃいないだろうよ。
そして、ドグマ自身が君を嫌いだと思い込んでいるほどにも、ね。
ただ、歯車が合わないとか……家庭の事情が邪魔して、素直になれないとか……そんな程度だと思うよ、実際は」
「兄さんは……身近に居ないから……兄弟はそういうものだと、思いたいだけでは?」
「そういう部分も、否定はしないよ。でも、推測はある程度できる。
例えば……前に君から聞いたけど、君がドグマに魔翠玉を持っていった時。
ドグマは『父を滅ぼす』と、わざわざ前もって君に言ったそうじゃないか。
それは、どうしてだと思うかね……?
黙って受け取っておけばいいじゃないか。余計な事を言って、君が気を変えるかもというリスクは大きいだろう?
君と父の関係が良好だと思っていたなら、なおさらだ」
「……確かに、そう言われてみると……不思議ですね」
「ドグマは、君に『裏切られた』と思われたくなかったのだよ。
魔力と体の自由を取り戻す事よりも、それは彼にとっては重要な事だったのだ。
本人も、わかっていないかもしれないけれども……たぶんね」
「……」

「兄さんの思惑通りになるかどうかはわかりませんが……
そうですね……『また発作が起きないとは限らない』とか何とか言って……」
「発作……?」
半ば独り言でウィローが口を滑らせた事に、イエソドはぴくりと片眉を上げて反応を示した。
「えぇ。その事は、以前お話しした時には伏せていましたが……
魔翠玉を渡しに行った時も、かなり神経痛で苦しんでいたんです。
体を冷やしたせいもありましょうが、痛みのために呼吸困難に陥って、最後は気を失ってしまったくらいに。
さておき……まぁ、そんな感じで、勧めてはみます……」
「神経痛、ね……うん、そうしておくれよ。
代わりにといってはなんだが、君には向こうの国籍や住民票を用意してあげるから」
「国籍……? そんなこと、できるんですか?」
「国籍なんていうものはね、それなりのカネとコネがあれば買えるんだよ。
もちろん、ずっとその国に居ろというんじゃない。
技術を磨いたり、資格を取ったりという、最初の足場はあったほうがいいと思うな」
「……」
「逃げてもいい。状況が変わって、やっぱりもうちょっとモスタリアに居ようかなと思えれば、逃げなくてもいい。
あるいは、しばらく行き来する生活をしてみるのも、悪くないかもしれないね。
いつでも逃げられるんだと思えば、君も気が楽になって、おちついて先々のことを考えられるんじゃないかい?」
「……そうですね」
「東洋の方がツテがあるし、君の容姿からいっても不自然でないと思うが。どこの国がいいかねぇ」
「……」
ウィローは少し考え、ふと傍に置いてあった抹茶の缶を手にとった。
「では、日本にします」
「そんなにすぐ決めなくてもいいのに。あぁ、あと名前も考えておいてね」
「名前なんて、適当でいいですが……そうですね……"柳"のつく苗字というのは、ありますか?」
「あるよ。柳沢とか、柳田とか、柳原とか、柳瀬とか。柳、一字だけという苗字も、確かあったかな」
「じゃあ、"柳 三郎"でいいです」
「本当に、適当に決めちゃうんだねぇ、君は……」

ウィローが立ち去った後、イエソドは一人呟いた。
「私も、リミッターを外す事を考えておいたほうがいいかもしれないなぁ……」マインドパペット1.5 水色の庭園
44.

イエソドが他人から"お兄さん"でなく"おじさん"と呼ばれる事が多くなった頃。
クーデター、そして政権交代の混乱が一段落し、ようやく平穏が訪れた後の──とある日。
御家断絶となった貴族の邸宅を買い取って置かれた、時空商人組合の本部。
書類をさばいていたイエソドの元に、ウィローが飛び込んできた。
「イエソド兄さん、お忙しいところ申し訳ありませんが……」
「何だい。エイリアスが倒れたのかい?」
書類を引き出しにしまいながらイエソドが問うと、ウィローは頷いた。
「状態は?」
「倒れた、と言うか……見た目には、ただ横になっているだけに見えます。
意識もはっきりしています。が、ほとんど動けないんじゃないかと」
「どうして?」
「普段なら、全身から感じられる魔力がありません。つまり、神経作用を魔力で補っていないということです。
どうやら、激痛に襲われているようで……その術を使うとかえって負担がかかって、痛みが増すのではないかと」
「ふぅん……どうせ、ずっと寝る間も惜しんでオーバーワークを続けてたんだろう」
「おっしゃるとおりです……」
「ま、正式な要請はまだだったけど、ちゃんと訓練はしてたから大丈夫。
すぐに招集をかけて出向くから、安心して待ってろと言ってやりなさい」
「わかりました、感謝いたします」

ウィローの案内で寝室に踏み込んだイエソドは、静かにベッドに歩み寄った。
眼帯で右目を覆った、長身の男がそこには横たわっていた。
黙したまま自分を見つめるエイリアスの面を、イエソドはじっと見つめ返した。
イエソドの知る"年下の兄"ドグマと良く似ては居るが別人──そのように、彼には見えた。
「やぁ、久しぶり。それとも、はじめましてと言うべきかな?」
イエソドはそっと、エイリアスの肩に手を置いた。
「……ッ」
エイリアスは脂汗を浮かべた顔を、かすかに歪めた。
押し隠そうと努めている。が、そよ風が当たっただけで千の針が突き刺さったように痛む、そんな様子だった。
「う、うっ……儀式の委任を、正式に要請する」
「承った──と即答したいところだけど、ひとつ条件がある」
「……何だ」
「少し良くなったらでいいから、私の船に乗りたまえ。
うちの若い衆に頼んで、温泉旅行に連れてってあげよう。神経痛に良く効く湯を知ってるから」
「……そんな暇はない」
「駄目だよ。休むというのも、病人にとっては仕事なんだからね。
留守中、私にできる事があれば代わりにやってあげるよ。それに……」
イエソドは、後ろではらはらと見ているウィローを振り返った。
「エイリアスの身の回りの世話は……ウィロー、君がやってあげるよね?」
「え……? あ、は、はい……」
促されたウィローは、慌てて頷いた。
「だ、そうだよ。たまには弟たちに甘えなさい、長兄」
「しかし……」
「君、自分が昔言ってた事覚えてるかい? "三国志"の諸葛孔明の死因は何だと思うって?」
「……過労死」
「そう。誰にも任せられず、一人で全部背負い込むから、あぁなるんだ──って、言ってたよね。
モスタリアってのは、君が1週間かそこいら休んだだけで、どうかなるほど脆い国なのかい?」
「……」
エイリアスは、左目を閉じて沈思黙考した。

「ウィロー」
目を閉じたまま、エイリアスは弟を呼んだ。
「は、はい?」
「私に、幻覚魔術で麻酔をかけよ」
「えっ……あれをかけると完全に動きがとれなくなるから駄目だと、さっき……」
「よい。どうしても行けというならば、今から行くとする。
時間を無駄にしてはならぬ。すぐに行って、すぐに帰る」
「ふふっ。即断即決即実行か、良いことだね」
イエソドはエイリアスの肩から手を離して、ぽんとウィローの肩を叩いた。
「じゃ、あとは長兄を頼んだよ、末っ子君」
「はい……次兄」

儀式場で、イエソドを始めとする12人の時空魔術師が円を描いて立っていた。
その全てが、組合に属する時空商人であった。
ピンと張り詰めた空気の中、イエソドはエッヘンと大仰に咳払いをした。
「太陽も、休む事はある。今日は日食だ。
我々の港たるモスタリアを永遠の闇に落とさぬよう、この儀式、なんとしてでも成功させよう。
思うところはそれぞれあるだろうが、力を貸して欲しい。
私事ながら、我が弟……おっとぉ!兄のためにもね!!」
どっ、と笑い声が上がった。
「我々の港のために!」
「組合長の兄貴のために!」
緊張の解きほぐれた唱和の声が、儀式場に響き渡った。
 
その後、イエソドが周囲から"エイリアスの片腕"と認知されるのに、さほど時間は要しなかった。
──当人の内心は、知られる事なく。
 
 
 
それから、数年が経過した。
人々が魔物と化してゆき、モスタリアに恐怖が満ち溢れるようになった後の──とある日。

エイリアスは食事を取りながら、部下から報告を受けていた。
「──というわけで、例の密告はどうやらガセではなさそうとの裏付けが取れました。
魔物どもの小集団は、銀槍通り付近の下水道に潜伏している模様です」
「待機させている部隊を、出動させよ」
「密告によりますと、魔物どもは武装しているとの事ですが……どうなさいますか?」
「常の通り、向こうが抵抗を放棄するならば捕縛。でなければ、殺しても構わぬ」
「かしこまりました。それと、本日の御予定ですが……」

チャリン、と硬い金属音がして、部下は報告書から視線を上げた。
床にスプーンが転がっている。
エイリアスは部下の視線を遮り、テーブルの下で右手の甲をさすっていた。
「どう……なさいました?」
「イエソドを執務室に呼べ。すぐにだ」
「はっ? イエソド様をでございますか? しかし、御予定ではこの後……」
「今日の予定は、すべて1時間遅らせよ」
「えぇっ……」
「返事は?」
「は、はっ! かしこまりましたッ!」
部下は慌てて、部屋を走り出て行った。
エイリアスはゆっくりと席を立ち、見た目には全く平然と執務室へ歩いていった。
一歩一歩足を進めるごとに、振動が電流のような痺れとなって全身へ伝わるのをこらえながら。
 
 
 
「やぁ、おはよう」
エイリアスの執務室を訪ねたイエソドは、一見には朗らかに声をかけた。
「……うむ」
エイリアスが低く短く、返答をかえした。
執務机の椅子ではなく、応接用のソファにゆったりと腰をかけて、腕を組んでいた。
イエソドが向かいのソファに腰を下ろすと、エイリアスは簡潔に用件を述べた。
「本日は多忙につき、夕刻より実施予定の儀式を委任する」
「……」
イエソドは、じっとエイリアスを見つめた。
普段ならば全身に巡らされている魔力が、わずかにしか感じられなかった。
最低限──歩行や魔術の動作ができるだけにしか、神経作用が魔力で補われていないのだ。
「今回も表向きそうしろと言うなら、そうするけど、ね……
何度も言うようだが君ね、完全無欠の偶像を演じる必要など無いのだよ?」
「……」
エイリアスは、時折自分が発作的に激痛にさいなまれる事を伏せていた。
それを知るのは、イエソドとウィローの他には、ごく一部の口が堅い小姓や使用人だけであった。
「それにしても、ここのところ発作の頻度が上がってるんじゃないかい?」
「……代行が嫌だと言うならば、私も儀式をやってやれないほどではないが?」
「いや、やらんとは言ってないよ。
それは、君の体が『最近、働き過ぎでしんどい』と悲鳴を上げているんだ。
休息を取りたまえ。儀式の事は私に任せて。
できれば、魔術以外の普通の仕事の方も休んで欲しいところだけども」
「それはできぬ」
エイリアスがきっぱりと首を横に振るのを見て、イエソドは苦笑した。
「まぁ……そうだろうね。
ただし、いつぞやのように起き上がれもしないほどに悪化させたら、強制的にでも長期休養を取らせるからね?」
「……うむ」

「ところで……私の方も、話があるのだが。話もできないほど具合が悪いなら、またにするがね」
「……構わぬ。ただし、あと42分……いや、移動時間を考えて37分だ」
「うん……」
イエソドはゆっくりと自らの顎を撫でながら、頭の中で言葉をまとめ直した。
「今までに何十回……いや、何百回と話した事ではあるが……」
「……その事ならば、幾度言ってきても、無駄だ。退出せよ」
「37分はくれると言ったじゃないかね。男に二言はないだろう?」
「無駄だとわかっていても口を動かしたいのならば、勝手にするがいい。あと36分だがな」
イエソドは頷くと、懐から銅色の懐中時計を取り出し、蓋を開けてちらりと文字盤に目を走らせた。

「魔物と化した者たちを弾圧するのは、やめないか?」
「やめる気はない。あれらは民を脅かし、国を蝕む癌だ。
病巣をすべて取り除くまで、外科手術が必要だ──痛みがあろうとも」
「確かに、民は魔物を恐れていた。しかし、今は自分を恐れている。
いつ、自分が魔物と化し、差別する側からされる側に回るかわからない──と」
「差別? 偏見などではない。現実に、魔物は発狂し、人々を襲う。
その怪力を持って、人々を惨殺する。狩りたて、排除すべき存在だ」
「……いいや」
信念を込めて、イエソドは首を横に振った。
「魔物との共存は、可能だ」
エイリアスもまた、首を横に振った。
「不可能だ」

「エイリアス。発狂する魔物というのは、全体から見ればごく一部なのだ」
「それでも、発狂する可能性のあるものを、放置してはおけぬ」
「君も知っているように、魔物化という現象は最近の研究で、心の闇が表に現れた事によるものとわかっている。
つまり、誰しも魔物化する可能性はあるのだ」
「確かに、心に闇など、誰しも飼っていよう。しかし、イエソドよ。
その心の闇を制御できるのが人間なのだ。制御できなくなった者は、人間ではないのだ」
「ならば、発狂した魔物だけを狩ればいいではないか。
君は、ただ心の闇と共存しているだけの者まで、狩ってしまっているんだよ」
「闇と共存などしてはならぬ。闇は、抑えつけるべきものだ」
「違うよ、エイリアス。闇も自分の一部として認め、共に生きていくべきだ。
暴走してしまった闇が狩られるのは、まぁ、社会を構築する者として仕方ないが……
闇は抑圧されれば抑圧されるほど膨れ上がり、光を侵食するよ」
「侵食などさせぬ。その前に狩ればよいのだ」
「共存すれば、侵食されない。狩る必要もないんだ」
「共存する事など、許さない」

二人の主張は、全く相いれぬまま時が過ぎていった。
フーッ、とイエソドは溜息をついて、論点を変えた。
「なら、エイリアス。君は自分が魔物と化したら、己を排除するのかい?」
「私は、魔物になどならぬ」
「その根拠は?」
エイリアスは、ぐっと親指で右目を覆う眼帯を示した。
「私の心の闇は、ここに封印されているからだ」
「……は?」
イエソドは酷く不快げに、顔を大きく歪めた。
「何故、そのような顔をする」
「私はね……君の、君らしさも、そこに封印されてしまったと思っているからだよ」
「……私らしさとは?」
「どう言ったらいいかな……うぅん、わかりやすく言えば……"おさなごころ"かな?」
「そんなものは要らぬ。私はもう、子供ではない。
仮にあったというのならば、それも心の闇だ。封印されて良かったというものだ」
「闇……かどうかは、わからない。
でも私は、もし闇であったとしても、封印されて良かったとは……思わないな」
「それは、見解の相違だな」
「……」
悲しげに、イエソドは首を横に振った。

まだ若いウィローの潔癖さが産み出した、エイリアスなる存在。
一片の私心も交えず、痛々しいまでに身を粉にして"皆の幸せ"の為に邁進する、理想の君主。
しかし、彼の掲げる理想にそぐわぬと見なされた者は、容赦なく排除されていく。
今までは、それはモスタリア全体から見ればごく少数であったために、大多数からは黙殺されていた。
今までは──

「そろそろ時間だね……エイリアス。最後に一つ、確認したい事があるのだが」
懐中時計の蓋をぱちんと閉めて懐に収めながら、イエソドは切り出した。
「何だ?」
「子飼いの魔術師たちに、人々の心の闇を封印する手段を研究させているという噂は、本当かい?」
「事実だと言ったら、どうするのだ?」
「……」
「今行われている"狩り"は、あくまでも対症療法。根治の為には、必要だ」
頑としたエイリアスの言葉に、イエソドは深い深い溜息をついた。
ゆっくりとイエソドは立ち上がり、エイリアスを見下ろした。
「エイリアス。それは……君を殺してでも、阻止させてもらうよ」
「ならば、これ以上語るに及ばぬ」

エイリアスも立ち上がりながら、腰にさしてあった指揮棒を引きぬいた。
それは常に比べれば、ぎこちなく緩慢な動作だった。
しかしイエソドは、じっとエイリアスの目を見つめたまま、殴りかかるでも、呪文を唱えるでも、逃げるでもなかった。
「我に従え、我に酔え! 熱狂の渦に誘われるがままに!!」
エイリアスの口から簡略化された呪文が発せられ、指揮棒が振られた。
そのとたん、ガツンッと殴られたような強い衝撃を受け、エイリアスはソファに倒れ込んだ。
「……ッ?」
体が冷えきっているのに、エイリアスは気づいた。
まるで、眼帯をつけた時のように──否、それ以上に。
霜がぴしぴしと体表を覆う。その結晶がくっつきあい、膨れ上がる。
またたく間に、エイリアスの首から下は、巨大な氷の塊の中に閉じ込められてしまった。
「なっ……!?」
新たな術を放とうにも、ぎっちりと隙間なく氷詰めにされ、指一本動かせない。
仕方なく、無詠唱で使える術──念話で部下たちを呼び集めようとした。
「……いッ」
ズキンッ!と全身に激痛が走り、集中を妨げられた。
「い、痛いッ……痛ぁぁッ!」
悲鳴と共に、眼帯がはらりと落ちた。
ハッ、と彼は両目を開けた──彼はもう、エイリアスではなかった。
「わたし……はっ!?」

「やぁ……久しぶり、ドグマ。
相変わらず、君は痛がりだねぇ……痛い時は我慢せず、そうやって痛いって言ったほうが、痛くないんだよ?」
イエソドは悠然と佇んだまま、ドグマに微笑みかけた。
「イエソド! 貴様……何をしたッ!?」
「何もしてないよ、私は。……まったく、"ファナティック・スレイブ"だなんて。
いくら、得意呪文とはいえ、ねぇ。その体調で、そんなコントロールの難しい術を使おうとしたら。
制御に失敗して、暴走するに決まってるよ……モーニャが、ちょっと流れを掻き乱しただけで、ね」
「モーニャ……だと?」
ドグマは思い出した。ウィローが呼んだ、眼帯に棲む半人半妖の名──ランダモーニャ。
「まさか、貴様……最初から仕組んでいたのか!?」
「うん、まぁ、狙ったわけじゃないが、結果的にはそうなるかな……
ちょっと不自然だとは思わなかったかい? 風属性のウィローに、水妖の知り合いが居るっていうのは?
一概には言えないけど傾向的には、妖が人に懐くのって、同一属性であるケースが多いよねぇ」
「……ッ」
「まぁ、私も彼女が何者かは、良くわからないんだが。
産褥熱で亡くなった妻か、一度も息をしなかった娘かが、水妖と化したか……
それとも、彼女らの遺体を食った水妖が、魂に影響されて変化したか……
どちらかかなぁ、と思っているんだが……まぁともかく、ウィローにモーニャを紹介したのは、私だ」

イエソドの大きな手が、ぐっとドグマの顎をつかんだ。
「宣言通り、『エイリアスを殺した』。君も、抵抗するなら……殺すよ?
……っていうか、モーニャが暴走を途中で食い止めてなければ……
頭まで氷漬けになって、とっくに息、詰まってるんだけどね?」
「おのれ……ッ」
ドグマの顔が悔しさで歪んだ。
「……貴様の勝ちだ! 煮るなり焼くなり、好きにするがいい!!」
「では、遠慮なく」
イエソドは空いた手を袂につっこみ、ごそごそと5、6個のガラス玉を出した。
無色透明だったガラス玉が、ひとつ、またひとつと虹色に輝いていく。
「……???」
ドグマには、イエソドの行動の意味がわからなかった。
玻璃玉、と呼ばれる魔具だという事は彼も知っていた。
これに魔力を貯めておけば、24時間以内であれば後で使う事ができる。
魔翠玉との違いは、貯められた魔力を使えるのは貯めた本人だけである、という点だ。
多くの場合、大量の魔力を使う予定の日の前夜に魔力を貯めておき、術者が眠って回復する事で、一時的に魔力容量を増加するという目的で使われる。
敵を目前にして玻璃玉を使うならば、普通、貯めた魔力を取り出す方だ。
しかし、イエソドは玻璃玉に魔力を貯めている──それも、相当に大量の魔力を。

「これでよし」
袂に玻璃玉を収めると、すっと手を伸ばしながらイエソドはドグマに顔を寄せた。
「うッ……!?」
ドグマは、目を見開いた。
柔らかい感触──イエソドの唇が、自分の唇に重ねられている。
「むぐッ!!」
首を反らせて唇を離そうとしたが、顎と後頭部をがっちりと押さえられていて、かなわなかった。
「むむむむッ!!」
ずぞぞぞぞっ、と激しい脱力感がドグマを襲った。
めまいで視界がぐらぐらと揺れた。
気がつくとドグマは、己の魔力が完全に底をついているのを悟った。
「な……なッ!!」
「うん……枯渇、したね」
唇を離して、イエソドはドグマの瞳を覗き込み、頷いた。
「な……なぜ! なぜ、こんな事が!!」
「あぁ、うん。リミッターを外してみたらね。
君のほうがもちろん、魔力は高かったんだけど。魔力容量の方は、私のほうが大きかったんだよね」
「そんな事を聞いているのではない! そもそも、不可能なはずだ! 属性が違うではないか!!」
「あぁ、そっち? 確かに、魔力の譲渡もしくは奪取ができるのは、血縁者で、かつ同一属性のみとされてたね。
でも最近、魔術学会で発表されたばかりの事なんだけどさ。
属性が違うと"不可能"なんじゃなく、"成功確率が高くはない"ってだけだったんだよ。
ま、君は忙しすぎて、論文なんて読んでる暇、無いか」

「か、返せ! 私の魔力を、返せ!!」
「駄目。それよりね、まもなく魔物化した人々が……
そして将来、魔物化して排除される事を恐れる人々が……大規模な反乱を起こすよ。
自分や愛する人が殺される前に、君を殺そうと……」
「……!」
さぁっ、とドグマは血の気が引く思いがした。
この状態で──そんな状況に陥れば。抑える事など、自分にできるのかと。
「別に私が煽ったわけではないが、リーダーはちょっとした知り合いでね……
だが無論、反乱を止めるつもりは無い。
この国の民も、やっと自分から権力者に"No"と言う事を覚えたのだから。
もっとも、君は滅ぼされるべき存在だ……とは、言わない。
君が止めたければ、止めるがいい。ただし、魔力で縛るのは……無し、だ」
「ま……待て!」
ドグマの制止も構わず、イエソドはひらひらと手を振った。
「天上のまばゆき光を仰ぎ見、指し示すだけでなく。
地面に這いつくばって、泥の中から咲いた小さな花を見つめる経験が、君にはもっと必要だ。
じゃあね、長兄。殺されない事を祈っているよ」
イエソドはがらりと窓を開けて飛び出すと、カンッ、コンッと下駄を鳴らして屋根の上を走り去った。
「イエソドォォォッ!!」
胸の痛みも構わず、ドグマは叫んだ。
 
 
 
「痛いぃッ、糞ぉ……誰か! うぅ……誰か、おらんかぁッ!!」
苦痛にうめきながら、ドグマは幾度も声を張り上げた。
ようやく、二人の部下が部屋に飛び込んできた。そして、ドグマの置かれた状況に目を丸くした。
「イエソドを追えッ……いや、時空魔術師を追っても、"渡り"で逃げられるだけか……
やめだ、ウィローを呼べ! どうせ花でもいじってるんだろう、すぐさま引っ張ってこい!!」
ドグマの命令に、部下たちは戸惑いを浮かべた顔を見合わせた。
「我々も……ちょうど、ウィロー様に用があって探していたところですが……どこにも見当たりません」
「ちッ……また、向こうの世界にでも遊びに行ったかッ……あの、放蕩者め!」
「それより……」
部下は、いぶかしげにドグマをじろじろと見やった。
「……貴方は、どなたですか?」
「はァッ!?」
もう一人の部下も、首を傾げた。
「エイリアス様に良く似ているが……ご親戚か何かでいらっしゃいますか?」
わからないのも、無理はなかった。
眼帯が外れて両目を見開き、加えてエイリアスとドグマでは、まとっている雰囲気がまるで違うのだ。

「馬鹿者! 私は、ドグマだ! わからんのか!!」
「ドグマ……?」
「そう言われましても……失礼ながら、存じませんが」
「貴様らの知っているエイリアスそのものではないが……エイリアスと、同一人物だ!
そこに落ちている、眼帯! それのせいで、人が変わったように見えていただけだ!!」
「急にそんな事を言われても……なぁ」
「あぁ、そんな話……聞いた事もないし」
部下たちは、ますます戸惑うばかりであった。
「えぇい! 後でゆっくり説明してやる! それより時間が無いのだ!
貴様ら、火属性の元素魔術師だろうが! さっさと、この氷を溶かせ!!」
「なぜ……そこまで知って!?」
部下たちの顔色が変わった。
「本当にエイリアス様だというのなら……なぜ……御自分で手をつけられていないのですか?
見たところ動きが封じられているようですが、小さな炎くらい作れなくはないのでは……」
「そういえば……最低でも、念話ぐらいはお使いになれるはずですが……なぜ、声でお呼びに?」
「……ッ」
自分の口から部下に事実を伝えるのは、一層の屈辱であった。
ドグマはギリギリと歯ぎしりした後、低く、ぼそぼそと告げた。

「魔力を……根こそぎ、奪われたのだ。イエソドに」
「……まさか! お身内とはいえ、エイリアス様は火属性、イエソド様は水属性だぞ!!」
「仮にイエソド様に奪われたのが本当だとしたら……エイリアス様じゃないって事に!!」
「いや、待て。私も、つい先程知ったことだが……属性が異なっていてもだな……」
疑心暗鬼に囚われた部下たちの耳に、既にドグマの声は入っていなかった。
「……エイリアス様じゃない……?」
「……エイリアス様じゃない……?」
ハッ、と部下たちは思い出したように口を揃えた。
「そういえば、前にオロカが『おまえなんて、エイリアスじゃない』……と」
「あの頃から……既に、偽者がすりかわって……?」
「ほ、本物のエイリアス様は? まさか、既に亡き者にされ……」
「いや! どこかに幽閉されているのかもしれない!
たとえ不覚をとられたとしても、エイリアス様が脅しに屈してモスタリア管理者の座を明け渡すはずがない!」
「そうか、だとすればそうそう手出しはできまいな……よし、探そう! 皆にも知らせて、手分けして!!」
部下たちはドグマを無視して、部屋を走り出て行く。
「待て! 私の話を聞け! 聞かんかァーッ!!」
ドグマの叫びが、虚しく響いた。

ドグマが冷静だったなら、あるいは部下を納得させる事ができたかもしれない。
しかし彼は、"自分"が急に表へ飛び出した混乱が、まだ覚めきっていなかったのである。
 
 
 
「うぅ……」
ズキッと痛みが胸を刺し、ドグマは低くうめいた。
「い、痛い……冷たい……苦しい……」
痛みにのたうち回る事もできない。
寒さに震える事さえもできない。
唇が紫色になり、だんだん手足の感覚が薄れてきた。
「このまま……自然に氷が溶けるのを待つしかないのか……?
そ、その前に……体温を奪われて……凍死してしまう……ッ……
誰か……助けてくれ……信じてくれなくても、いい……誰か……誰、か……」

不意にドグマは空中に投げ出され、ソファの上に落ちた。
「うっ……!?」
ぶるぶるっと震えながら周囲を見渡すと、己を包みこんでいた氷の巨塊が消え失せていた。
そして、半ば透き通った紫色の女性が宙に浮かんでいた。
「貴様……?」
女性──ランダモーニャは霞に姿を変え、開いたままの窓から流れ出ていった。
助かった……そんな安堵が胸中を満たし、遅れてやってきた屈辱にわなないた。
「情けを、かけられたというのか……この、私が……ッ!」

どさり、とドグマは自ら床に転がり落ちた。
「早く……は、早く……」
感覚のほとんど無い手足を無理矢理に動かし、少しずつ、少しずつ這い進んでいく。
気ばかりが焦り、ほんの10m足らずが何十倍にもドグマには感じられた。
なんとかたどり着いた、精緻な細工の施された金属製の戸に、震える手のひらを押し付けた。
彼を認識し、ひとりでに開いた戸の向こうに、壁に埋めこまれた棚が現れた。
棚の段にすがりつき、何度も崩れ落ちながらも、重い体を持ち上げた。
そして収められた箱に手をかけ、ずるっとたぐり寄せ……驚愕に目を見開いた。
「か、軽い……ま、さ、か……?」
尻餅をつき、箱が乾いた音を立てて床へ落ちた。
慌てて蓋に手を押し付けると、戸と同様にそれはひとりでに開いた。
「無い……無い!?」
箱の中身──玉璽は、無かった。

「なぜだ……この戸も、この箱も、開けられるのは今や、私と……それに、あいつしか……」
軽い、空っぽの箱に、ドグマは冷えきった腕でしがみついた。
「なぜ……なぜ、だ! なぜ、一言の文句も言わずに、逃げるのだ……
なぜ、私に反論の機会すら与えぬ……なぜ、私に……恨み言のひとつすら、ぶつけさせてくれぬ……
それほどまでに、おまえにとって私の存在は軽いのか……ウィロー……ウィローッ!!」
熱い涙が一筋、ドグマの頬を伝った。
逃げられた──置いて行かれた──見捨てられた──
その思いに、わずかに残っていた気力が砕け、彼はどたりと倒れ伏した。

マインドパペット1.5 水色の庭園
45.


暗い廊下で、見張り役の兵士があくびをしていた。
そこへ同じような服装をした男が、歩み寄ってきた。
「あれ? もう交代の時間か?」
「いいや、後でちょっと用事があるんで、1時間前倒しにさせてもらったんだ。
連絡、そっちに行ってなかったかい?」
「あぁ、そうだったのか。じゃあ上がらせてもらうよ」
ささやかな幸運に喜んだ様子で、兵士は鍵束を渡して立ち去った。
足音が遠ざかると、男の姿がぼんやりと霞んだ。
すっぽりと砂漠装束をまとい、目元だけを晒した長身痩躯の若者が、そこには立っていた。
幻覚魔術で姿と声を変えていたウィローであった。
カチャリ、と鍵が開く音が響いた。
ウィローが格子戸を開け、ランタンの明かりをかざすと、魔物化した人々が怯えた目で彼を見上げた。
「……どうぞ。逃げて、構いませんよ」
ワッ、と歓声が上がった。
人々は我先に階段を駆け上がり、外へ出ていった。
いくつもの牢を次々に解放し、最後に開けた格子戸から雪崩出た人々を見送った後、ウィローは闇の底を見下ろした。
目を凝らすと、ボロ布のように転がされている男の姿が見えた。
ウィローは静かに階段を降りていった。
「あなたが、オロカという人ですか?」
その問いに、返事は無かった。
体中、赤黒く腫れ上がり、特に顔は目蓋も開けられなさそうな有様だった。
簡単に容態を見ると、困ったようにウィローは呟いた。
「これは……放っておくと、死にますね。やれやれ……面倒くさいですねぇ……」
 
 
 
オロカは、ハッと目を開いた。
体のあちこちに手を当てて確かめたが、腫れも痛みもすっかり引いていた。
「……目が覚めましたか?」
高くも低くもない、特徴のない声を耳にして、オロカはがばりと起き上がった。
辺りは蜘蛛の巣と埃にまみれた、廃屋の部屋だった。
オロカが寝ていた周囲だけ掃き清められ、床には魔法陣が描かれていた。
血の臭いを感じて彼が振り向くと、もうひとつの魔法陣の中心で、がりがりに痩せた汚い野良犬が血を流して倒れていた。
「お、おい! これ……何をしたんだ!」
佇んでいる砂漠装束の若者──ウィローにオロカは詰め寄った。
「あぁ……」
ウィローは平然として野良犬を見やった。
「貴方の傷を、この犬に移したんです。どうやら、死んでしまったようですね」
「なんだと!」
オロカは血相を変えて、ウィローの胸倉をぐっとつかんだ。
「何てことするんだ!」
「何、って……貴方を助けてさしあげたのに、何を怒っているんです?
いいじゃありませんか、どう見ても長生きはしなさそうでしたし……」
「長生きしなかったら、殺してもいいってのか、てめぇ!」
「……」
面倒な人だな、と内心ウィローは思ったが、元近衛兵相手に喧嘩するのはもっと面倒だった。
無詠唱で幻覚魔術を用い、容姿を適当に変えると、顔を覆う布を外して神妙な表情を作ってみせた。
「申し訳ありません……治癒魔術は上手くないんです。
僕の力量では、代償も無しに傷を癒す事はできません。
貴方の様子から、一刻を争う容態と思われましたので……他に方法は無かったのです」
「……くッ」
オロカは顔を歪めると手を離し、血で汚れるのも厭わず野良犬を抱き上げた。
「どうなさるんです?」
「決まってるだろ、埋めてやるんだよ!」
「そうですか……では、お手伝いしましょう」
 
 
 
廃屋の裏手には、草ぼうぼうの小さな庭があった。
ウィローから貸りたスコップで野良犬の死体を埋めると、オロカは地べたに跪いて目を閉じた。
「ごめんな……俺のせいで……」
謝罪の言葉を呟くオロカの横顔を、ウィローは奇妙なものを見る目で眺めていた。
オロカの容態を先ほどの詫びに組み込んだのは、さりげなく相手に責任を感じさせて黙らせる為の策であった。
が、オロカは信じがたいほどにあっさりと策にはまりすぎた。
"反論を封じられる"に留まらず、本気で"罪の意識"まで持っているのだ。
清らかなまでの馬鹿さ加減──それを目の当たりにし、ウィローはちらりと自分の醜さを思った。

「あれは……なんだ?」
ふとオロカは目を開き、仰ぎ見る仕草をした。
うぉぉぉっ、おぉぉぉっ、という威勢の良い多数の声が、遠くから響いてきた。
「始まったようですね……」
「何が?」
「反乱が、です。魔物化した人々が──そうでない人々も──武器を手に宮殿へ押し込もうとしている事でしょう」
「なにぃっ!」
オロカは血相を変えて立ち上がった。
「行かなくちゃ!」
「貴方も反乱軍に加わるのですか?」
「違う!」
「では……あんな目にあわされておきながら、まだエイリアスを守る気で居るのですか?」
「そんなわけないだろ!
あそこには、非戦闘員だっていっぱい居るんだ! 巻き込まれたらどうする、避難させなきゃ!!」
「……どうやってです? 避難以前に、入り込む事も難しいと思われますが?」
「ど、どうって……とにかく行ってから考える!」
行き当たりばったり丸出しなオロカの発言に、ウィローはハァァッと呆れ半分の溜息をついた。
「ちょっと、お待ちなさい」
ウィローは引き止めた。どうにも、この人の良すぎる馬鹿を放っておけないという気分になったのである。

ウィローはつないであったラクダの元へ戻ると、積荷のひとつを手にとり、包んでいた布を払った。
「これを、どうぞ」
差し出したそれは、刀であった。
もう以前のように、持っただけでふらつくことはなかった。庭仕事で、いくらか腕力がついたためだろう。
「こ、これは、俺の!」
「鞘がどこかへ行ってしまったようですが、ご勘弁を」
「いや、いいさ。ありがとう」
「で……よろしければ、宮殿内部への抜け穴など、お教えしましょうか?」
「なんでおまえ、そんなの知ってるんだよ?」
「それはですね……僕は典医の弟子ですので、いざという時のために色々と」
「ふーん」
ウィローが適当についた嘘を、オロカは素直に信じ、刀を受け取った。
「あちらの……」
道順を教えようと指さしたウィローの手を、オロカが不意につかんだ。
「なぁ、おまえも一緒に来てくれよ」
「はっ!? なんで、僕がそんな危険を冒さねばならないんです?」
ウィローはちらっと、自分がはいている靴へ目を走らせた。
変装の意味合いもあってそうしたのだが、いつもの"逃げ道サンダル"をはいておくべきだったかと考えた。
「だって、呪術医の卵なんだろ? 怪我人も居るかもしれないし」
「医者だって何だって、自分が死ぬかもしれない場所へ望んで行きゃしませんよ!」
「頼む! 俺が守ってやるから! 危ないとなったら、俺を捨てて逃げたって構わないから!!」
「……」
すがりつかれるように懇願され、ふとウィローはもう少しだけオロカに付き合ってみようかという気を起こした。
彼も、器用に──余計なエネルギーを使わずに生きてこれている自分が、嫌になる事もある。
たまには馬鹿に付き合って、危険でない程度までは馬鹿をやってみるのも良いか──そう考えたのである。
「仕方ないですねぇ……しかし本当に、僕は危険を感じたら逃げますからね?」
「ありがとう! 俺はオロカ、おまえは?」
「……ネフライトです」
「そうか。よろしく、ネフライト」
ウィローが適当に告げた偽名を、オロカはまたも何の疑いもなく信じた。
 
 
 
地下通路を抜け、古井戸に偽装した竪穴を登ると、そこは中庭だった。
丹精込めて手入れされた樹や花壇の間を、オロカが走っていく。
追いついてしまわないよう、わざと歩調を緩めてウィローがその後を追った。

「わっ!?」
生垣の影に回りこもうとして、オロカは派手に転倒した。
「何、やってるんです?」
「いや、ちょっとつまづい……てッ!?」
オロカは自分の足をひっかけたものを見やって驚いた。
ウィローと同じような、目元だけ晒した砂漠装束の長身の男が、倒れ伏していたのである。
「おい! おい、おまえ、大丈夫か?」
オロカは男を抱き起こし、声をかけた。
男は低くうめき声をあげ……それを耳にしたウィローは、ぎょっと身を固くした。
「その人は……!」
ウィローは、思わず小さく呟いた。
幸い、少し距離が離れていたので、オロカには聞こえなかった。
男は、紛れもなく彼の実兄──ドグマだったのである。

「うぅ……」
「大丈夫か? 怪我でもしてるのか?」
ドグマは、ハッと目を見開いた。
己を心配そうに覗き込むオロカの顔が、眼前にあった。
「おまえは……」
「え、何だ? 俺を知ってるのか?」
「ふっ……ふ、は、は、は……」
ドグマは途切れ途切れに、虚しさの漂う笑い声を上げた。
「おまえにとどめを刺されるならば……これはもう……仕方がないというものだな……」
「何言ってる? おまえ、どっち側の人間なんだ?」
「どちら側だと……? ふ、ふ、ふ……どちら側の人間だろうと……私を殺そうとするだろう……
さもなくば、拷問でもするか……エイリアスはどこだ、などと……!」
「エイリアスが……居ない、のか? 拷問って……実際、おまえは知ってるのか?」
「おぉ、知っているとも! 知ってはいるが、誰も私の言葉を信じぬ!
私が私である事を、誰も認めぬ……虚言と、決めつける! 身辺の者どもでさえ!
いくら踏み留まったところで、身の危険が増すばかりと、逃げ出すのが精一杯……この、私がッ!!」
「……良くわからんが、本当の事を言っても『嘘をつくな』って拷問されるだろう……って事か? 酷いな、それは……」
「もう……どうでもよい。もう……疲れ果てた……体が、もう……動かん……
どちら側にでも引き渡すがいい。さもなくば、首を取るがいい。
私など……もう……どうでも、いいのだ……」

「……」
どうでもいい──そんな言葉が、ドグマの口から発せられた事に衝撃を覚えながらも。
ウィローはドグマの言葉から、何が彼の身に起こったかを大方察した。
魔力が枯渇し、自力では這いずる事しかできない体に戻り──エイリアスからドグマに戻った。
そして、ドグマがエイリアスと同一人物であるという事が、身の回りの世話をする使用人でさえわからなかったのだと。
古くから仕える者の中には、エイリアスと化す前のドグマを知っている者も居ることだろう。
だが、それは心に鬱屈を抱えながらも、何不自由無い暮らしをしていた頃のドグマだ。
環境が──そして精神状態が変われば、顔つきも変わる。
不自由な体を抱えて苦労の日々を送り、復讐心をたぎらせていた頃のドグマを知るのは、ウィローただ一人なのだ。
更に、数年前の記憶は現在のエイリアスを毎日見るうち、その印象に塗りつぶされてしまってもいるだろう。

「いざ逃げるという時には、アレを持っていけと兄さんが言っていたのは……そういう事でしたか……」
ウィローは小さく呟き、トランクの中の玉璽を思い浮かべた。
どういう手段を使ったかウィローにはわからなかったが、おそらくイエソドの仕業だろうと推測された。
けれども、自分の行った事がここまでの苦境へドグマを追い込み、ここまでドグマの心を打ちのめすと、イエソドが予想していたかは怪しい所だった。
反乱を魔力で鎮める事は許さない──ただそれだけのつもりで。
ドグマが数多くの部下を従える統治者である事には変わりない、と思っていたかもしれないのだ。

名乗り出るべきかどうか、ウィローは迷った。
自分が証言すれば、ドグマがエイリアスと同一人物である事は明らかになるに違いない、が──
自分が玉璽を持って逃げたという事は、当然、既に露見しているだろう。
今更名乗りでて、ドグマが許すはずがない。
仮に許されたとしても──人々は自分へ"イエソドに代わるNo.2"という役割を押し付けたがるかもしれない。
そうなれば、すこぶる逃げづらい。自分は政治に興味など無いというのに──と。

「が……その前に……ッ!」
ウィローが逡巡するうち、ドグマの手のひらが地面に押し付けられた。
「私を認めぬこの世界など、認めぬ!」
「あっ……待っ……」
ドグマが何をしようとしているか気づき、ウィローは駆け寄ろうとした。しかし、間に合わなかった。
「"崩壊の時は来たれり"!」
ドグマの口から、言葉が紡がれた。
ざわざわっ、と波紋が広がるように周囲の草木が揺れた。
中庭で最も大きな樹──青々とした葉を茂らせた桜の大樹が、まばゆい光を放った。
光は収束していき、輝きに包まれるようにして幼い赤子の姿が一瞬見え──消えた。
そして、桜の大樹はボロボロに崩れ去った。
「……ふ」
ドグマは薄笑いを浮かべると、すうっと意識を失った。

「なんだ……今の術?」
光にくらんだ目をこすりながら、オロカが呟いた。
「術では、ありません……キーワードです……それを口にするだけなら、魔力は要らない……」
「何だよ。何が起こるんだよ?」
「……」
オロカの問いに、ウィローは黙ったまま傍の木の葉をつまんだ。
他の草木も、しおれ始めていた。
「大地から生えいずるものが、朽ちようとしている……これは……前触れ……」
「だから、何のだよ!」
「知ったところで……もう……どうする事もできませんよ……
それより……その人、どうします? 命に執着は、無いようですが……」
「……」
オロカは、ドグマを抱き起こした格好のまま迷った。
ここへ来た目的を思うと、この男一人にいつまでもかまってはいられない。
……が、目の前に居る動けぬ者を捨てていく事などできない。
まして、事情は良くわからないが、誰に見つかっても殺されるか痛めつけられるかという不憫な男を。
「いったん……連れて出る!」
「そうですか……」
 
 
 
一苦労して吊り下げたドグマを竪穴に降ろし、三人は地下通路に入った。
「こいつ、熱もあるみたいだな……かなり高いみたいだ」
「解熱薬ぐらいなら調合できますので、後で……」
「病気は魔術で治せないのか?」
「ヒヨっ子に無茶を言わないでください」
オロカはドグマを背負い、その足元をランタンの明かりで照らしてやりながら、ウィローが続いた。
見たくはなかったが、どうしてもぐったりとしたドグマの姿がウィローの視界には入ってしまう。
ウィローは、物思いにふけった。
モスタリアは崩壊する──遅くても数日中、早ければ今晩にでも。
なぜ、こんな事になったのか。なぜ、ドグマはそこまで絶望してしまったのか。
魔力と体の自由を失う事も、始めてではない。
人々に見向きもされなかった事が、そんなに辛かったのか。
まさか、自分が逃げたせいではないだろう。そう親しかったわけでもなし──と。

「ウィロー……」
うなされたように、ドグマの口が動いた。
ドキッ、とウィローの心臓は跳ね上がった。
「ウィロー……ウィロー……なぜ逃げる……なぜ、私から逃げる……ウィロー……」
「……ッ」
繰り返される己の名に、ウィローの胸はドキンドキンと高鳴った。
「ウィロー? なんだろ……知ってるか、ネフライト?」
オロカが、振り返らぬままに問いかけた。
「さ、さぁ……誰かの名前みたいですけど、ね……恋人か何かじゃないですか?」
ウィローはごまかした。その声は、わずかにうわずっていた。
 
 
 
廃屋に戻り、床に広げた毛布の上にドグマを寝かせた。
その口から漏れるうわごとを聞きながら、ウィローは薬草を小振りなすり鉢で潰していた。
「体が動かないって言ってたけど……熱のせいだけかな? 怪我でもしてるんじゃ……」
たっぷりと布地を使い、着ている者の体型すらよくわからなくしている砂漠装束を、オロカは脱がせようとした。
「やめておいた方がいいですよ。
察するに、人目に姿を晒したくないから、そういう格好をしているんです。深入りすると、戻れなくなりますよ」
「そうは言っても……」
オロカは不満を露わにして、口を尖らせた。
自分の存在がドグマに"最後の一押し"をさせたという自覚も無く、ただ純粋に彼を心配していた。
「動けないという原因は、わかっていますから……」
「ふぅん、さすが呪術医だな。ちょっと見ただけでわかるのか。で……治せるのか?」
「……僕程度で治せるんなら、苦労はしません」
「へ?」
オロカに用いた治癒魔術は初歩的なもので、単純な外傷しか癒す事はできない。
神経の障害などといった、複雑で繊細なものをどうにかするなど、はるかに高度な術でなければ不可能なのだ。
そして、そんな術の使い手は、少なくともモスタリアには居ない。
「根治は無理でも、対症療法的な手段で動けるようにするという事は……できなくはありませんが」
「なら、やってやれよ」
「それには……特殊な薬が必要でして……ちょっと、考えさせてください」
「ふーん……」
薬は──魔翠玉はある。トランクの中に。
しかし、今のドグマに与えて良いものかどうか、ウィローには判断がつかなかった。
「……火を起こしてきます」
ウィローはすり鉢を手に立ち上がり、裏庭へ出ていった。

「うぅ……っ」
ドグマが低くうめき、薄く目を開いた。
「おっ、気がついたのか?」
ウィローが作った、どろりとした緑色の薬湯を入れたカップを手に、オロカは小走りに駆け寄った。
「これを飲め。熱が下がるってさ」
「……要らん」
「なんでだ。不味そうだけど、飲まなきゃ治らないぞ」
「生きていても、仕方がない……さっさと殺すがいい」
「そんなに……死にたいのか?」
「あぁ……死にたいのだ。だが、己の命を断つだけの力も、私には無いのだ……殺せ……」
「うぅん……」
オロカは困り果てた。こういう時、何と言葉をかければいいものか、彼にはわからなかった。
「ウィローって奴が……心配してるんじゃないか?」
どういう関係か知らないので賭けであったが、オロカは切り出してみた。
「ウィロー……?」
しかし、ドグマの反応は希薄なものであった。
「誰だ、それは……?」
「誰、って……さっきおまえが、うわごとで言ってたんだけど……」
「知らぬ……いや、知っているような気もする……」
「ん?」
「思い出そうとすると……頭が真っ白になる……思い出せん……誰、だったか……」
「そ……そうか……」

窓の外で聞き耳を立てていたウィローは、ぎゅっと耳を塞ぎ、目を閉じてうずくまった。
ドグマは、気がおかしくなってしまった。躊躇いなく管理者権限の放棄を行い、モスタリアを滅ぼすほどに。
そして、おかしくさせた原因は──少なくとも一端は、自分だ。
そんなつもりは無かったが、辛さから逃れるため記憶に蓋をしてしまうまでに、ドグマの心を深く抉ってしまった。
一端? つもりは無い? 否、すべての原因は自分ではないのか。
ドグマがドグマのままであったとしても、統治者として致命的なまでの問題があったかどうかはわからない。
かえって、いくらか乱暴でも清濁併せ呑む対応ができる、もっと人間味のある統治者になれていたかもしれないのだ。
警戒が過ぎて、ドグマをエイリアスと化したのは自分──傷を深めたのは自分──
ウィローの胸を、罪悪感の棘がキリキリと刺した。
「違う! 僕のせいじゃない! 僕が悪いんじゃない!!
……嫌だ……もう、ここに居たくない! 逃げなくては……あの人が、まだ思い出さないうちに……!!」

「……オロカさん」
「何だ、ネフライト?」
手招きに応じて、オロカは外へ出ていった。
「これを……」
紙に包んだ魔翠玉の小片──元々欠けていた龍の彫刻の髭先を、もう少し削りとったもの──を、ウィローは差し出した。
「なんだ、これ?」
「さっき言っていた、特殊な薬です」
「え、作れたのか?」
「えぇ……まぁ……」
「じゃあ、さっそく……体が動くようになれば、ちったぁ心も晴れるよな」
「いえ、その……慎重になさってください」
一歩、二歩と退きながら、ウィローは言った。
「慎重って……何を?」
「あの人は……人々の心を支配し、ひれ伏させる魔王になるかもしれません。
あるいは……衝動の赴くままに、すべてを破壊する魔獣になるかもしれません」
「ま、魔王? 魔獣……?」
「だから……貴方が大丈夫だと思うなら、くれてやればいい! 僕は逃げます! 逃げさせてください!!」
「ちょ……っ!?」
ウィローは駆け出し、縄を解いてあったラクダの背に飛び乗った。
「ごめんなさい、さようなら!」
ウィローはラクダの腹を蹴り、一気に走らせた。
オロカが止める間もなく、ウィローの姿は遠ざかっていった。
「なんなんだよ……あいつ、いったい……」
 
 
 
紙包みをポケットに押し込み、オロカはドグマの元に戻った。
ドグマは、少しぼんやりと天井を見つめていた。
「おい……起こすぞ? とりあえず、さ……薬、飲めよ。
病気の時なんて、悪い方にしか気持ちが向かないもんだろ。・
生きるか死ぬかなんて、もっと落ち着いてからゆっくり考えろよ、な?」
オロカはドグマの肩を抱いて上半身を起こさせ、顔を背けて手探りで、顔を覆う布をずらした。
ウィローが警告したように、深入りを避けたのではない。
見られたくないのなら、というオロカの気遣いだった。
ドグマは口に押し付けられたカップの薬湯を、ズズッとすすった。
それを受け入れたというより、抵抗する気力が湧いてこなかっただけだった。

「弱いな……私は」
「え?」
「鎧一枚、剥がされただけで……なんという無力さか……
人に頼らねば、生きていく事もできぬ……それが、馬脚を現した本来の私か……」
他人の情けにすがって生きていくなど、二度と御免だ。情けを乞わねばならないなら、死んだほうがまし。
ドグマは、そのように思いつめていた。
オロカは再び手探りでドグマの顔を布で隠してやると、じっと彼の目を見つめた。
「何、当たり前のこと言ってるんだ?」
「当たり前……だと?」
「そうだ。そんなの、誰だってそうじゃないか。
俺だって、刀が無ければたいしたことはできない。その刀は、顔も知らないどこかの鍛冶屋が作ったものだ。
毎日食うパンだって、どこかの百姓が作った麦の粉を、どこかの職人が焼いたものだろ。
人はみんな、助けあって生きてるんじゃないか」
「……」
「それだけじゃない。麦とか豚とか、植物や動物の命をもらって、俺達は生きてるんだ。
だから、俺達は一人で生きてるんじゃない。生かしてもらってるんだ」
「……」
しげしげと、ドグマはオロカの目を見つめ返していた。
そんな話を、聞かされた経験が無かったわけではない。
ただしそれは、大人が子供に「だから物を大事にしなさい」「だから好き嫌いしないで食べなさい」と命じる為の名目でしかなかった。
オロカは「だから命は大事にしなきゃ駄目だ、死んじゃ駄目だ」と押し付けがましく繋げるでもなく、ただ自分はそう思っているというだけの事を口にしていた。
そのまっすぐな気持ちが、ドグマにも感じ取れた。
「おまえ何、『そんなの、考えたことも無かった』って目をして。変な奴だな」
「いや……『そんな事を本気で信じている奴を初めて見た』と考えていたのだ」
「な、なにをぅ、馬鹿にするな!」
「いや、馬鹿とは思っていない」
「……ならいい」
愚直とは思っているが、とドグマは心の中で付け加えた。

それからしばらく、二人は言葉を交わした。
ほとんどオロカが喋りっぱなしで、ドグマはぽつりぽつりと相槌や感想を挟んだり、質問に短く応えたりするだけだった。
ドグマから、生きる気力というものが失せているのには変わりない。
けれども死ぬしか無い、今すぐ死にたい、というような追いつめられた精神状態を脱し、若干の落ち着きを取り戻していた。

「ところで……おまえ、何か酷い失敗したのか?」
オロカが頃合いを見て、核心に触れる話題を持ちだした。
「……世界」
「ん?」
「世界が私に背いた。だから、世界を壊してやった。もう後戻りは出来ぬ」
淡々と告げられたドグマの言葉に、オロカは首を傾げた。
一人の人間が"世界を壊す"などという事ができるとは、全く思いもしなかったのだ。
何かの比喩だろうと、オロカは考えた。"自分を取り巻く環境や人間関係"というぐらいの、と。
「世界なんて……ひとつじゃないだろ?」
無論、モスタリア以外にも世界があるなどと、オロカはまだ知らなかった。
ドグマの言葉を誤解したままに、そう言った。
しかしドグマはそのままの意味で捉え、オロカに問い返した。
「……何?」
「だから……古い世界を壊したなら、作ればいいんじゃないか? 新しい世界を」
「……!」
ギラッと一瞬、ドグマの目が輝きを放った。が、すぐに視線をうつむけてしまった。
「……それだけの力が……今の私には、無い」
「なら……」
オロカはポケットから紙包みを出し、開いてみせた。
「これがあれば、いいのか?」
「……!」
ドグマの目が大きく見開き、紙の上に乗った緑色の小片を注視した。
「こ、これは……! なぜ、おまえが……!!」
ドグマは鉛のように重い腕を必死で持ち上げ、小片をつかもうとした。
が、腕が大きく揺れ、オロカの手首にぶつかった。
「あっ!」
小片は紙の上から転がり落ち、二人は見失ってしまった。
「ど、どこ行った?」
「さ、探せ! 探してくれ! あれさえあれば……あれさえあれば!!」
「わ、わかったから、じっとしててくれ! おまえにジタバタされると余計見つからないって!!」

「おっかしいなぁ……どこ行っちゃったんだろう。少なくともこの部屋の中にはあるはずなのに……」
30分以上探し続け、根気のあるオロカも途方に暮れた声を出した。
「諦めるな……探すのだ」
「探すけどさ……」
横たわったドグマの装束の、皺の一本一本を見る作業を再開した。
「もしかして……おまえ、踏みつけているのではあるまいな?」
「そんなわけ……あっ!」
足を上げてみると、靴底に小片が貼りついていた。
「す、すまん! 洗ってくるから!!」
「いや待て、それで水に流したりしたら今度こそ絶対見つからん!
少々汚れていても構わん、私の口にそれを入れろ!!」
「わ、わかった……」

魔翠玉の小片を口に含まされ、ドグマはじわりと目を潤ませた。
「あぁ……わずかだが、回復してきた。あとは、ゆっくり休めばいい……」
「そっか、よかったな。じゃあ、少し眠れよ。そうすりゃ、熱も下がるだろ」
オロカは毛布の両端を折り返して、ドグマを包んでやった。
ドグマは頷いて、目を閉ざした。涙が一滴、つぅっと伝い落ちた。
「動けるようになったら……"世界の種"を、探しに行く……」
「"世界の種"? ふぅん……手伝おうか? どうせ俺も、行くところ無いし」
「……回復が……間に合えば、な」
その言葉を最後に、すうっとドグマは眠りに落ちた。
軽く、毛布越しにドグマを撫でて、オロカは刀を手に立ち上がった。
「すぐ、戻ってくるからな」
地下通路の入り口を目指し、オロカは走り去った。
すぐ──戻るつもりであった。
だが、持ち前の性格から様々な面倒事に巻き込まれ、日が沈んでもドグマの元に戻る事は叶わなかったのである。
 
 
 
眠りから覚めかけ、まどろんでいたドグマは、不意に己を襲った落下の感覚に揺り起こされた。
「うっ……!?」
目を開け、周囲を見渡したが、真っ暗で何も見えなかった。
「オロカ! どこだ! どこに居る!!」
ドグマは叫びながら、時空魔術を用い落下を止めようとした。
しかし、体がうまく動かなかった。
神経作用を補っていた術を復帰させぬ事には、動作を伴う他の術も使えない。
「おのれ……間に合え! 動いてくれ!!」

闇の底を突き抜け、光が広がった。
まぶしさに目をつぶったドグマの脇を、ブォォォンと轟音が通り過ぎていった。
何度も目をしばたたいて明るさに慣らしながら、ドグマはゆっくりと身を起こした。
「あぁ……動ける」
左右を、自動車が猛スピードで走っていく。
ドグマが倒れていたのは、広い道路の中央分離帯だった。
仰ぎ見ると、無数の高層ビルが天を突き刺すように伸びていた。
「ここは……20世紀あたりのアメリカかどこかか? 間に合わなかったか……」
ドグマは立ち上がり、中央分離帯の上をまっすぐに歩んだ。
「まぁ、仕方ない……まずは、この国で足場を作るか。
そしていずれは"世界の種"を手にし、新たな世界を私が作る!」
ドグマは太陽に向かって手をかざし、それをつかむ仕草をした。
その脳裏には、桜の大樹が放つ光の中に見えた、赤子の姿が映っていた。




第6章「君の差し出す手(前編)」>>


水色の庭園
 
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