第6章「君の差し出す手(前編)」


46.

 

「うわっ!?」
三郎と暗示郎の様子を見ていたオロカは、ふと爆撃機の窓を見て驚きの声を上げた。
窓の外は暗く、夜かと彼は思った。
しかし良く見ると、無数の水晶の欠片のようなものが、キラキラと輝きを放ちながらゆっくりと流れていくのが見えた。
「な、何だアレ? どこだ、ここ!?」
「あぁ……」
操縦席から振り向いて彼を見ていたドグマは、声を漏らしながら前方へ向き直ろうとした。
「ここは時空の狭間……」
説明を述べようとした瞬間、どぅっと横殴りの突風にも似た衝撃が加わった。
「わっ……ぐぶぅっ!」
オロカは吹っ飛ばされ、壁に叩きつけられた。
直後に三郎と暗示郎が飛んできて、オロカに激突した。
「痛ッつー……」
相当痛かったが、彼らが壁に頭などぶつけなくてよかった、とオロカは安堵していた。
「ふぅ……おい、ドグマ、大丈夫か!?」
「ぐぅぅ……」
ドグマは悲鳴こそあげなかったが、衝撃で一瞬シートベルトが強く体に食い込み、小さくうめき声をあげていた。
指揮棒を振り、一回転した機体をなんとか安定させた。
それでもなお爆撃機は前ではなく横へ、ガタガタと揺れながら猛スピードで移動していた。
先程見えていた輝きも、無数の流星のように早く流れて見え、はっきりと視認する事さえできない。
"飛んでいる"のではなかった。明らかに"流されて"いた。

「馬鹿な……何故、こんなところに時空潮流が……そうか、しまった! 時空断層に引き寄せられたのか!!」
時空潮流──
それは、時空渡りを行うにあたっての最も大きなリスクであった。
"水色の庭園"や"モスタリア"のような人の住める場所も、狭義において狭間の世界と呼ばれるが、実際には不安定な時空の狭間の中にある"比較的安定した場所"であるにすぎない。
時空の狭間の不安定さを示す代表的な現象が、激流にも似た時空の乱れ──時空潮流だ。
これに飲み込まれると脱出は困難で、多くの犠牲者がそのまま消息を絶っている。
しかもその位置は、ある程度予想がつくとはいえ移動し続け、一定ではない。
そのため時空渡りの最中は、常に周囲警戒を怠らぬ事が鉄則だ。
が、前回ここへ来た時には時空潮流など無かったという油断と、上手く拾うものを拾って時空断層から脱出できたという気の緩みが、ドグマに過失を起こさせた。

「時空……潮流?」
それがどんなものかはオロカにはわからなかった。
が、ドグマが以前、それに飲まれて脱出の為に魔力を使い果たし、そのせいで漂流するはめになった──などと言っていた事を思い出していた。
「まずい、早く脱出せねば……」
ドグマの声に、焦りがにじみ出ていた。
右手で指揮棒を振りながら、呪文を唱え、左手を慌ただしく動かした。
「糞ッ……馬力が上がらん! おい、オロカ!!」
「あ、あぁ、あの石か?」
「そうだ、早くしろ!」
オロカはドグマの脇へ駆け寄り、彼のポケットから魔翠玉の欠片を取り出して、口へ差し入れた。
「……ん?」
オロカはふと、既視感を覚えた。
最近ではなく、もっとずっと前に同じ事をしたような気がしたのである。
「チッ……回復効率が悪すぎる! これでは、黒字にならんッ!!」
イライラと体を揺すったり足を踏み鳴らしたりしながら、ドグマは両手を動かし続けていた。

「……」
何か手伝いたい気持ちはあっても何もする事のないオロカは、ドグマの様子を見ていた。
魔術の知識は無くとも感覚的に、ドグマが無理をしているように思われた。
その推測は正しかった。
術者以外の多人数を運ぶ為にはやむを得ないとはいえ、即席の時空船を維持する事と、その移動力を増加させる事を同時に行うのでは、やはり限界というものがある。
普通に時空を渡るならば十分であっても、今のような異常事態を切り抜けるには力不足であった。
「ぅ……ん……」
小さな声を聞いて、オロカは振り向いた。
三郎が、目を閉じたままではあるが、頭を軽く振っていた。
「ドグマ……」
「うるさい、気が散る!」
「三郎を、起こそうか?」
キッ、とドグマはオロカを睨み、怒鳴りつけた。
「この私を差し置いて、愚弟に頼ろうというつもりか!」
オロカは負けじと、怒鳴り返した。
「俺が貴方の強さを疑ってるだなんて、疑うな!」
「……ッ」
一瞬、ドグマの気が削がれた。すかさずオロカは声のトーンを落として、付け加えた。
「疲れてる時くらい、人に頼ってくれよ……そう言ってるだけなんだ。当たり前の事だろ?」
「……」

──何、当たり前のこと言ってるんだ?──

──人はみんな、助けあって生きてるんじゃないか──

──俺達は一人で生きてるんじゃない。生かしてもらってるんだ──

かつてオロカの口から聞いた言葉が、ドグマの脳裏をよぎった。
左手の動きを中断し、目を覆ってこめかみを揉むような仕草をしながら、ドグマは考えた。
「……よかろう」
「そうか、ありがとう」
オロカは三郎の元へと駆け戻った。
 
 
 
「三郎! 三郎、起きてくれ!!」
耳元で大声を出しても、三郎は目立った反応を見せなかった。
すまない、と小さく呟きながら、オロカは三郎の頬を張った。
バシンッ、と大きな音とともに、三郎の頭が横へ振られた。
「……っ……オロカ……さん?」
三郎は涼やかな目を開いて、ぱちぱちとしばたたいた。
あぁ、正気だ、よかった……と、オロカは内心胸を撫で下ろした。
三郎は周囲を見渡すと、操縦席のドグマの後ろ姿を目にし、ぎょっとして身を縮こまらせた。
「ぁ、あ……」
「その、怒ってないから」
オロカの陰に隠れるような素振りをしかけた三郎に、彼は慌てて告げた。
「……え?」
「ドグマは、怒ってないってさ。なっ?」
「……」
オロカの促しに、ドグマは沈黙とわずかな頷きをもって肯定した。
「し、しかし……」
「いいから、早く来てくれ! 俺には良くわからないけど、大変みたいなんだ!!」
なおも渋る三郎の手をつかみ、オロカは操縦席の脇へ引きずっていった。

「……ぅ、うぅっ……」
三郎は歯が鳴りそうなまでに恐怖に震え、硬くなっていた。
ドグマを正視する事ができず、なかなか視線を上げられなかった。
そんな三郎に、ドグマは構わず用件だけを告げた。
「……時空潮流に飲まれた。貴様の力で、一人ずつ脱出させろ」
「えっ……?」
「風属性の時空渡りは、多人数を運ぶのは不向きでも、移動力においては断トツであろう。やれ」
「そ、そんな事を言われても……僕にはできませんよ?」
「ハァッ!? 何を言っとるか! 支配魔術は苦手でも、時空魔術は得意中の得意だろうが、貴様は!」
「いえ……ですから、使えませんよ。僕に、時空魔術は……」
「三郎? 小さい袋にハシゴをしまってたのは、時空魔術って奴だとドグマが言ってたぞ?」
オロカが口を挟むと、不思議そうに三郎は彼を見返した。
「そう……ですね。しかし、それは僕がやったんじゃないと思いますが? そもそも、できないんですから……」
「他に誰が、貴様のトランクの中のものに術をかけ……! いや……待てよ……」
怒鳴りかけたドグマの思考に閃きが走り、彼は首を捻った。
「オロカ。こいつはおまえとの戦いで、どんな術を使った?」
「え? 木や草を動かして……飛び回って……罠を隠して……あとは魔法の剣で」
「剣? "ヘイスト"……加速の呪文ぐらいは使ったであろうが?」
「いや? あ、斬られてもいないのに痛かった事もあった」
「飛ぶというのは魔具で事足りる……つまり……実際に術として使ったのは、支配魔術と幻覚魔術だけ……だと?」
右手は指揮棒を振り続けたまましばし考え、ドグマは結論を出した。
「時空魔術を封印されたか! さては、あの女の仕業か!!」
「封印? あの女って、マルセルの奴か! どうすりゃいいんだ?」
「くっ……そうと知っていれば、あの女を取っ捕まえて封印を解かせたのだが……
他の術を維持しながらでは、強引に解くのも困難だ……このような時に限って!」
「……?」
三郎は、いきりたつドグマとオロカを、きょとんとして見ていた。
さすがのドグマも、三郎が自ら術を封印したと──封印を解く鍵を暗示郎が持っているとまでは、思い至らなかった。

「うっ……!」
突然、ドグマは背をのけぞらせて、うめいた。
「どうした、ドグマ!」
「足が、つる、つる、つる、つった!」
「ふぇっ!?」
オロカは、思わず間抜けな声を出した。
しかし右足をつっぱらせ顔をひきつらせながらも、なんとか指揮棒を振っているドグマを見て、慌てて動揺を押し隠した。
「なぁんだ、そんな事か……大丈夫、貴方はそっちに集中しててくれよ」
意識的にのんびりとした声を出しつつドグマの足元にしゃがみ込むと、オロカは彼の軍靴を脱がせた。
「ちょっと痛いぞ」
爪先をつかんで、ぐぐっと脛に向かって引き、筋を伸ばした。
「いだだだだ! 痛い! 馬鹿! この野郎!!」
わめきながら左手左足をバタバタと振り回したが、それでもドグマの右手は指揮棒を振り続けていた。
「痛いって、前もって言ったじゃないか。我慢してくれよ」
拳が当たった頭をさすりながらオロカが言うと、ドグマが噛み付くように言い返した。
「我慢しているであろうが!」

オロカの手で何度か筋を引き伸ばされた後、ドグマはうめくように言った。
「……もう、いい」
「わかった」
軍靴をはかせるオロカを横目で見ていた三郎は、おずおずと視線をあげてドグマを見た。
「かなり……消耗しておられるようですね」
「……ふん」
三郎は、ドグマが手にする指揮棒にちらりと目を走らせ、確認した。
「それが汎用品なら、僕が魔力をチャージすることもできましょうが……違いますよね」
「違う。……いや、待て」
ドグマはシートベルトを外し、立ち上がった。
そしてそのまま左手を伸ばし、反射的に後ずさりしようとした三郎の胸倉をぐっとつかんだ。
「貴様の魔力を、よこせ。魔具に注ぐのでなく……直接、私にだ。
いかに効率が悪かろうと魔力さえ潤沢にあれば、一気にブッぱなして脱出できるかもしれん!」
「な、何を言ってるんです? アレは……同一属性でなければ無理でしょう!?」
「いや、確実に成功するわけではないらしいが、可能だ。水のイエソドでさえ、やりおったのだ。
友好属性である火の私、風の貴様とで、できないはずがない。それに、奪取より譲渡の方が成功の可能性は高いはずだ」
「だとしても、失敗したら何が起こるかわからないじゃありませんか!」
「ガタガタ抜かすな! 譲るのが嫌なら、奪ってやるぞ!!」
「やめてくださいッ!」
「……三郎」
オロカが、ぽんと三郎の肩に手を置いた。
「良くわからんが、賭けだって事だな?
でも……賭けなきゃどうにもならないなら、賭けでもやるしかないんじゃないか?
助かる望みが、0より1の方がマシだろう?」
「……」
三郎は横を向いてしばらく考え、オロカの手に自分の手を重ねた。
「やりますから……離してください。お二人とも……」

まだ違和感のある右足を少し動かしながら、ドグマが立っていた。
余裕が無い。時間も無い。それは、彼と向き合って立つ三郎にもわかっていた。
だが、焼け付くようなドグマの目を見ると、どうにも気後れがした。
「せめて……目を閉じてくださいませんか。オロカさんも、ちょっと向こうをむいてもらえると……」
「ん? あぁ……」
恥ずかしそうな横目を向けられて、オロカは言われたとおり背中を向けた。

「……早くしろ」
「は、はい……」
目蓋を下ろしたドグマの眼前に、三郎は一歩、歩み寄った。
ノミで削って彫り出したような、硬質な荒々しい造形。
しかし憔悴し、今にも崩れ落ちそうな体を、気力を振り絞って支えている。
そんなドグマの顔を、三郎はじっと見た。
──なぜ、自分はこの男がここまで怖いのか。
かつて、自分が見捨てて逃げた男。偶然にも再会してさえ、オロカに押し付けて逃げてきた男。
それからずっと、いつかドグマが自分の事を思い出して追いかけてくるのではないかと、落ち着かない思いをしていた。
けれども、自分が逃げていたのはドグマからではなく、自分の罪悪感を直視する事から、だったのかもしれない。
三郎は、そう自覚した。

「……失礼いたします」
三郎はそっとドグマと唇を合わせ、少し広げられた口へと魔力を送り込もうとした。
すぐに三郎は、違和感を覚えた。
かつてモスタリアでは新年の初めに、親族へ魔力を譲り渡す、あるいは受け取るという行事があった。
三郎にとっては嫌な行事ではあったが、半ば強制的に出席させられていたので、同一属性の相手にであれば初体験ではなかった。
その時には水を器へ注ぐようにすんなりとできた事が、なかなか上手くいかなかった。
三郎が送り込む魔力とドグマ元来の魔力が混ざり合わず、押し返されてしまう。
「……」
違う属性であるという事を意識しすぎてしまっているのだろうか、と三郎は考えた。
唇を合わせたまま目をつぶり、闇の中に燃える火をイメージした。
その火に向かって吹きつける、新鮮な空気を送り込む風に自分がなったように、イメージを重ねた。
もっと燃え上がれ──燃え盛れ──三郎は念じた。
急に、自分の魔力が吸い込まれるようにドグマへ流れこむのを三郎は感じた。
勢いが激しすぎる、これでは魔力枯渇しかねないと、三郎は流れを制御しようとした。
そのとたん、どっと魔力が逆流した。
「あぁっ!」
全身から緋色の火を噴き出しながら、三郎は崩れ落ちかけた。
「ウィロー!」
ドグマは目を見開き、叫んだ。
彼がリミッターを外した時の光景が、重なって見えた。
手を差し出して三郎の華奢な長身を受け止め、暴走を押さえ込んだ。
「……ッ!」
火は、ドグマの制御によって瞬く間に消えた。
少しずつ遠のいていく、猛烈な熱さと痛みの名残にあえぎながら、三郎はぎゅっと閉じていた目を開いた。
「いけません、兄上!」
「しまった!」
二人は、ほぼ同時に叫んだ。
ドグマは思わず、"両手で"三郎を抱いていた──無論、右手の動きは止まっていた。
指揮棒を握る、右手の。
 
 
 
「三郎? ドグマ?」
オロカは、異変を悟って振り向いた。
次の瞬間、彼らの乗る爆撃機が、宙に溶けるように霧散した。
とたんに、爆撃機の壁に守られていた今までとは比べものにならない激流に、彼らは飲み込まれた。
「うわぁっ!?」
時空潮流と呼ばれているが、水のような感触は無く、むしろ突風に近い。
オロカは滅茶苦茶に手足を振り回した。
それは何の意味も果たさず、木の葉のように為す術なく振り回され、飛ばされていく。
「三郎! ドグマ! 暗示郎!」
見失った三人の名を、オロカは叫んだ。

「すみません……僕のせいで!」
「うるさい、黙れ!」
ドグマは右手で三郎を抱きしめたまま、必死に呪文を唱え、左手を動かしていた。
が、流れに妨げられ、正確な動作ができなかった。
「えぇい……もう一度! もう一度だ! "最果て"まで流されるわけには!!」
術の中断と再開を幾度も繰り返すうち、ドグマは強い目眩を感じた。
「うっ……!」
ひるんだ隙に、手の力が抜けた。
激流にあおられ、三郎の体が彼の手からもぎ取られた。
「ウィロー!」
「僕に構わず! 貴方だけでも……!!」
「糞……ッ!」
ドグマは再び、詠唱を始めた。
しかし消耗が激しく、彼は手足に痺れを感じだした。
「駄目……かッ! この、役立たずの体め! 動け! 動くんだ!!」
ドグマの悲痛な声は、激流に掻き消され、傍にいる三郎にさえ良く聞き取れなかった。


マインドパペット1.5 水色の庭園
47.

「……ん?」
オロカは目を開けた。いつの間にか気を失っていたらしい。
そよとも動かぬ、ねっとりと淀んだ空気。吐き気をもよおす、ドブのような据えた悪臭。
胸から下は冷たい水に浸かっている感触がある。
周囲は薄暗く、徐々に目が慣れてくると異様な光景が広がっているのがわかった。
黒々とした水──なのに、不思議とぼんやりと光を放っている。
それに照らし出される、島のように水から突き出た、無数の大きな瓦礫。
用途不明のひしゃげたガラクタがその上に転がり、あるいは黒い水に浮かんでいる。
頭上を仰ぎ見ると真っ暗闇で、月も星も雲も、何もかも見えない。
「どこだ……ここ?」
何やら体がずっしりと重苦しく、ひどくおっくうで何もする気が起きなかった。
オロカは頭も上げずに目だけを動かして、ぼんやりと周囲を眺めた。

視界の隅に、深緑の人影が映った。
オロカと同じように、上半身だけを瓦礫に乗り上げさせたまま、ぐったりとしている。
「三郎ッ!?」
急に、助けなくてはという気が湧き出してきて、オロカは瓦礫の上に這い上がった。
瓦礫から瓦礫へと飛び移り、三郎の元へ駆けつけた。
「三郎! おい、三郎、しっかりしろ!」
「……ぅ」
小さく三郎はうめき、うっすらと目を開いた。
「ここは……」
三郎は緩慢な動作でコートの内ポケットを探り、焦げ跡のついた銀色の懐中時計を取り出した。
文字盤の方ではなく、裏面の蓋を開けてそこに注視した。
「座標0・0・0・0……やはり、流れ着いてしまいましたか……"最果て"に」
「最果て?」
「……おしまい、ですよ」
再び緩慢な動作で懐中時計をポケットに戻すと、三郎は目を閉じた。

「おしまいって、何が!?」
「……」
三郎はそれに応えなかった。ずるずるずる、と体重に引きずられるように黒い水の中にずり落ちていく。
「三郎!」
オロカは慌てて三郎の腕をつかんだ。水を吸った衣服が、ずしりと重い手応えを伝えてきた。
オロカは歯を食いしばり、渾身の力を込めて三郎の体を瓦礫の上へ引っ張りあげた。
「どうした、三郎! 動けないのか?」
「貴方こそ……なぜ動けるんです?」
三郎のうつろな目が、びしょぬれのオロカに向けられていた。
「え?」
「こう……気が沈んで、何もしたくない……そう、ならないんですか?」
「そんなこと言ったって……」
オロカは首を傾げた。
「確かにそんな気はするが、だからって何もしないわけにはいかないじゃないか!」
「……」
力なく、三郎は苦笑した。
「タフですね……いや、鈍感なんでしょうか……
そういう心身を侵す毒水なんですよ、伝承によれば……感覚的には、それはたぶん正しい……」
「毒だって!?」
オロカは、飛び上がるように立ち上がった。
「大変だ! おまえ、ここで休んでろ。皆を探してくる!」
「……待ってください」
横たわったまま、三郎は軽く精神を集中した。
「あちらから……魔力を感じます。あの人達……あるいはその持ち物かも……」
「ありがとう!」
三郎が指さした方向へと、オロカは瓦礫の上を走った。
途中、たまたま落ちていた刀を見つけ、拾って担いでいった。
「そういえば……そういう人でしたね。
人の事を考えていると、自分の事を忘れてしまうんですから……まったく」
オロカを見送りながら、三郎の口元にかすかに微笑が浮かんだ。
 
 
 
「暗示郎!」
オロカは叫んだ。
暗示郎は、長い材木に引っかかるようにして、ぷっかりと黒い水に浮かんでいた。
オロカは刀を投げ捨て、材木をつかんで慎重に手繰り寄せると、暗示郎を瓦礫の上へ引き上げた。
気絶しているようだったが、ちゃんと息をしているのを確かめ、彼を横たえた。
「ドグマ! ドグマ、どこだ!!」
ぴちゃっと、かすかな水音がして、オロカは振り向いた。
「ドグマ!」
黒い水面へわずかに、ドグマの顔と胸の一部だけが見えていた。

「うぉぉっ!」
オロカは材木を持ち上げると、ドグマの方へ投げた。
ばしゃあっ、と派手な水飛沫が上がった。水面がゆらりと揺れて、ドグマを浅く飲み込んだ。
脱力しきったドグマの体がぷかりと再び浮いた。軍服の内に空気が溜まって、浮き袋の役割をしていた。
濡れた顔がうっとおしそうに、彼は眉根を寄せた。
「ドグマ、つかまれ!」
「……捨ておけ」
「えっ?」
思わぬ言葉に、オロカは問い返した。
「遅かれ早かれ……死ぬのだ。あがいても無駄だ……構うな」
「何、言って……!」
全くドグマらしからぬ言葉がその口から漏れるのに、オロカは衝撃を覚えた。
俺がわかってないだけで、そこまで絶望的な状況なのか……?
いや、三郎が言ってたじゃないか、心身を侵す毒だと。きっとそのせいで、弱気になってるだけだ!
オロカが気をとりなおして顔を上げたその時、ドグマの顔がずぶりと黒い水の中へ沈んだ。
入れ替わりに、大きな泡がぼこりと浮かんだ。
身じろぎした拍子に、軍服の隙間から空気の塊が抜け出たのだ。
「ドグマ!」
オロカは夢中で材木に飛び乗り、その上を走った。
ぐらりとバランスを崩しかけ、最後は材木を足場に大きくジャンプした。
頭から黒い水の中へ突っ込むと、手探りでドグマの腕をつかんだ。
重みで諸共に水底へ引きずられそうになるのを、必死で水を蹴って浮上し、材木にしがみついた。

「ドグマ、ほら! これにつかまれ!」
そう促されても、げほっ、げほっと咳き込む他には、ドグマは何もしようとする様子を見せなかった。
「捨ておけというのが、わからんか……少しばかり生き延びたところで、無意味……」
「無意味かどうかなんて、生き延びてみない事にはわからないだろ!」
「……結末を引き伸ばしたくば、勝手にしろ。私は、もう動けん……」
「魔力を使い果たしたのか? なら、仕方ないな……」
オロカはドグマを担ぎ上げ、ついでに近くの水面に浮かんでいた指揮棒を拾って、彼の懐に突っ込んだ。
右手はドグマを支えているので、ほとんど左手だけしか使えない。
材木をつかむ手を少しずらしては、体を引き寄せるという事を繰り返す。
二人分の体重がかかる指が材木に食い込み、痛んだ。
「くそ、お、重っ……」
いくらもしないうちに、オロカは進むどころか材木にしがみついているのが精一杯になってしまった。
ただもたれかかっているだけだというのに、石のように重いドグマの体が、自分を水底へ沈めようとしているかのように感じる。
この重荷、放り出してしまいたい──そんな衝動が一瞬心をかすめ、慌てて頭を振って追いやった。
「……あれ?」
不意に、オロカは再び既視感を覚えた。
以前にも、体の自由がきかない大男の面倒をみたような──
「ドグマ……」
「……ん」
「もしかして……モスタリアから落ちるちょっと前に、会わなかったか?」
「……今頃、何を言っておるのだ」
「……!!」

──ふぅん……手伝おうか? どうせ俺も、行くところ無いし──

かつて自分の口から告げた申し出を、オロカは思い出した。
あの時、別れ別れになってしまって……仕方がなかったとはいえ、すっぽかしてしまった。
……また、放り出すわけにはいかない!
「おぉっ!」
オロカは気合の声をあげると、ずり落ちかけていたドグマを担ぎ直した。
バタバタと水を蹴り、材木にかじりつくようにして再びじりじりと進んでいった。

オロカは力を振り絞って、ドグマを何とか瓦礫の上に押し上げた。
次の瞬間ふぅっと力が抜けて、黒い水の中に頭が沈んだ。
ヤバい、と水を掻いたが、疲労で手足が重たく、水中に引きずり込まれていく体を押し上げる事ができなかった。
必死で上へ伸ばした手を誰かがつかみ、オロカはぐいっと引っ張り上げられた。
「ぐえぇぇッ!」
オロカは瓦礫の上へ這い上がり、灰と腐敗物を溶かしこんだような酷い味のする黒い水を吐き出した。
誰かの手が、その背中をさすった。
「大丈夫ですか?」
「三郎?」
「三郎〜じゃないですよッ! 二重遭難を避ける事が救助の第一条件だと、貴方は知らないんですか?」
ぼふっと顔に押し付けられたタオルで目元を拭うと、三郎の柳眉が吊り上がっているのが見えた。
珍しく、彼が怒っているらしき事を感じ取って、オロカは慌てて頭を下げた。
「ご、ごめん……」
「いいですけどね……どっちみち……」
どこか捨て鉢な調子で、三郎は言った。

仏頂面で、三郎はどこからか見つけてきたらしい自分のトランクの中身を探っていた。
「せめて水をもっとストックしてあったら、苦しまなくて済んだでしょうが……」
「水?」
「ここの水に触れたところを念入りに洗い流さないと、じきに身も心も腐ってしまいます。
拭いたぐらいじゃ、気休めにしかなりませんね……」
「えぇっ! 大変じゃないか!!」
「大変ですよ。さっきからそう言ってるじゃないですか。何を聞いてるんです」
「綺麗な水のあるところへ、行けないのか?」
ふぅ、と三郎は溜息をついて、半分濡れた帽子を絞って頭にかぶった。
「行けるんなら、とっくに行ってます。
ここは"時空の最果て"……別名を"無意識の沼"……
ここへ入ってしまった者は、いかなる手段を用いても出ることはできないと言われています。
"最果て"ギリギリまで近づいて観察した研究者の分析によれば、ですけれどね。
その研究者も、最後にはレポートだけを残して"最果て"に飲みこまれ、帰って来なかったのですが……」
「魔術師でも出られないのか?」
「時間・空間を飛び越える類の術は、すべて無効化されます」
「ドグマでも? おまえでも?」
「僕が、時空魔術を封印されているだけという話が本当だとしても、ですね……
術の効果そのものが、全く働かないのです。術者の力量の問題ではなく」

「……諦めろ。ここから出る事はできぬ。ここで生きていく事もできぬ」
ぐったりと手足を投げ出して寝そべっているドグマが、低く呟くように言った。
死刑宣告であるかのように、それは重く響いた。
「えぇ……わかっています」
続いて響いた三郎の言葉も、ドグマの言葉を否定するものではなかった。
三郎は濡れた脚を放り出すようにして、瓦礫の上に腰を落とした。
彼は平常心を保っていた。しかしそれは、なるべく静かに死を迎え入れんとする平常心であった。
二人の静かな口調が、ようやくオロカに状況の深刻さを実感させた。
 
 
 
オロカは、改めて周囲を見渡した。
黒い水に浮かぶ瓦礫の島。生きるものの気配は自分たち以外には無く、草一本生えていない。
まともに食べられる物はひとかけらも無さそうで、水だけは溢れているものの全て毒水。
ふと、ガラクタの影にあった白い物が目についた。それは人の頭蓋骨であった。
生命を否定する死の世界──
仮に毒で死ななかったとしても、待っているのは飢え死にか、乾き死にか──
「……」
オロカもまた、何ら明るい展望を見出す事ができず、しばし言葉を失っていた。
しかし、どうにかしなければ──まだ、どうにかできる事があるかもしれないと、あがく気持ちまでは失っていなかった。

何か──何か、ないか。
見渡すオロカの視界の隅で、小さな反射光が煌めいた。
「これは……!」
瓦礫の合間へ歩み寄ったオロカは、目をむいた。
それは、モスタリアで奪われた"勇者の証"。
赤子だった彼が拾われた時、握りしめていたというペンダント──
──では、なかった。
崩壊前のモスタリアで紛失したそれが、こんな所で見つかる、そんな偶然があるわけがなかった。
仮にここへ落ちてきていたとしたら、とっくに錆びて朽ち果てているに違いなく、少々くすんでいる程度で済むはずがない。
たまたま──そう、たまたまよく似たデザインの、ペンダントというだけだった。
しかしオロカは、同じ物だと信じ込んだ。

これは、奇跡か。何かの運命か。
諦めちゃいけない、諦めたら終わりだって、これが言ってる。
オロカは強く自分に言い聞かせ、ペンダントを首にかけた。
少しだけ、勇気と自信が湧いてきた気がした。
もちろんそれは気のせいだったが、とにかく前を向こうと、沸いた気持ちに本物も偽物も無かった。

ピシャッ。
気持ちを奮い立たせようと、オロカは自分の頬を軽くはたいた。
ぷるぷるっと首を振った後、顔を上げて問いかけた。
「三郎。どこまで行っても……こんななのか?」
「えぇ……そうですよ」
「でもそれは……『そう伝えられている』だけなんだろう? 違うかもしれないんだろう?」
「……」
オロカは、沼の彼方の暗がりを見つめた。
「行こう。行けば、どこかもう少しマシな場所があるかもしれない」
「……」
黒い水にまみれた脚を見下ろしながら、三郎は首を横に振った。
「そんな元気は……ありません」
「無いなら、おまえら引きずってでも連れていくぞ」
「今、その結果溺れかけた人が、何言ってるんですか……」
 
 
 
『面白い……まだ希望を失っていない奴が居るのか』
 
 
 
「え……?」
三郎の漏らした声にオロカが振り向くと、彼はぽかんと空中を見上げていた。
オロカがその視線を追うと、燐光のような不思議な色合いの光に包まれた、少年が浮かんでいた。
体にぴったりとした毛皮じみた服を着た、黒髪の少年。
自分たちを見下ろす少年の目を見返すと、オロカはふぅっと吸い込まれるような感触がして、慌てて頭を振った。
「さ、三郎……? 誰だ、誰なんだ、あれは……ッ?」
投げ捨ててあった刀を半ば無意識に手繰り寄せながらオロカが問うと、三郎は動揺を露わにして首を横に振った。
「わ、わかりません……そもそも、"最果て"に人が住んでいるなんて聞いた事が……いや、住めるはずが……」
「……住みたいのか?」
静かだが、心の奥底まですうっと染み込んでくるような声を、少年は発した。
ブルッと小さく震えて、三郎は縮こまった。
何者かは、わからない。しかし、只者でない事は、声を聞いただけでわかる。
本能的な恐怖で凍りついたように、三郎は言葉が出てこなくなっていた。
オロカはごくりと唾を飲み込むと、彼の代わりに口を開いた。

「できればここから出たいけど……本当に無理、なのか?」
「"最果て"から──という意味なら、少なくとも出られた奴は居ない」
「意味なら……って? それは、他にどういう……」
「別に……外の人間が考えているように、"最果て"には沼しか無いわけじゃない……そう言っているのさ」
「そ、そうなのか。じゃあ、もっと暮らしやすいところもあるんだな? 連れてってくれ!」
「……住みたいのか?」
「えっ……」
再び問われて、オロカは考え込んだ。
閉じ込められるのは正直、嫌だ。
だが、出るのが無理だっていうなら、腹をくくるしかない。
少しでも暮らしやすいよう、頑張って手を加えながら、どうにかやっていくしかないじゃないか。
「あぁ……うん、住めそうなところだったら、住みたいんだ」
「では、どんなところが良い?」
「えっーと……」
震えている三郎を、ちらりとオロカは見やった。
「できれば、綺麗な水があって……緑の多いところがいい、かな」
「それなら、すぐそばにある」
ピン、と小さな礫を弾いて飛ばすように、少年は指を動かした。
「わぁッ!」
オロカは後方へ吹っ飛ばされた。
あまりのスピードに何も見えなかったが、重苦しい淀んだ空気が、どこか軽くなるのを感じていた。
やがてドンッと尻餅をつき、目眩をこらえて手で顔をこすっていると、青く涼やかな匂いが鼻腔をくすぐった。

「ここ……は?」
ぱちぱちと、オロカは目をしばたたいた。
優しい微風が、無数の木の葉を揺らして渡っていく。
鳥の鳴き声らしきものが、葉擦れの囁きに紛れて聞こえてくる。
どこまで続いているとも知れない、深い森の中に居るようであった。
立ち上がろうとして手をつくと、冷たい感触が伝わった。
振り向くと、そこには水が広がっていた。
あの不気味な黒い水ではなく、木々の緑を映しこんで翡翠のように美しく輝く、清らかな湖水が。

どさどさどさ、と続けて響いた物音に、オロカは反対側へと振りかえった。
三郎、ドグマ、暗示郎──彼らが転がっていた。
ぶつぶつと何か呟きながら身を起こした三郎に、オロカは思わず飛びついて抱きしめた。
「オ、オロカさん!?」
「良かった! 諦めないで、良かった! ここなら、みんな生きていける!!」

 


マインドパペット1.5 水色の庭園
48.

三郎はオロカに抱きしめられたまま、彼の肩越しに広がる光景を見つめていた。
「……美しい」
自らの長い髪を弄ぶ風を感じながら、三郎は小さく呟いた。
草木の溢れかえるような生命力が、湖水の潤いが、自分に注ぎこまれる思いがした。
「"最果て"に、こんな場所があるだなんて……考えもしませんでした……
まったく……固定概念にとらわれていた自分が、恥ずかしいです……」
「さ、そんな事より早く体を洗わなきゃ……腐っちまうんだろう?」
「え、えぇ……」
オロカに促され、抱擁を解かれた三郎は念のため水に手を浸し、肌の感触で水質を確かめた。
問題がなさそうだと判断すると、勢い良く手ですくった水を顔にかぶった。
「あぁ……冷たい!」
ぶるぶるっと体を震わせ、三郎の口元に清々しい笑みが浮かんだ。
そんな三郎の横顔を眺めて、オロカは安堵の溜息をついていた。
「オロカさん。貴方、頭まで浸かったんですから、目とか鼻や耳の中も、良くゆすいでおいた方がいいですよ。
そういうところが腐れば、命取りになりかねませんから。鼻うがいって、やり方わかります?」
「あ? あぁ、うん……」
いつになく細かい事を言ってくる三郎に、オロカはわずかな戸惑いを覚えた。
「それと、効果があるかどうかわかりませんが、これで喉のできる限り奥まで良くうがいしておいてください」
三郎は、コップとプラスチック製の小容器をトランクから出した。
コップにくんだ水に茶色っぽい液体を垂らし、オロカに差し出した。
「なんだこれ?」
オロカがクンクンと臭いをかいでみると、ツンと鼻につく薬品臭を感じた。
「イソジンです」
「イソジン?」
オロカは首を傾げた。聞き覚えのある名だと、記憶の中から掘り起こされた。
「たしかそれ、病気の予防か何かで、バラとかに撒くやつじゃなかったっけ……」
「えぇ、僕はそのために持ち歩いていますが、本来はうがい薬ですから」
「そうなのか」
コップを受け取り、オロカは振り返った。
「おいドグマ、うがいできそうか?」
「……自分の身の心配を先にしなさい、このお馬鹿!」
三郎は思わず、オロカの後頭部をはたいた。ぱかんといい音が鳴った。

ぐったりと伏せったままのドグマが心配だったのだが、オロカは渋々、言われたとおりガラガラとうがいを始めた。
その横で、三郎はざばざばと水に入っていった。
「おい、三郎?」
「別に、変な気を起こしたわけじゃありませんから……ご心配なく」
「いや、そうじゃなくて。服、脱がないのか?」
「どうせ服も、洗濯しないといけないんですから」
「着たままじゃ、ちゃんと体洗えないだろ? それに、服の中に毒が溜まってるかもしれないし。脱げよ」
「し、しかし……」
三郎は自分の肩を抱くようにして、もじもじとオロカを横目で見やった。
「男同士で、何恥ずかしがってるんだよ」
「お、男だって、嫌なものは嫌なんですよ!」
三郎は人一倍、肌を人目に晒すのに抵抗感を持っていた。
日本でも温泉や大衆浴場には、人の居ない時でもなければ、めったに入りたがらなかったほどである。
「もぅ……面倒くさい奴だなぁ。あの岩陰ででも洗ってこればいいじゃないか」
「そ、そうですね……」
オロカの指さした大きな岩を見やり、三郎はほっと息をついた。
「の、覗かないでくださいよ?」
「野郎の裸なんて、覗いて何が楽しいんだよ!」
「他の人も、来させないでくださいよ?」
「わかったから、早く行って来いって!」
「はい……」
良くわからん奴だなぁ、とオロカは首を捻りながらも三郎を見送り、うがいを再開した。
けれども、オロカは少し嬉しかった。"いつもの日常"が戻ってきた気がしたのである。
互いの理解できないところで、ちょっとした言い争いをするという事が。
そんな気分に浸っていたため、三郎がチラチラとドグマを振り返りながら遠ざかっていった事に、彼は気づかなかった。

三郎の忠告通り、目、鼻、耳、口といった重要な場所の洗浄を終えると、オロカは着ている物を脱ぎ捨てた。
「ドグマ。動けないんなら手伝うから、一緒に体を洗おう」
声をかけられたドグマは、わずかに顔を背けた。
「……うるさい……構うな……」
「そんなこと……」
少しばかりオロカは傷ついたが、毒にやられているせいだろうと考えなおした。
「おい。脱がすぞ」
「触るな……何もしたくない……向こうへ行け……」
「何もしたくないなら、黙って洗われてろよ」
「……」
抵抗する気力も湧いてこないのか、オロカの伸ばした手が振り払われる事はなかった。
半分うわごとのような拒否の言葉が続いたが、オロカはそれを無視して、ドグマの軍服を脱がしにかかった。

ドグマの裸体を改めて見ると、大柄なたくましい体つきが、オロカは羨ましくなった。
だがそれだけに尚更、活力の欠片もなく地べたに横たわっている姿が痛々しかった。
オロカはドグマの太く長い腕をとって自分の肩にまわすと、長身の彼を半ば引きずるようにして水に入っていった。
勝手に体に触れられ、毒を洗い流されている間も、ドグマはだらりと手足を投げ出して動こうとする気配もなかった。
「ドグマ……なぁ、ドグマ……」
「……」
オロカの数度の呼びかけにも、ドグマは返事さえかえさなかった。
オロカは不安に駆られた。
毒が抜けさえすれば大丈夫。この人は強いから──
そう考えて、沼で会った少年に「どんなところが良い?」と聞かれた時、三郎の方を優先してしまった。
しかし、その判断は正しかったんだろうか?
ドグマは"目標"とか"克服すべき敵"とかが無いと、駄目な奴なのかもしれない。
この自然のただ中で、ドグマはそういうものを見出す事はできるんだろうか?
できないから……心が沈みきったまま、浮かび上がってこないんじゃないだろうか?
だとしたら……だとしたら、どうすれば……?

「三郎ぉ〜封印、解いたげるぅ〜♪」
「ちょ、ちょっと! オロカさんの嘘つき!!」
岩陰の向こうから、はしゃぐ声と、泡を食った声とが聞こえてきた。
「……あれ?」
オロカが岸を振り返ると、寝ていたはずの暗示郎の姿が見当たらなかった。
「いつの間に、起きてたんだ……?」
ドグマに気を取られ過ぎていて、暗示郎への注意が全く頭から飛んでしまっていたのだ。
三郎に悪い事をしたなと思いつつ、オロカはドグマを水中から引き上げた。
軍服のポケットに残っていた魔翠玉の欠片を水ですすぎ、彼の口の中へと押し込んだ。
少しでも元気を取り戻してくれる事を祈りながら。
 
 
 
樹の枝に引っ掛けた洗った服が、ひらひらと風でたなびいた。
若干汗ばむほどの陽気で、良く乾きそうだった。
「あははッ、袖なが〜い♪」
暗示郎が三郎から借りた服を着ると、小柄な彼にはぶかぶかもいいところで、余った袖を振り回して笑った。
「う、腕があがらない?」
オロカも借りて着てみると、丈は余っているのに肩のあたりが酷く窮屈であった。
なんとか袖を通せたものの、パッツンパッツンだった。
腕を大きく動かすと布地が破れてしまいそうで、妙に猫背になってしまう。
「貴方達の服が乾くまでの間だけ、それで我慢してくださいよ……」
体型が違うと騒がれるのが嫌そうに眉をしかめ、三郎はパチンと指を鳴らした。
まるでライターのように、親指の先へオレンジ色の小さな炎が生まれ、集めた枯れ枝の山に火を移した。
「いいなぁ、便利だなぁ」
感嘆の声を漏らした暗示郎に、三郎が応じた。
「僕が使える元素魔術は、これだけですけどね……」
「僕にも教えてよ」
「暗示郎さんは支配魔術の他には、治癒魔術とか幻覚魔術とかが向いてそうですよ。
こういう所ではいずれ必要になりそうですから、どうせなら治癒魔術を覚えてくださいよ。僕は苦手ですし」
「怪我とか治す魔法? ふ〜ん、いいかもね」

「おい三郎。一番大きい服をくれよ」
樹にもたれかけさせたドグマの体を拭き終わり、オロカは声をかけた。
「ぁ……はい……」
何やら歯切れの悪い返事をかえしながら、三郎は服を手にしたまま、もたもたとしていた。
「こんな状況で……恥ずかしがるのも、いい加減にしろよ」
少し腹を立てながらオロカは近づき、服をもぎ取った。
「……すみ…ません」
蚊の鳴くような声を出して、三郎はうつむいた。
オロカはようやく、感づいた。
三郎は、人の裸を見るのが恥ずかしい……というだけでは、決してないのだ。
ドグマの世話をしてやりたいという気はある。が、自分が手を出すという事に、躊躇っている。
オロカは、二人の事情を十分に把握しているわけではなかった。
それでも、複雑な関係だったのが未だ尾を引いているのだろうと、ある程度は想像がついた。

「ドグマ。これ、着てろよ。な?」
「……」
ドグマは未だ、反応らしい反応を見せなかった。
「手伝おっか?」
てててっ、と軽い足取りで暗示郎が近づき、覗き込んだ。
「あぁ、うん、頼む……」
暗示郎の手を借りてオロカはドグマの上半身を起こし、借りた服を羽織らせた。
自分でもこうも窮屈なら、大柄なドグマではとても無理だろうと、袖は通さなかった。
ちらりと三郎を見やると、猫背気味に丸めた背中を向けて、何をするでもなしに佇んでいた。
風が、ドグマと三郎との間を隔てるように吹き抜けていった。
 
 
 
「……三郎」
ぽん、とオロカが肩を軽く叩くと、三郎はびくりと身を震わせた。
「ドグマって、何が好きなんだ?」
「……え?」
「何か、興味を引けるような物、持ってないか?」
三郎は困り顔をして、オロカを横目で見やった。
「何でも出てくる魔法のトランク、ってわけじゃないんですよ?」
「そりゃあ、そんな都合のいい事、考えちゃいないが」
「僕と兄上では、好みが全然違うんです」
「だろうな。でも、共通の趣味とか、ひとつでも無かったのか?」
「……」

三郎はトランクを開けると、ひとつひとつ中身を点検し始めた。
見た目の印象よりも、少々だらしないところのある彼である。
奥のほうにしまいこんだまま、すっかり存在を忘れてしまっていたような物も結構あった。
「これは……」
小袋のひとつを手に取り、三郎は首を傾げた。
「何だ?」
「……何だったでしょう?」
三郎は小袋の紐を解いた。
とたんに、黒光りする大きな物体が、中から飛び出してきた。
ドスンッ、とちょっとした地響きを立てたそれを見て、彼らは目を丸くした。
「……ピアノ? 三郎、おまえこんなの弾くのか?」
「い、いえ、その……弾けない事もないですが……これは兄上のです。
随分長いこと、借りパクしてしまってましたね……」
三郎の胸に懐かしさが込み上げ、すべすべしたグランドピアノの表面にそっと手を触れた。
かつて、ドグマが起こしたクーデター。
戦火に巻き込まれてはもったいないと、三郎が避難の折に持ちだした品の1つであった。
その後、常に多忙を極めていたドグマにはピアノを弾くようなゆとりは無く、すっかり返しそびれていたのだ。

「へー、あの人ピアノ弾くんだ。そっかぁ、指揮者ってたいがい何かの楽器弾けるもんだって言うよね」
「ふぅん……じゃ、弾いてみてくれよ」
「は?」
「弾けるんだろ?」
「あ、僕も聞きたぁい! 弾いて弾いて〜」
オロカと暗示郎が口々に言うと、慌てて三郎は首を横に振った。
「駄目ですよ! そんな、全っ然、上手くないですから!
何年もろくに弾いてないですし……僕は、調律の方が専門でして……」
「別に、音楽でドグマを治せとか、大層な事言ってるんじゃないぞ。
ちょっとは気晴らしになるかもとか、ちょっと気が引けるんじゃないかとか、そう言ってるだけなんだ」
「……」
三郎は、恐る恐るグランドピアノの蓋を開いた。
妙に圧迫感を覚える、規則正しく並んだ白と黒の鍵盤を目にし、彼はごくりと唾を飲んだ。
「……無理! やっぱり、無理ですよッ!
兄上の前で弾くだなんて! 僕みたいな、生半可な腕で!!」
「そんな固く考えるコト無いじゃん。"ねこふんじゃった"とかでいいからさぁ」
「駄目ですったら! 弾けません! 僕には、とても弾けませんよ!!」
きっぱりと言い捨て、三郎はくるっとグランドピアノに背を向けた。
その勢いで手が鍵盤に触れ、バラァンと軽い不協和音を立てた。

「なら……俺が弾いてやろうか?」
オロカ、三郎、暗示郎──その誰でもない口が、言葉を紡いだ。
三人は顔を見合わせ、そしてドグマの方を見やった。
「「……俺?」」
図らずも、オロカと三郎の声が揃った。

ドグマが樹に手をつき、よろよろと立ち上がろうとしていた。
「ぁ……」
三郎が一瞬、手を伸ばしかけたが、すぐにその手を引っ込めてしまった。
意味もなく胸の前で自分の手をいじりながら、ドグマから目を逸らしかけた。
オロカと暗示郎は視線を交わし合うと頷き、二人でドンッと三郎の背を押した。
「わぁっ!?」
三郎は、たたらを踏んでつんのめり、ドグマにぶつかった。
「うっ……」
ぐらりとふらついたドグマを、三郎は慌てて支えた。
「だ、大丈夫ですか、兄上?」
「うむ……なんだか、体が重いな……どうしたかな」
「ど、どうしたって……」
ずずっ、と摺り足でドグマはグランドピアノの方へと歩を進めた。
体にのしかかるずっしりとした重みに耐えながら、三郎は懸命に彼の杖となった。

三郎の引いた椅子に、半ば倒れこむようにドグマは腰を落とした。
飛びつくように肩を抱いて、三郎はドグマが転落するのを防いだ。
ドグマは音を確かめるように数度、ポーン、ポーンと鍵盤を指で叩いた。
「さて、何を弾くかな……」
「ベートーヴェンは、よしてくださいね」
「何ッ!?」
きっ、とドグマの顔が三郎に向けられた。
「ベートーヴェンの、何が悪いかッ!」
「ぁ、そ、その……」
ドグマの体調を考えすぎて、余計な気を回してしまった事を後悔しながら、三郎は言葉を継いだ。
「あのですね、ベートーヴェンももちろん、優れた音楽家だと思いますが……僕には刺激が強すぎて……」
実際、ベートーヴェンの曲の大半が三郎の好みに合わない事は、嘘ではなかった。
「なら、何なら良いと言うのだ! モーツァルトか、ショパンか、それともリストか!!」
「……えぇと」
脳内で曲目リストを開きながらも、三郎はドグマの様子に違和感を覚えていた。
自分と話しているというのに、目の焦点が自分に合っていないような気がしたのである。
「……まぁよい、褒美だ」
ドグマは鍵盤に向き直り、再びポーンと確かめるように鳴らした。
「貴様の好きな曲を弾いてやろう」

オロカは少々落ち着かない気持ちを抱えながら、二人のやりとりを聞いていた。
音楽の知識など、彼には全く縁がなかった。
が、三郎の好きな曲をドグマが弾くなどと、無茶苦茶になりはしないかと心配だった。
ふわりと、柔らかくドグマの手が鍵盤に下ろされた。
高い一音が響き、そこからトーンと更に高く飛んだ。
澄んだ──しかし不思議と硬さを感じさせぬ、優しい音。
オロカはふっと、自分を包む闇を感じた。
仰ぎ見ると、音もなく銀色に輝く霧雨が降ってくる。
少し冷たい──涼やかで、心地の良い煌きが。

「凄いや。さぞかし激しい、荒々しい演奏をするんだろうな〜と思ったら、こんな繊細な曲も……あれ、オロカ?」
暗示郎は、傍らで呆けたように空を見上げているオロカをつついた。
オロカはハッと周囲を見渡し、ぺたぺたと自分の体を触った。
「あれ……濡れてない?」
「へ?」
「雨、降ってきたと思ったんだけど……いや、雨じゃなくて光だったのか?」
クスクスと、暗示郎は忍び笑いをした。
「君、けっこー感受性がイイんだね」
「そっ……そうか?」

「……」
三郎は目を閉じて、旋律に耳を傾けていた。
ふっと、幼い日の情景が脳裏に思い浮かんだ。
 
 
 
 金木犀の甘い香りに包まれて、彼は樹の枝に腰を下ろしていた。
 既に日はとっぷりと暮れ、ドーム越しに見える空には、星がまたたいていた。
 「おい、ウィロー」
 「嫌です。帰りませんから」
 彼──ウィローと呼ばれていた頃の彼は、腹を立てていた。
 母親が、勝手に自分の部屋の壁紙を変えた事に。
 母親に、自分のテリトリーを侵された事に。
 「もう夕餉の時間は、とっくに過ぎているぞ」
 「要りません!」
 柳眉を吊り上げて、ウィローは樹の下に立っている年上の少年を睨んだ。
 そもそも何故自分を探しに来たのがドグマ──関係のない、腹違いの兄なのか。
 父でも、母でもないという事が、気にいらなかった。

 「何か、納得のいかない事があるなら、言えばいいだろう! なぜ逃げる!!」
 「兄上なんかには、わからないんです!」 
 「わからせようともしてないくせに、わかれと言うな!」
 「……!」
 ウィローは、はっと気づいた。
 自分が、何も言う事なく、相手に察して欲しいと願っていた事に。それは、一種の甘えだった。
 「……」
 ウィローは、母親に文句を言ってみようかと思った。
 しかし、文句の内容を考えた時、母親から返ってくる言葉まで想像がついてしまった。

 ──貴方のためなのよ──

 ウィローは、ドグマから目を背けて言った。
 「……母上と話したって、無駄なんです」
 「何故だ」
 「母上は僕と話しているんじゃなく、自分と……いや、自分の中の僕と話しているんだから……」
 こういう言い方で、自分の言いたい事が伝わっているのか、自信が無かった。
 しかしウィロー自身にも、自分の胸の内のもやもやをどう表現していいのか、わからなかった。

 樹がかすかにたわむ感触がして、ウィローは身を固くした。
 ドグマが、すぐ近くにぬっと顔を出した。登ってきたのだ。
 「……」
 「……」
 兄弟は、しばし無言で視線を交わした。
 やがて、ドグマはすっと手を差し出した。
 おまえの気持ちは、わかるぞ──ウィローは、そう言われたような気がした。
 ウィローはそろそろと兄の手をつかんだ。
 ドグマは、ニッと笑った。
 「今日だけは、気が済むまで逃げるか。俺も、付き合ってやる」

 ドグマが呪文を唱えると、カチリと小さく音を立てて鍵が開いた。
 「あ、あの、ちょっと、これって泥棒じゃ……」
 「何も盗らなきゃ、泥棒じゃない」
 妙に堂々と言い捨てながらドグマは照明をつけ、閉店後の店舗に入っていった。
 ウィローは、どきどきと高鳴る胸を押さえ、人気のない店先を見渡しながら踏み込んだ。
 「わぁ……」
 ウィローは声を漏らした。
 愛らしい陶器人形や、ミニサイズの回転木馬、繊細な細工の施された小物入れといった物が、台の上に並んでいた。
 壊さないように、そうっと小物入れの蓋を開けてみると、オルゴールが鳴り出した。
 綺麗な音だとは思ったが、じきにこんなものかな──と、若干の失望を覚えた。
 最初の驚きがさめてしまうと、キンキンと金属質な音が耳障りで、安っぽく感じた。
 そのため、長く聞いていたいという気がしなかったのだ。
 パタン、とウィローは曲の途中で、小物入れの蓋を閉めてしまった。

 陳列されている何百という品々全てが、オルゴールのようだった。
 いくつか鳴らしてみたが、曲は違えど音質はどれも大差なく、すぐに止めてしまった。
 つまらない。これだけあっても、気にいる物は──自分と響きあうような物は無さそうだ。
 ウィローは、自分が世界にただ一人で居るような孤独を感じた。

 「そんなのは、子供騙しの玩具だ」
 姿の見えないドグマの声が、店の奥のほうからした。
 「オルゴールって、玩具でしょう?」
 「いいや、違う」
 不意に、別のオルゴールが鳴り出した。
 ウィローは一瞬、凍りついたように身動きを止めた。
 子供騙しの玩具──そうドグマが称した物と、全く別物だった。
 音域の広さ。ピアノのように複雑な和音。
 そして、何よりも音が柔らかく優しい。信じられぬほどのぬくもりがあり、金属的な冷たさが無い。
 惹き寄せられるように、ウィローは店の奥へと足を向けていた。

 店の奥には、シックで重厚なデザインの、長方形の大振りな木箱が並んでいた。
 人形などはついておらず、己は純然たる"音を奏でるための物"だと、主張しているかのようだった。
 「なぜ、こんなに音が違うんです……?」
 台の空いたスペースに腰掛けていたドグマに、ウィローは問いかけた。
 ドグマは黙って、傍らのオルゴールを示した。
 それは蓋がついておらず、飾り気のない木箱の上部にガラスが張られ、中が見えるようになっていた。
 覗き込んで、ウィローは息を飲んだ。
 以前にも、箱が透明なオルゴールというのは見た事があったので、仕組みはだいたい知っていた。
 いぼいぼのついた、回転する円柱。その脇に添えられた、櫛のような形の金属製のパーツ。
 ウィローの知るものは3cm〜5cmほどだったそれらの長さが、ゆうに3倍を超えていたのである。
 「これは……確かに、僕の知ってるものは玩具でした……
 てっきり、小物入れの部分が大きくとってあるせいで、箱が大きいのだろうとばかり……」
 かなりの太さの円柱についた、無数の緻密ないぼいぼを見つめ、ウィローは感嘆の溜息を漏らした。

 ウィローは魅せられたように、一曲終わればまた次のものへと、夢中でオルゴールを鳴らしていった。
 やがて、ひとつのオルゴールが奏でる曲に、より強く心が揺さぶられるのを感じた。
 安らかで神秘的な、夜の帳の向こうへと誘われるような旋律。
 ウィローの知らない曲だったが、これが"自分の曲"であるように思えた。
 その場に座り込み、飽きる事なく幾度も幾度もぜんまいを巻いた。

 ウィローはいつの間にか、まどろんでいた。
 静寂に唯一響く足音とともに、体がわずかに揺さぶられる。
 ぼんやりとした意識の中で、ウィローは自分が誰かに背負われているのだと気づいた。
 誰だろう──
 そう考えていると、耳元でぼそりと呟きが聞こえた。
 「値段も玩具並でないのが、残念だ……」
 
 
 
三郎は、誰にも見られぬよう気をつけながら、そっと目元を拭った。
ずっと会っていなかったというのに、ドグマが自分の好きな曲を覚えていてくれた事が嬉しかった。

ふと、三郎は気づいた。
ドグマと共に訪れた、オルゴールの専門店。
入ってすぐの所に並べてあった、小綺麗なオルゴールを適当に鳴らしても、お気に入りの一品は見つからなかった。
奥まで踏み込んで、ひとつひとつを手に取り、じっくりと耳を傾けて、やっと見つかった。
仮に、入り口付近だけで帰っていたとしたら、ずっとオルゴールとはこの程度のものだと思い込んでいたことだろう。
もしかしたらあの時ドグマは、人と人との関係も同じようなもの──そう言いたかったのかもしれない。
わかり合う相手が欲しければ、座して都合のいい相手がやって来るのを待ち、わかってくれるのを待っていては駄目だ。
苦労を厭わず、自分で相手を探せ。傷つく事を怖れず、自分から関われ──と。

「……」
最後まで弾き終わっても、ドグマはじっとそのままの姿勢を崩さなかった。
「……私は……」
ぽつりと呟いたドグマの言葉に、三郎は彼が正気を取り戻した事を悟った。
「兄上……」
そっと、三郎はドグマの肩に再び手を置いた。
「大丈夫ですよ……」

ぱちぱちぱちぱち、と拍手が響いた。
三郎は、オロカか暗示郎が手を叩いているのかと思い、顔を上げて振り向いた。
しかし、その二人もきょろきょろと音の源を探していた。
拍手の音は、彼らの後ろからしていた。
どっしりとした風情の大柄な男が、ゆっくりと歩み寄ってきていた。
和服の袖を揺らして、男は拍手をしていた腕を下げた。
「ドビュッシーの"月の光"か。いやぁ、こんな所でこれほどの名演奏を聞けるとは思わなかったね」
「貴様!」
ジャーン!とドグマが手をついた鍵盤が、激しい音を立てた。
「その声は、イエソド! どこぞで野垂れ死んだかと思えば、こんな所におったか!!」
「兄上……?」
三郎は、じっとドグマの目を見つめた。
「『その声は』って……どうも様子がおかしいとは思っていましたが……
まさか……まさか、見えてないんですか、兄上ッ!?」


マインドパペット1.5 水色の庭園
49.

「……いや……そんな事はない」
ドグマは、三郎の問いを否定した。
三郎は、自分に焦点の合っていないドグマの目を、じっと見つめた。
「何言ってるんだ、三郎? 見えないだって?
目が見えないのに、あんな演奏ができるわけないじゃないか」
「……確かに僕なら、一曲通して全く見ずに弾くなんて芸当はできやしません。
ですが、盲目のピアニストというのも実在します。兄上なら、そのくらいやりかねないかもと……」
口を挟んだオロカに、三郎は目を向けた。
「沼の毒のせいなら、腫れたりただれたりしていそうなもの……ひょっとして……魔翠玉を使いました?」
「え? あぁ、うん」
「何個?」
「えっと、1、2、3……たくさん」
オロカは指折り数えたが、途中から記憶が曖昧になってしまった。
「沼に落ちる前、頭痛や目眩、体温調節が上手くできなくなったり、精神が不安定になったりしていた様子は?」
「え、あれって副作用だったのか? てっきり、消耗とか心労とかのせいだと……」
「あったんですね、どれです?」
「どれっていうか……全部」
オロカはドグマの仕草──手でこめかみを揉んだり、目を覆ったりしていたのを思い出しながら答えた。
「あと、マルセルと戦ってる途中から、回復効率が落ちてきたとか何とか……」
「そんなになるまで使ったんですか! なんて……なんて無茶を。
そりゃあ、副作用を承知で使わざるをえない状況というのもあるでしょうが……
だとしても、その場を乗り切るのに最低限必要な分だけ補給して、いったん引けば良かったでしょうに……
あんなものを使いながら戦い続けるなんて……!」
「いや……だから、見えていると言っているだろう! 早合点するな!!」
「ドグマ」
二人を怒鳴りつけたドグマに、イエソドが声をかけた。
「これ、何本だい?」
オロカは首を傾げた。
そう言うからには指でも何本か出して見せるのかと思ったのだが、イエソドはただ腕を組んだだけだったのである。
ドグマはイエソドの方に顔を向け、眉間に皺を刻んだ。
「2本……いや、3本だな。少々、霞んで……」
「そうかい。霞んで良く見えない──とかいうレベルじゃなく、全然見えないんだね」
ドグマの言葉を遮るようにイエソドは断言し、気の毒そうに首を振った。
オロカは息を飲んだ。

舌打ちして椅子に座り直したドグマに、オロカはがばっと頭を下げた。
「すまん、ドグマ! 俺が、力を貸してくれと言ったばっかりに……!」
「……馬鹿者」
見えているふりをやめ、ドグマは目蓋を閉ざした。
先程、加減のわからぬオロカに念入りすぎるほど毒水を洗い流されたため、眼球が少しヒリヒリとしていた。
「きっかけは、確かにそうだったかもしれん。
だが、私は戦いたくて戦っただけの事だ。おまえのせいなどではない」

戦いたくて戦った──その言葉を聞いて、三郎がわずかに表情をこわばらせた。
目を閉じたドグマの顔に視線を戻しながら、考えた。
なぜ、そんな無茶な戦いをしたのか。
負けず嫌いだから──敵に背を向ける事を望まぬ性格だから──マルセルが気にくわなかったから──
おそらくそれらもあるだろう、しかし──

三郎は片膝を落として屈みこみ、ドグマの手を包みこむようにして、自分の両手を重ねた。
ピクッと一瞬、ドグマは手を動かした。
けれども細長くしなやかな指の感触から三郎の手であると気づき、振り払いはしなかった。
「申し訳ありません……兄上」
「貴様こそ……何故、謝る」

暗示郎が、ちょこちょこと軽い足取りで辺りをうろつきながら、半ば独り言のように言った。
「何て言うかさぁ……『ごめんね』って言われるより、ね。
『ありがとう』って言われる方が、言われた側としちゃずっと嬉しいと思うんだけどね〜?」
「……」
それは、三郎も理屈としては理解しているつもりであった。が、とても礼を述べる気にはなれなかった。
元々庭園の囚人であった自分は、閉じ込められる場所が変わっただけのことだ。
しかし、無理をしたがためにドグマは"最果て"に閉じ込められ、視力までも失った。
一時的なものであればいい、けれども魔翠玉の使用量が使用量なので、後遺症が残る事も十分ありえる。
その、無理をしたもうひとつの理由──

「ごめんなさい……ごめんなさい! 貴方ほどの方が、僕なんかのために……!!」
いつも取り澄ましている三郎の顔が、くしゃっと歪んだ。
涙が頬をつたい、ドグマの手の上にしたたった。

「……」
ドグマは空いた手を伸ばし、宙を手探りして三郎の顔に触れた。
次の瞬間、勢いをつけてバシィィン!と強く三郎の頬が張られた。
「……ふぇっ」
「馬鹿者!」
思わず手を離し尻餅をついた三郎に、ドグマは指を突きつけた。
その指先は若干、三郎の顔がある方とそれていたが、かまわずドグマは怒鳴った。
「大の男が、『自分なんか』などと、言うな! 貴様は、ただ私から逃げたわけではあるまい!
貴様は、私と違う道を行く事をあえて選んだのだろう! 力を追求するでも、他者を支配するでもない道を!
だったら、その道に! 己の選んだ道に、誇りを持て!
私のようになれなかったからと言って、己を卑下するでないわ!!」
ドグマは、無性に腹がたって仕方なかった。
自分がまるで、たいした事のないもののために命がけで戦ったかのように、馬鹿にされた心地がしたのである。
それを言ったのが、救おうとした当人であるにも関わらず。
「……兄上」
三郎は涙を流しながらも呆然と、目を閉ざしたまま激昂している兄の顔を見上げた。

「……」
「……」
しばしの沈黙が流れた。
ドグマは暗闇の中、イラッとした。
何故、黙っているのか──
自分の言いたい事が伝わっているのか──
今、どんな顔をしているのか──
それらがつかめず、もどかしい。
目が見えないというのは、こうも情報が少ないものかと。

「オロカ、ここへ来い!」
「え? あぁ……」
何故自分が呼ばれるのかわからず戸惑いながらも、オロカはドグマの傍らに近づき、手振りで指示されたとおりに屈んだ。
ドグマの伸ばした手がオロカの肩に触れ、手探りで頭まで移動し、頭頂部を鷲づかみにした。
軽く集中し、ドグマは頷いた。
「よし、とりあえず見える。……酷い顔だ」
「えっ?」
「己のやつれたツラなぞ見たくもないわ。愚弟の方を見ろ、愚弟の方を」
「うえっ?」
オロカはぎょっとして、手で自分の目を押さえた。
「こら、目を塞ぐな! 見えんだろうが!!」
「お、俺の目を使って、見てるのか?」
「不服か?」
「き、気持ち悪いっていえば、気持ち悪いけど……いや、使ってくれ、俺の目でよけりゃ!」
「よろしい」
ドグマはぐいっとオロカの首を捻って、三郎の方を向かせた。

オロカの目を通して、ドグマは頬を濡らす三郎の顔を見た。
「なんだ、まだ泣いとるのか。うっとおしいわ、泣きやめ!」
「で、でも……」
三郎はうつむき、口ごもった。
「三郎」
オロカは地面に手をついて、三郎の顔を覗き込もうとした。
三郎は、慌てて顔を背けた。
「三郎。顔を見せてやれよ。ドグマは、見たいって言ってるんだからさ……可愛い弟の顔を」
「……可愛い?」
三郎は、思わず顔を上げた。オロカは、少しはにかんだように笑っていた。
「俺には、そう言ってるように聞こえるけどな?」
「……」
その後ろで、ドグマが何か言いたげに口を開いたが、否定する言葉は出てこなかった。

「貴様も知っているように、他者の目を使って物を見るのは、遠隔操作の為に必須な支配魔術の基礎。
仮に視力が回復しなかったとしても、当座はこれでしのぎ、視力を補う術を開発すれば良いのだ。
なに、開発といっても少々の応用で事足りる、じきに叶おう」
「……」
「勝負というものはな、勝つか負けるかなどやってみねばわからん。
確かに、今回の結果はあまり良いものとは言えんだろう。
だがな。良い結果がつかめないかもしれんという可能性は、勝負を挑んだ以上、はなから見込んでいた。
過ぎた事を、ぐだぐだと抜かすな」
「……はい」
ドグマは目を閉じたまま、腕を広げてみせた。
「それよりも、こんな自然環境では生きていく事そのものが戦いだぞ。
ふぬけている場合か。後悔している暇などあるか。
こういう場所は貴様、得意だろう、せいぜい貢献するのだな」
三郎は、オロカの向こうに居るドグマを見上げた。
未だ消耗しきった、冴えない顔色だ。
だがその顔つきからは、この逆境にも動じる素振りもない、意思の強さが感じられた。
なんという人だろうか──
いくらかの不安定さはあっても、やはり土台の強固さといったら自分とは比べ物にならない。
三郎は、しみじみと感服していた。

貢献する、か──そうだ、せめて償わなければならない。
三郎は口に出さずに、そう心に決めた。
「はい……わかりました。も……」
申し訳ありません、と言いかけて口をつぐみ、三郎は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……」
涙は、いつのまにか止まっていた。

「……良かった。やっぱり、ドグマはドグマだ。俺が心配する事、なかった……」
「そうだねぇ……」
オロカの呟きに、イエソドが応じた。
そういえば、とオロカは彼を見やった。
イエソドは蚊帳の外にされていた事に機嫌を損ねるでもなく、ニコニコと微笑みながらやり取りを見守っていた。

「……ところで……あんた、誰だ? どっかで見た事、あるような気もするんだが……」
「おや、忘れてしまったかね、オロカ君? 何度かは、言葉を交わした事もあるんだが」
「えっ……モスタリア人か?」
「そうだよ」
イエソドはコツンコツンとステッキを鳴らしながら近づいてきて、頷いた。
戸惑うオロカの顔を見つめながら、昔を思い返していた。
 
 
 
 夕暮れの、街角──
 「バイバイ! また明日会える?」
 少年が手を振りながら、輝くような笑みを浮かべた。
 オロカが目を細めて、首を横に振った。
 「明日は……非番じゃないんだ」
 「そっか。じゃあ暇な時、会いに来てよ!」
 「……」
 曖昧に頷いたオロカに、少年はもう一度手を振って駆け出した。
 たまたま通りがかったイエソドは、その光景を微笑ましく思いながら眺めていた。

 オロカは少年の姿が見えなくなっても、じっと立ちすくんでいた。
 長く伸びた、自分の影を見つめていた。
 「……オロカ君、だったかな?」
 イエソドは、離れたところからそっと声をかけた。
 振り返ったオロカは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 「何を……そんな、辛そうな顔をしてるんだね?」 
 「貴方は……」
 オロカは、口をもぞもぞと動かした。
 話したい。けれども話せない。そんな様子だった。
 「聞かせてもらうわけには、いかないかな?
 差し障りがあるなら、たとえ話でも構わないがね?」
 「たとえ話……」
 オロカはしばらく考え込み、口を開いた。

 「その……ゴブリンが」
 「ゴブリン?」
 イエソドは首を傾げた。
 ゴブリンとはお伽話に出てくる小鬼で、たいがいは悪さをしては懲らしめられる、やられ役だ。
 「ん……何も考えずに、しょっちゅうゴブリン退治をしていたのに……
 そのゴブリンにも子供が居て、案外可愛い奴だった、みたいな……
 明日からのゴブリン退治、どうすりゃいいんだ……?」
 オロカは途方にくれた顔で、ぼそぼそと言った。
 ははぁ、とイエソドは合点がいった。
 ──あれは、魔物の子か。

 「知らなきゃ良かった……知らなければ、悩まずにすんだのに……」
 「……」
 「……」
 イエソドはじっと続きを待ったが、オロカは黙りこみ、それ以上口を開く気は無さそうだった。
 「この世には、知らない方が良い事など、何もないんだよ。オロカ君」
 噛んで含めるように、ゆっくりとイエソドは言った。
 「……」
 「昨日の君と、今日の君は違うんだ。
 結論を出すのは急がなくていい。納得がいくまで、じっくり考えることだね」
 「……」
 きゅっと眉根を寄せて、オロカはイエソドに背を向けて歩き出した。
 「オロカ君。そのゴブリンの事……話したくなったら、また聞かせておくれ。いつでも、相談にのるよ」

 そうして、二人は別れた。
 次にイエソドがオロカの名を聞いたのは、彼がエイリアスに刃を向け、投獄されたという知らせであった。
 
 
 
イエソドは、改めてオロカに名のった。
「私の名はイエソド。ドグマの弟で、ウィローの兄だ」
「ウィロー?」
どこかで聞いたような名だ、とオロカは首を傾げた。
「あ、イエソド兄さん。今では三郎と名のっていますので、そう呼んで頂けますか」
口を挟んだ三郎に、イエソドは頷いてみせた。
「あぁ、そうだったね。三郎、か。うんうん」

「ドグマの弟ぉ? 嘘だろう? だって、あんたどう見たってドグマより老けてるじゃないか」
「……!」
「……!」
何の気なしにされたオロカの指摘に、一瞬、空気が凍りついた。


マインドパペット1.5 水色の庭園
50.

「オロカぁ……そこは察しようよ!
何か、部外者が触れてはいけないデリケートな事情がありそうだって、察しようよ!!」
オロカ以上に事情を知らない暗示郎までが、頭を抱えた。
三郎が素知らぬ顔をして、そそくさとトランクが置いてある方へ歩み去った。
「あ〜コホン」
イエソドが咳払いして、言った。
「戸籍上は、ドグマの方が私より年上だよ」
「戸籍上?」
首を捻るオロカに頷きかけ、イエソドは続けた。
「私は、ラブ・チャイルドだからね。長男だと、いろいろと都合が悪いのさ。
本当はウィ……じゃない、三郎が生まれた後もいじりたかったらしいけど、さすがに無理があってねぇ……」
「ラブ・チャイルド……って、何だ?」
「婚外子の事。平たく言えば、愛人の子さね」
「何だ、ドグマの親父って、自分にも愛人が居たのか! 勝手な奴だな!!」
愛人と駆け落ちしたというドグマの母親が、父親に処刑されたという話を思い出し、オロカは憤慨した。
「いやぁ……愛人をコッソリ囲ってたわけじゃなく、あくまでも結婚前のコトだからね。
男ってのは、婚前の情事ってものを、美しい思い出にしたがるものなのさ」
「それなら……しょうがないか……」

「じゃあ、本当はあんたが長男なのか?」
「違う!」
ドグマが拳を握りしめ、振り上げた。
「長男は、私だ!」
「えっ……と」
戸惑うオロカをよそに、イエソドはにっこりと微笑んだ。
「あぁ、いいともさ、ドグマ。君が長男ってことで。私は順番なんて、どうでもいいんだから」
「長男──『ということでいい』とは何だ! 『いい』とは!!」
「……はぁ」
温厚そうに見えるけれども、ドグマや三郎の兄弟なだけあって、一筋縄ではいかなさそうな人物かもしれない。
余裕の笑みを浮かべるイエソドを見やって、オロカは思った。

「あ、あの、兄上、どうか今はあまり興奮なさらないように……お体に触ります。
今すぐ寝ろとは申しませんが、お話は横になってなさってください。
もっと火のそばへ……たかが風邪ですら、今の状態では命取りになりかねないでしょう?」
毛布をドグマの肩にかけ、三郎が半ば懇願するように勧めた。
「……ふん」
ドグマは、しぶしぶという様子で頷いた。
気温は高めだというのに、ずっと寒気を感じていたのである。
「歩けそうですか?」
「……歩けそうな気がせんな。
先程立ち上がりかけた時ひどく目眩がしたし、足にうまく力が入らん」
もうドグマは体調の悪さを隠そうとせず、率直に明かした。
「そうでしょうね。どうぞ、僕につかまってください」
三郎は、寄り添うようにドグマに近づいた。
ドグマは三郎の肩に腕を回し、おぼつかぬ足取りで立ち上がった。
オロカも思わず手を出しかけたが、ここは三郎に任せた方がいいだろうと"目"となってドグマの脇を歩くに留めた。

張っていた気が緩んだせいか、ドグマは自分の体がどっと重たく感じられた。
がくがくと膝の笑う足を引きずるようにして、何とか三郎にもたれかかって歩を進めた。
「……っ!」
三郎が焚き火の傍へ敷いておいたキャンプ用の断熱マットにつまづき、ドグマは崩れるように倒れこんだ。
「あっ、ちょっ……」
三郎が慌てて支えようとしたが、大柄なドグマの体勢を立て直すには力不足で、一緒に倒れかけた。
オロカが慌てて脇から腕を差し出して受け止め、ゆっくりとドグマを断熱マットの上に横たえた。
「す、すみません」
「大丈夫か?」
三郎とオロカがあげた声に、ドグマは静かに応じた。
「……問題ない」

三郎が毛布をかけ直しながら、わずかにドグマが浮かべていた不安げな表情に気づき、問いかけた。
「どうかなさいましたか、兄上??」
「なんだか急に……足だけでなく、体中の力が抜けてしまったようでな……自分の体ではないようだ」
「ふ、副作用か? 沼の毒か? ただの疲れならいいけど……
それとも、神経がどうとかって術が上手く効いてないとか? いや、マルセルに体をいじられたせいかも?」
心配が後から後から溢れ出るオロカに、三郎は首を振ってみせた。
「いろいろ重なりすぎて、どれのせいやら……まぁ、時をおけば回復するかもしれません、様子を見ましょう」
小さくオロカに微笑みかけてからドグマを見下ろし、三郎は告げた。
「兄上。僕たちがお守りします、ご心配なく」
「おっ、おう、俺も、俺も!」
その言い回しを聞いて嬉しくなり、オロカが三郎に続いて弾んだ声を出した。
「僕たち、か……ふん」
こいつも、チームか何かであるかのように自分の事を言うようになったのか、とドグマは小さく鼻を鳴らした。
「眠たくなったら、無理せず寝てくださいね」
「まだここの情報を何も聞いておらんのに、寝れるか」
「まぁ、そうでしょうけど……」
三郎は、イエソドへと視線を移した。
 
 
 
「ここの事かい。まぁ、私にわかる範囲内で良ければ教えるが」
「出るのは……やはり無理そうなんですよね?」
三郎の問いかけに、イエソドは頷いた。
「そうだね。"最果て"は空間的に閉じている、入ることはできても出ることはおそらく無理だろう。
"最果て"の中から中へであれば、時空魔術で跳ぶのは可能だけれども。
沼だけは特別なようで……君たちも会ったかな、跳んだり跳ばしたりできるのは、闇太郎という少年だけのようだが。
それ以外の場所だったらね」
「そうなのですか。沼では閉ざされた感覚がありありとしていましたが、確かにここでは比較的薄いですね」
「うん。現に今、私も普段住んでいる島からここへ跳んできたしね」
「島って……伝えられているよりも随分、"最果て"は広いのですね」
「あぁ、最初落ちるところは沼と決まってはいるが、その外側は随分と広いよ。
大概の者は沼から出られる事なく朽ち果てるというが、抜け出せた人々の子孫は徐々に増えてきているらしい。
私もあまり把握できていないが、グループだったり単独だったり、暮らしぶりはいろいろだが」
「グループ……町や村などは?」
「畑など作って定住している者たちも居なくはないが、閉鎖的、排他的な連中が多くてね。
受け入れられるのは難しいかもしれない」
「そうですか……」
そう聞くと、三郎はあまり訪問する気がしなくなった。
ドグマの回復を待つ間だけでもと、身を寄せる事を考えたのだが。

「ただ、外界と接触する手段も、全く無いではないのだよ」
「……ほぅ?」
横になったままのドグマが、興味を示した。
「この鏡を見てごらん」
イエソドは、懐から螺鈿細工の手鏡を取り出した。ドグマに渡しかけて手を止め、オロカへと差し出した。
「んっ?」
鏡を覗き込んだオロカは、あちこち傾けて角度を変えた。
鏡に自分が映らない──否、背後の木々も空も、何もかも、映っていない。
「なんだ、これ? 本当に鏡なのか? 何も……あっ!」
鏡の中の真っ暗な空間に、ぼんやりと何かが浮かんだ。
「あぁ、ちょうどいい。今、彼が眠りについたようだ」
イエソドが脇から鏡を覗き、言った。
「彼……?」
ぼんやりとした影は、徐々に人の姿をとった。
一人の少年が座り込み、膝に顔を俯せるようにして、うとうととまどろんでいる。
「あれっ……!」
オロカは思わず、大きな声を上げた。
顔は良く見えなかったが、少年の淡い桜色の髪に見覚えがあったのだ。
庭園の梅の木の下で会った少年──宙に溶けこむように消えた、不思議な少年。
「誰……なんだ?」
「サクラ、という少年だ」
ピクッ、とドグマの頬が動いた。

「サクラの夢を通して、外界と接することができるんだ。誰か、行ってみるかい?」
「……」
オロカはきょろきょろと、そこに居る者を見渡した。
──俺が一番、元気そうだ。
それに、俺の目を通してドグマが見てるんなら、俺が行くのが一番効率がいいかもしれない。
「良ければ、俺が……」
「いいかね?」
イエソドの問いかけに、皆は頷いた。
「では、鏡の表面に額を当てて……」
「ん……」
イエソドの指示通り、オロカが額を鏡に接すると、すうっと意識が薄れていった。
ばたり、と抜け殻のようになった体が倒れ伏した。
 
 
 
ワァァァァン、と群集の声がこだまするように響いた。
「な、なんだ!」
目眩が収まると、オロカの眼前の大地が、血を流して倒れ伏す男たちで埋まっていた。

──戦場?

血と汗と泥と鉄──それらが入り混じった臭いが、鼻をついた。
うなじの毛が逆立つような緊張感──かつて慣れ親しんだ、しかし好ましいものではない感覚が身を包む。
素早く、周囲を見渡した。
鎧兜に身を固めた人々が、武器を振り回し、戦っている。
乱戦状態ではあるが良く見れば、白い肌の男たちと、黒い肌の男たちが、敵味方に別れているようだ。

ハッと、オロカは息を飲んだ。
少し離れた所に、武装した人々と全く違う、ラフな服装の浮きまくった人影がある。
戸惑いの表情を浮かべた少年──サクラが、きょろきょろと辺りを見回していたのだ。
「危ない!」
なぜこんなところに──などと、考えるより早く体が動いていた。
突進し、半ば体当たりをかますようにサクラを押しのけた。
流れ矢がかすめ、オロカの肩から血が噴きでた。
「つっ……」
「……おじさん? 大丈夫?」
きょとんとした少年が、オロカを気遣い声を発した。
「俺は、おじさんじゃないって言ったろ!」
「え、どこかで会ったことあったっけ、おじ……お兄さん?」
「それより、来い! ここにいちゃ危ない!!」
オロカはサクラの手を引いて、駆けだした。

こいつらが何者なのか、なんで戦ってるのか──わかりゃしないが、とにかく戦場の外へ!
気が焦るが、決して足が速くはないオロカ以上に、サクラの足はのろい。
足が短い、回転が遅い──それもあるが、どうもやる気が感じられない。
にも関わらず、たいした距離も走らぬうちにサクラは息を乱し始めた。
「も、もう走れないよう……」
「諦めるな! もっと走るんだ!!」
「置いてって……お兄さんだけでも、逃げてよ」
「ふざけんな、馬鹿!」
オロカは無理矢理サクラを背負い上げた。
肩の傷がズキズキ痛んだが、かまう余裕もなかった。
「うおぉっ!」
雄叫びを上げ、オロカは走った。

やっと人の群れを抜けた──と思った瞬間、ガクン、と足元が突然沈んだ。
「わ、わっ!?」
周囲の光景がいつのまにか、葦の茂る湿原に変わっていた。
膝まで、柔らかい泥にめり込んでいる。
「あ、足が……」
葦をつかんで足を引き抜こうとしたが、頼りなく茎がプツプツと千切れてしまう。
もがけばもがくほど体が沈んでいき、みるみるうちに腰まで泥に埋まってしまった。
その時、するっとサクラが背中から降りた。
「お兄さん、僕を背負ってちゃ無理だよ」
「お、おい!?」
慌てて振り向くと、不思議なことにサクラは泥に全く沈む事なく、表面に足をつけて立っていた。
「おまえ……何で?」
「……何でだろう?」
サクラは不思議そうに、ペチャペチャと足踏みをしていた。

サクラは、小さな手を差し出した。
「つかまって、お兄さん」
「あ、あぁ」
オロカはサクラの手をつかみ、泥の中から這い上がろうとした。
しかし、何かに引きずられるように、ずぶずぶと体が沈むのが止まらない。
胸まで泥に埋まり、息が苦しくなってきた。

灰色の空を、引き裂いたボロ雑巾のような不気味な黒い鳥が飛んで行く。
ギィ、ギィと錆びた鳴き声。オロカは聞いているうちに、何故かその意味がわかってきた。
「あがいても無理だヨ、無理。馬鹿だねェ。
なんで湿原に囲まれた真ん中デ、奴らが戦ってると思ってるんだイ?」
「何ッ?」
オロカが顔をあげると、黒い鳥は馬鹿にしたようにギシャシャシャと鳴いた。
「罪を犯せば犯すホド、体は重くナル。
一度でも人を殺した事がある者ともなれバ、絶対にこの湿原は越えられないネ。
ダカラ、狭い土地を奪い合って戦っているのサ」
「……」
オロカは、ごくりと唾を飲んだ。
だとすれば──俺なんて、絶対無理じゃないか。

ずぶっと、更に体が沈んだ。
見れば、ふんばるサクラの細い足首までが、泥にめり込んできている。
「サクラ、やめろ!」
オロカはサクラの手を、バッと振り払った。
とたんに、ふっとサクラの足が泥の表面に浮き上がった。
「やっぱり……罪人を助けるのも、罪ってことか。
おまえだけ、逃げるんだ。このまま俺を引っ張ってたら、おまえまで沈んじまう」
「で、でも……」
「俺はもう駄目だ。ここからは、抜け出せそうにない」
「お兄さん……」
「逃げろ! 早く、逃げろってブハッ!!」
泥が首の高さを越え、口まで侵入してきた。
「お兄さん!」
「逃げろ! 振り返らず……うブッ!!」
どぷん、と頭まで泥に埋もれてしまった。
オロカはもがき続けたが、やがて意識が薄れ、闇に飲みこまれた。
 
 
 
「……あれ?」
むくっ、とオロカは身を起こした。
三郎と暗示郎が、心配そうに自分を見つめているのが視界に入った。
「……何をやっとるんだ、おまえは。あれで、どんな教訓を与えられるというのだ」
ドグマが横たわったまま、ぶつぶつと文句を言った。
「そ、そんなこと言ったって……わけわかんなくて、必死で……」
弁解しながらオロカが自分の体を確かめると、泥で汚れてもいなければ、肩から血が流れてもいなかった。
「まぁ、あぁやって夢の中でサクラに会えるのさ。次に会う時には忘れてるだろうけどね」
イエソドが、微笑みながら言った。
「それじゃ、意味無いじゃないか?」
「無い事もないさ。回を重ねていけば、だんだん認識されていく。
やがて、サクラは"自分の一部"として私たちを自覚し、私たちと協力して現実の世界を生きていくことだろう」
「自分の一部……? 俺も?」
「そう、望むなら君もね」

ドグマが、見えぬ目を見開いた。
「よし……ならば、元々私がやろうとしていた事とさほど変わらんな」
「へっ?」
どこを見ているかわからぬドグマの目に、不思議と野心的な光が灯るのを感じ、オロカは間の抜けた声を上げた。
「そういえば前、サクラって奴を探してるって……なんで探してたんだ?」
「あれは、"世界の種"だ」
「え? 種?」
「あれを手中に収め、上手く育てて我が物とすれば、新たな世界を生み出す力を手にする事ができる!」
「も、ものって!」
「要は! これからは、あれの精神を私の色に染め、意志の全てをのっとってやればよいというわけだ!!」
ドグマはオロカの目を通して自分の顔を見、狂気じみた笑いを浮かべていた。

何を考えてるんだ、こいつ! 人を、道具か何かみたいに!!
ドグマの凄さは認めるものの、他人の意志を踏みにじるという事を何とも思わぬ点だけは、オロカは相変わらず受け入れられなかった。
「ドグマッ!!」
がしっ、とオロカは横たわるドグマの両肩をつかんだ。
「何だ、貴様! 文句でもあるのかッ!!」
ドグマもオロカの手を、ぐっとつかんだ。
手こそ大きいが込められた力は弱々しく、サクラと大差ない子供の手のようにオロカは感じた。
「駄目だろ、ドグマッ! そんな事しちゃあ!!」
「……は?」
悪ガキを叱るかのようなオロカの口調に、一瞬ドグマは毒気を抜かれた。
「なっ……な、なんだ、その言い草は……」
「そんなわがまま言うとなぁッ!」
ぐぐっ、とオロカはドグマの肩をつかむ手に力を込めた。
「おまえの面倒、もう見てやらないぞッ!!」

「……」
「……」
「……」
「……」

その場に居る誰もが、オロカの言葉にあっけにとられていた。
「ばッ! 馬鹿を言うな……ッ!!」
ドグマは叫び、オロカの手を振りほどこうとした。
その瞬間、オロカにかけていた視覚共有の術が解けた。持続時間が切れたのだ。
視覚を閉ざされ、ドグマは今まで感じた事もないような強い不安に駆られた。
まるで、ぽっかりと口を開けた暗い底なし穴の上で、かぼそいロープだけを頼りにぶらさがっているかのような──
何を不安になっている、目が見えないからといって弱気にになる事などない!
ドグマは己を叱咤し、手に力を込めようとした。
が、その意志に反して突き放そうとする手の力は抜けていく。
それは決して、体の自由がきかないせいではなかった。

「な、何をした、貴様……?」
「え? 俺は何もしてないけど……」
きょとんとしたオロカに──闇の向こうに、ドグマは声を叩きつけた。
「ズルいぞ、貴様ァ!!」
先程まで、闇の中に居たのに不安など感じなかった。
なのに、なぜ不安で仕方ないのか──
下手にロープなどあるから──あるからこそ、切れる心配をしなければならないのだ。
ドグマには、そうとしか思えなかった。

ぱちぱちと、オロカは目をしばたたかせた。
ドグマの手が、オロカの手を振りほどこうとするのでなく、捕まえて自分に押しつけていた。
「そう、か……? ごめんな」
「離すな! 離すんじゃない!!」
ドグマが、子供のようにわめいた。
涙など浮かべてはいなかったが、オロカにはドグマが泣いているように見えた。
「う、うん。離さないから……ごめん」
オロカはドグマの上半身を引き起こすと、ぎゅっと抱きしめた。
そのまましばらく、じっとしていた。

「なに、あの二人? ホモじゃないよね?」
暗示郎がヒソヒソと囁くと、三郎が妙にうろたえた。
「だっ、だと……思いますが……」
ふふふっと、イエソドが含み笑いした。
「いやぁ、良かったねぇ。ドグマにもいい相棒が見つかって」
「相棒? 部下じゃなかったっけ?」
あれ〜?と、暗示郎が首を捻った。

「……オロカ」
抱き合ったまま、ドグマが呟くような低い声で言った。
「ん?」
「私の支配を、止めたければ、止めてみよ。おまえも、サクラに教えたいことを、何なりと教えるがいい。
そうすれば──私が目的を達しつつも、私がサクラの全てを支配するのではなく、一部であるに留まる事だろう」
「……」
オロカは理解にしばし時間を要したが、ドグマの申し出が彼としてはかなりの譲歩であるとわかった。
ドグマがその気になれば、オロカにサクラへの手出しを禁じることもできるのだから。
「……わかった」
「ただし、私も手加減はせぬぞ」
「……それも、わかった」
「まぁ、私とて──何も、奴を支配しようとばかりするわけではないがな。
まずは、"世界の種"として鍛えねばならぬ。幼いうちこそ、最も成長する時期であるからな。
生き抜く力を。勝ち上がる力を。つかみ取る力を、叩きこまねばなるまい」
「……貴方の事だから、スパルタ教育だろうな。
あんなボーッとした奴に、そんなの向いてるのかな……」
「何を言うか。子供などというものは、育て方次第でどうとでもなるのだ」
「そう…かなぁ……?」
子育てをした経験などないので、オロカにははっきりとした否定も肯定もできなかった。
とりあえずドグマも落ち着いたようなので、オロカは彼を元通り横たえた。

「でもさぁっ。そ〜んなのばっかじゃ、疲れちゃうよねっ。
もっと気楽に、明るく楽しくハッピーに、余分な力を抜いて生きてくやり方も教えないとさっ♪」
暗示郎が、ケロンとした口調で言った。
「確かに。力押しばかりでなく、器用に世の中を渡っていく方法というのも、生きていくには必要ですよね」
三郎が、静かに頷いて同意した。
「あらっ!」
頭上から、高い女性の声がした。
「それだけじゃ駄目よ! 人に尽くし、人と助け合い、みんなで力を合わせて生きていく事が一番大切だわ!!」
「えっ!」
皆が振り仰ぐと、水色の髪の少女が逆さまにふわふわと浮かんでいた。

「でっ、でたァーッ!」
オロカの声が、ひっくり返った。
「何よぅ、幽霊でも見たみたいに」
マルセルが腰に手を当てて、ぷりぷりと怒った仕草をしてみせた。
「幽霊だろ! どこから湧いて出たんだ、マルセル!」
「まぁ、失礼ね。ただ、時空潮流に流されてきただけよ。あなた達もそうじゃなくって?」
「そ、そうだけど……」
オロカがちらりと目をやると、ドグマと三郎が渋ったい顔をしていた。
もう二度と会いたくなかったのに、とばかりに。
「ふふっ、そんな顔しないで。いつも貴方たちと一緒というわけじゃないから。
私はここで、新しいステージを作るつもりよ。また会いましょう。サクラって子の夢の中でね!」
くるりと半回転すると、マルセルは手を振りながらすぅーっと空を飛び去っていった。

「あれとも同居するのか……」
どっと疲れた顔でオロカが呟くと、イエソドがにこりと微笑みかけた。
「君は、何をサクラに教えてやるのかね、オロカ君?」
「うーん……」
オロカは考えた。しかし、すぐにはこれといって思いつかなかった。
「"教える"なんて大層な事ができるかどうかわからないけど……考えておく。ただ……」
「ただ?」
「今、少なくともひとつ言えるのは……
こんなアクの強い連中が、あぁだこうだ好き勝手言ってきたら、サクラの奴も疲れるだろうし。
その時は……愚痴でも聞いてやろうかな、と……」
「そうかい。それはいいね」
ふふっ、とイエソドは笑った。

「いやぁ……しかし、面白いね。
てっきり"和"陣営の連中は、結託して共同戦線を張るだろうと思っていたのに。
互いに競い合い、互いに高め合う。結構、結構……」
「"和"……だと?」
ドグマが、嫌そうに言った。
その言葉の持つイメージが、自分に似つかわしくないと思えたのである。
「"和"だよ、君も。この上なくね。そして、私は"破"だ。君たちとは、いわば敵同士なのだよ」
「敵……だって?」
無意識に、オロカはドグマを庇うように身を乗り出した。
「あぁ、別に殴り合おうというんじゃない。そこは心配しないでいいよ、オロカ君」
ゆったりと、イエソドは両手を広げて見せた。
「ドグマが手加減しないと言ったように、我々も遠慮しない。
"破"陣営を代表して、宣戦布告するよ。おおいに戦おう、サクラの夢を戦場として。
その鏡は開戦記念のプレゼントだ。まぁ、ドグマなら簡単に作れるだろうけどね、いつもなら」
「おぉ! 貴様が敵ならば、相手にとって不足はないわ!!」
嬉しそうに、ドグマは声を張り上げた。

くるりとイエソドはステッキを回転させた。宙に描かれた円が、水面のようにゆらゆらと揺れた。
「"和"と"破"の戦いは、サクラの心に葛藤を生むだろう。その葛藤が、サクラを成長させもするだろう。
夢で皆と会うのが、楽しみだよ。それでは、シー・ユー・アゲイン♪」
イエソドが揺らめく円に踏み込むと、その姿は薄れていった。
「ま、待ってくださ……」
三郎は疑問を投げかけようと、イエソドを呼びとめようとした。
イエソドは三郎に微笑みかけ、軽く手を振ってみせた。黙っておけと言うように。
「兄さん……?」

イエソドの姿が消え、揺らめく円も消えた。その空間を見つめながら、三郎は考えた。
イエソドはなぜ、こちらに──"和"陣営とやらに、情報を提供したのか?
本当に完全な敵同士ならば、情報を独占した方が有利に決まっている。
イエソドはなぜ、鏡を置いていったのか?
"いつものドグマなら"簡単に作れるという事は、逆に言えばある程度の実力が無ければ作れないという事になる。
鏡を渡さなければ、ドグマが回復するまでの間、こちらは行動が起こせないかもしれないのに。
イエソドはなぜ、わざわざ宣戦布告などをしに来る必要が──
三郎は振り返り、ちらりとドグマに視線を走らせた。
ドグマは起き上がってこそいなかったが、拳を握りしめていた──力強く。
「まさか……?」
誰にも聞こえないよう、三郎は小さく呟いた。

こんな自然環境では、生きていく事そのものが戦いだ──などと、ドグマは言ってはいたが。
それは自分たちの手前、強がっていた部分もいくらかあったのかもしれない。
やはり、ドグマは己を燃え立たせるもの──はっきりとした"目標"と"敵"を欲していたのだ。
「貴方は、また……長兄のためにあえて、敵となるというのですか……イエソド兄さん?」





第6章「君の差し出す手(後編)」>>


水色の庭園
 
目次