第6章「君の差し出す手(後編)」



51.
 

ドグマが肘をつき、膝を曲げて、身を起こそうとぐっと腕と腹に力を込めた。
「……ぐ…うぅぅ……ッ!」
食いしばった歯から、うめき声が漏れた。
「兄上! ご無理はなさらないで……」
三郎が慌てて声をかけたのとほぼ同時に、ドグマはわずかに持ち上がっていた頭を断熱マットに落とした。
「駄目か……糞ッ。体が重い……重すぎる……少し、力が湧いてきたような気がしたのだが……」
「快方に向かっているならば、しばらく休息を取られればまた動けるようにもなりましょう。
焦らずに、今は安心してゆっくりなさってください」
オロカは口出しこそしなかったものの、息を飲んでやりとりを見守っていた。
力が抜けてしまったとは聞いたが、本気で力を振り絞っても自力で起き上がれない程とは思っていなかったのである。
「安心しろだと! しばらくとはどれくらいだ! 1日か、1週間か、1ヶ月か!!」
「そ、それは……」
いきなり噛み付くように怒鳴られて、三郎が口ごもった。
「原因も対策もわからんのに、安心などできるか!」
気力に欠けていた時はドグマもあまり動きたいとは思わず、いつまでこうしていれば──などとも考えはしなかった。
しかし気力が充実するに従い、動けないというのが我慢ならなくなってきたのである。
そして目が見えない方と異なり、原因不明であるという事が不安と苛立ちを誘った。
 
 
 
ガサッ、と離れた茂みが音を立てた。
三郎が素早く身構え、一瞬遅れてオロカも腰を上げ、ドグマらを背に庇って物音の方へと踏み出した。
「なによ、原因がわからないですって! 面白そうじゃない、私に診せなさい!!」
ガサガサと薮をかきわける音と共に、ややハスキーな声が近づいてきた。
飛び出してきたのは、釣り竿を担いだ背の高い女性だった。

「女……?」
声を聞いてドグマの顔がひきつり、無意識にわずかに腰が引けた。
「なによアンタ。でかい成りして、何ビビってんのよ」
ヘイゼルの髪を揺らして、つかつかと女は近づいてきた。
「いや……少々、痛い目に合ってな……
しばらくの間は……抱きたいだけの女ならいくらでも抱けようが、本気の女は抱けぬやもしれん」
マルセルにいたぶられた際の痛みと恐怖を思い出し、ドグマは渋い顔をした。
ぱっと女は、目を輝かせた。
「何! 何! どんな目に合ったの! 聞かせなさいよ!!」
「聞くか、それを!」
「聞きたいから聞いてるんじゃない。教えなさいよ!」
「うわぁ、なんかまた凄いのが来たぁ……」
暗示郎が、引き気味に苦笑していた。

「おい、たいがいにしろよ!
目は見えないし、体の自由はきかないしで、ナイーブになってんだから……」
オロカが肩をつかんで引き止めると、女はつまらなさそうに唇を尖らせた。
「あ、そ。まぁいいわ、元気になったら聞かせてもらうって事で」
「……」
「今は興味を引かれる素材があるから、そっちからでいいわ。さぁ、診せて!」
女は釣り竿を樹に立てかけると、胸のポケットから薄いオレンジ色をしたレンズの眼鏡を出してかけ、身を乗り出した。
「医者なのか?」
「そんなようなものよ」
「そうか……」
とりあえず危害を加えるつもりはなさそうだと判断し、オロカは道を譲った。
女はドグマの脇へ屈み込むやいなや、パッと毛布を取り払った。
半裸の男の体にたじろぐ様子ひとつ見せずに、じろじろ眺めて言った。
「アンタ、珍しい術を体にかけてるのね」
「わかるのか。術というのは環境からも影響を受けるもの故、阻害されている可能性も無いではないが……」
「いいえ。それもちょっと疑ったけど、十分に作用してるわ」
ポン、と女の爪の長い手がドグマの胸板を軽く叩いた。
ドグマは一瞬、身をこわばらせた。

「で、魔翠玉の過剰投与の方だけどね」
「……ほぅ?」
一目で見抜かれた事に、ドグマは小さく感嘆の声を上げた。
「そっちは、すぐにでも治せるわよ」
「何!」
「ただ、必要なものがあるわ。アンタの属性と血液型は?」
「……? 火属性で、O型だが……?」
「そう、やっぱり火なのね。この中に、風属性か土属性で、O型の人はいる?」
女は皆を見回した。
「僕は……風属性ですが、ABです」
「たぶん風って言われたけど、僕はAだよ」
三郎と暗示郎の言葉に女は頷き、オロカに目を向けた。
「アンタは?」
「血液型……って、何だ?」
オロカが首を傾げると、女は小馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「ハァッ? アンタ、血液型も知らないわけ?」
「その人は……中世レベルの文明で育った人ですので……」
三郎が説明を入れると、女はフーンと鼻を鳴らした。
「まぁいいわ。すぐ調べられるから」
女は鞄から細々とした道具を取り出した。
覗き込んでいたオロカの手を素早くアルコールを浸した綿で拭うと、いきなりブスッと針を刺した。
「痛ェッ!」
「はい、はい……土属性のO型ね。丁度いいわ」
針についた血を試験紙に落とし、色の変化を見て女は頷いた。

「……というわけ。わかった?」
「へ? 何?」
女がした専門用語だらけの説明がさっぱり理解できず、オロカは問い返した。
「要するにィ、簡単に言うとね。
アンタの血と私の血を混ぜて、それを元に液状の依代みたいなものを作るわけよ。
そんでクランケに注入して、友好属性が惹かれあう性質を利用して魔翠玉の成分を吸着し、体の外に出すの。
わかったでしょ?」
「……全然わからん」
「アンタ、理解力低すぎ! だからねぇ……」
「そいつに理解させんでいい。私はわかった、やってもらおうか」
「……いいんですか?」
突然出てきた見ず知らずの者に体を任せていいものかと、三郎は心配になり口を出した。
「構わん。確かに実力はありそうだし、好奇心に表も裏もあるまい」
「話せるわね。じゃあ、さっそく始めるわよ!」
注射器を手に、女は声を張り上げた。
「あ、う、うん……」
オロカは何をされるかもわからず、正直怖かったが、ドグマのためならと頷いた。

「はぁい、チクッとするわよ〜」
アルコールを浸した綿でオロカの腕を拭い、女はどこか嬉しそうに注射器を刺した。
「いでででで!」
始めての体験に、オロカは思わず悲鳴を上げた。
幾度となく武器で切られたり突かれたりした事はあっても、また別種の痛みと異物感だった。
「うわ、わ……」
注射器の中を徐々に血がせり上がっていくのを見て、オロカは気持ち悪くなった。
「はい、終わり〜」
スッと注射器を抜かれ、腕を縛っていたゴムチューブを外されると、オロカは何だかやけに疲れた気がした。
「はぁぁぁ……」
「なぁによ、1リットルくらい抜かれたみたいな顔して」
「気分的には、そのくらい抜かれた気がする……」
「アンタ可愛いから、何かの時にはまたやらせて頂戴ね」
爪の長い手が、オロカの頭をナデナデとした。
「うぅ……」
この女、絶対サディストだ。オロカはそう思った。

てきぱきと自分の腕からも採血を行い、女は血をビーカーの中で混ぜあわせた。
ぶつぶつと呪文を唱えると、ふわっと血液が沸き立つように動いた。
「うわっ、気持ちわるっ」
オロカが首をすくめると、女はくすくすと笑った。
「あらん。半分はアンタの血よ?」
血液が躍り上がり、女が持ち替えた一回り大きな注射器の中に吸い込まれた。
「さぁ、注射するわよ!」
女はドグマに向き直った。
「う……うむ」
ドグマはオロカが悲鳴を上げた時からずっと、身を固くしていた。
彼は、昔から注射というものが苦手だった。
女の手が腕に触れると、ビクッと身震いした。
「アンタ、そんな固くなってると余計痛いわよ?」
「わ、わかっとるわ!」
「怖いの?」
「こっ、怖いものか!」
「じゃあ逃げないでよ」
「逃げとらん!」
「逃げてるじゃない」
泳ぐように、女のとるドグマの腕が揺れ動いていた。
「アンタ」
くいっ、くいっと指を動かして、女がオロカに目配せした。
オロカは頷いて、ドグマの腕をぐっと押さえつけた。
「べっ、別に捕まえなくとも私は逃げやせんぞ!」
「はいはいはい。わかったから力抜きなさい、ボクぅ?」
アルコールを浸した綿でドグマの腕を拭きながら、女はからかった。
「ぬ、抜く、抜くから待て……」
はぁはぁと、乱れた息を整えながらドグマは言った。
ボクとか言われた事にも気づいていなかった。
力を入れていると余計に痛い──それは理屈ではわかっている。
が、今に針が来る、針が来ると思うとなかなか腕から力が抜けない。
その針が見えない事が、余計に怖さを煽る。
「早くしなさいよ」
「い、今やる! もう少し待て!!」
「まだ?」
「もうちょっとだ!」
「もぅ……」
初めはドグマの様子を楽しんでいたが飽きたらしく、女は焦れた声を出した。
「刺すわよ!」
「まっ、ままま待ぐぎゃぁーッ!」

「……ふぅ」
背を向けていた三郎が、小さく溜息をついていた。

青ざめてぐったりとしていたドグマに、女は声をかけた。
「はい、もう一回。さっきより痛いわよ」
「まっ……」
制止しかけたドグマに構わず、女は念じた。
ピューッ、とドグマの体の数ヶ所から濁った血が吹き出した。
「痛ァ──ッ!」
血管と皮膚を破り、痛みとともにそれらをブビビビビッと震わす嫌な感覚に、ドグマは再び悲鳴を上げた。
「はい、よし。目を開けてごらんなさいよ」
さっさときつく包帯を巻いて止血しながら、女は告げた。
ぎゅっとつぶっていた目を開けると、まだ物の形はぼやけていたが、目の前が明るかった。
「見える……ぼんやりとだが……」
「じきに、ちゃんと見えるようになるわ」
わっ、と歓声が上がった。
彼らの顔が良く見えないのを、ドグマは残念に思った。

「さて、問題はもうひとつの方ね」
「時間がかかりそうか?」
「まぁね。見当はついてない事もないんだけど」
「そうか」
ドグマは、たぶん三郎であろうと思われる視界の中の細長い影に向かって、追いやるように軽く手を振った。
「三郎」
「はっ……はい?」
ドグマにその名で呼ばれるのは始めてだったので、三郎の反応が少し遅れた。
「明るいうちに、食い物を探して来い。
"狭間"同様に"最果て"にも、何故か日が射しているようだからな」
「そう、ですね……」
三郎は空を仰ぎ見、輝く木漏れ日に目を細めた。
「あ、じゃあ……」
俺も、とオロカが言いかけたが、ドグマと暗示郎の身の安全の為には残った方がいいのだろうかと迷った。
「オロカ。私の指揮棒とスーパーフォートレスを知らんか?」
「スーパー……って、あの飛ぶ奴? そっちは知らないが、棒ならあるぞ」
オロカは服を干していた樹の元へ走り、ひっかけてあった指揮棒を取ってかえって、ドグマに握らせた。
ドグマは軽く指揮棒を振り、頷いた。
「手応えがあった。どうやら沼に落ちていたようだな。じきここへ飛んでくる」
「そうか。良かったな」
「では、おまえも行って来い」
「大丈夫なのか?」
「何かあったら、もう一人の小僧の目を借りてどうにかするわ」
「え、僕ぅ? まぁ、いいけどさぁ……」
いいけど、勝手に決めないで欲しいなぁ、と暗示郎がぶつぶつと文句を言った。
「では暗示郎さん、よろしくお願いします」
「はぁ〜い……」
三郎が深々と頭を下げるのを見やり、暗示郎は渋々とドグマのおもりを請け負った。
 
 
 
女は眼鏡をかけ直し、じっくりとドグマの全身を舐めるように観察した。
いくつか体調の変化やその時の状況に関する質問をし、ドグマがそれに応えた。
沼に落ちて、意識が戻っても全く動ける気がしなかった事──
沼から抜けだした後、沼の毒のせいか魔翠玉の副作用のせいか不明だが、しばらく正気でなかったらしき事──
記憶がおぼろげだがその際、うまく歩けなかったものの、まだ椅子に座ってピアノを弾くくらいの力はあった事──
その後、弟を叱咤したり何だりと気を張っているうちはまだ良かったが、気を抜いたら起き上がれもしない程に全身の力が抜けてしまった事──

「だいたいわかったわ。じゃあねぇ……」
女はドグマの両手を取り、自分の首へとあてがった。
「思いっきり、締めてみなさい。縊り殺すくらいのつもりで」
「……何?」
「病人に殺されるほど、私はヤワじゃないわよ。さぁ、遠慮しないで」
「……」
ドグマの手に、女の細い首の感触が伝わってきた。
「主治医を締めてどうするのだ」
「その主治医が締めろって言ってンのよ」
「……む」
仕方なく、ドグマは手に力を込めようとした。
しかし、込めようとするほどに手から力が抜けていく。
ほんのわずか、指先が皮膚を凹ませる事しかできない。
「こ、これは……どうした事だ……?」

「もういいわ。これではっきりした」
女の細腕が、ドグマの骨太な手を容易く振りほどいた。
力が抜けきり自らの重さを支える事もできず、ドグマの腕がどさっと断熱マットの上に落ちた。
「う、腕が……っ?」
ずしりと重くなった腕を持ち上げようともがいているドグマを見下ろし、女は告げた。
「アンタ……見た目によらず、自制心が強くて、繊細なのねぇ〜」
「……は?」
思いもかけない事を言われ、ドグマは一瞬言葉を失った。

「なっ! 何が、繊細だ! 自制心はともかく、繊細とは何だ! 撤回しろッ!!」
いきりたつドグマを見て、暗示郎が呆れ半分に言った。
「いやぁ〜自制心って方も、怪しくない? この人、相当ぼーじゃくぶじんな暴走キャラだと思うけどぉ」
「あら。道徳心だの、倫理観だのがあるとは言ってないわよ」
「違うの、それ?」
「違うわよ。道徳心のある人は自制心も強いって事が多いだけで」
ツンツン、とドグマの額を女の爪がつついた。
「やめんかッ!」
ドグマは反射的に手を上げ、女の指を払った。
弱々しくはあったが、全く入らなかったはずの力が少しだけ戻っていた。

「まだ気づいてないかしら?
よく言うでしょう、"病は気から"って。精神は肉体にも影響するわけよ。
ストレスで胃が痛くなったり、毛が抜けたりってあるでしょ?
そういうのが、ここ"最果て"では向こうよりもっとハッキリ影響するのよ。まぁ結構、個人差はあるんだけどね。
アンタはかなり影響受けるタイプみたいだから言ってンのよ。自制心が強くて繊細だ、って」
「……どう、影響すると言うのだ」
「つまりね。本心からしたくない事を無理にしようとしても、体を動かすエネルギーが出てこないわけよ」
「あぁ〜それで、オロカを突き放す力は出ないのに、抱きつく力は出るんだぁ」
「バ……ッ」
茶化すように言った暗示郎の言葉に、ドグマの顔が紅潮した。
「オロカってさっきの子? 何、何、何してたの?」
「馬鹿者! そんな事はどうでもいい!!」
「どうでも良くないわよ、面白そうじゃない!」
「いいから、話を先に進めろ!」

「アンタ、"最果て"に落ちてかなりショックだったんじゃない?
こう……生きがいとか、張り合いとかを見失うような……さ」
「……そうかもしれん。しかし、今は違う」
「あ、そう。それは、命拾いしたわね」
「命拾い……だと?」
「えぇ。もう生きていてもしょうがない、なんて気持ちを持っちゃうと、意識してなくとも一番大きな本心なわけよね。
その本心に逆らう形で何かしようとしたって、全然エネルギーが湧いてこないわけね。
弟くんをどうにかしなきゃ、って思ってるうちは多少は持ってたんでしょうけど。
それが一段落つくと、ガクッと抜けちゃったんでしょ。
そのまんま進行すれば、こ・こ……心臓まで動かなくなって死んでたでしょうよ」
爪の長い手が、胸板をねぶるように撫で回した。
忌まわしい記憶を刺激され、ドグマの顔が歪んだ。
「や、やめろ……」
蘇った恐怖に縛られたように、ドグマは女の手を押しのける事も忘れて硬直していた。
「うふふふ。動けない? これも、精神が肉体に及ぼす影響かしら、ね?」
「うぅ……ッ」
動かぬドグマの体の表面を、上から下へスーッと女の手がなぞっていった。
「で、話を戻すとこの病……本来の意味とはちょっと違うんだけど、ここじゃ俗に"燃え尽き症候群"って呼ばれてるわ。
意志が強くて何かをバリバリ命懸けでやってたような人が、急に目標を達成しちゃったり見失っちゃったりすると患う事が多いから、ね」
そそられるわぁ、と呟きながら女はようやく手を離した。
ドグマは体をこわばらせていた力を弛緩させ、ハァッハァッと荒く息をついた。
頭の片隅の冷静な部分が、オロカと三郎を下がらせておいてまだ良かったと、妙な安堵をしていた。

「それならなぜ今、すずめの涙ほどしか力が戻ってこんのだ?」
手を握ったり開いたりして心を落ち着かせながら、ドグマは疑問を投げかけた。
「いったん"燃え尽き症候群"を患うと、エネルギーがあんまり出ない体になっちゃうのよ。
回復するまでには、かなり時間がかかるのよね」
「……どのくらいだ?」
んー、と女は小首を傾げた。
「早くて……2、3年くらい?」
「待てるかぁッ!」
思わず、ドグマは大声を立てていた。
「あらぁ。時が経てば回復する事はわかってるんだから、そのオロカちゃんにお世話してもらえばいいじゃな〜い?」
「ふ、ふざけるなッ!」
「あ〜あのさ、どうにかする方法があるなら、いじめるのはそのへんにしたげなよ〜
その話がホントなら、またガックリ気落ちしたらまずいんじゃないの〜?」
暗示郎があわあわと口を挟むと、女はいたずらっぽくニヤニヤ浮かべていた笑みを収めた。
「まっ、そうね。ひとつ方法はあるにはあるけど……これはこれで、アンタにとっては羞恥プレイかもしれないわよ?」
指を一本立てて、女は意味ありげに言った。


マインドパペット1.5 水色の庭園
52.

ドグマは、ふと目を見開いた。
口元で、何かがカサカサと鳴っている。
霞む目を凝らすと、紙袋があてがわれていた。
「目を覚ましたかしら?」
女が、ドグマの顔を覗き込んだ。
「私は、何を……」
「過呼吸起こして、失神しただけよ」
「過呼吸……だと?」
ドグマは顔を大きくしかめ、手のひらで目を覆った。
「私が! 小娘のような真似を……この私が! あぁ、情けないッ!!」
「気にする事ないわよ。そりゃあ、向こうじゃ傾向的には若い女性に多いけど。
こっちじゃ、『心が風邪をひいた』って言われるくらい、よくある事だもの。
言ったでしょう、精神がより強く肉体に影響を及ぼすんだって」
「……」
「ま、紙袋あげるから、お守りがわりにいつもポケットに入れておくといいわよ。
このまま息が詰まって死んじゃうんじゃないか〜とか不安なことは、なるべく考えずに。
時と共に必ずおさまるんだっていう体験を得ることが大切なの。
心臓が悪いとかじゃない限り、過呼吸で死ぬこた無いんだから。と、言っても……」
女は、トランクス一枚のドグマの下半身を見やって、ニヤッと笑った。
「無いか、ポケット」
「……服が乾いたら、忠告に従おう」
ドグマは顔から手を下ろした。手の甲が、後頭部の柔らかい感触のものにかすめた。
「おい。下ろせ」
「下りたきゃ、自力で下りなさいよ」
「ふん……」
ドグマは膝枕をされたまま、努めてゆっくりと呼吸をした。
「それより、ごめんなさい。ちょっと、いじめすぎちゃったわ」
「……何をだ」
女の詫びに、ドグマは問い返した。
「さっき言った方法はね、それでエネルギーが足りるかどうかわからないし。
もうひとつのやり方の方が、確実だと思うわ」
「貴様……方法はひとつしかないかのように言いおってからに!」
「考え方そのものは変わらないわ。
少ないエネルギーでもまともに動けるように、体の方を合わせるって事だから。それはね……」
女はドグマの耳に顔を寄せ、囁いた。

「……」
「……」

「心理的にも、まだちょっとはマシなんじゃなくて?」
「……確かにな。だが、即答はしかねる」
ドグマは目を閉じて、考え込んだ。
「……少し、下がっていてもらおうか。一人で考えたい」
「わかったわ」
女はドグマの頭をそっと断熱マットの上に下ろすと、腰を上げた。
焚き火に枯れ枝を投げ込んでいた暗示郎を手招きすると、その場を離れた。
 
 
 
ドグマは、目を閉じたままじっとしていた。
しばらくして少々苦心しながら寝返りをうち、うつぶせになった。
肘をつき、片膝を曲げて、ぐっと力を入れて体をマットから引き剥がそうとした。
「う、うぅ……」
何度試しても、やはり思うように力が入らない。
少しぐらい手足を動かす事はできても、己の体重を支えるにはまるで足りないのだ。
特に、足腰が全く上がらない。力の抜けきった足が、いたずらにマットの表面を滑っていく。
「おのれ……こ、この足……しっかりせんか……」
ぷるぷると、不自然な体勢での荷重に耐えかねた腕が震えた。
力つき、ドサッと持ち上げかけていた上半身を投げ出した。
「いかん……これでは、いかん……
術は、あまり高度なものでなければ使えようが……日常生活もままならぬようでは……」

足手まとい──

お荷物──

嫌な言葉が、脳裏をかすめる。
オロカらに見捨てられるなどと、思っているわけではない。
それでも、一日二日ならばともかく、何年も人の手をわずらわせるのは嫌だった。
食事、入浴、着替え、排泄──思い浮かべるだけでうんざりした。
かつて、生活のすべてを人に頼らざるを得なかった時期もあった。
が、代価は支払っており、介護人も仕事でやっているのだから対等だと思えば割り切る事もできた。
今回は、代価など何も出す事はできない。
ましてや、人手がいくらあっても足りないこの環境で、更に人手を奪う事に繋がるのは痛い。
「お荷物には変わるまいが……軽い荷物であるべきか?
その為なら、少々の恥辱に耐える程度……ささいな事か?」
 
 
 
「このくらい離れれば、今のあの人の視力じゃ見えないかしらね」
薮の影に隠れて、女は小声で言った。
「ねぇ……さっき、どんな事を言ったのさ?
あー見えて意外と、精神的に脆いところもあるんだね〜ってのは、傍からもわかるけどさ。
それでもあんな強気な人がひっくり返るくらいの事って、何なのさ?」
暗示郎が恐る恐る声を潜めて尋ねると、女はあっけらかんとした口調で応えた。
「女になれって言ったのよ。肉体を変化させて」
「……き、君……鬼ィ?」
暗示郎は目をむいた。
一時的なものかもしれないが、明らかに女性恐怖症らしき様子を見せている男にそれを言うか、と。
「あら。自分が女になっちゃえば、案外女も怖くなくなるかもしれないじゃない?」
「そんなのは、その人の捉え方次第でしょぉ?」
「まっ、そうなんだけどね〜。
からかうと面白いんだもの、あの人。つい、やりすぎちゃった。はい、反省」
女は暗示郎の肩に手を起き、かくんと頭を垂らして見せた。
「僕に反省されたって……ご主人様や兄ちゃんがいじめられたと知ったら、あの二人が怒るかもよ?
普段は温厚だって、オロカも三郎もいざキレると怖いんだからねッ」
その言葉に女は顔を上げ、意外そうに暗示郎の顔を見つめた。
「三郎……って、あのうらなり猫背よねぇ。
あっちが、あの人の弟くんだったの? てっきり、ツンツン頭の方だと思ったわ」
「そだよ。でも……」
「似てないわねぇ〜!」
「似てないよねぇ〜!」
二人は声を揃え、大げさに首を振り合った。

「で、何? 大脳辺縁系だけで生きてそうなツンツン頭はともかく、弟くんもキレると怖い?
ふーん……是非見てみたいわぁ、取り澄ました仮面の裏側を……」
食指を動かされた様子で、女は舌なめずりした。
「あ、あんまりズケズケ行かないでやってよぉ?
あいつ、人当たりは良く見えるけど、その実、結構な人見知り屋なんだからさ」
「人当たりの良い人見知り!」
女は、ぱっと目を輝かせた。
「いいわねぇ、それ燃えるわ! 大好物よ!!」
「あ……」
どうやら、藪をつついて蛇を出してしまったらしかった。
暗示郎は、心の中で小さく舌を出して、三郎に詫びた。

「……あれ?」
暗示郎は女から顔を背けて、声を出した。
「何よちょっと、もっと詳しく教えなさいよ!」
「いや待ってよ! あれぇ!?」
暗示郎の指が、ドグマの寝ていた方を指さした。
 
 
 
「豊かな森ですね……」
三郎が、歩きながら軽く伸びをした。
「そうだな」
オロカも、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
溢れかえるような草木の香りと、ほどほどの湿り気が心地よかった。

「あぁ、これは食べられますね」
いそいそと三郎が屈み込み、キノコを摘み始めた。
オロカは三郎の手元を覗きこみ、似たようなキノコを探した。
「三郎、これか?」
「んー……」
オロカが指さしたキノコを、三郎はしげしげと見つめた。
「それは毒です。ほら、かさの形が少し違うでしょう?」
「えぇー?」
そう言われても、オロカには三郎の摘んだキノコとの違いがわからなかった。

何度キノコや山菜らしきものについて尋ねても「毒」だの「美味しくない」だのと言われるので、オロカは諦めて頭上を探し始めた。
「オロカさん、足元にも気をつけてくださいよ。蛇なんか踏みつけないように」
「あー、あぁ」
そう応えた矢先、オロカは何かを蹴飛ばした。
金属音を立てたそれを、彼は拾い上げた。
「おい、三郎。これ、落としたか?」
「えっ……あぁ、ありがとうございます」
焦げ跡のついた銀色の懐中時計を、三郎は大事そうに受け取った。
近くで見ると、作りに見覚えがあるとオロカは気づいた。
「それって、ドグマのに似てるな」
「えぇ、そうですよ。同じデザインです」
「なんだ、お揃いか。なんだかんだ言って、仲良かったんじゃないか」
「……そうでもないです」
否定しながらも、懐中時計を見つめる三郎の目付きはどこか懐かしそうだった。
「父親がね。僕達二人に向かって言ったんです。
ウィローも──僕の事ですが──時空魔術の修行を始めたようだから、これをやろう、と。
差し出された箱の中には、金、銀、銅の3つの時計が入っていました」
「ドグマは……なんか、金以外は嫌って言いそうだな」
小さく笑ってオロカが言うと、三郎は頷いた。
「えぇ。サッと金の時計をむしりとって、絶対譲らないぞとばかりに僕をにらみつけました。
でも、ほぼ同時に僕は、銀の時計を取っていたんですけどね。
後に、残った銅の時計をイエソド兄さんに届けましたが、『残り物には福があると言うからね』と笑っていましたよ。
その場を見ていたかのように……」
「ふーん……」

「金よりも銀の方が、色として好きだったというのもありますが……
あの時既に僕は、兄上こそが頂点に輝く太陽に相応しいと思っていたのかもしれません」
「おまえは、あえて月になったのか?」
「えぇ……いや。違う……違いますね」
頷きかけた首を、三郎は強く横に振った。
石の上に腰を下ろし、懺悔でもするように頭を垂れた。
「あえて月になっただけだと……なろうと思えば太陽にだって、いくらでもなれると……そう思っていました。
しかし、所詮……月は、月でした。太陽になれる力など……無かったのですよ」
「……? でも、ドグマはおまえにも素質があるって言ってたぞ?」
「素質的な欠落なのか、性格的な要因なのかはわかりませんが……儀式がね」
「儀式?」
「えぇ……モスタリアを維持するための集団儀式が、全くできなかったんですよ。
時空魔術は、得意分野だというのに……
なんというか……ソロでは歌えても、合唱となると他のパートにつられてしまって全然音程が取れない、みたいな……」
「へぇ。そういうこと、あるのか」
オロカはどちらかといえば音痴と言われる部類だが、合唱では音を追うのに必死で他のパートを聞く余裕が無く、つられるという感覚が良くわからなかった。
「めげずに地道な反復練習を積めば、どうにかなったのかもしれませんが……
当時……僕としては、"この僕が、できない"という事が、随分なショックでして。
儀式場に足を踏み入れる事さえ、嫌で嫌で仕方がなくて。
その上、父上からも……兄が魔力を失った以上、おまえが管理者を継ぐしかないのだと、プレッシャーを積み重ねられて。
何が原因で駄目なのかと調べてくれるでもなく、僕の気持ちを理解してくれるでもなく……
ただ根性が足らない、気合が足らないと精神論をぶつばかりで、それももぅ、嫌で。
儀式の時刻が近づくと、仮病でも何でもなく、本当に酷い頭痛がしたり、吐いてしまったりしてね……」
「……」
「結局……逃げてしまいました。兄上に、すべてを押しつける形で。
兄上を"統治者にして管理者"の座に押し上げた理由は、それだけではありませんが……
いえ、やはり何を言っても言い訳になってしまいますね……
結果的に、僕は……兄上にすべてを押しつけて……そして、すべてを取り上げて……奈落の底に突き落とした……」
三郎はぎゅっと懐中時計を握り締め、胸に押し当てた。
「僕は……卑怯者です……ッ!」

「……」
何故、三郎はドグマでなく自分へ、堰を切ったように告白をするのかオロカにはわからなかった。
けれども、何か言わねばと、考えに考えた。
せっかく──半分、その場の勢いのようなものかもしれないが──ドグマとの確執が緩んだというのに。
このままだとまた、三郎は心に大きなわだかまりを抱えてしまうかもしれない。
「その……三郎。俺はあんまり事情を知らないし、俺が言ったって意味無いかもしれないが……」
「……」
「ドグマは……そんな、過ぎた事なんて気にしてないと思うし……それに」
「……」
三郎は、ゆっくりと顔を上げ、オロカの目を見つめた。
目をそらしたくなる気持ちをぐっとこらえ、オロカは三郎の目を見つめ返した。
「それに……何です……?」
「ドグマは……結構、おまえの事……好きだと思うけどな……」
「だとしても……それを僕は裏切って……」
「今でも、だ」
「……」
「それに、何かさ……
おまえの、たいした努力もせずにサラッとこなしちまうところが、憎たらしいとは言ってたけど……けど、な」
「……」
「俺には……なんだか、おまえという存在があったからこそ、ドグマはそれに負けまいと努力する事ができて……
それで、高みに立てたと感謝もしてるような……そんな気がしたんだ」
「……」

三郎は、そっと汗ばんだ手のひらを広げた。
ゆっくりと懐中時計の蓋を開けて文字盤を見ると、カチッ、カチッとかすかな音を立てて、秒針が動き続けていた。
オロカがドグマの懐中時計を見知っているという事は、ドグマも未だそれを持ち続けているという事である──
今更ながらに、三郎はその事実に気づいた。
父親──ドグマが殺した父親が、かつて三兄弟それぞれに分け与えた懐中時計。
ドグマの立場であれば、踏みにじって捨ててしまう方が自然であろうそれを。

「ただの推測だし……俺に言われても、その……やっぱり、あれかな……」
「いえ……」
三郎は、パチンと懐中時計の蓋を閉めた。
ふっと口元に、柔らかな微笑が浮かんでいた。
「信じますよ……貴方の目を」
「そ、そうか……」
ほっ、とオロカは息をついた。

「ところで三郎。あそこにでっかい満月が出てるんだが、食えるのか?」
「はい?」
三郎は胸ポケットに懐中時計をしまいながら腰を上げ、オロカが指差す先を仰ぎ見た。
大きな手のひらのような葉に半ば隠れるようにして、2〜30cmほどの丸く黄色い実が、梢に3つついていた。
「あぁ、あれはパンノキと言いまして……」
「パンの木?」
「サツマイモのような味で、美味しいですよ。デンプン質なので、おなかにたまりますし」
ぐぅぅぅっ、とオロカの腹の虫が鳴き、彼は赤面した。
「そっ、そう聞いたら、腹へって来たな。あそこまで登れるかな……」
「いや、僕が落としましょう。下で受け止めてください」
「わかった」

三郎がトンッとサンダルの爪先で軽く地面を叩いた時、突然彼の胸元で鈴のような音が鳴った。
「んっ、何だ?」
「暗示郎さんに渡しておいた、連絡アイテムです。なんでしょう……」
首にかけた革紐を引っ張り、服の内から小さな巻貝の殻を取り出すと、三郎は耳に当てた。
「三郎です。どうしました?」
貝殻から、暗示郎の切羽詰った声が飛び出してきた。
「ドグマが! ドグマが、居なくなっちゃったよ!!」


マインドパペット1.5 水色の庭園
53.

「何ですって! 兄上が!?」
張り上げた三郎の声に、オロカは息を呑んだ。
「ちょっとだけ! ほんのちょっと目を離しただけなのに!
ドグマからも連絡アイテム預かってたんだけど、全然応答がないんだよ!!」
「わかりました……すぐそちらへ向かいます!」
三郎は頷き、貝殻を胸元へ滑り込ませながら、オロカに手を差し出した。
「オロカさん、行きましょう」
三郎の顔には緊迫した表情が浮かび、細い目が吊り上がって見えた。
ゴクリと唾を飲み込むと、オロカも頷き、三郎の手をとった。
「跳びます!」
言うなり、三郎は地を蹴った。
トーンッ、と一気に木の葉を突き抜けた。
「わわっ!?」
オロカは急激な上昇感に思わず目をつぶった。
次に目を開いた時、森の樹々が眼下に広がっていた。
「す、すげ……」
状況を一瞬忘れ、オロカは感嘆の呟きを漏らした。
三郎はオロカの手を引き、トーン、トーンと空中に足場があるかのように飛び跳ねていく。
ひと蹴りごとに、周囲の光景が猛スピードで後方へ流れていった。
1分とかからず、二人は元いた湖畔へと戻ってきた。
 
 
 
「戻りました!」
「早っ……」
暗示郎が目を丸くして、オロカと三郎を出迎えた。
「状況はどうなんだ、暗示郎?」
「いま、あの人が調べてるけど……」
暗示郎が指差す先──女はドグマが横になっていた断熱マットの近くに屈み込み、痕跡を調べていた。
その傍には、指揮棒と爆撃機の玩具が転がっていた。
ドグマが急に動けるようになって、どこかへ行ったのではないか──
願望半分で、オロカはそのようにも思ったが、それにしては火の傍に靴が干されたままだった。
いくら靴が濡れて気色悪いとはいっても、足裏を傷つける物が多い森の中を裸足で行くわけがない。
「暴れた様子……ってほどじゃないけど、マットが少しよれてるのよね。
第三者の足跡らしきものは無し……ただ、地面に引きずられたような跡があるわ。途中で途切れているけど……」
「途切れてる? ってことは!」
振り返り、女はオロカに頷いてみせた。
「第一に考えられるのは……空を飛ぶ何者かにさらわれたって可能性ね。
あれは補助魔具でしょ? 使う暇も無く気絶させられたか、声も出せないほど完全に身動きを封じられたか……」
女は指揮棒を指さし、首をひねった。
「もっとも、血痕が無いから一撃で殺られたって事は無いと思うけどね……たぶん」
「そ、そうか……」
一瞬安心しかけたが、オロカは血相を変えて怒鳴った。
「でっ、でもそれ! 巣に持ち帰って雛に食わすつもりとか、そういうのかもしれないじゃないか!!」
「えぇ、ありえるわね」
「ありえるとか言ってる場合じゃないだろ! すっ、すぐにどうにか……」

「落ち着いてください、オロカさん。こういう時こそ、平常心が大切です」
浮き足立ったオロカをなだめるように言って、スッと三郎が歩を進めた。
木の枝に引っ掛けてあるドグマの軍服を手に取り、丁寧に探すと、付着していた一本の髪の毛をつまみあげた。
目を閉じ、精神を集中すると、くいっと髪の毛が曲がった。
「あちら……ですか」
「居所がわかるのか、三郎!?」
「方角だけですけどね……」
元通り軍服を木の枝にかけると、すたすたと三郎は歩き出した。
「ん……?」
三郎は足を止め、首を傾げた。
髪の毛の示す方角に、彼のトランクが置いてある。
周囲には、トランクの中に納めていたはずの物が散乱していた。
「まさか……?」
三郎は腰をかがめ、トランクに手をかけた。
「なにやってんだ、三郎。そんな中にドグマが入るわけないじゃないか」
「僕なら、無理すれば入れなくはないかもだけど……ドグマの体格じゃねぇ」
オロカと暗示郎の言葉に構わず、三郎はトランクの蓋を開けた。
「えっ……」
三郎は中身を注視し、言葉を失った。
「おい、どうした?」
「なに、なに?」
オロカと暗示郎も、トランクの周りに駆け寄った。そして、己の目を疑った。
少年──5、6歳ほどの黒髪の少年が、胎児のように身を丸めて、すやすやと眠っていたのである。

「……あ、あの……お休みのところ、すみません……」
遠慮がちに、三郎が少年の肩をつかみ、揺すった。
少年は、うぅん……と、かすかに声を漏らしたが、目を覚ます様子が無かった。
「ちょっと……す、み、ま、せん! それ、僕のトランクなんですけど!!」
「……って、そういう問題?」
暗示郎の突っ込みをよそに、三郎は今度は無遠慮にがくんがくんと少年を揺さぶった。
少年はようやく黒曜石のような目をぱちりと開き、むっくり身を起こした。
「ん……あぁ、良く寝た。1年ほど寝た気分だ」
声変わり前の高い声とそぐわぬ、大人びた口調で少年は言い、大きく伸びをした。
「腹が減ったぞ。三郎、オロカ、食い物は見つかったのか?」
「……は?」
「……え?」

「まさか……っ」
三郎はそそくさと立ち上がると木陰に走り、石をひっくりかえして、戻ってきた。
「手を出していただけますか?」
「ん……?」
寝ぼけ眼をこすりながら少年が手のひらを広げると、三郎はその上に握っていたものをポトンと落とした。
丸まっていたダンゴムシが、もぞもぞと細かい無数の足を動かしながら体を伸ばそうとしていた。
「ぎゃあァァァ!」
少年はぶんぶんぶんっと激しく手を振った。ダンゴムシが、遥か彼方へ飛んでいった。
「な、なにをする、貴様ァ!」
服の裾で、少年はゴシゴシと手をこすった。
その拍子に、マントのように羽織っていた大きな服がずり落ちた。
「すみません……ちょっと、確かめさせていただこうと……小さい頃、足の多い生き物が苦手でしたよね……」
「足は6本まで! 妥協しても8本までだ! それ以上は認めぬ!!」
少年は腕を組み、あぐらをかいて、ふんぞり返った。
「そう、そう言ってましたね……兄上……」
「あ、あに……って、ええっ……ド、ドグマなのか……? こ、これがァ……?」
「馬鹿者! この私に向かって『これ』とは何だ、『これ』とは!!」
少年の小さな指が、オロカに突きつけられた。
「かっ……かわ」
少年にギロッと睨まれて、暗示郎は漏らしかけた「可愛い」という言葉を飲み込んだ。

「あーぁ、もうバレちゃった……
うんうん、第二に考えられるのは、箱を用いる術を使うために、自分でその中まで這って行った可能性、よねぇ〜」
女がニヤニヤしながら言うと、オロカと三郎はどっと疲れを感じて肩を落とした。
 
 
 
少年──ドグマはゆるゆるのトランクスの端を、腰の横で結んだ。
「よし……んっ……」
手をトランクの底につき、ぐっと手足に力を込めた。
尻が浮き、中腰の姿勢になると、がくがくと膝が震えた。
「あ……」
三郎が思わず手を出しかけると、ドグマはパッと手のひらを突き出して制止した。
「手を出すな!」
「は、はい……」
ここまで体を軽くしても萎えた脚の力は十分とは言いがたく、ずしりとした重荷となった。
重力に逆らい、歯を食いしばって、ドグマは力を振り絞った。
やがて、少しずつ、少しずつ体が持ち上がっていった。
よろめきながらも何とか立ち上がると、片足を上げてトランクの縁を乗り越えた。
頼りない足取りながら二歩、三歩、四歩と歩むと、大きくバランスを崩し、べちゃりと尻もちをついた。
「ふぅ……まぁ、最初はこんなものか。足の脱力が特に、酷かったからな……
だがまぁ、この体に慣れればじきに走り回れよう……長距離はきついやもしれぬが……んッ」
背後から腕が回され、ぎゅっと抱きしめられて、ドグマは肩越しに振り向いた。
長い黒髪が障壁のように被さり顔が見えなかったが、それが誰かはすぐにわかった。
「良かったですね……兄上……っ!」
「……ふん」
三郎の腕に、ドグマはそっと小さな手を重ねた。
震えが手に伝わってきたが、ドグマは「泣くな」とは言わなかった。

「あー……うっ、うん」
咳払いをして、ドグマは言った。
「しかし、この声が気に食わんな。まるで女の声ではないか」
「いいじゃん、高いキーの歌がうたえるようになったと思えば〜」
ケラッと暗示郎が言うと、ふむ、とドグマは鼻を鳴らした。
「どれ、手はどの程度動くか試してみるか……これ、離せ」
ドグマは三郎の腕を乱暴に振りほどくと、その肩につかまってよろよろと立ち上がった。
そして、何度かふらついたり膝をついたりしながらも、自力でグランドピアノの方へと歩いて行った。
目元を拭いながら三郎が駆け寄り、椅子の高さを調整した。
ドグマは足をジタバタと振り、勢いをつけてよじ登って、それに座った。
ポロン、ポン、といくつか音を鳴らし、手の小ささが不満そうに指を曲げ伸ばししたが、スッと鍵盤の上で構えた。
初めはぎこちなく、しかしすぐに滑らかさを取り戻した前奏が流れ出し、ドグマの口が開いた。
 
 
  Every day I listen to my heart
  ひとりじゃない
  深い胸の奥で つながってる
  果てしない時を 越えて輝く星が
  出会えた奇跡 教えてくれる

  Every day I listen to my heart
  ひとりじゃない
  この宇宙の御胸に抱かれて

  私のこの両手で 何ができるの?
  痛みに触れさせて そっと目を閉じて
  夢を失うよりも 悲しいことは
  自分を信じて あげられないこと
 
 
高く澄んだ、そして伸びやかなボーイソプラノ。
そこに居る誰もが身じろぎもせず、じっと聞き入っていた。
オロカは歌詞に促されたように、そうっと目を閉じた。
その方が、この歌を聞くには相応しい気がしたのだ。
 
 
  愛を学ぶために 孤独があるなら
  意味のないことなど 起こりはしない

  心の静寂に 耳を澄まして

  私を呼んだなら どこへでも行くわ
  あなたのその涙 私のものに

  今は自分を 抱きしめて
  命のぬくもり 感じて

  私たちは誰も ひとりじゃない
 
 
ひとりじゃない──
そのフレーズが、また繰り返された。
初めの1回目2回目は、聞き間違いではないかと、オロカは少しばかり疑ってしまっていた。
ひとりじゃない──
しかし、聞き間違いなどではなかった。
ドグマは、確かにそう歌ってみせたのだ。
 
 
  ありのままでずっと 愛されてる
 
 
オロカは目を開けて、ちらりと三郎の横顔を見やった。
愛されてる──愛してる──
そんな言葉を、ドグマは口に出しては言わない。
しかし、歌でなら──歌に思いを託してなら、言えるのかもしれなかった。

  望むように生きて 輝く未来を
  いつまでも歌うわ あなたのために
 
 
ドグマは歌を締めくくり、鍵盤から手を下ろした。
しん、と静寂が辺りを包んだ。
はっとオロカは我に返り、力いっぱい拍手をした。
他の者も、つられるように我に返って、拍手に加わった。
「ふ……ふン! 弾きにくいことこの上ないが、慣れだなこれも!!」
照れを紛らわせて横を向き、ドグマはわざと吐き捨てるように言った。
素直じゃないな──
でも、きっとドグマの気持ちも三郎に伝わっているに違いない──そうオロカは思った。
その対象が三郎へだけではないという自覚には、オロカも欠けていたのだが。

「しかし、アレだね。サクラより、ちっちゃいじゃん。
何か教えるとか、できるの? ナメられたりとか、しない?」
暗示郎の問いに口を開きかけたドグマに先んじて、女が言った。
「あら、問題ないわよ。
さっきのダンゴムシみたいに、多少は肉体に精神が引きずられる部分はあるけど。
基本的には、精神年齢は変わらないんだもの。夢の中じゃ、元の姿に戻ってるでしょうよ」
「ふへっ……?」
暗示郎が、素っ頓狂な声をあげた。
「なぜ、その事を……?」
三郎の問いに、女はにっこりと笑って応えた。
「あぁっ、申し遅れたわね。私の名は朽葉。アンタがたと同じく"和"よ。
よろしくね、ドグマ、オロカ、三郎、暗示郎」
「さ、最初から言えよ!」
声を張り上げたオロカの額を、ツンッと女──朽葉の、爪の長い指がつついた。
「馬鹿ねぇ。そんなの最初からバラしたらぁ……面白くないでしょ?」
 


マインドパペット1.5 水色の庭園
54.

ドグマがピアノの椅子からピョンと飛び降りると、着地の衝撃でふらふらっとよろめき、尻餅をついた。
「くそ、やはり足の力がたりんか? もう少し……3歳児ぐらいに落とすべきか?
これ以上体を小さくすると、不便極まりないのだが……」
朽葉が外していた眼鏡をかけ直しながら、ドグマの足に触れた。
「もう少し、その体がしっくり馴染むまで様子を見たら? それでも駄目だったら、もっと体重を軽くすればいいんだし。
あとね、急に体のサイズや重心の高さが変わったせいで、平衡感覚が狂ってるのかもしれないわよ」
「触るなッ!」
明らかに必要以上にナデナデとしてくる手を振り払い、ドグマは椅子につかまって立ち上がった。
その勢いで結び目が解け、ストンとトランクスが落ちた。
「うッ……」
「まぁ〜、こっちのサイズも可愛いこと」
「や、やかましいわッ!」
ドグマは慌てて、トランクスをずり上げた。
「平衡感覚か……うむ、歩く練習が必要だな」
「ただ歩くんでなく、横歩きや後ろ歩き、たまにはスキップという風に変化をつけるといいわよ。
それに、ブランコで揺られたり、目を閉じて片足立ちするのもいいわね。バランスボールがあると、もっといいんだけど」
「なるほど。しかし、腹が減っては戦はできぬ。おい、飯はまだか?」
そう話を振られてオロカは、キノコや山菜の入った袋を置いてきてしまったのに気がついた。
「おい三郎。さっきのパンの実ってやつ、取りに行こう」
「パンの実でなく、パンノキですよ。そうですね。慌てていたので、持ち帰る余裕がありませんでしたね」
二人の言葉を聞いた暗示郎が、はしゃいだ声を出した。
「パンノキ? それ、テレビで見た事ある〜食べたい、食べたい、食べてみたい♪」

「その前に、三郎。切ってもいい服、ない? 簡単なので良ければ、この子の服作っちゃうわ」
「『子』というな、『子』と!」
噛み付くように怒鳴ったドグマを見やって苦笑しつつ、三郎は朽葉に頷いてみせた。
「これは……雑巾にでもしようと思っていたものですが、単にほつれただけで布地は傷んでいないものもありますし。
適当に使ってください。助かります」
トランクから小袋を出し、口をほどくと、紐でくくった衣服がドサリと飛び出した。
「結構、あるじゃない」
「溜まってしまうんですよね、こういうのって……いつか使うつもりで、結局使わなかったり……」
「ちょうどいいわ。パンツはいっぱい要るでしょ、パンツは。おねしょもするでしょうし」
「するか!」
吐き捨てたドグマの頭を撫でながら、朽葉は言った。
「気にしなくていいのよ、ボク〜。体は子供なんだから、布団に立派な地図を描いたって、普通のことなんだからねぇ〜」
「『ボク』とか言うでない! 第一、私はこのくらいの歳には、もう寝小便なぞしとらんかったわ!」
「ホントに〜?」
喧嘩に巻き込まれたくないのか、三郎はそそくさと小走りに森へと入っていった。
オロカも、慌てて後を追った。
 
 
 
「しかし、まぁ……ドグマも、元気になって良かったよな。
一時は、どうなることかと思った。このままどんどん力が抜けていって、魂まで抜けちまったらどうしようと……」
オロカが三郎の背中に声をかけると、振り向かぬままに返答がかえって来た。
「そうですね。安心してしまって……つい、お見苦しいところをお見せしました」
「見苦しい?」
オロカは首を傾げ、ワンテンポ遅れて、三郎が泣いたことかと思い当たった。
「見苦しい事なんか、ないだろ。あのくらいで見苦しいとか言ってたら、俺なんて生きてられないぞ。
ウソをつくのは恥ずべき事だが、思った事をそのまま表に出して、何が恥ずかしいんだ」

三郎は不意に立ち止まり、振り返ってじっとオロカを見つめた。
「ん? 何だ?」
「……貴方が、羨ましいですよ」
「ふぇっ!?」
オロカは驚いて、大声を立ててしまった。
「お、俺が? う、羨ましいだって!?
な、何言ってるんだ? むしろ、俺だっておまえら羨ましすぎるぞ!?
おまえみたいに何でもサラッとスマートにこなせたら、どれだけいいだろうと思うし!
暗示郎みたいに、気の利いたことのひとつも言えたらと思うし!
ドグマだって、たまにちょっとは打たれ弱いところはあっても、体が不自由だってのに意志が強くて自信たっぷりで、しっかりした己ってヤツがあって……」
「……やめなさい」
「えっ?」
珍しく、三郎が厳しい命令口調で言うので、オロカは思わず言葉を詰まらせた。
「『体が不自由なのに』凄い、なんて言うものではありません。『凄い』と思うなら、単に『凄い』と言うべきです。
身障者というものを一概に括れはしませんが、少なくとも兄上のような性格では『見下されてる』と思われかねませんよ」
「そ、そうか……そういうつもりじゃなかったんだが……そう受け取られるっていうんなら、気をつける」
神妙に頷くオロカに、三郎はフッと小さく微笑みかけた。
「悪気があっての事ではない、というのは、十分にわかるんですがね……」
 
 
 
トンッと地を蹴り、三郎は宙に舞った。すらりと、短剣に変化させた剪定鋏を構えた。
「落としますよ、オロカさん」
「おう!」
切られたパンノキの実が落下し、ぐっと腰を落として構えたオロカはそれを受け止めた。
「お見事。次、行きますよ」
「あぁ!」
返事をかえしながら、オロカは眩しそうに空を飛び跳ねる三郎を見上げていた。
作り物の庭園よりも、本物の自然の中にいる三郎の方が、いきいきとして見える。
闇太郎とかいう少年に希望の場所を問われた時、とっさに「緑の多いところがいい」と答えて、本当に良かった──
「……っと!」
続いて落ちてきた実を目にし、慌ててオロカは飛びつくようにキャッチした。
転倒し、実をかばって捻った背中を地面に打ちつけた。
「何してるんですか、オロカさん」
「すまん! ちょっとばかり、余所事考えてた!」
「もぅ……ラスト行きますよ!」
「おう!」
実を地面に置き、服についた土を払って、オロカは立ち上がった。

「なんだか、楽しそうだな、三郎」
パンノキの実を担ぎやすいよう、紐で括っている三郎を見ながら、オロカは声をかけた。
「そう……ですか? そうですね……僕は、自分の庭を持つのが夢でしたから」
「自分の庭?」
「えぇ。庭のオーナーの意向と僕自身の美意識をすり合わせ、バランスを取ってまとめあげるというのも、ある程度までは醍醐味ではありますが……
それでも、あまり縛りがきつければ嫌になる事もあります。
一度くらい、思いっきり自分の好みだけで庭を作り上げたいと思っていました」
「ふーん……」
オロカは、以前なかなか口に出せなかった一言を思い出した。
「て……手伝おうか?」
思ったよりも、すんなりとその言葉は口から出た。
「そうですか? それは、ありがとうございます」
にこりと、三郎は微笑んだ。
「貴方に手伝っていただければ、やれる事の幅が広がりそうですよ」
「そ、そうか? たとえば?」
「そうですねぇ……一度、ツリーハウスというものを作ってみたかったんですよね」
「ツリーハウス?」
「大きな樹の上に、小屋を作るんです」
「へぇ〜。そりゃあ、いいな。秘密基地みたいで」
「でしょう?」
子供のように、三郎の目が輝いていた。

「樹……っていえば……おまえさ。ウィローっていうのが、本名なのか?」
柳の木って意味だよな、と思い出しながらオロカは問うた。
「本名……では、ありませんね。ウィザード・ネームです」
「ウィザード……何だ、それ?」
オロカは、首を捻った。
「こちら、お願いします」
三郎はキノコや山菜を入れた袋を手に、歩き始めた。
「お、おぅ……」
オロカも、示されたパンノキの実を担いで、それに続いた。
「僕の"ウィロー"だけでなく、兄上たちの"ドグマ"や"イエソド"もそうなのですが……
魔術師になるという事は、自分の存在が"術"のひとつとなるという事なのです。
そのため、"呪文"に相当する"名前"を何十回も何百回も呼ばれているうちに、徐々にその人に支配されてしまうリスクがあるのです。
しかも、どんなに大きな力を持つ魔術師でも、"名前"による支配には抵抗不可能と言われています。
そのリスクを避けるために、魔術師の修行を始め親からもらった幼名を捨てると、本名──トゥルー・ネームと別に、普段使う用の名前──ウィザード・ネームを決めるんです。
ウィザード・ネームなら、何度でも変えられます。もう"三郎"が新しいウィザード・ネームだと言っても良いかもしれません」
「へぇ……」
「そういう訳で慣習的に、魔術師……特に支配魔術師には、ウィザード・ネームや幼名でさえ必要が無ければあまり呼ばなかったり、遠まわしに呼んだりする人も少なくないですね」
「あぁ、それでドグマも『貴様』とか『おまえ』とか『愚弟』とか『アンジェロとかいう小僧』とか……」
「それは……単に、『貴様なんぞ要らない』と軽んじる言い回しかもしれませんがね……」
「あれ? でも俺、途中からは『オロカ』って普通に呼ばれてたような……」
「途中から……ですか。それは、ひょっとすると……」
考え込んだ三郎に、オロカは問いかけた。
「何だよ?」
「……『おまえが欲しい』という意味かもしれませんよ」
「えぇっ!」
「ヘンな意味ではなく、ね……」
驚きの声をあげたオロカに、三郎はくすりと笑って見せた。

「……」
三郎は、急に歩調をゆるめてオロカに並び、耳元で囁いた。
「……えっ?」
「なんなら……僕を、その名で呼んでも構いませんよ? 他の人が聞いていない場所でしたら、ね……」
「トゥ、トゥルー・ネームって……奴か?」
「……」
三郎はその問いに、沈黙をもって肯定した。
オロカはしばし考え、首を横に振った。
「いや、やめとくよ。俺は、おまえを支配なんかしたくないから」
「そうですか。貴方なら、そう言うと思いました」
歩調を戻し、オロカに背を見せて歩きながら、三郎は言った。
「いずれにせよ……ようやく、僕も一人前の魔術師になれたようです」
「えっ?」
「トゥルー・ネームを誰かに告げて初めて、一人前の魔術師になる儀式が完了するのですよ。
未だに僕には、それができませんでしたので、ね……
これで、半人前には使用できない術や儀式や魔具なども、使う事ができるようになりました」
「一人前……一人前か、そうか」
何度かその言葉を噛みしめるように頷き、オロカは三郎に声をかけた。
「良くわからんけど……おめでとう、かな?」
「ありがとうございます、オロカさん」

「……あのさ……えっと」
口ごもったオロカに、足を止めて三郎は振り向いた。
「はい?」
「その、ずっと気になってたんだけど……俺の事、オロカって呼んでくれないか?」
「え、と……」
三郎は、困ったように言葉を濁した。
「呼び捨てというのは……僕にとっては、かえって、その……気を使うというか……」
「た、たぶんそうなんだろうと思ったけど……さん付けって、俺が、気を使われてる気がして、なぁ……」
「……」
しばらく黙り込んだ後、三郎は恥ずかしそうにうつむいて、ぼそりと言った。
「では……オロカ」
「お、おう!」
嬉しそうに、オロカは返事をした。
「兄上がおなかをすかせてると思いますから……早く帰りましょう、オロカ」
「うん、そうだな!」


マインドパペット1.5 水色の庭園
55.

オロカと三郎が戻ってくると、ちょうど彼らに背を向ける形で、ドグマが木の枝で作った杖を支えとし立っていた。
朽葉が仕立て直したのであろう、長めの裾を腰帯でまとめたチュニック風の服を着ており、ズボンはまだできていないのか生足を晒していた。
なんだかワンピースのようにも見え、女の子みたいで可愛らしかった──朽葉の事だから、わざとかもしれないが。
靴の代わりには布袋を足に被せ、足首を紐で縛ってとめていた。

ドグマは少しよろよろと屈み込むと、焚き火の傍に干してあった軍靴を手に取り、振り上げた。
火に投げ込もうとしている──と感づいたオロカは、思わず担いでいたパンノキの実を放り出し、駆け寄った。
三郎は何かを悟ったのか、黙って佇んでいた。
「何してるんだ、ドグマ!」
靴を持っている細い手首をつかまれ、ドグマは振り向いた。
「オロカか……要らんから、捨てる。それだけだ」
「貴方は、ずっとその歳で……その体のままでいなきゃいけないのか?」
「いや。2〜3年ほどかけて、徐々に大きくしていく予定だが」
「なら、それまでとっておけばいいじゃないか」
「……その手を離せ、オロカ」
静かに、しかし強い口調でドグマは言った。
「い……」
嫌だ、と言おうとした瞬間、急に右手がずしりと重くなり、引っ張られるように指を曲げられなくなった。
つかんでいた手が緩み、だらりと腕が落ちた。
「う、ぅ?」
まともに動く左手で右腕をさするオロカに、ドグマは言った。
「おまえを、自由にしてやろうというのだ」
「……ぁ」
オロカはドグマと交わした"契約"──靴に口づけをした事を思い出した。

右手は徐々に軽くなってきた。手をぶらぶらと振りながら、オロカは言った。
「でも……」
「なんだ」
「貴方は、野山を裸足で走った事なんか無いだろう? 育ちがいいんだから。
この辺りはまだいいけど、岩やなんかでゴツゴツした場所を、そんな布袋はめただけの足で歩けるのか?」
「それは……」
「痛がりのくせに」
「……ッ」
ドグマは、言葉に詰まった。
こんな事なら"契約"に使う道具を手袋にでもしておけば良かったと、ちらりと後悔がよぎった。
「気持ちはありがたいけど……そんな不便を、貴方にかけさせたくない」
「……」
「というか……『痛い痛い』言いながら歩くのを、見てられないというか……」
「ば、馬鹿者。言うか、そんな……」
「痛がりのくせに」
「……むッ」
ドグマは顔をしかめて、口を尖らせた。それがまた、妙に可愛かった。
離れたところに居る三郎が顔を背け、ひくひくと頬を動かしていた。笑いをこらえていたのだ。

「貴方が命令すると、俺が聞かなきゃいけないんだったら……命令しなきゃいいだけの話じゃないか」
「……ふん!」
屈んでいる姿勢が辛くなったのか、ドグマはぐらぐらと膝を震わせた。
オロカが手を出そうとすると、それに先んじてドグマは地べたにぺたんと腰を下ろした。
「私は……私はな!」
「うん?」
「命令形でしか、喋れないのだ!」
「……」
三郎がプッと吹き出しかけて、ごほんごほんと咳き込んでごまかした。

「それって……俺と対等に喋りたいから、契約を破棄したいっていう……?」
オロカが推測を確認すると、ドグマはついっと横を向いた。
「そうか……そうなのか」
オロカの胸が、じんわりと温かくなった。
「じゃあ……えぇと」
オロカは考え、口を開いた。
「『命令を聞かなくてもいい』って命令するとかじゃ、駄目か?」
「……なに?」
そんな発想、思いつきもしなかった──と言うように、ドグマは首を捻った。

「試しては、みるか……」
ドグマはオロカに向き直り、じっと見上げた。そして、重々しく告げた。
「私の命令に従うか否か、以後……自分で考え、自分で決めよ。
良しと思えば受け入れよ。悪しと思わば、理由を述べ、拒否せよ。其れを許す」
「了解した」
こくりと頷くオロカに、ドグマは確信を持てぬ様子で首を振った。
「こんな命令は、した事がない。有効かどうか、わからぬが……」
「なら、試しに何か命令してみればどうだ?」
「うむ……」
ドグマはうつむいて少し考えると、再び見上げた。
「では、オロカ」
「あぁ?」
「これからも、おまえは私の事を『貴方』と言え」
「……っ!」
オロカは、大声で笑い出したくなった。
俺が三郎に「オロカさん」と呼ばれたくなかったように、ドグマも俺に「貴方」と言われたくなくなったのか、と。
「嫌だ。これからは『おまえ』って言うよ。
理由は──おまえと、対等でありたいから。おまえが、そう望んでくれるなら」
微笑みを浮かべて、オロカはそう"拒否"した。
体には、何も変化は起こらなかった。
「ふむ……ならば、よし!」
偉そうに小さな胸を張って、ドグマが言った。
 
 
 
「わぁっ、大きい〜!」
水辺のほうで、暗示郎がはしゃいだ声を立てた。
朽葉が振り上げた釣り竿の先で、銀色に輝く魚が踊っていた。
見たことのない魚だったが、丸々と太って美味しそうだった。
「おっ、でかいのが釣れたなぁ」
オロカが近づいて声をかけると、二人が振り返った。
「おかえり〜こっちは大漁だよ!」
「この湖の魚は警戒心が薄いから、良く釣れるのよねぇ」
「食べよう、食べよう、おなかすいちゃった!」

料理は、三郎のアドバイスを受けながら暗示郎が担当した。
パンノキの実は丸のまま、大きな葉で巻いて焼き、ホイルで包んで余熱で蒸した。
山菜のうち葉物類は、小さな鍋を三郎から借りて、アクを抜いておひたしにした。
タロイモという根菜もあったが、発酵させた方が美味しく日持ちもするとかで、またのお楽しみとなった。
暗示郎が料理している間、他の皆で木の枝をナイフで尖らせ、串を作った。
塩をふった魚やキノコを串刺しにして、焚き火の周りに突き立てた。

蒸しあがりを待ってホイルを開くと、パンノキの名の通り、焼きたてのパンのような香りがいっぱいに広がった。
「いっただっきまーす♪」
暗示郎が、まっさきに熱々のパンノキの実にかじりついた。
「あれっ……思ったよりは甘くないね」
オロカも一口食べてみたが、ほのかな甘味のあるサツマイモや栗のような味だった。
「熱いうちに、バターをどうぞ。それに、お好みで塩かメープルシロップで」
三郎が"冷温"と書いてある小袋から、調味料を出してすすめた。
「用意がいいねぇ。塩はともかく、バターやシロップまで持ち歩いてるなんて」
「はは……味噌に醤油、ケチャップやマヨネーズも、たいがいのものは一通り揃えてありますよ。
調味料さえあれば、たいがいのものは食べられなくはないものです。
どこかの傭兵が書いた手記でも、行軍中に最も重要なのは、武器よりもカレー粉だとありましたよ」
「へぇ〜。軍隊のサバイバル訓練じゃ、蛇とか食べさせられるって聞いたことあるけど……
食料が無くなると実際、そのへんのもの捕まえてカレーにしちゃうのかな……」
「そうなんでしょうね、たぶん。
調味料は、ここじゃ貴重でしょうが……まぁ、今日くらいケチらず、たっぷり使ってしまいましょう」
「さんせーい! 僕、シロップ! シロップ!」
「私もシロップにしようかしら。甘いものは久しぶりだわ」
暗示郎と朽葉が、口々に言った。
「俺は、こっちにしてみようかな」
オロカは、塩の小瓶を取った。
調味料を使うにしても、せっかく始めて食べるものなのだから、なるべく素に近いものを味わいたかったのである。
「ドグマは?」
「私も、塩でいい」
ドグマがそう言うと、朽葉がニヤリと笑った。
「あらぁ? お子様はシロップの方がいいんじゃないのぉ〜?」
「お子様ではないッ!」
バターを果肉に乗せると、熱でとろっと溶け出し、いい香りがした。
塩をかけ、改めてかぶりつくと、香ばしさと甘みが引き立ち、すこぶる美味しかった。

「ところで、三郎ぉ?」
「はっ、はい?」
朽葉の問いかけに、少々腰が引けた様子で三郎が応じた。
「『雑巾にでもしようと思ってた』って言ってた服の中に、どうしてラベルがついたまんまの新品があったのかしらぁ?」
「そ、そんなの、ありました?」
「あったわよぉ〜」
「そうですか……きっと……人からもらった服で、いまひとつ気に入らなかったものがあったのではないかと……」
「まぁ〜女泣かせねぇ!」
「じょ、女性からもらった物だなんて言ってませんよ!」
「あら、やっぱり女からもらったのね! この色男!!」
「ち、ちが……」
クスクスと、暗示郎が二人のやりとりを見て忍び笑いをした。
「あ〜ぁ、とうとうターゲットがあっちに行っちゃったよ☆」

「さて……オロカ、つきあえ」
魚の小骨を口から抜いて、ピンッと焚き火の中へ弾き捨てると、ドグマはふらつきながら杖にすがって立ち上がった。
「どこへ行くんだ?」
「鏡の中だ。まだサクラは寝てはおらんだろうが、色々試す。複数人でも入れるか、とかな」
「なるほど、わかった」

ドグマは、イエソドが残していった手鏡を手に取り、額に当てた。
ぐらっと倒れこみ、頭を打たないようオロカが慌てて支えた。
オロカはドグマの小さな体を抱え上げ、断熱マットの上まで運んで横たえた。
それから自分も脇の地べたに横になり、額に手鏡を当てた。
すぐに、すうっと意識が遠のいた。
 
 
 
ごぅっ、と冷たい風が吹き抜けた。
オロカは目を開け、驚いた。そこは、建設途中のビルの鉄骨の上だった。
泡を食って傍の柱にしがみつき、足元を見下ろすと、地面は目が眩みそうなほど遥か彼方だった。
「ドッ、ドグマ! 大丈夫……」
こんな危なっかしいところに、危なっかしい歩みしかできないドグマが放り出されたら──
手を差し出しながら脇の下方を見やると、揺るぎもせずに立った、太く長い足があった。
ゆるゆると視線を上にあげていくと、長身で肩幅の広い、見慣れたドグマの姿があった。
服装はダークグレーの背広に身を包み、足には黒い革靴。黒地に金縞の入ったネクタイまで、しっかりと締めていた。
ハッとオロカ自身の身なりを見ると、カーキ色の作業着をまとい、安全靴を履いていた。
頭に手をやるとヘルメットを被り、首にはマフラーのように白いタオルを巻いていた。
あまり意識していなかったが思い返せば、先の戦場の夢の中でも、軽装ながら防具の類を着ていた気がした。

「良い眺めだ」
ドグマは悠然と腕を組み、眼下を見渡した。
無数のビル群が、樹海のように乱立していた。
彼らの立っている鉄骨は、それらよりも図抜けて高いようだった。
「また、自分の足でしっかりと立って眺められるというのが、より格別だな」
「そッ、そうだな……」
正直オロカは、眺めを楽しめるほどの余裕が無かった。
しかし、ドグマの感慨に水を差したくなかったので、とりあえず同意しておいた。
パチン、とドグマは指を鳴らした。
指先に火が点る──以前、三郎が用いたのと同じ、発火の術だった。
「うむ。術も普通に使えるようだな」
フッと息を吹きかけて火を消し、ドグマは呟いた。

「オロカ」
遠くを見つめながら、ドグマは声をかけた。
「何だ、ドグマ?」
「……」
しばらく押し黙ってから、ドグマは口を開いた。
「後悔……しては、おらんか?」
「へ? 何を?」
目をしばたたいてオロカが問い返すと、ドグマは言った。
「こんなところまで、落ちるはめになってしまった事を……だ」
「……ぇ」

──勝負というものはな、勝つか負けるかなどやってみねばわからん──

──過ぎた事を、ぐだぐだと抜かすな──

三郎には、そう言っておきながらも。
ドグマは"時空の狭間"での失敗に──結果的に皆が"最果て"に閉じ込められた事に、責任を感じているのだろうか?
今の今まで口にも出さず、胸の内で密かに自分を責めて……
オロカは、そう考えながら応えた。それは慰めなどではなく、正直な気持ちだった。

「全然。後悔なんて、ちっともしてない。
あの庭に──マルセルの世界に愛着なんて無かったといえば、嘘になるけど。
でも、あそこで腐っていくより、外に飛び出したかった。
ここでなら、皆で力を合わせて生きていける。そして、力を合わせられるという事が、何より嬉しいんだ」
「……私は、足手まといだがな」
「たかが2、3年だろ? 気にするなよ。
その程度、あそこから出してくれた事の恩返しとして、あな……いや、おまえの世話を焼かせてくれよ。
それにさ。完全に体が元に戻るまでにも、一生懸命体を動かす練習すれば、少しずつできることも増えていくんだろ?
いいじゃないか。当分の間は、それがおまえの仕事ってことでさ」
手を伸ばし、ポンッ、とオロカはドグマの肩を叩いた。
「……」

ドグマはカツン、カツンと鉄骨の上を歩いて行き、背を向けたまま告げた。
「……礼を言う」
「なんだよ。礼を言いたいのは、こっちの方だ。ありがとう、ドグマ」
「……ふっ」
小さく、ドグマは笑った。
オロカも、笑みを浮かべた。
肌を切るような冷たい風を、二人は心地良く感じていた。

 


 


FIN.


【出典】
・Jupiter 作詞 吉元由美 曲 G.Holst 唄 平原綾香

マインド パペット


水色の庭園
 
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