第2章「舞い下りた純白雪花」

1.

ツリーハウスの窓枠に腰掛け、三郎はアウトドア・ライフ系の雑誌をめくっていた。
暗示郎が、ひょいと背表紙を覗き込んで言った。
「ずいぶん、古い号だね」
「トランクの奥に、しまい忘れていたんです。捨てたと思っていたのですが」
「ふぅん。こういうところで出てきたのなら、ラッキーじゃん。
なにか、役に立つこと書いてありそうだね」

「君のトランク、見た目以上にいっぱい物が詰まってるみたいだから、何が出てくるかわからないね」
暗示郎がそう言うと、三郎は細い目を遠くに向けて応じた。
「トランクに入れたはずなのに、なぜか探しても探しても出てこない物もありますけどね。
昔、画展の売店で手に入れた、山田かまちのトカゲの絵葉書なんて、どこに行ってしまったんだか……」
「山田かまち? 誰、それ?」
暗示郎はイタリア人ではあるが、かなりの親日家の家庭で育った。日本は、心の故郷と言ってもいいだろう。
だが、聞いた事のない日本人の名前に、首を傾げた。
「十七歳で亡くなった、画家兼詩人兼ミュージシャン……の、卵と言うべきでしょうか。
BOØWYの氷室京介の、幼馴染だったらしいですが」
「あ、BOØWYなら知ってるー。上の姉ちゃん、好きだったー。
鏡の〜中のマリオネット♪ もつれた糸を断ち切って〜♪……とかいうやつでしょー。タイトル何だったかな」
「えぇ、『MARIONETTE』ですね。僕も好きでしたよ。あと、『季節が君だけを変える』とか……」
「三郎、ロック聞くんだー。ちょっと意外」
「あまり詳しくはないですが、そこそこは聞いてましたよ。
BOØWYくらいなら、時空商人がCDをモスタリアにも持ち込んでいましたので、こっそりと……」
「こっそり?」
「母上が、ロック嫌いでして……CDを取り上げられないようにと……
スピーカーからモーツァルトやショパンをかけながら、ヘッドホンでロックを……
保管も、英会話のCDのケースとかに入れてですね……それでも見つかって、何度割られたか……」
「……かわいそ」
涙ぐましい工夫を聞いて、思わず暗示郎は同情した。

「で、えっと、十七歳だっけ? 山田かまちって人、ずいぶん早く亡くなったんだねぇ」
暗示郎が話を戻すと、三郎はふーっと溜め息をついた。
「えぇ……死後、ベッドの下から大量に見つかったという作品が、発表されたからいいものの……」
「ベッドの下からって……エロ本みたい……」
「『一日が、24時間じゃ足りないよ』だなんて、言ってたらしいんですよ。
僕みたいに、ダラダラと回り道ばかりして生きてる人は、いくらでもいるのに……
どうしてそういう人に限って、早死にしてしまうんでしょうねぇ。
いえ、ダラダラ生きてる人は死んでいいってわけじゃないですが。なんだか、たまらなくなります……」
「どうしてその人、死んじゃったの? まさか、自殺とか?」
「いえ、密室で汗だくになってエレキギターを弾いてたら、感電してしまったらしいです」
「あらら……でも、気持ちよくハイになりながら感電死しちゃったのなら、ちょっと幸せだったかも……」
「そうかもしれませんけどねぇ……長生きしてたら、どうなってたんでしょうねぇ……」
「結構、ネットで話くらいできたかもねー」

「あぁ、僕のトカゲの絵葉書……すごくいい色だったんですよ。
僕は絵って、どちらかといえば大人しい色使いの方が好きなんですが、あれは良くて……
色鮮やかなのに、何故かうるさくないんです。
みずみずしくて……あんな色のトカゲいるわけないのに、するするっと動き出しそうで……」
「ふーん……見に行けないのが、残念だなぁ……」
いつになく熱く語る三郎を見て、暗示郎の興味は惹かれた。
「本当は絵葉書じゃなくてもっと大きい、額に入った複製画が欲しかったんですけどね。
イエソド兄さんが『買ってあげようか』と言ってくださったんですけど、やめて絵葉書にしました」
「なんで? そんなに気に入ったなら、買ってもらえば良かったじゃん」
「だって……画展自体、こっそり連れていってもらったもので……
モスタリアでは手に入らないような、マイナーな画家の絵が部屋に飾ってあったら、母上に叱られそうで……」
「君ってば、部屋に飾る絵までママの目、気にすんの? 音楽と違って、近所迷惑にはならないでしょー?」
暗示郎は、さすがに呆れて言った。
「はぁ……」
三郎は、とっくに母親の支配下から解放されているというのに、窮屈さを覚えながら大きな溜め息をついた。

「とにかく、母上の口出しは異常にうるさかったんですよ……
絵を飾るなら、まず、若者だけでなく一般に広く知られた、有名な画家のものでなくてはいけない。
その上で、父上の好みに合うような、男性的な力強い画風でなければいけない。
しかも、病的な印象が少しでも感じられると駄目で、健全でないといけない。
だから、天野喜孝も、いのまたむつみも、きたのじゅんこも、許されませんでしたねぇ……
あぁ、優美な曲刀を構えた吸血鬼ハンターDの、透きとおるように白い横顔が……
鳩を口にくわえた青年王イルアデルの、身を切られるように孤独な瞳が……
エメラルドの中で横笛を吹く、冷たいまでに美しい少年が、欲しかった……」
……はぁ……懐かしいですねぇ、イルアデル……
当時、イルアデルが死んだせいで、三日ぐらいふさぎこみましたっけ……
三郎は、溜め息まじりに感慨にふけった。
「えーと……」
三郎って読書家みたいだし、小説の挿絵の複製画か何かかなぁ……
題材らしきものをずらずらと並べられても、暗示郎には何の話かわからなかったが、そう推測した。
 
 
 
"風の大陸"は、幼い頃、三郎がドグマから借りた小説だった。
幻想小説嫌いの母親に隠れて、彼はこっそりと読みふけり、夢中になった。
ある日、好きなキャラクターの突然の死に落ち込み、三郎は金木犀の樹の上でぼんやりしていた。
そこへ登ってきたドグマが、カバーのかけられた文庫本を差し出した。
「ウィロー(当時の三郎の名)、続きだ」
「続きなんて……読みません!」
「は……? 何故だ」
元々、いのまたむつみの挿絵が三郎の好みそうであったので、選んだ小説だった。
それもあって、ドグマは当惑の表情を浮かべた。
「続きを読んだって、イルアデルはもう居ないんですッ!」
「ま……まだ、ティーエもボイスもラクシも、居るだろうが……」
動揺したドグマは、つい失言をした。
「ティーエなんて! ティーエなんて! イルアデルが死んだのはティーエのせいでッ!
でも、イルアデルの死を一番悲しんでいるのは、辛いのは、ティーエで……ッ!
あぁぁ……ッ! ……兄上の、馬鹿ッ!!」
三郎は目に涙を浮かべて樹から飛び降り、走り去った。
残されたドグマは困り果てて、くしゃくしゃと自分の髪をかき回した。
 
 
 
「現代の画家のものじゃなくて、クラシックな絵の方が、良かったのかな……?」
「ルノワールやフェルメールの少女画まで、『健全な男が飾るものじゃない』とか言うんですよ……
おかしいのは、母上の方ですよ……何が悪いっていうんですか……」
「あはは……ロリコンじみてるとでも、思われたのかな。で、結局、何の絵にしたの?」
「人物画はやめて、ラッセンのイルカの絵で妥協しましたよ」
「ラッセンかぁ……無難だね。悪くないけど、定番すぎって言うか……
一時期めちゃくちゃ流行って、そこら中で飾られてたから、見飽きちゃったな」
「母上の条件には合っていますし、ラッセンもまぁまぁ好きでしたからね。
ぞくぞくと、そそられるって程ではありませんでしたが……」
「まぁ、部屋に飾るなら好きすぎない絵の方がいいかもよ? コーフンしすぎちゃ、落ち着かないっしょ?」
「そう……かも、しれませんねぇ……」
 
 
 
三郎は口を閉ざして、雑誌に没頭し始めた。
暗示郎は邪魔にならないよう、椅子に座ってマンゴーの皮をむき始めた。
外にいたドグマとオロカが戻ってきたので、それを勧めた。

「石窯オーブン、作ってみましょうか」
唐突に、三郎は言った。
「オーブン? オーブンっ!?」
暗示郎が、ぴょんと椅子から飛び上がった。
「オーブンッつった? ヤッター!」
「本当は、コンクリートブロックとか、御影石の平板とか、日干しレンガとかを使うらしいですが……
その辺の石でも、作れなくはないんじゃないでしょうか。
ツリーハウスの下に設置すると、煙で燻せて防虫や防腐効果もあるそうです」
「お菓子作れる? ピッツァ焼ける?」
「できるんじゃないでしょうかね。
えぇと……パンを焼いた余熱で作るドライトマトが、スモーク臭が微妙について絶品だ……とありますね」
「なにそれなにそれ、美味しそう!」
「トマト無いですけどね」
「がっくし」
かくん、と暗示郎が首を垂れた。

「……石か」
むかれたマンゴーに串を突き刺しながら、ドグマが口を開いた。
「ちょうどいい筋トレになりそうだな」
丸太は無理でも、石なら運べるだろう。
そう考えながら言うと、オロカが"心配"の文字を顔に貼りつかせて応じた。
「そうだな。でも、無理はするなよ」
「やかましいわッ!」
 
 
 
オロカとドグマが集めた石を、三郎と暗示郎が組み、不恰好ながらもどうにか石窯らしきものを作り上げた。
喜々として使い始めた暗示郎は、最初は加減がわからず貴重な小麦粉を無駄にしてしまった。
しかし、何度も挑戦するうちに良い薫りを立てるようになった。

「じゃぁーん。木苺のパイ、完成だよーん」
皿にかけた布巾を取り払って焼き菓子を披露すると、どれどれと三人が集まった。
「おっ、すげぇ。ちゃんと形になってる」
さっそくオロカが手を伸ばし、ぱくついた。
「うん、ちょっと焦げてるけど、これはこれで香ばしくて美味しい」
「でしょ、でしょ、でしょぉ〜?」

「兄上……ちょっと、よろしいですか」
甘酸っぱいパイに舌鼓を打ちながら、三郎はドグマに声をかけた。
「何だ」
「古い話で、恐縮ですが。
小説の『風の大陸』でイルアデルが死んだ時、喧嘩をして……
その後どうやって仲直りをしたのか、覚えていらっしゃいますか……?
結局、続きを読めなかった事は、記憶にあるのですが」
「ん……」
ドグマはパイをかじりながら、古い記憶を探った。
しばらく黙り込んだ後、口を開いた。
「確か……イルアデルの、葬式ごっこをした」
「あぁ、そうだ……そうでした……なんで、忘れていたんでしょう……」
金木犀の樹の下、盛り土と木の枝で組んだ小さな祭壇に手を合わせた記憶が、三郎の脳裏に鮮明に蘇った。
祭壇の向こう側で、火を灯した蝋燭を手に、神妙な顔つきで自分を見つめるドグマのまなざしと共に。

2.

翌日の明け方──
「……ッ!」
三郎は、毛布を跳ね上げて飛び起きた。
一定以上の大きさの物の接近に反応する結界に、登録してある四人以外の何かが引っかかったのだ。
「起きてください、皆さん!」
まだ寝ている三人を裸足で踏みつけてから、サンダルに足を突っ込んだ。
無論、緊急時にはこうして起こして良いと、既に話し合ってある。

コートを羽織りながら、三郎は出入り口から顔を突き出して、周囲を見渡した。
白い何かが近づいてくる……
「……鶴?」
唖然として、三郎は声を漏らした。
飛んできたのは、白い鶴だった。本物ではなく、巨大な折り紙の。

折鶴の背中には、ちょこんと少年が乗っていた。
10歳になったかならないか──否、どこか老成した雰囲気も漂わせており、見た目では年齢がよく分からない。

  彼と、三郎は目があった。
「これ、そこの者」
ぴたりと折鶴を出入り口に寄せて、少年は言った。
「……はぁ」
生返事をしながら、三郎は少年を観察した。
帯や飾り紐などの要所のみが赤い、白い着物。
七五三の子供のように"着物に着られている"風でなく、きちんと着こなしている。
髪は目に痛いほどの純白で、瞳は真紅。
しかし三郎は不気味には思わず、新雪に落ちた一雫の血のような美しさを感じた。
「何をしておる。手を貸すがよい」
「これは……失礼いたしました」
じろじろ見ていたことを詫びると、三郎は腕を伸ばして少年を抱き上げた。
ほっそりした見た目以上に、少年は軽かった。

「誰だ……?」
枕元の刀に伸ばしかけていた手を止めて、オロカは闖入者に問いかけた。
「誰ではない。誰々丸じゃ」
少年は三郎の腕に抱かれたまま、胸を張って答えた。
「ダレダレマル?」
「おぬしがリバースじゃな」
「リバース? いや、俺はオロカだけど」
「イエソドから、聞いておらぬのか」
「あのおっさんの知り合いか。じゃあ、『破』って奴なのか?」
「いかにも」
フン、と少年──誰々丸は鼻を鳴らした。
「で、なんじゃ。この家の者は、客人に茶も出さぬのか」
「あぁ、はい……少しお待ち願えますか、若様」
「うむ」
三郎の返事に鷹揚に頷き、誰々丸は小さくした折鶴を袂に収めた。
無意味に偉そうなところが誰かに似てるなと、オロカは思った。

「煎茶と抹茶、どちらがよろしいですか」
「抹茶があるのか。では、そちらを所望する」
「かしこまりました」
シャッシャッシャと、茶を立てる小気味良い音がしばらく響いた。
「粗茶ですが」
三郎が正座してスッと出した茶碗を手に取り、誰々丸は細かな泡を満足げに見つめた。
「うむ、くるしゅうない」

「なんで、茶碗をくるくる回すんだ?」
「そういう作法だからです」
首を傾げて誰々丸の仕草を見ているオロカに、三郎は簡潔に答えた。
二人のやりとりに構う様子もなく、誰々丸は抹茶を飲み干した。
「ディー! そち、結構な点前であるぞ」
「ありがとうございます」
三郎は、床に手をついて深々と一礼した。

「飲んだら、さっさと帰れ、ガキ。どうせ、サクラの夢の中で顔を合わせるのだろうが。
時間もわきまえずに、押しかけてきおって」
機嫌の悪さを隠しもせずにドグマが言うと、誰々丸は赤い瞳でにらんだ。
「ガキではない。誰々丸じゃと言うておろう、ガキ」
「私はガキではなぁいッ! このクソガキが!」
憤慨して、ドグマは立ち上がった。
「ま、まままままっ、子供相手にムキになることないじゃん」
暗示郎がなだめに入ろうとすると、誰々丸は懐から出した扇子でひらひらとあおいだ。
「そちらの方が、チビガキじゃがな」
「まだ言うか、クソガキ!」

「まぁ、そう邪険にするでない。イエソドから預かり物じゃ」
「はッ! あの野郎からだと!」
ずかずかと近づいて、ドグマは誰々丸が懐から出した包みをむしりとった。
「……これは」
包みを解くと、ドグマはその中身に見入った。
子供用の、スニーカーだった。
どうやら新品ではなさそうだったが、まだ十分に使えそうであった。
「暗示郎。菓子も出してやれ」
「んもぅ。現金だなぁ」
暗示郎はそう言いながらも、棚にしまってあった木苺パイの残りを取り出した。

「どうして兄上が子供になっていると、イエソド兄さんは知っていたのですか?」
三郎が問うと、誰々丸は串でツンツンとパイをつつきながら答えた。
「朽葉に聞いたのじゃ」
「あぁ、あの……」
三郎は納得した。
「なんでこんなもの持ってんだ、あのおっさん」
オロカの問いに、誰々丸は随分長いことパイを咀嚼した後、口を開いた。
「味わいは悪くないが、ちとパサつくのぅ。もう一杯、茶を所望する。今度は煎茶が良い」
「おい……」
「あの男は、何でも拾ってくるからのぅ」
「拾って? 靴をか?」
誰々丸は、首を横に振って見せた。
「童どもをじゃ。さしずめそれは、先月崖から落ちて死んだ童の持ち物であろうな」
「……」
オロカは言葉に詰まった。
しかし、ドグマは気にした風もなくスニーカーに足を入れ、靴紐を結び始めた。
「まぁ、使えれば前の持ち主がどうだろうと構わん」

誰々丸は袂から取り出した折鶴にぷぅと息を吹き込み、出入り口から投げた。
大きくなって空中に浮かんだ折鶴の背に、再び三郎の手を借りて誰々丸は乗り込んだ。
「では、者ども。サクラの夢で逢おうぞ」
振り向きもせずそう告げると、ついっと折鶴を進ませた。
その背を見送っている三郎に、ドグマが苛立った声をかけた。
「三郎。ちょっとここへ座れ。初対面の相手に、主のごとき態度を取るとは何事だ」
「……」
三郎は無言で、小さく肩をすくめた。

3.

その夜、オロカはなかなか寝付けなかった。
──"破"陣営を代表して、宣戦布告するよ。おおいに戦おう、サクラの夢を戦場として──
イエソドの言葉が思い出された。
「あんな子供と、戦うのか……」

ごろんと寝返りを打つと、ぼやっと何かが光っていた。
「あ……」
オロカは毛布から這い出すと、誰でも手に取れるように棚の一番下に置いてある、螺鈿細工の鏡に手を伸ばした。
思ったとおり、鏡の中にうとうととまどろんでいるサクラの姿が見えた。
少し躊躇したが、ごそごそと毛布に潜り込んで横になり、鏡の面を額に押しつけた。
 
 
 
軽い眩暈が収まり、目を開くと、暗がりの中いくつもの輝く大きなガラスの円筒が見えた。
「わ……」
目をぱちぱちとさせながら光に目を慣らし、円筒のひとつに近づいてみた。
それは白砂を敷き詰めた水槽で、中には鮮やかなブルーの小魚が群れをなして泳いでいた。
オロカはしばらくそれに見入っていたが、奥の部屋から明かりが漏れているのに気づいた。
首の鎖をぎゅっと握りしめて、オロカは静かに明かりの方へと近づいていった。

部屋の入り口には、"標本室"と書かれたプレートが掲げられていた。
「ホネガイっていうんだよ」
聞こえてきたイエソドの低く柔らかい声に、オロカはどきりと足をすくませた。
「ふぅん……」
聞いているのか聞いていないのかわからない、ぼんやりとしたサクラの声。
「ディー! いいのぅ。欲しいのぅ」
そして、しわがれた子供らしくない、誰々丸の声。

覗き込むと、三人はオロカに背を向ける形で、貝殻の標本箱に見入っていた。
「貝殻なんかより、生きてる魚のほうが良かないか?」
オロカが声をかけると、三人は振り向いた。
「やぁ、オロカ君。いらっしゃい」
にこにこと、イエソドが微笑んだ。
「生きている魚なぞ、わずらわしいだけじゃ」
誰々丸は、そっけなく言った。
「わ、わずらわしいなんて、言うもんじゃない! たとえ飼われてる魚だって、一生懸命生きてるんだぞ」
思わずオロカが叱ると、誰々丸はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「そうだねぇ、生きてる魚もいいねぇ。でも、貝殻もなかなか面白いよ」
イエソドは標本箱の蓋を開け、貝殻のひとつをつまみあげながらオロカを手招きした。
オロカは刀を壁に立てかけると、きょろきょろと辺りを見回しながら近づいていった。
棚の上には、ホルマリン漬けの魚の死体が入ったガラスの筒。
天井からぶらさがっているのは、ワニか何かの骨格標本や、大きな蟹や海老の殻。
なんだか壊れ物ばかりで、オロカには居づらく感じた。

「ほら」
オロカが差し出した手のひらの上に、イエソドは貝殻を乗せた。
「貝……? これが……?」
貝殻は、まるで繊細なガラス細工のようだった。
ぷっくりと膨らんだ部分はオロカも知る巻貝のものだが、長い棒状の突起が伸び、さらに細い細い突起が櫛のように枝分かれしていた。
「ホネガイ、だって?」
「そう、ホネガイ」
「手触りは確かに、骨みたいだな。何考えて、こんな形してるんだ……?」
「本当だねぇ。何考えてるんだろうねぇ」

何度も裏返したりしながらじっくりと観察した後、オロカは手を伸ばしてイエソドに貝殻を返そうとした。
その時、下手に握りしめて壊さないようにしようと指の力を抜いていたのが裏目に出て、貝殻が手から滑り落ちた。
「あ……」
「あ!」
二人の子供が声をあげる中、貝殻は床に叩きつけられた。
カシャンと音を立てて、あっけなく数本の細い突起が折れた。
「何をするんじゃ。わしのホネガイに……」
誰々丸が、非難を赤い瞳に込めた。
「ご、ごめん!」
「……」
サクラは何も言わなかったが、残念そうにしゃがみこみ、折れた突起を拾って見つめていた。
その姿に、とんでもないことをしてしまったと、焦りと罪悪感がオロカの胸を締め付けた。

「仕方ないよ。形あるものはいつか壊れるんだから」
イエソドがなだめたが、二人はなおも未練がましそうに壊れた貝殻をいじっていた。
「そうだ、オロカ君。おわびに、生きてる魚の美しさを二人に教えてあげなさい」
「お、教えるったって……あぁは言ったが、別に俺は魚に詳しい訳じゃ……」
「詳しくなくたっていいさ。一緒に見て回るだけで」
「それなら、いいけど……」

ふと、オロカは我に返った。
「なぁ……こんな、のんびりしててもいいのか?」
「こんなって?」
イエソドの問い返しに、オロカは落ち着かない思いを抱きながら答えた。
「だって……敵同士だって、言ってたじゃないか」
「あぁ……あれね」
イエソドは、合点がいったように微笑んだ。
「別に、『和』と『破』は、いつもいつも戦わないといかんという訳じゃないよ」
「しかし……」
「『敵』と思いたければ、思ってもいいがね」
「……」
オロカは、改めてイエソドの背が高く、どっしりとした体格を見上げた。
「どちらかといえば……」
「ん?」
「あんたとは、一度素手でやりあってみたいと思ってた」
イエソドは、にっこりと笑った。
「いいね。後で、相撲でもとろうか」
「スモウ?」
「日本の格闘技さ。なに、ルールはそれほど難しくない。準備しておくよ。行ってらっしゃい」
「あ、あぁ」
イエソドに促されて、オロカはサクラと誰々丸を伴って標本室を出た。
 
 
 
ぼんやりしているサクラの手を引いて、オロカは歩調を合わせゆっくり足を進めた。
誰々丸は興味が無さそうに、すたすたと水槽の間を行ってしまう。
「おい、待てよ。少しは、見ろったら」
「気安く触るでない」
肩をつかんだオロカの手を、誰々丸は扇子でペチンと叩いた。

ふと、誰々丸は視線をあげた。
「これ、オロカとやら。肩車をせい、肩車」
「あ、あぁ」
上の方に興味を惹かれる魚でも居たのかと、オロカは言われたとおり誰々丸を担ぎ上げた。
「……」
誰々丸はじいぃっと何かに見入っている。
オロカは彼の視線を追ってみたが、そこには小海老一匹居なかった。
「夜に見る水槽のライトは、美しいのぅ」
「そっちかよ!」
がく、っと思わずオロカは膝を折りそうになった。
しかし言われてみれば確かに、揺れる水面がライトに照らされてキラキラと輝いており、綺麗ではあった。

誰々丸を肩車したままゆっくりと水槽の間を歩いていくと、やがて広い部屋に出た。
そこにはオロカの背丈の何倍もある、巨大水槽が広がっていた。
「おおっ、すげぇ!」
両手を広げたよりもまだ大きいエイが、波打つ鰓穴のある腹を見せながら、ゆったりと横切って行く。
"見せる役"という立場も忘れてオロカは見入っていたが、ふと足元をみると、サクラが床に腰を下ろしてぼーっとエイを見送っていた。
今度こそ誰々丸も興味を持っただろうと視線を上げると、彼は背中を丸くして逆さまにオロカの顔を眺めていた。
「なっ、なんだ?」
「生きているモノというなら、まだそちの間抜け面を見ておる方が楽しめるわ」
「うぇっ……?」
扱いの難しい子供だなぁと思いながらも、嫌われていないならまぁいいか、とオロカは内心胸をなで下ろしていた。

4.

ざあぁっ、と闇の中から波が押し寄せ、立ててある篝火の明かりにきらきらと波頭を煌めかせて引いて行く。
「石とか貝殻とかは全部取り除いておいたから、足の裏を怪我する心配はないよ」
「あ、うん」
イエソドの言葉に、オロカは頷いた。
ブーツを脱ぎ、ひんやりとした砂浜に裸足を下ろした。
「さぁ、おいで」
イエソドはまわしひとつの裸の腹を、ぱんと手のひらで叩いた。
「おぅ」
筋肉質ではあっても、無駄な肉を削ぎ落としたような体格のオロカには、いまひとつまわし姿は様にならない。
何度もまわしに手をかけて位置を確かめた後、オロカはぐっと腰を低くして構えた。

「いくぞっ!」
地を蹴って、オロカはダッシュした。
イエソドの背後に、砂浜に引かれた線が見える。
拳で殴ったら駄目。蹴っても駄目か。
良くわからんが、とにかく押し倒すか、あの外に出しゃあいいんだよな?
ぐっと片方の肩を前に出し、体当たりした。
イエソドは揺るがず、重厚な肉の壁にぶつかったような感触がオロカに伝わった。
「うん。強い強い」
イエソドはにこりと笑うと、オロカのまわしに手をかけた。
ぐっと捻りの加わった力が体に加わったかと思うと、オロカは宙に浮いていた。
「わぁっ!?」
どしん、とオロカは尻餅をついた。
「くっそ、強ぇ。さすがドグマの兄貴。いや、弟だっけ」
オロカは軽く砂を払って立ち上がった。
「もう一本!」
「いいよ、おいで」
 
 
 
幾度挑んでも挑んでもオロカは軽く捻られ、投げられたり膝をつかせられたりした。
オロカは砂浜に仰向けになり、ぜぇぜぇと荒い息をついた。
「参ったかい?」
「ま、まだまだ!」
ふらつきながら、オロカは立ち上がった。
「おらぁぁぁッ!」
オロカは全力で突進した。
胸と胸とが、ぶつかった。
イエソドの太い腕をくぐりぬけ、まわしに両手をかけた。
「おっ」
少し感心したような声を漏らして、イエソドもオロカのまわしを握った。
「うぉぉぉぉ!」
オロカはそのまま、ただひたすら真っ直ぐに押した。
イエソドはあえて投げたり横にそれたりせず、それを正面から受けた。

「くうぅぅっ!」
オロカは全力を振り絞った。
ずぶぶぶ、とオロカの両足が砂に潜った。
イエソドはじっとオロカを見下ろしていたが、やがてゆっくりと摺り足で前に踏み出た。
「ぐくくくく!」
少しずつ、ずりずりとオロカの体は後退させられていった。
砂浜に引かれた線の際で、半ば海老反りになりながらも、オロカは耐えた。
「くぁっ」
ついに力尽きて、オロカは仰向けに引っくり返った。
「くそ……参った」
「そうかい。君も、よく頑張ったよ」
息を荒げながら、キッとオロカはイエソドをにらみ上げた。
「練習してくる。次は一本取ってやるぞ」
「……」
イエソドはしばらく黙っていたが、唐突に「はっはっは」と笑いだした。
「……なんだよ」
「いやはや、君は凄いねぇ。これだけこてんぱんにされてなお、まだ『次は』と思えるなんて。
うん、うん……たいしたもんだ」
「……」
褒められるのは嫌いではなかったが、オロカはなんとなく素直に喜べなかった。
そんなオロカを、サクラはぼんやりと見つめていた。
誰々丸は、砂浜に打ち上げられたミズクラゲを扇子の先でつついていた。
 
 
 
「……!」
はっと、オロカは目を開いた。
見慣れたツリーハウスの天井が見えた。
「くそっ、次こそ……」
オロカは拳を握りしめて、ドスッと床を殴りつけた。
「なに寝ぼけてるんですか、オロカ……」
まだ眠そうな声で、三郎が横になったまま言った。

第3章「家出坊主とお姫様」>>

 
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