第5章「聞くに耐えないエレキギター 」

1.

「あと五回……」
ドグマは息を荒げながら、縄梯子を幾度も繰り返し、昇ったり降りたりしていた。
それも毎日のトレーニングの一環だと知っているので、三人はたまにチラチラと視線を送りながらも、放っておいた。

「よっ!」
暗示郎は、平たく伸ばした生地を頭上でくるくると回した。
みるみるうちに生地は薄くなり、ピッツァの形になっていく。
「上手いもんだなぁ」
薪割りの手を休めてオロカが言うと、すくい取るように生地を皿に乗せて暗示郎は笑った。
「へへっ、僕ピッツァ屋でもバイトしてたもん」
「喫茶店でもしてたんですよね。そんなにやってて、よく学業が務まりましたね」
外に出したテーブルで急須に湯を注ぎながら三郎が言うと、暗示郎はペロリと舌を出してみせた。

「三郎って、エルフみたいだよね。
『ソード・ワールド』とかのじゃなくて、『指輪物語』のレゴラスとか『D&D』あたりの、元祖エルフ」
暗示郎は、ピッツァの生地に具材を乗せながら言った。
「何です、薮から棒に」
「だって、剣も魔法も使えるし、名家の出身ぽいし、スラッと背が高くてハンサムだし、物腰がスマートだし、植物好きだし、緑だし」
微妙にイヤミなところも、と暗示郎は内心で付け加えた。
「……僕はそんな、たいしたものではありませんよ。
あんな可愛げのない万能選手……いえ、『D&D』の場合は、成長が遅いという欠点は一応ありますけど。
エルフなら、細長くはありますが結構ガチムチな、元祖エルフよりも……
『ソード・ワールド』や『ロードス島戦記』のディードリットやエスタスのような、華奢で小柄で優美な和製エルフの方が、好みです」
どこか迷惑そうに三郎は応じ、ちらりとドグマの方に目をやった。
「ディードはアニメで知ってるけど、エスタスって誰だっけ?」
「小説の番外編で出てくる、ディードリットと同郷のエルフです。いいですよ、中間管理職っぷりが」
「ふーん……ただ三郎、攻撃あんま得意じゃないとか言ってたけど」
「はい?」
「やれって言われたら、剣と魔法、どっち使うの?」
「……」
三郎は、言葉に詰まった。
「なんだ、エルフじゃなくて、サマルトリアの王子かぁ」
暗示郎が小さく呟いた言葉に、ひくっと三郎の頬が動いた。
「わ、悪かったですね!」
「あ、ドラクエ知ってたんだ」
「いいじゃないですか、サマルトリアの王子。可愛いですし。ザオリク使えますし」
「リメイク版だと、ムーンブルクの王女もザオリク使えるけど」
顔をドグマの方に向けたまま、三郎は柳眉をひそめた。
「そうなのですか? それはちょっと……納得できかねますね」
「そう? 両方使える方が便利じゃん」
「いえ。役割分担というものはあった方がいいですよ。
たとえ役立たずと言われても、これだけは彼にしかできない、というものが」
わかってない、わかってないですね、と三郎は口の中でぶつぶつと言った。
"彼"という言葉に、暗示郎は三郎の愛着を感じた。
「もしかして、FFじゃ赤魔道士使ったりした?」
「もちろん使いましたよ。あの中途半端さが愛しいではありませんか。
FF5では、『れんぞくま』使えますし」
「あれ、覚えるまでにやたら時間かかるじゃん。僕は手をつけなかったよ。
ふーん、『中途半端』にシンパシィ感じるんだー」

「……?」
オロカは、二人の話に首を傾げっぱなしだった。
モスタリアで現代の技術や文化に触れられるのは、上層階級に属する者だけであった。
三郎と同じモスタリア人であっても、下層民であったオロカには縁のない話であった。
「でーきた♪」
暗示郎は、具材を並べ終えたピッツァの生地を、石窯オーブンの中に入れた。
「おっと、蒸らし過ぎるところでした」
三郎は急須を手に取り、茶をコップに注ぎ始めた。
 
 
 
「もう少し……ッ!?」
ドグマが片手を伸ばした時、縄梯子をつかんでいた方の手がズルッと汗で滑った。
焦って伸ばした手は、空を切った。
「兄上!」
視界の端で宙に投げだされるドグマを捉えた三郎は、サンダルで地を蹴った。
体をひねって仰向けになると、空中でドグマを受け止めた。
ザザーッとコートに包まれた背中が地面で擦れ、激しい音を立てた。
「お怪我は……ありませんか、兄上」
「……貴様こそ」
「僕は大丈夫です。かすり傷ひとつ、ありませんよ」
「……」
不機嫌そうにドグマは三郎の手を払い、口の中でぶつぶつと言った。
「……はい?」
「怪我が無かったなら、良い!」
ドグマはプイッと横を向いて立ち上がった。そのまま、軽く胸を掻きながらドグマは行ってしまった。
オロカが慌てて、その後を追った。

「……割れてませんか?」
「うん、ギリギリセーフ」
テーブルの端で落ちかけた急須を押さえながら、暗示郎が応じた。
「それなら、良かったです」
立ち上がり、三郎は地面に落ちた帽子を拾った。
 
 
 
「三郎! 三郎、ちょっと起きてくれ!」
オロカに揺すり起こされて、三郎は薄く目を開いた。
ツリーハウスの中は、夜闇で満たされていた。
「まだ、暗いじゃないですか……何です?」
「ドグマの様子が、おかしいんだ!」
がばりと、三郎は跳ね起きた。早口で"猫目"の呪文を唱えると、横たわった小さな人影に近づいた。
ドグマは目をぎゅっと閉じたまま、はぁはぁと苦しそうな息をしていた。
「……ひどい熱ですね」
ドグマの火照った額に触れた三郎の手が、汗で濡れた。
「ん……?」
ドグマの手が胸を掻きむしっているのに、三郎は気づいた。
手首をつかんでその腕をどかし、衣服の胸元をはだけさせてみた。
「何ですか、これは……」
「どうしたんだ?」
オロカの問いに答えるのも忘れて、三郎は見入った。
蛍光赤色の斑点が、無数にドグマの肌に浮かび上がっていた。
「おい、三郎ったら!」
「あ、えぇ……もしかしたら、『最果て』特有の病気かもしれません。
風邪程度ならともかく、僕の手にはおえませんね」
「そ、それじゃ、どうするんだ」
「ちょっと、待ってください」
三郎はトランクを開け、内ポケットから"朽葉"と書かれた紙包みを出した。
「念のため、髪の毛をもらっておいて良かった……朽葉さんに診てもらいます」
「そっ、そうか」
「言っておきますけど、僕だけで行きますからね」
「わ、わかってる」

三郎はサンダルを履いて、背中に少し引っかき傷のついたコートを羽織り、ポケットに最低限のものだけ押し込んだ。
そしてドグマの体を毛布で丁寧に包むと、抱き上げた。
「では」
短い一言を言い残し、三郎は夜の空へと駆けた。

 

2.

日が頭上を越した頃──
バリバリバリバリッ、ギュィィィーン、イィィイィーン!
「……エレキギター?」
20棟ほどの粗末な小屋が固まり、その周りに畑の広がる、村らしき場所。
その上空で、三郎は首を傾げた。
空を引っ掻き回すような激しく耳触りな音が、村はずれに建てられた四角い大型天幕から聞こえてくる。
「何故エレキギターが……電気があるんでしょうか?
船ごと"最果て"に持ち込んだイエソド兄さんの例もありますから、小型の発電機ならば持ち込まれてもおかしくはないのですが。
それにしても、燃料が貴重なはずですから、こんな下手なギターのために使われるとは思えないのですけど」
三郎は軽く精神を集中し、納得した。
「魔力を感じる……魔術か、魔具を使っていますね」

三郎は地に降り立つと、岩の上にドグマを下ろし、畳んでコートのポケットに入れてあった帽子をかぶった。
そして再びドグマを抱え上げて、耳を塞ぎたいのを我慢しながら、薄暗い天幕の中に入って行った。
ステージ上は、スポットライトで照らされていた。
そこでは、白く染めた髪をツンツンとさせた15、6歳の若者が、エレキギターをかき鳴らしていた。
ステージの前には椅子が並べられ、空席が目立つものの、それでも十数人が着席していた。
……こんな下手なギターを黙って聞いているなんて、よほど娯楽に飢えてるんでしょうかね。
それとも、この人たち全員、耳が腐っているのでしょうか。
三郎は帽子の下で柳眉をひそめながら、座っている背の高い女の隣席に腰掛けた。

「お楽しみのところ失礼します、朽葉さん」
「あら、三郎。久しぶりね。あんたもライブを聞きにきたの?」
女──朽葉は、爪の長い手で片頬杖をつきながら言った。
「いえ。緊急の用件があって参りました。実は……」
三郎は、簡潔にドグマの容体を説明した。
頷きながら話を聞いていた朽葉は、推測を述べた。
「たぶん、『最果て』特有のアレルギーじゃないかしら」
「アレルギー、ですか?」
「まぁ、ここは暗いし、荷物も預けてあるから、とりあえず外へ出ましょう」
「わかりました」
三郎は頷いて、席を立った。腕の中のドグマを抱え直し、そのまま天幕の出口に向かおうとした時。
ステージ上の若者がマイクをひっつかんで、彼の背に向かって大声で怒鳴った。
「くぉら、てめぇ! 曲の途中で席を立つんじゃねぇッ!!」
……しまった。"影男の帽子"で姿を消してから、席を立てば良かったですね。
三郎は、こういう時に悪目立ちしてしまう、自分の背の高さを呪った。

「黙ってないで何とか言ったらどうだ、あぁッ!? ロックを馬鹿にしてやがるのかッ!!」
……いや、僕だって。それほど詳しくはないものの、全然ロックを聞かないわけじゃないのですが。
でも、好みにも合わなければ、技量だって明らかに学園祭レベル以下のギターを、どうしてこの非常時にわざわざ聞かなければ……あぁ、面倒くさい。
言いたい事はいろいろあったが飲み込んで、三郎はステージに向き直った。
そして、帽子をとって深々と一礼した。
「たいへん、失礼いたしました。
ですが、ここへは音楽を聞きに来たわけではなく、緊急の用で訪れたのです。それでは、お邪魔しました」
それだけを淡々と言って、三郎は帽子をかぶり直し、ついっとステージに背を向けた。
若者はまだ何かをがなりたてていたが、三郎は無視してそのまま天幕を出た。
「ごめんね、ブラァン。また後でね」
朽葉が謝っている声が、背後で聞こえた。
 
 
 
三郎はドグマを地面に横たわらせ、服を脱がせた。
奇妙な蛍光赤色の斑点が浮き上がった肌を、朽葉はしげしげと眺めた。
「やっぱり、『自分アレルギー』だわ。自分を拒否する気持ちが強いと、出るのよね」
「そんな事でアレルギーになるのですか?」
三郎の疑問に、朽葉は頷いて答えた。
「えぇ。前にも言ったでしょう。『最果て』では、精神状態が肉体に現れやすいんだって。
個人差はあるけど、出やすい体質みたいだしね、この人。
ま、対症療法だけど、注射一本打っとくから。夜には落ち着くでしょう」
「ありがとうございます」
「……意識が無いのが残念だわ。注射嫌いに打ってやるの、楽しいのに」
呟きながら鞄を漁る朽葉に、三郎は頭を下げた。

「それで……対症療法、という事は、時間が経つとまた出るのでしょうか」
「十分、ありえるわねぇ」
「なるべく、出なくする方法はありますか?」
「んー……」
ドグマの腕にてきぱきと注射を打ってから、朽葉は答えた。
「そうねぇ。自分の何を拒否してるかって、この人の場合はカウンセリング不要よねぇ。
自分が子供なのが嫌なわけでしょ?」
「……でしょうね」
縄梯子から落ちた時のドグマの態度を思い出しながら、三郎は相槌を打った。
「そうは言っても……仕方ないでしょうに」
「頭で理解してたって、気持ちでは我慢ならないんでしょ、きっと。
まっ……予定より早いけど、肉体年齢を一歳上げてみたら?
少しでも前進してるって実感があれば、ちょっとは気分的に違うかもしれないし。
問題あれば、また戻せばいいんだから」
「なるほど……そうですね。
危険を伴う術ですから、そうポンポンやらせたいものではないのですけど、仕方ないですね」
「そのへんは大丈夫でしょ、あんたのお兄ちゃんなら」
「……えぇ、まぁ」

「ありがとうございました。
今は何も手持ちがありませんが、お礼に今度来てくださった時には御馳走しますよ。
だいぶ、住環境も改善したことですし」
毛布で包み直したドグマの体を抱き上げながら、三郎は言った。
朽葉はにんまりと、彼に笑いかけた。
「あらそ。楽しみにしとくわ。あんた達んとこ面白いから、別の御馳走もね」
「……お手柔らかに」
病人を抱えているせいであろう。
"とりあえず今回は"餌にされなかった事に、三郎は内心胸をなでおろした。
軽く一礼し、彼はサンダルで地を蹴った。

「出る前に、ツリーハウスに魔法陣を描いておけば良かったですね。
そうすればすぐに戻れたのに……僕としたことが……慌てすぎですよ……」
風を切る音の中、ふとブラァンと呼ばれていた若者が撒き散らしていた騒音が耳に蘇った。
三郎は柳眉をひそめ、ゆるやかに唇を開いた。
自分の声で耳直しとばかりに、彼はレベッカの"MOON"を口ずさみ始めた。

「──月曜日が嫌いと言って
心のすべてを閉ざしてしまった娘は
始めての恋に落ちた日
想い出ひとつも持たずに
家を飛び出して戻らなくなった

こわしてしまうのは一瞬でできるから
大切に生きてと彼女は泣いた

MOON あなたは知ってるの
MOON あなたは何もかも
初めてキスした日のことも──」

三郎は、ドグマを壊れやすい宝物のようにしっかりと抱きしめた。
疾風のように軽やかに、彼は空を駆けていった。
日の傾き始めた空に、白い夕月が浮かんでいた。
 
 
 
夕暮れ時──
ツリーハウスに戻った三郎が、おしぼりでドグマの汗を拭いてやっていると、彼はぱちりと目を開けた。
「目が覚めましたか。兄上、どうですか具合は」
声を掛けると、ドグマは横たわったまま顔をしかめた。
「……ぅ」
「はい?」
「うげぇぇぇッ!」
三郎が寄せた顔に向かって、ドグマは突然、逆噴射のように激しく嘔吐した。
「……」
「……すまん」
「いえ、お気になさらず」
三郎は涼しい表情をなんとか保って、顔にまみれた吐瀉物をおしぼりで拭った。

「大丈夫ですか、兄上」
ドグマの小さな背中をさすりながら、三郎は声をかけた。
バケツを抱えて、う"っ、う"っと喉の奥を鳴らしていたドグマは、ようやく顔をあげた。
「……出すものを出したら、だいぶ楽になった」
「それは、良かったです」
じろり、と横目でドグマはにらんだ。
「いいか、言うなよ。吐いたとか、絶対に言うなよ」
「はい、はい。言いません、言いません」
「絶対に、だ」
「はい、はい。絶対に、言いませんよ」

うがいをするドグマの横顔を眺め、どうやら吐き気が収まったらしいと見てとった三郎は、再び口を開いた。
「朽葉さんに診てもらいましたが、アレルギーの一種だそうです」
「アレルギー? 何のだ」
「えぇと……」
三郎は迷ったが、朽葉から聞いた事をそのまま伝えた。
黙って聞いていたドグマは、顔に喜色を浮かべて言った。
「……靴がゆるくて、詰め物をしていたからな。ちょうど良かった」
「完全に、体調が回復してからにしてくださいね。
術の制御に失敗して、生まれる前まで戻られてしまったりしては困ります」
「わかっておるわ、そんな事」
「それで、どうでしょう。何か、食べられそうですか?」
「……少しならな」
「では、暗示郎に相談して、喉越しの良さそうなものを作ってもらいましょう」
「うむ」
三郎は吐瀉物や汚れ物を始末すると、外にいるオロカと暗示郎に、ドグマが目を覚ました事を伝えに行った。

 

3.

真夜中、三郎はゆっくりと身を起こした。
いろいろあったせいか、疲れているのになかなか寝付けなかった。
耳をすませて三人とも静かな寝息を立てているのを確認すると、窓枠に腰掛けて、月を見上げた。
「ん……?」
わずかな明かりを感じて、三郎は振り返った。
棚に置いてある螺鈿細工の手鏡が、ぼんやりとした光を放っていた。
「どうせ眠れないなら、夢に旅するのも一興ですか」
三郎は手鏡を手に取ると、毛布に潜り込んで横になり、鏡の面を額に押し付けた。
 
 
 
ギャギャギャギャ、バリバリバリバリッ!!
耳障りな、やかましい音がした。
三郎は、嫌な予感を覚えながら目を開いた。
客の姿が無い、がらんとした広く明るい劇場。
ステージの上では、白いツンツン頭の若者──ブラァンが、エレキギターをかき鳴らしていた。
「また、あの人ですか……」

「あら、三郎。また会ったわね」
横から声がして、三郎はそちらを向いた。
隣の席にはサクラ、その奥には朽葉が腰掛けていた。
「あぁ、どうも……。初めまして、サクラさん」
正確には初対面ではないが、三郎はそう声をかけた。
「……?」
サクラは、目をぱちぱちとさせた。
きっと、彼の目からは三郎が何も無いところから突然湧いて出たように見えたのだろう。
「僕は、三郎と言います」
「……食べる?」
サクラは、手にしていたキャラメル・ポップコーンの大きなカップを差し出した。
「……ありがとうございます」
三郎は軽く一礼して、ポップコーンをつまんだ。
さほど好きではなかったが、久しぶりに口にしたキャラメル味は美味しく感じた。

ギュイーン、ギュリギュリギュリ、リリリリッ!!
……それにしても、うるさい。どうしましょう。
三郎は少々悩んだが、結局、帰りたくなった。
……こんなやかましい中じゃ、サクラさんに何か教えるもへったくれもありませんね。
苦手な朽葉さんに、ちょっかい出されたくもありませんし……またの機会にしましょう。
夢から覚めるまで外で待とうと決めると、三郎は声を潜めてサクラに囁いた。
「こんなのを聞いていると、耳が腐りますよ」
「……?」
サクラは、再び目をぱちくりとさせた。
「失礼します」
三郎はスッと席を立ち、ステージに背を向けた。
そのとたん、ステージ上のブラァンが、マイクをひっつかんで叫んだ。
「くぉらッ! また貴様かぁぁッ!」

「曲の途中で席を立つなッつってんだろうが!」
「……」
「なんとか言いやがれ、この野郎ッ!」
「……」
……あぁ、面倒くさい。
三郎はイラッとしてそのまま歩を進めようとしたが、ふとイエソドの言葉が脳裏をかすめた。

──言わないと、わからないだろう? 子供に"空気読め"と言ったって、無理な話だ──

……昼間と違って他に客はいないので、波風立てることを恐れる心配はありませんし。
朽葉さんなら、少しぐらい嫌われた方がいいかもしれませんね。
もし、ずけずけと構われなくなるなら、むしろ歓迎したいところです。
……やりますか。たまには。主義には、合わないんですけど。

三郎は振り返ると、帽子のつばを上げて、軽蔑しきった表情を露わにした。
そして、ゆっくりと口にした。
「……うるさい、です」
「なんだとぉッ!!」
ブラァンは逆上し、ステージを駆け下りて、そのままの勢いで殴りかかってきた。
「悪口ならいくらでも聞くが、オレを無視する言葉だけは許せねぇ!」
三郎はスッと一歩退いて、拳をかわした。
「無視……してませんよ。ちゃんと、言ったじゃありませんか」
「『うるせぇ』ってのは、無視してるのと一緒なんだよッ!」
今度は蹴りが飛んできた。
三郎は床を蹴って、大きく飛びのいた。
「……じゃあ、下手です」
「下手かどうかは問題じゃないんだよ! 表現しなきゃいけないんだよ!」
「上手くなってから他人に聞かせてください。貴方のは、単なる騒音です」
「上手いか下手かは関係ないんだよ! 湧き上がるものを表現せずにはいられないんだ!
技術なんてものは、後から着いてくらぁ!」
「関係あります。迷惑です。無理矢理聞かされる人の身にもなってください」
ブラァンの拳を、蹴りを、三郎は次々にかわした。
一撃一撃はなかなかにスピードがあったが、言葉の切れ目にしか襲いかかってこない単発的な攻撃に当たる三郎ではなかった。
……当てたいならもっと連打して、コンビネーションとかフェイントとかを考えるべきでしょうね。
まぁ、攻撃が得意ではない僕の言えた事じゃありませんが。

「そういうてめぇは、楽器弾けるんだろうな!」
「一応、弾けますけど、他人には必要がない限り聞かせないと決めていますので」
ひらりと余裕で拳をかわし、三郎は答えた。
「聞かせない音楽に何の意味があるんだよ! それは単なる自慰行為だ!」
「下品な言い回しはやめてください。
意味なんて無くていいんです。自分の楽しみで弾いてるだけですから」

「こらぁ! 避けるだけじゃなくて殴って来い、てめぇ!」
「嫌です。僕の拳を傷つけるだけの価値は、貴方にはありません」
「スカしてんじゃねぇ、てンめぇ!」
ブラァンは、強く床を蹴って飛び込んできた。
三郎は、床を滑るように素早く退いた。
が、一瞬宙に舞った、首に巻いていたスカーフを捕まえられた。
……しまった。ちょっと、油断しましたね。
三郎は、コートのポケットから剪定鋏を取り出そうとした。
しかし、間髪入れず鳩尾めがけて膝が飛んできたので、中断した。
腕で受け流し、急所へのヒットはそらしたが、腕がじんじんと痛んだ。
「離してください!」
「誰が離すか!」
……仕方ないですね! こんな泥臭いの、嫌なんですけど!
三郎は、すんなりと細長い手をぐっと拳に固めた。
頬を殴り、顎に頭突きをくらい、膝で脇腹を蹴り、体当たりを受けて二人とも倒れこんだ。
そして、くんずほぐれつ、両者無言で殴り合い続けた。
 
 
 
ハァハァ、ハァハァ……
疲れ切って、床に転がった二人は、嵐のように息を荒げていた。
どちらが勝ちとも言いがたかったが、続けたくても続ける体力は、どちらにも残っていなかった。

「……ふふ」
ニヤニヤしながら、朽葉は二人の喧嘩を見守っていた。
「三郎。あんた、思ってた以上に面白いわぁ。どういう、心境の変化?」
「別、に……」
「残念ね、ブラァン。歌う体力、残ってなさそうで。歌なら、三郎だって普通に聞けるでしょうに」
「……けッ!」
「三郎ねぇ。ライブのお客さ。
後半の歌が聞きたいがために、前半のギターを我慢して聞いてる人も多いのよ」
「だったら……歌だけ、歌ってりゃ……いい、でしょうに……」
「まだ……言う、かッ! ギターでなきゃ、表現、できねー、ものだって……あンだよッ!
わっかんねー、奴、だなッ!」
「わかり……たくも、ありま、せん!」
「せめて……わかろうと、しろ!」
「お断り……しま、す!」

「……なんだか、どっちも、わかんない……」
サクラが、ぽつりと呟いた。
 
 
 
はっとまぶたを開けると、三郎の目に暗い天井が映った。
「……やれやれ」
三郎は溜息をついた。夢なのに、異常に疲れを感じた。
「兄さん……言ったって、わからないじゃないですか……」
不満げに、三郎は呟いた。
しかし、いつになく言いたいことを全部吐き出したせいか、不思議とスッキリとした心地がした。

第6章「びしょぬれの迷い犬」>>

 
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