第8章「原色と中間色の剣舞 」

1.

「あれっ……」
三郎が着替えを用意しているのを見かけ、暗示郎は声をかけた。
「湖に行くの、三郎?」
「いえ……昨日、山菜採集でちょっと遠出した時、温泉が湧いているのを見つけまして。
試しに入ってみようかと」
「温泉! 露天風呂! いいね! 僕、日本に旅行に行った時、一日五回もハシゴしちゃったよ」
「……ふやけますよ、それ」
「ねー、僕も行くゥ!」
「いえ、入ってみて良かったら、今度案内しますから」
「やだぁズルい、連れてってよー」
「……いいですけど、なら僕は入りませんよ」
「なんでさぁ、一緒に入ろうよー」
「いや、その……こういう場所ですから、何か出るかもしれませんし……見張りでもしてますよ」
「君が見張ってる逆から来るかもしれないじゃん」
「……」
「一人じゃ寂しいん。怖いん。ねーったらー、入ろうったらー」
「……恥ずかしいんですよ」
「なんでー。君、向こうじゃ日本に一番長く居たんでしょー? 日本じゃ裸のつきあい、当たり前でしょー?」
「日本のそういうところには、馴染めませんで……」
「いいじゃん、知らない人が入ってくる事ないんだしー」
「嫌なものは、嫌なんですよ……誰だからという事ではなく……」
何のかのと三郎はごねたが、やがてしつこく食い下がる暗示郎に根負けした。
「……一回だけですからね」
「わ〜い♪」
 
 
 
森の中、露出した岩肌の上を歩いていくと、しばらくしてほのかな白い煙が見えてきた。
岩盤が大きく裂け、小さな谷間のようになった場所に、湯がなみなみと溜まっていた。
「あったぁ〜、入ろ、入ろ♪」
「ちょっと待ってください。前来た時にも、ざっとは見ましたが……」
三郎は辺りを見渡しながら、ぐるりと温泉を一周した。
次に屈み込んで、じっくりと湯の内外に危険な動植物が無い事を確かめた。
最後に、湯の中に突っ込んだ手を振りながら、許可した。
「……いいでしょう」
「ひゃっほう♪」

暗示郎は、ぱっぱっと手早く服を脱ぎ捨てた。
ちらりと視線をあげると、三郎が彼に背を向けて服を脱いでいた。
すんなりと線が細くしなやかな体に長い黒髪がかかり、妙になまめかしかった。
「三郎って、後ろから見ると女の子みたいだよね」
「……そんな事言うと、入りませんよ」
「あはっ、ゴメンゴメン。冗談だよ、襲いやしないから」
「……当たり前です」
三郎は暗示郎に背中を向けたまま、胴にバスタオルを巻きつけた。
そんな事すると、余計女の子みたいだけどな。
暗示郎は横を向いて、ニヤニヤ笑いを隠した。

「ふわぁっ、あったか〜い。いい気持ち〜♪」
暗示郎は湯の底の石に腰掛けて、のびのびと手足を伸ばした。
「お湯に浸かってると、ことさら緑もみずみずしく見えるよね」
「そうですねぇ……飲みます?」
三郎は水筒の茶をついで、暗示郎に差し出した。
「おっ、気が利くね〜、ありがと〜」
喉を潤すと、暗示郎はもっといい場所はないかと、うろうろと湯の中を探検した。
テーブルのように平たい岩が沈んでおり、深さ10cmほどの浅瀬になっているところを発見し、目を輝かせた。
「あっ、いいなここ。寝ちゃお〜」
岩に登り、でっぱりを枕にごろりと寝そべった。ちょうど半分、背中が湯に浸かる具合になった。
「気ン持ちいい〜♪ 君もおいでよ〜」
「いや、ここでいいですから」
三郎は、隅の方で小さくなってバスタオルを押さえていた。
そんな彼をよそに、暗示郎はいい気分で"Amazing grace"を歌い始めた。

「──Amazing grace, how sweet the sound.
(アメージング・グレース 何と美しい響きであろうか)
That saved a wretch like me.
(私のような者までも救ってくださる)
I once was lost but now am found.
(道を踏み外しさまよっていた私を 神は救い上げてくださり)
Was blind but now I see.
(今まで見えなかった神の恵みを 今は見出すことができる)」

賛美歌のはずであるが、暗示郎が歌うと何やら軽快なダンス・ミュージックのようであった。
湯を堪能しているうち、ぱしゃんと水音がして、暗示郎は頭を上げた。
黒髪が、ふわふわと湯に浮いていた。
暗示郎は慌てて起き上がると、水飛沫をあげて駆け寄り、三郎の上半身を抱き起こした。
「どうしたの、三郎。湯あたりした?」
濡れた黒髪がべっちゃりと三郎の顔に張り付いて、何だか不気味に思えた。
「……」
目を閉ざしたまま、三郎はかすかに唇を動かした。
──逃げて。
暗示郎は、彼がそう言ったような気がした。
「え……何、から?」
暗示郎は、辺りを見回した。
ゾクッ……
温まっていたはずの体の芯に、寒気を感じた。
「えっ……?」
暗示郎の意識は、急激に薄らいでいった。

2.

「くぉぉぉぉぉッ!」
ストーン・サーバントと組み合って、オロカは力を振り絞っていた。
しばらく膠着状態が続いていたが、やがてオロカの足がずるっ、ずるずるっと土の上を滑っていき、引かれた線の向こうへと押し出された。
「ふぅ、くそ……っ」
尻もちをついて、オロカは額の汗を拭った。
「おまえはいい加減、小型とはいえゴーレム相手に、真正面から力押ししても駄目だとわからぬのか?」
ドグマが、呆れて言った。
「そうは言っても、俺は正面からぶつかる事しか知らないんだ」
「知らなければ覚えろ、考えろ。
前にまぐれで倒した時は、力の加わり方が正面からではなかったぞ。それに、タイミングも良かった」
「そう、だったか? 必死だったから、良くわからん」

かさりと下草を踏み越えて、三郎と暗示郎が森の奥から姿を見せた。
「あれ? 二人とも、出かけてたのか?」
「えぇ。お疲れ様です」
「三郎が温泉見つけたんだ! 入りに行こうよ!」
「温泉か、いいな。汗もかいたし」
「では、今日はここまでだな」
ドグマが指をぱちんと鳴らすと、ストーン・サーバントはがらがらと崩れ、石ころの山となった。
 
 
 
「ふむ。なかなか、野趣あふれる景観だ」
温泉を眺めて、ドグマが言った。
モスタリアやアメリカで暮らしていた頃は、彼は湯船に入らず、シャワーだけで済ます事が多かった。
が、こうした場所でくつろぐのは、日常の入浴とはまた別なものである。
彼も、自分から温泉旅行に行こうとするほどではないものの、嫌いではなかった。

オロカは屈んで、湯に手をつけた。
熱すぎず、ぬるすぎずの心地よく優しい感触を肌に感じた。
「あったけぇ。こりゃ、気持ち良さそうだな。入ろう、入ろう」
「入ろー♪」
「えぇ」
コートのボタンを外しにかかった三郎に、ドグマは怪訝な目を向けた。
「……待て」
「はい?」
「おまえは……本当に三郎か?」
「何言ってるんだ? ドグマ」
投げかけられたドグマの疑問に、オロカは首を傾げた。
「いや。こいつは女みたいな性癖があってな。たとえ身内であっても、肌をさらしたがらんのだ。
昔、私が体を壊して湯治に行った時も、こいつは服を着たまま介助をしたぐらいだ」
私──と言っても、エイリアスと呼ばれていた頃の話だが、とドグマは心の中で続けた。
「そういえば……」
オロカは、謎の少年に沼から湖岸に飛ばされた際、三郎が服を脱ぐのをしぶっていた事を思い出した。
「私はてっきり、自分は見張りをしているから入れとか、言い出すだろうと思っていたが……
……重ねて問う、おまえは本当に三郎か?」

「……」
三郎が、薄く笑った。
『目に触れる虚は実となり、肌に触れる虚は実となる……』
その唇から、呪文が紡ぎ出された。
暗示郎はピョンピョンと跳ねるように、三郎の後ろに下がった。
偽者か? それとも、何かに操られてでもいるのか?
オロカには判断つかなかったが、とりあえず刀の峰を前に構えた。
「おりゃぁッ!」
少し力を加減して、刀を振るった。
スッと滑るように三郎は退き、刀は空振りした。
『……愚者よ、偽りの迷宮に惑え!』
呪文が完成し、三郎の手から緑色に輝く光の筋が放たれた。
光の筋は素早く空を走り、オロカの周囲を何重にも回転した。
「う、わっ!?」
光の筋はてらてらと鱗を光らせた大蛇に変化し、オロカの全身を締め上げた。
「く、苦し……」
オロカはもがいたが、大蛇の力は強く、びくともしない。
それどころかますます大蛇の体が肉に食い込み、肋骨がみしっときしむのを感じた。
「ぅ……お、折れる……」

暗示郎が、動けぬオロカを見て小悪魔じみた笑みを浮かべた。
背中につけられた"ぺ天使の偽翼"が、ぱっと広がった。
暗示郎は人差し指を立てて、くるんと頭上で回した。
生じた"サブリミナル・リング"──金色の輪が、シュイィィンッと風を切って飛んできた。
「うわぁぁっ!」
避けられない!
オロカは目をつぶった。
『我は拒む、我に触れんとする全てを!』
ドグマが、素早く呪文を唱えた。
不可視の壁がオロカと三郎の間に出現し、飛来した金色の輪をキンッと弾いた。
「オロカ、その蛇は幻覚だ! 動けないと思い込んで、自分から縮こまっているだけだ! 動ける! 動け!」
ドグマに叱咤され、もう一度オロカは手足に力を込めたが、大蛇の束縛は揺るぎもしなかった。
「動けって言ったって……動けねぇ!」
「世話が焼ける……『実は虚に還れ、虚は無に帰せ!』」
呪文と共にパンッとドグマの両手が叩かれると、大蛇は一瞬にして消え去った。
「き、消えた!?」
「だから、幻覚だと言っておろうが」

三郎が不可視の壁を迂回せんと駆け出し、暗示郎がその後を追った。
『双翼よ、我を護れ』
三郎は走りながらキーワードを唱え、コートのポケットから出した剪定鋏を二本の短剣に変化させた。
『早まれ、我が時計の針よ。他の時計の追随を許さずに』
続いて時空魔術の"加速"の呪文を唱えると、三郎の俊足が更に一段とスピードを増した。
「ん……?」
ドグマは、三郎と暗示郎の足元を見やって、小さく声をあげた。
岩肌に、足跡がついている。濡れた足跡が──
これは──もしかすると。
ドグマは、くるっと踵を返した。
「オロカ! しばらく一人で、なんとかしろ!」
怒鳴りつけるように言うと、ドグマは返事も待たずに駆け出した。
「え、えぇっ!?」
オロカは、困惑の声をあげた。
しかし、三郎がすぐそばまで迫っているのを見て、再び刀を構えた。

シャッ、シャシャッ、シャシャシャッ!
三郎が握る両手の刃が、目にも留まらぬ連続攻撃を仕掛けてくる。
オロカの掲げる刀など障害物にもならぬかのように、斬撃がくぐり抜けてくる。
かといって決して無理はせず、攻撃してはすぐに退く、可愛げがないほどに徹底した一撃離脱戦術──
オロカは、自分の振り回す刀が、全く当たる気がしなかった。
まるで、はるか遠くにいる敵を相手にしているような錯覚にとらわれ、徐々に防戦一方に追い込まれて行った。

……み、見えねぇ……!
あっという間に、オロカの体のそこかしこが血を噴いた。
攻撃は苦手だって? どこがだよ!
確かに一撃一撃は浅手で、急所にも当たってはいない。
しかし、このまま切り刻まれ続ければ、いずれ出血多量で動けなくなるのは火を見るよりも明らかだった。
オロカは、多少傷ついても突破口を開くと、覚悟を決めた。
避けるのも受けるのもどうせ不可能ならと、防御は捨て、刀を大きく振りかぶった。
「うぉ……」
雄叫びと共にそれを振り下ろそうとした時、ブーメランのように湾曲した軌道で三郎を迂回し、金色の輪が飛んできた。
「うわぁッ!」
オロカはとっさに、足元の砂利を蹴り上げた。
砂利に金色の輪がぶつかり、空中で静止した。
ホッとしたのもつかの間、目をそらした隙をつかれた。
三郎の短剣が、右の二の腕に突き刺さった。
「痛ぇッ……!」
すぐさま、三郎はズザザッと足元の砂を鳴らして引いた。
刃が抜けてオロカの右腕から血が噴き出し、力を入れようとするとズキズキと痛んだ。
利き手で柄をうまく握れないせいで、刀が急にずっしりと重みを増した気がした。
「く、くそ……なんとかしろッたって……どうすりゃいいんだ!
三郎だけならまだしも、二対一じゃとても……!」
 
 
 
ドグマは、地面に置いた爆撃機の玩具を前に、指揮棒を振った。
『変化に怯え、変化を生み出す。それが進化か、臆病者め。絶対不可侵の己を持てば、何に怯える事も無い』
魔力には、体内に貯めておくものと、術を用いるためにそこから小分けにして引き出すものとがある。
ドグマは呪文を唱えると共に、精神を集中した。
そして己の中から、複合魔術"コンクエスト"を用いるために必要な、大量の魔力を引き出した。
彼の小さな体の中で、魔力が嵐のように激しく荒れ狂った。
「う……くぅ……ッ!」
ドグマは、意志によって魔力の流れを制御しようとした。
しかし、未成熟な体が魔力の圧力に耐えられず、思うように集中できなかった。
「こ……このくらい……おかしいぞ、わ、私が、このくらい耐えられんわけが……」
集中に手間取っているうち、引き出すつもりだった以上の魔力が流出し始め、圧迫感が増幅した。
内から破裂しそうな感覚と共に、意思とは無関係に四肢が広げられて行き、ぴんと突っ張った。
体を曲げようとすればするほど、背筋が反り返っていく。まるで、見えない十字架に磔にされたようだった。
「う、動けん……だっ……駄目だ……このままだと、暴走する……ッ!」
ドグマは魔力の制御を止め、引き出されていた魔力を体外へ一気に放出した。
「おあぁぁッ!」
衝撃で、傷めている神経が刺激され、全身へビリビリビリッと激痛が走った。
ドグマは地面に倒れこみ、激しくのたうちまわった。
「ぐはぁッ!……あッ!……あぁ……ッ!……い、痛い……痛……うぅ……
だ、だが良かった……放出すらできなくなる寸前だった……
制御に失敗して反動をくらったら……こ、こんなものでは済まなかったぞ……」
ドグマは庭園で"コンクエスト"の制御に失敗した経験を思い出し、恐怖にぶるっと身を震わせた。

始めの電流にも似た激痛こそ数秒間でやんだが、酷い神経痛がなかなか引かなかった。
肋間神経が特に、きしきしと無数の針を刺されたように痛んだ。
「あ、うぅ……やはり、この体では高度な術は無理なのか……? 負担が、大きすぎるのか……?」
胸をさすりながら、ドグマは呟いた。
「くそッ……なぜ今、私は子供なのだ……なぜだッ!……ぐっ!ぐふっ!」
大声を出したせいで胸が痛み、咳き込んだ。
……こんな事をしている間に、奴が……
三郎と暗示郎を引きつけて、一人戦っているはずのオロカの事を思うと、気ばかりが焦った。
しかし、何をするにしても、痛みが収まるのを待つしかなかった。
今の状態では指揮棒を振るどころか、立ち上がれる気すらしなかった。
「無理、と決めつけるのはまだ早い……もう一度、だ。
魔力流出は、アクシデントだ……それさえなければ、制御不能というほどではない……
それに……引き出す魔力の量を最低限にするため、無駄を省かねばな。
第一に、欲を張らず……数は増やさずに、一機でよかろう……それに……」
神経が落ち着くまでの間、ドグマはぶつぶつと作戦を練った。
 
 
 
容赦無く、オロカの体めがけて、三郎の突きが飛んでくる。
オロカは刀で受けようとしたが、右腕を動かそうとした瞬間、ズキンッと傷が痛んだ。
「つぅ……ッ!」
三郎は、動きが止まった大きな隙を見逃さなかった。
右の刃、次いで左の刃──オロカの両脚の腿をそれぞれ、深々と短剣が貫いた。
焼け付くような激痛が走った。オロカは歯を食いしばってこらえ、刀を振るった。
が、三郎は短剣の柄から手を離して素早く地を蹴り、刀の間合いの外へ逃れた。
オロカは、反射的に三郎を追おうとした。が──
「う、うぅっ……あ、足が……」
短剣は杭のように腿の肉へ食い込んだまま──痛みで下半身に力が入らない。
体重を支えきれず、膝ががくがくと震えた。立っているのがやっとで、前にも後ろにも踏み出せない。
……こんな棒立ちじゃ、どうにもならない……抜けば大出血するかもしれないが、抜くしかないか……?
オロカは刀から左手を離し、短剣の柄へと伸ばした。そこへ、暗示郎が放った金の輪が襲いかかった。
……う、動けない……ッ! かわせない……!
オロカは、地に身を投げ出した。岩盤に深手を負った体が叩きつけられ、顔をしかめた。
その体のすぐ上を、金の輪が通り過ぎていった。
暗示郎の指がくるんっと回る。
……駄目だ、もう後が続かない……!
オロカは、観念しかけた。それでも駄目元で岩肌の上を転がろうとした時、異変は起きた。

ドカァッ!
轟音と共に、巨大な火柱が上がった。
さぁっと影が駆け抜け、ちらりとオロカが視線を上げると、爆撃機が空を飛んでいた。
「ドグマの……スーパーなんとか……?」
ドグマは、爆撃機の操縦席で指揮棒を振っていた。
大きく指揮棒が振るわれると、爆撃機は爆弾を落とした。
ドカァッ! ドカァッ!と激しく飛沫を散らして火柱が上がり、大量の湯が温泉からあふれ出た。
「蒸発させられたくなくば、その二人を解放しろ! こんなちっぽけな泉、五分で消してやるぞ!」
ドグマは、空から大声で恫喝した。
その言葉に、三郎と暗示郎の体がぶるっ、ぶるるっと震えた。
そしてぴたりと動きを止めると、体中の穴という穴からブシューッと水を噴き出した。
「へ? へっ?」
混乱するオロカの目の前で、三郎と暗示郎は相次いで倒れた。

オロカは顔を歪め、激痛で自由に動かぬ足を引きずって、這い寄った。
「お、おい……大丈夫か?」
声をかけながら、三郎の肩に手をかけて揺すった。
「ぅ……」
三郎は、薄く目を開いて声を漏らした。
「すみません……水の中に何か居ないかは見たんですが……まさか、水そのものが魔物とは思いませんでした……」
「へっ……? そ、そうだったのか……?」
ドグマが玩具のサイズに戻した爆撃機を持って、歩み寄ってきた。
「正気に戻ったか、未熟者め」
「……さすが、兄上ですね」
「ふんっ……当然だ」
ドグマは神経痛の名残をこらえつつ、胸をそらして応えた。

 

3.

負傷したオロカを、三郎と暗示郎が両側から支え、四人は水辺を離れた。
たいした距離ではなかったが、オロカが一歩一歩足を進めるたびに、ズキンズキンと痛みが体を駆け巡った。
「ここらでいいでしょう……オロカ、座ってください」
「つ……ッ」
三郎に声をかけられ、オロカは尻餅をつき、仰向けに倒れこんだ。
痛みに耐えるのも、限界に近かった。縮こまらせた手足が、ぶるぶると震えた。
「ひど……」
改めて傷を目の当たりにし、暗示郎が息を飲んだ。短剣の刃は、鍔の近くまで腿の肉にめり込んでいた。

オロカは短剣を抜こうと、柄に左手をかけた。
が、こちらの腕には浅手しか負っていないとはいえ、両脚や右腕の激痛のせいで踏ん張りがきかなかった。
それに、痛みをこらえるために無意識に筋肉が締まっていて、少し引っ張ったぐらいでは抜けなかった。
「さ、三郎……抜いてくれ……もう、力が入らねぇ……」
オロカが、苦しい息の下から言った。
「は……はい」
三郎は膝を地につき、自分の短剣の柄を握った。
……これを抜いたら……さぞ痛いんでしょうね……鋼鉄の塊が、ずるずると肉の中を通り抜けて……
痛みを想像すると、身がすくんだ。
早く抜いてやらねば、と頭では思っても気持ちが躊躇われ、なかなかその手に力を込める事ができなかった。
「は、早く……早く、してくれ……痛ぇ……痛ぇよ……」
オロカが訴える声が、弱々しくなっていく。
「……っ」
……そうだ、昔兄上が酷い神経痛で倒れた時のように、幻覚魔術で"麻酔"をかければ……
いや、あの術は呪文がやたらと長く、僕の実力では簡略化もできない。
呪文を唱える間、オロカに耐えていろというのも本末転倒……
やはり痛くても早く抜いて、早く暗示郎に治してもらうのが最善手……
でも……手が動かない……本心でやりたくない事はできないという、"最果て"の力ですか……?

……何を怖気づいている……情けない奴……が、それはさておき……
ここまでオロカが痛めつけられたのは、この脆弱な体のせいでもたもたしていた、私の責任でもあるな……
短剣の柄を握りしめたまま固まっている三郎を見かねて、ドグマが足を踏み出した。
オロカを挟んで三郎の向かい側に屈み込み、もう一本の短剣の柄を小さな両手でつかんだ。
そして、腕だけでなく膝や腰の力も振り絞って、立ち上がりざまに一気に引き抜いた。
「ぎゃぁーッ!」
血を噴き出す左脚を抱え、オロカはのたうちまわった。
「あ、兄上……」
「馬鹿が!」
ドグマは、三郎の胸倉をつかんで怒鳴った。
「曲がりなりにも剣を使う者が、そのくらいできんでどうする! さっさと、オロカを楽にしてやれ!」
「は……はい!」
ぬ、抜かないと暗示郎も治せないんですから……は、早く……早く、楽に……
意を決して、三郎は残る一本の短剣の柄を握り直した。
「抜きますよ!」
「あぁ……っ!」
三郎は目をつぶって、思いっきり短剣を引き抜いた。
「ぐぁーッ!」
血を噴き出す右脚を抱え、オロカは再び地面を転がった。
『も……萌え出ずる生命の息吹、唄えよ若葉の囁きを』
暗示郎が、焦る心を抑えて"軽傷治癒"の呪文を唱えた。
痛みが徐々に引いて行くのを、オロカは感じた。
「あ……ありがとよ……」
オロカは倒れたまま、三人に礼を述べた。

「おまえって、攻撃は苦手とか言ってるけど、本気出せば剣で戦うのも強いんじゃないのか?」
一度では全快せず、再び暗示郎に傷を癒してもらいながら、オロカは三郎に尋ねた。
「……できないとは……言ってませんよ。でも……得意では、ないですよ」
……傷つくのも傷つけるのも嫌いですし……
内心で呟きながら、三郎は答えた。
「だって、滅茶苦茶強かったぞ」
「……それは」
短剣を拾い上げ、刃に付着した血を拭いながら三郎は言った。
「そう、ですねぇ……やれば、できるはずです。技量より、性格的な問題かもしれません。
僕の場合、身を守れればそれでいい──元々、それだけのために覚えた剣技です。
下手に攻撃なんかすれば隙が大きくなる、それよりもかわすだけかわして逃げてしまえばいい……
その考えが、染みつきすぎてるんですよね」
「……うーん……」
「純粋な剣技だけではなく、戦闘補助系……『加速』の術にしても、覚えはしましたけど……
持続時間が切れると反動でいつもより遅くなるというデメリットばかりを気にして、実戦ではなかなか使う気になれないんですよね」
「……考えすぎなんじゃないのか、おまえ。そうは言っても、逃げればいいって場合だけじゃないだろ。
逃げちゃ、守れるのは自分の身だけだろ。守りたい人を、守れないだろ」
三郎は、じっと刃を見つめて口を閉ざし、再び開いた。
「はい……そのとおりです……」

「……」
ドグマは背を向け、腕を組んで、二人のやり取りを聞いていた。
……何が、"やればできる"だ。やってから言え、甘ちゃんが!
身体能力は高く、特に俊敏性やバランス感覚は十分すぎるほど。
問題といえば筋力が少々足りない事ぐらいで、魔術を併用すればいくらでもダメージ増強手段はある。
私と違い何の障害もない健康体で、私よりも若い。他に何が足りぬ? あとは努力あるのみであろうが!
そう思いはしたが、三郎なりに考えている様子だったので、口出しは控えた。
 
 
 
帰り道、三郎がドグマに声をかけた。
「兄上、どうなさいました……?」
ドグマは木に手をついて、胸をさすっていた。
歩いているうちに、しくしくと痛みがぶりかえしてきたのだ。
「ただの、神経痛だ……」
「ドグマって、神経痛持ちだったの? それじゃあ、温泉入れなくて残念だったね」
「まぁ、な……痛むのは、久しぶりだが……」
暗示郎の言葉に、ドグマは頷いて応じた。
「『麻酔』……かけますか?」
「もう、そこまで痛くはない……」
「さっきまでは、『麻酔』が欲しいほど痛かったのですか?」
「……」
ドグマが黙っていると、三郎は歩み寄り、肩と膝の裏に手をかけて抱き上げた。
「おい……」
「後ほど、鎮痛剤を作りますね。気休めにしかならないかもしれませんが……」
「それは良いが……この抱き方は、やめぬか?」
「わー、お姫様抱っこだー♪」
「え……? い、いえ、別にそんなつもりは……」
「じゃあ、俺がおんぶしようか?」
口を出したオロカにからかうつもりは無かったのだが、ドグマは彼をにらみつけて怒鳴った。
「どちらにせよ恥ずかしいわ! もういい、下ろせ! 自分で歩く!」
 
 
 
夜、皆が寝静まった頃合いを見て、三郎は静かに身支度をした。
サンダルでツリーハウスの床を蹴って、ふわりと地面へと降り立った。
コートのポケットから剪定鋏を出して、キーワードを口にした。
『双翼よ、我を護れ』
手にした二本の短剣の刃が、月光を反射して冷たい光を放った。

舞うように幾度も立ち位置を変えながら、三郎は短剣を素振りした。
百回にも及ぶほど繰り返してから手を止め、コートを脱いで木の枝に引っ掛け、汗を拭った。
それから"想像上の敵"を相手に、再び短剣を振るい始めた。
"想像上の敵"の繰り出す剣を、三郎は残らずかわし、あるいは短剣で受けた。
「……はッ!」
三郎は一歩踏み出し、突きを放った。
同時に、"想像上の敵"がカウンターで攻撃を仕掛けてきた。
「……ッ!」
突きのモーションを途中で中断し、三郎は地を蹴って大きく退いた。
「ふぅ……うーん……」
小さく唸りながら、三郎は汗を拭いた。

「おまえの太刀筋って、綺麗だよな」
「うわぁ!」
突然背後から声を掛けられて、三郎は短剣を取り落とした。
慌てて振り返ると、きょとんとしたオロカが立っていた。
「オロカ……ひっ、人が悪いですね! いつから見てたんです!」
ばくばくと高鳴る胸を抑えながら三郎が言うと、オロカはぱちぱちと目をしばたたかせた。
「見ちゃ、駄目だったのか? ……すまん」
「……もぅ」
「ひょっとして、しょっちゅう夜中に練習してるのか?
そうだよな、おまえっていかにも要領良さそうに見えるけど、だからって全然努力してないわけがないよな。
合唱がなかなかできなくて苦戦してたのは、ごくまれな例外だと思ってたけど」
「あぁぁぁ……」
三郎は、頭を抱えたくなった。
「やめてください、恥ずかしい!」
「恥ずかしいって……何が? 何も恥ずかしい事、してないだろ?」
「恥ずかしいですよ! 汗水垂らして努力しているところなんて、人に見られたくないですよ!
何でも、たいした修練も無しにさらりと身につけたように思われたいですよ!
そんな、目立ちたくはないですから、達人級にはならなくとも、ほどほどでいいですので!」
「……なに、贅沢言ってるんだ?」
オロカは、首を傾げた。
動揺のあまり、言わなくてもいい事まで口を滑らせてしまった事に気づき、三郎は顔が熱くなった。
「ぜっ……贅沢、ですかね?」
「うん、贅沢だ。すごく」
……人目だの、どう思われるかだの気にせず、一心不乱にやればいいじゃないか。
それに、達人にならなくてもいいって、何だよ。まるで、なろうと思えば、すぐなれるみたいに……
達人なんて、他のすべてを捨てるぐらいの覚悟で道を究めないと、なれるわけがないじゃないか。
オロカには、三郎の拘りが理解できなかった。

「マルセルに操られた時には使ってこなかったし……あの蛇を出す術も、夜中に練習して覚えたのか?」
「だったら、何ですか……犠牲者第一号が貴方になるとは、思いませんでしたけどね……」
二本の短剣を剪定鋏の形に戻し、コートのポケットに収めながら、三郎はオロカの質問に答えた。
「いや、なんで隠れて練習する必要があるんだよ? 暗示郎には、普通に昼間に教えて、練習させてるくせに」
「人に教えるのは、いいんです。自分が練習しているところは、見られたくないです」
「なんでだよ。効率的じゃないだろ。
昼間のんびりと時間を潰して、夜中睡眠時間を削ってコソコソやるなんて
魔術の事はわからんが、そんなやり方でも新しい術を覚えられるあたり、やっぱり要領はいいんだろうけど。
それでもわざわざ苦労をする理由にはならないだろう」
「だから、恥ずかしいんですってば……」
「だから、なんで恥ずかしいんだよ。努力するのは、立派なことだろ」
「別に……立派じゃありませんよ。今までやってこなかったツケが回ってきてるだけですから……」
「へぇ?」
「魔術も、剣技と事情は似かよったものです……僕が得意とするのは、戦闘以外がむしろ本領な時空魔術。
戦闘面では、身を守れれば十分、攻撃的なものは必要ないと、あまり修得しようとしなかったんです。
だから戦闘で使えるものは、一時しのぎとか、逃げるのに便利とか、そういうのが多くて……
一人旅なら、それでよかったんですけどね。でも今は、そういうわけにはいきません……」
……守るものがあると、敵を倒さずに済ませるのは難しいですから……
三郎は、心の中で続けた。

「いや、立派じゃないか、おまえ」
「……どこがです?」
「前はともかく今は、やってこなかった事にもちゃんと取り組んでるんだろ。
なかなかできないって。誰しも、好きな事や得意な事ばかりやりたがっちまうものだと思うし。
もっと、誇れよ。堂々とやれよ」
「……貴方のそういう、考えなしなところは、ちょっと羨ましく思える事はありますが……」
「か、考えなしとは、何だよ」
「いえ、失礼。この場合は一応、褒め言葉のつもりです」
「……? なら、いいけど……」

「ま、いいや。相手しようか?」
「はい?」
「相手が居た方が、覚えやすいだろ? 特に、攻撃は」
オロカは、刀を構えて見せた。
「……」
ぽりぽりと、三郎は頭を掻いた。
「傷は、もう痛まないのですか?」
「あぁ、おまえ達のおかげで、全然」
「……」
自分は苦しみを長引かせてしまったのに、オロカに感謝の気持ちを口にされて、三郎は申し訳なく思った。
「そうですか……では……お願いしましょうか。でも、怪我をするといけないので、木の枝でやりましょう」
「そうか、わかった」
 
 
 
適当な長さの木の枝を拾ってきて、オロカは一本、三郎は二本、手に握って構えた。
三郎は、オロカの周囲を走り始めた。隙を伺うように、幾度も切り返し、方向を変えた。
軽快なステップではあったが、実戦で見たよりも、どこか単調な動きのようにオロカには思えた。
「いつまで走ってるんだ。攻撃の練習なんだろ。攻撃してこなくちゃ始まらないだろ」
「は……はい!」
三郎はタンッと地を蹴り、踏み込んだ。
得意のスピードを生かし、一気に間合いを詰めた。オロカの受けの動作が、わずかに遅れた。
……行ける……!
三郎は、突きを打ち込もうとした。
しかし一瞬、短剣が深くめり込んだオロカの脚が──苦痛にゆがんだオロカの顔が──脳裏をよぎった。
三郎は、小さく息を飲んだ。躊躇で、そのスピードがゆるんだ。
オロカは、反射的に木の枝を振るった。
ビシッ──手首を強く打たれて、三郎は木の枝を取り落とした。
「いッ、いたたた……ッ」
痺れるように痛む手首を押さえて、三郎はしゃがみこんだ。
「あ……あれ?」
オロカは、困惑の表情を浮かべた。
「す、すまん! 絶対よけられると思って、力が入りすぎた!」
「こ、こんなはずじゃ……」
……僕は、やらないだけ……やれば、できるはずなのに……!

"この僕ができない"、という事実に、三郎は打ちのめされた。
何でもできる完璧な人間と思われる事を迷惑がりながらも、心のどこかにやりさえすれば何でもできるという奢りがあった。
加えて、腕力ではかなわないものの鈍くさいと侮っていたオロカに、ただの一発で当てられた事も衝撃的だった。
「どうして……?」
三郎はうずくまったまま、小さく呟いた。
傷つき苦しむオロカのためでさえ、短剣を引き抜いて痛みを与える事を躊躇した自分が、思い出された。
「そうか……」
……僕は、人を傷つけるのが嫌い、なんじゃない……
……僕は、人を傷つけるのが、怖かったのですね……
それも優しさなどではありません、本当に相手を思いやるなら、あそこで躊躇すべきではなかったですし……
単なる小心……それと、痛そうな傷口や、人が痛がる様子を僕が見たくないという、醜い手前勝手です……
首をかき切った獏や、家ごと叩き落としたサラーフとディーンの事も思い浮かびはしたが。
魔術で痛覚を奪っていたり、面と向かってはいなかったりして、痛みを想像しなかったからだと推測された。
それに、必死だったり、怒りで我を忘れていたりしたせいで、恐怖を感じる余裕がなかっただけという事も考えられた。

「ど、どうした? まさか、骨でも折れたんじゃ……」
オロカの問いかけに、三郎は首を横に振って応じた。
……でも、逃げちゃいけない……逃げたら、守れないんですよ……
狼狽している間に、手首の痛みは大分収まっていた。
三郎は、木の枝を拾って立ち上がり、構えた。
「もう一度、お願いします……!」

 

4.

シルエットが蠢き、囁きあった。
「ウィロー様はやはり、出来が違う。血統の成せるわざでしょうな」
「砂漠の砂が水を吸うように、するするとたやすく吸収して自分のものにしていく……」
「あれを見ていると、地道な努力をするのが馬鹿らしく思えてきますな」
「いやいや、我々凡人と一緒にしてはいけませんよ。あぁいうのを、希代の天才術師と言うのでしょう」

……違う。
幼き日の三郎──ウィローは大鏡に手を当て、そこに映る自分を見つめていた。
僕は人より、少しばかり早熟で──少しばかり器用で──少しばかり飲み込みが早くて──
ただ、それだけですのに。
皆が言うほど、何の努力もせずに術を覚えているわけじゃ……

ゆらり。
鏡の中の虚像がゆらぎ、膨らんだ。
より大人びて、より強く、より美しく、より洗練された気品にあふれ──
それは、周囲の人々が生み出した、"ウィローと似て非なる何か"の像だった。
「いいや、違います。僕こそ、真の僕なのです。
おまえが、僕に近づくべきなのですよ。完璧なる僕に、できそこないのおまえが……」
虚像の唇が動いて、冷え切った声を紡いだ。
ヒッ──
声にならない悲鳴をあげて、ウィローは鏡の前から逃げ出した。

教本やノートを山と抱え、ウィローは地下のワイン蔵に飛び込んだ。
しっかりと内から鍵をかけ、闇の中で小さく呟いた。
「……ここなら、誰にも見られない」
ウィローは"猫目"の呪文を唱えると、せきたてられるように教本をめくった。
舌が千切れそうになるまで呪文を唱え、動作を繰り返した。

教師の指示どおりに、ウィローは呪文と動作をなぞった。
両手を合わせ、ゆっくりと開くと、掌から無数の光り輝く蝶が舞い上がった。
上がったどよめきを聞きながら、ウィローは小さく溜息をついた。
……あぁ、今回もなんとか虚像に合わせることができました……

シルエットが蠢き、囁き合う。
「あぁ、いつもながら素晴らしい。こんな短時間でものにしてしまうなんて」
「ウィロー様には、修練など必要ないのだな」
「汗のひとつも流すことなく、やすやすと伸びていく……」
「まったく、羨ましい。あれほどの才能が我々にもあればなぁ……」
賛辞と羨望の声がわんわんとこだまし、ウィローは眩暈を覚えた。
……違うんです……それは、貴方達の歪んだ鏡に映った、歪んだ僕の虚像なんです……
僕はちょっと小器用なだけの凡人……超人ではないんです!

ウィローは叫びたかった。しかし、喉がカラカラに枯れて、声が出なかった。
ウィローは逃げたかった。しかし、床に貼りついたかのように、足が動かなかった。
……苦しい……息が詰まる……助けて!
誰か、この無限の連鎖から僕を逃がして……!
 
 
 
「三郎! おい、三郎!」
はっと、ウィローは──否、三郎は目を開けた。
シルエットが自分に覆いかぶさっており、ぎょっとした。
が、目が慣れてくるとそれが誰かわかった。
「……オロ、カ?」
「ん、あぁ。大丈夫か? なんか、苦しそうだったから……」
低い、オロカの声。肩をつかむ、温かな手の感触。
しだいに、三郎は落ち着きを取り戻していった。
「……大丈夫です……すみません。ちょっと、嫌な夢を見ただけですよ……」
少しかすれた声で三郎が言うと、オロカは頷いた。
「そうか。じゃあ、おやすみ」
オロカは三郎の肩から手を離し、あくびをひとつすると、元の寝床に潜り込んだ。
ほどなくして、オロカは寝息を立て始めた。

三郎は、ゆっくりと首を回した。
窓から差し込む月明かりで、オロカら三人の寝顔が薄ぼんやりと見えた。
……滑稽ですね、僕は。
今は、この三人しか身近に居ないのに。
未だに僕は、不特定多数の"誰か"の目を怖れ、意識している。
オロカ達の持つ鏡に映る僕の姿は、やはり多少は歪んだものかもしれませんが。
でも、彼らはその歪んだ虚像を僕に押しつけはしないのに。
とうの昔に切り捨て、逃げたはずのものにまだ、僕は縛られ、囚われている。

夢から覚めてなお、喉に少々渇きと苦しさが残っていた。
三郎は水を飲もうと、上半身を起こした。
体のあちこちから、しくしくと鈍痛がした。
オロカに、木の枝で打たれたり払われたりした場所だ。
オロカは二度目の立会いからは、十分に力を抜いて軽く叩いた。
だが、それでも華奢な三郎の体にはこたえたらしかった。
……無様ですね。回避技術にかけては、間違いなく自信があるというのに……
原因は──怖くて萎縮しているという他にも──頭ではわかっているのですが。意識しすぎですよ、僕……
攻撃しなければしなければと思いすぎて、回避にさっぱり気が回らなくなっていましたよね。
僕は人より器用だと思っていたのに、こんな不器用だったのでしょうか。
イエソドに言われた言葉が、三郎の脳裏をよぎった。

──君は、昔から変わってないねぇ。器用に見えて、その実、不器用だ──
 
 
 
三郎は痛みをこらえて立ち上がり、水差しからコップに水を注いで飲んだ。
「三郎……」
小さな声に、三郎は振り向いた。
「兄上?」
「私にも、一杯くれ」
「あ、はい」
三郎はコップに水を注ぎなおし、早足でドグマの元に歩み寄った。
ドグマは手で胸を押さえ、顔をしかめながら身を起こそうとした。
三郎は慌てて彼の肩に腕を回し、起きるのを手伝ってやった。
「まだ、痛むのですか?」
「……少し、な」
コップを受け取り水をすすった後、ドグマは囁くような声で答えた。口元がやや、ひきつっていた。
……少し、少しとおっしゃいますけれど……
寝入る前も、ドグマは妙に物静かで、最低限しか体を動かしていない様子だった。
無理に歩いたせいで神経痛が悪化したのではないかと、三郎は心配になった。
「やはり、『麻酔』をかけませんか?」
よく眠った方が治りも早いだろうと思い、三郎は勧めた。
「それほどではないと、言ったであろう」
「しかし、酷い痛みでなくとも、眠りの妨げになるのであれば……
どうせ寝るのでしたら、『麻酔』で体が動かなくても問題ないのでは?」
「それもそうだな……では、やれ」
「かしこまりました」
三郎は軽く目礼すると、呪文を唱え始めた。
ドグマは体を横たえ、胸をさすりながら目を閉じた。
長い詠唱の途中、ドグマの手が止まった。そして、静かな寝息が聞こえてきた。
……あれ。必要ない……ですかね?
少々迷ったが、また目を覚ましてしまう事もあるかもしれないと思い、一応は最後まで呪文を唱え終えた。

「守る、とか……僕の柄じゃ、ないですかね……?」
三郎はドグマの寝顔を見下ろしながら、ぼそりと呟いた。

ふと、ほのかな光を感じて三郎は目を向けた。
螺鈿細工の鏡が、光を放っていた。
「目も冴えてしまいましたし……ちょうどいいですね」
三郎は水差しとコップを元の場所に戻すと、鏡を手に毛布を被った。

 

5.

キーン──コーン──カーン──コーン──
チャイムが鳴り、三郎は目を開いた。
リノリウムの廊下が長々と続き、スライド式のドアと窓が整然と並んでいた。
「学校……?」
窮屈さを感じ、自分の体を見下ろすと、黒い学生服に包まれていた。
「日本の学生は、なぜこんな軍服みたいのを着せられるんでしょうね。気の毒です」
三郎は、上着と白シャツのボタンをひとつずつ外し、襟元をゆるめた。
腕を回してみたが、まだ動きにくさを感じた。
「……いや、拘束服ですよね、これ……」

"図工室"と書かれたプレートの掲げられた、手近なドアを三郎は開けた。
木製の大きなテーブルが、均等に並んでいた。
がらんとした室内の隅の方に、サクラが一人だけぽつんと椅子に腰掛けていた。
彼は、体にまるで合わない、ぶかぶかの学生服を着ていた。
「こんにちは、サクラさん」
三郎が声を掛けると、サクラは不思議そうに首を傾げた。
「高等部の人……?」
「あぁ、忘れるんでしたね。僕は、三郎といいます」

サクラの前には、何も描かれていない大きな画用紙が広げられていた。
「お一人で、何をされているんですか?」
「う、うん……」
サクラは、途方にくれたように両手を出して見せた。
近づいてみると、サクラの指には何枚もの絆創膏が貼られていた。
「どうなさいました、その手」
「ゆうべ、カレー作るの手伝って……」
「……大変でしたね」

画用紙の横には、水彩絵の具とパレット、水入れが並べられていた。
「筆は、使わないんですか?」
「うん……ハンドペイントだって。ねぇ……宿題、代わりにやってくれない?」
「……まぁ、いいですよ。その手では、仕方ありませんね」
三郎は、苦笑を浮かべながらも了承した。

三郎は上着を脱いで椅子にかけ、シャツの袖をまくった。
ハンカチを細くたたんで紐の代わりにし、髪をまとめながら尋ねた。
「何を描くんですか?」
サクラは、首を振って答えた。
「何でもいいよ」
「そうですか」
三郎はビリジアンを中心に、何色かの絵の具をチューブからパレットに出した。
指で混ぜていくと、最初は感触が気色悪かったが、慣れると面白くなってきた。
白い画用紙の上に絵の具のついた指を当て、滑らせた。
グラデーションのついた色が、するすると伸びていった。

バタンッ、と勢いよくドアの開けられる音がして、三郎は振り向いた。
白く染めた髪をツンツンと尖らせた若者──ブラァンだった。
学生服の前を全開にして見せた、派手派手なTシャツ。
ジャラジャラと首や腰に巻いた、何本ものシルバーチェーン。
ズボンのポケットに突っ込んだ、たくさんのストラップをぶらさげた携帯電話。
やたらと、目立つ身なりをしていた。
「何やってんだァ? オレも、混ぜろよ」
「……また、貴方ですか」
「また、とは御挨拶だな、テメー」

つかつかとブラァンは近づいてきて、画用紙を覗き込んだ。
「なんだ、緑ばっかり。偏ってンな」
偏ってる、とは三郎の嫌いな言葉だったので、少しカチンときた。
「森の絵ですから、いいんです。
それにちゃんと、茶色っぽい緑とか、黄色っぽい緑とか、いろいろ使ってますよ」
「せっかく手でやるなら、もっと大胆にいけよ」
ブラァンは赤い絵の具をチューブから手のひらに出すと、いきなりベチャッと画用紙に手形をつけた。
「ちょっと! 何するんですかァ!」
三郎の声が、思わず裏返った。
「絵の具は、原色で使うものじゃないでしょうッ!」
「細かいこたァいいんだよ!」
ベチャベチャと、赤い手形が並んで行く。
「やめてください!」
三郎は、パレットから混色した緑の絵の具を手に取り、手形を塗りつぶした。
絵の具が混じって、黒ずんだ鈍い色になった。
「テメーこそ、何すんだ!」
ブラァンは今度は黄色い絵の具を画用紙に直接ひねり出し、手のひらで伸ばした。
「やめてくださいったら!」
パレットを使っていては間に合わないと、三郎もビリジアンの絵の具を直接垂らし、画用紙の上で混ぜた。
鮮やかな黄緑色が、黒ずんだ色の上で踊った。

絵の具が飛び散る。腕が交差し、肩がぶつかり合う。そのたびにわめき、けなし合う。
しばらく画用紙上で三郎とブラァンが格闘を続け、やがて息を切らして二人とも手を止めた。
「……これはこれで、いいかも」
傍観していたサクラが、ぽつりと言った。
改めて三郎が画用紙を見ると、当初の繊細で大人しい色使いは微塵も残っておらず、ありとあらゆる色が嵐のように激しく入り乱れていた。
「そうだろ、そうだろ。これくらい、自由にやらねーとな」
ブラァンが、喜々として言った。
……計算したものではありませんが、ある意味、バランスが取れていると言えなくはないかもしれません。
またブラァンに踊らされてしまったと、少々釈然としないものを残しながらも、三郎も納得した。
「タイトルは何にします、サクラさん?」
「……『葛藤』、かな」
「難しい言葉を知っていますね」
 
 
 
三郎は、目を開けた。
ツリーハウスの天井が見えた。
「これはこれで、いい……ですか」
サクラの言葉を繰り返した。
「もっと、誇れよ。堂々とやれよ……か」
オロカの言葉が、思い出された。
「苦手なんですよ……自分を晒すのは……
ブラァンと居ると、何だかついムキになって、晒してしまいますけど……」
しくしくと体が痛み、手で軽くさすった。
「自分を晒すのが苦手というのも、攻撃が苦手という一因でしょうか……?」
ぽろっと"攻撃が苦手"という言葉が口からこぼれ出て、慌てて打ち消した。
「ち……違う! 違います!
苦手なんじゃなく、今までやってこなかったから、あまり得意とは言えないだけで……
ちゃんと練習すれば、できるようになります! 素質が無いなんて事はありません!
苦手だなんだと言ってないで、何でもできるようにならないと、兄上をお守りできませんよ……!」

──気負いすぎだよ、三郎。
責任を感じるなとは言わないけど、一人で全部背おいこまなくてもいい──

ふと、イエソドの言葉が、脳裏をよぎった。
「気負いすぎ……一人で……」

「攻撃は……苦手です。剣も、魔術も……」
そっと、三郎は呟いた。
……そう、苦手……なんですよね。
性格的な問題なだけで、やればできるんだとか……
必要ないから、攻撃的な術を覚えなかっただとか……ただの言い訳ですよね。
実際は、苦手だとわかっていたから、手をつけなかったんですよね。
習得するのに手間取っている姿を、見られたくなくて。
天才児という虚像が、壊れるのが怖くて。
周囲も、僕の言い訳を鵜呑みにして、勝手に好意的に解釈してくれました。
──やれ、そんな野蛮な術はウィロー様には似合いませんよね、だの。
──やれ、ウィロー様は芸術家気質ですものね、だの。
僕は周りに嘘をつき、自分にも嘘をついた。やれないのではなく、やらないだけだと。
「僕は……いつも人目ばかり気にして、言い訳ばかりして、逃げてばかりしている……
……ただの、小者ですよね。天才などではなく……」

言葉に出して認めてしまうと、少しだけ気が楽になった。
「そう、苦手なものは苦手なんです……苦手なものがあったって……しょうがないですよ!
万能じゃ、ないんですから……! 超人じゃ、ないんですから……!」
……僕は、今は一人ではないのだから。
"守る"だなんて、おこがましい。長所と短所を補い合い、助け合えばいいじゃないですか。
普段は、攻撃は兄上やオロカに任せてもいいでしょう。他の、得意な事で貢献すれば。
例えば、スピード。感知能力。移動に関する事。あるいは、兄上が大規模な術を使う間の時間稼ぎなど。
その上で、彼らが不在だったり動きが取れなかったりする時に備えて、最低限の攻撃手にもなれるように──
──その程度をこなせるぐらいには、少しずつ、身につけていきましょう。
そう、その程度でいい。何もかも、得意にならなくてもいい。
焦らなくてもいいですよ、少しずつで……苦手なんですから、無理せずにマイペースで……

三郎は立ち上がり、もう一杯コップに水を注いで、ごくごくと飲み干した。
喉が潤い、どこかつきまとっていた息苦しさが抜けた。
三郎は、ちらりとドグマが静かに眠っているのを確認すると、再び毛布に潜り込んだ。

6.

ドグマは、ふと目を開いた。
乾いた砂っぽい路上へ、彼は仰向けに横たわっていた。
道の両側には、白い壁が目を引く、素朴なたたずまいの家が並んでいた。
家はどれも屋根が低く、成人ならば頭がつかえてしまいそうだった。まるで、小人の町にいるようだった。
「ここは……どこだ?」
呟いた声は、低い、大人の声だった。
「な……まさか?」
ドグマは、腕を上げて自分の手を見ようとした。
が、腕に──否、首から下すべてに全く力が入らなかった。
「術が、解けたのか……? 何故だ……?」

「誰か! 誰かおらぬか!」
ドグマは、声を張り上げた。
誰でもいいから、助けを求めるしかなさそうだった。
ひょこり、ひょこりと小さな人影が家から出て、彼の周りに集まってきた。
「貴様……?」
ドグマは、小さく息を飲んだ。
やってきたのは、サクラの夢の中で出会った、頭にビーカーを乗せた奇妙な少年だった。
少年は、囚人服を思わせる白黒ボーダーのシャツとズボンを着込んでいた。
それだけならば驚きはしないが、集まった者たち全てが同じ外見・服装をしていた。
縞々の小魚の群れが縞々の巨大魚に見える現象にも似て、気味が悪かった。

「たいへんだ! たいへんだ!」
少年達は口々に言って、わらわらとドグマの周りにたかった。
そして、神輿か何かのように皆でドグマを担ぎ上げると、彼の長い足を引きずって道を走り出した。
「ま、待て、どこへ行く……?」
……病院にでも連れていってくれるつもりなら気持ちはありがたいが、今更そこいらの医者に見せたところで、治る体ではないぞ。
そう思いながら、ドグマは問いかけた。
が、少年達は耳を貸さず、合唱でもするかのように「たいへんだ! たいへんだ!」とわめいているだけであった。

少年達は、赤土が露出した丘の上に、ドグマを引きずり上げた。
そこには白木でこしらえられた、大きな十字架が転がっていた。
「なっ……?」
驚くドグマを、少年達は十字架の上に放り出した。
ドグマは慌てて身を起こそうとしたが、やはり体はぴくりとも動かなかった。
少年達は彼の手足を伸ばし、十字架にあてがって押さえつけた。
そして少年達のうちの一人が、楔のように大きく太い釘と、金槌を手にとった。
「それでは、刑を執行するよ」
少年は、淡々と宣告した。
「ま、待て! 裁判も無しに刑罰とは、どういうことだ!」
「裁判なんて必要ないよ。この国じゃ、大人になる事は罪なんだよ」
「大人になったら死刑だと!? そ、そんな理不尽な……」
ダンッ!
ドグマの言葉を遮り、釘が彼の手首、骨と骨の間に打ち込まれた。
電流のような痛みが、腕を駆け抜けた。
「ぎゃぁぁーッ!」
正中神経を断たれたらしく、痛みが失せると手の感覚が無くなった。
悲鳴にひるむ素振りすら見せず、少年はもう片方の手首に、そして足にと、次々に釘を打ち込んだ。
「ぐあぁぁーッ! あぁぁーッ!」
ドグマは痛みと恐怖に我を忘れて、絶叫を上げ続けた。

少年達はドグマを釘付けにした十字架に縄をかけ、ゆっくり、ゆっくりと起こしていった。
……確か……磔刑とは、受刑者を失血死ではなく、窒息死させる処刑法で……
横隔膜の活動が妨げられ呼吸困難になり、血中酸素濃度が低下……
やがて肺は肺水腫を起こし、心筋は疲弊し尽くして機能を停止し……そして……
十字架と共に体が起こされていくのを感じながら、ドグマは役に立たない知識を反芻させていた。
ついに十字架が丘の上に立てられ、固定された。
「う……あ、あぁ……」
自重によって、自然と体が下へと落ち込んでいく。動かぬ体は、それを止めることができない。
全体重が両肩にかかり、ミシミシミシッという嫌な音と共に、激痛が襲った。
「うがぁぁーッ!」
ガクンッと肩関節が外れ、体が更に一段落ちた。
胸に自重がかかって膨らませる事ができず、息をしようにも空気が入ってこなかった。
「う、ぅ……」
……く、苦しい……殺すなら、早く殺してくれ……!
ドグマはもはや、それだけを願った。
 
 
 
まだ意識がはっきりしているのに、ふうっとドグマの目の前が暗くなった。
……夢……? これは夢か……?
そうだ、考えてみれば、現実に合わない事だらけではないか……助かった!
ドグマは目を開けようとした。しかし、まぶたに力が入らなかった。
なんだ……?
ドグマは、腕を上げてまぶたに触れようとした。しかし手も足も、体中が動かず、声すら出せなかった。
それだけでなく、全身が分厚い真綿でくるまれているかのように、何かが肌に当たる感触というものが皆無であった。
……う、動けん……前にも増して……何が……何が起こっているのだ!
これは、夢の続きか? 現実か? それとも……私は、死んだのか?
『た、助けてくれ! 三郎! 三郎! どこに居る!』
ドグマはパニックに陥って、念話で助けを求めた。

「兄上……?」
三郎は念話を感じて、がばりと跳ね起きた。
まだ薄暗い室内に視線を巡らすと、オロカと暗示郎はまだ眠っていた。
ドグマは寝入る前と同じように、オロカと同じ毛布にもぐって横になっていた。
「兄上、どうなさいました?」
『三郎、居たか……体が、まるで動かん……何だ、何なのだ!』
……あぁ、混乱しているだけですか、良かった。
三郎は、安堵の吐息をついた。
「落ち着いてください、兄上。『麻酔』です。幻覚魔術の。
覚えていらっしゃいませんか? 夜中に、かけたでしょう?」
『あ……そっ……そうであった、な……』
……しまった、すっかり忘れていた……あぁぁ、いらぬ恥を……
落ち着きを取り戻すと、ドグマは騒いだ事が恥ずかしくなった。
『ゆ、夢見が悪かったのでな……『最果て』に落ちて以来、ろくな夢を見ぬ……』
「そうですか……僕もですよ。寝るのが、ちょっと怖いくらいです」
『そういう場所なのかもしれぬな。であれば、あの蜘蛛野郎の戦い方にも合点がいく』
「それで……どんな夢を?」
『……磔刑に処される夢だ……』
「……」
三郎は、ドグマがエイリアスと呼ばれていた頃にモスタリアで行われていた、"魔物狩り"を思い出した。
魔物と化した人々の中でも、国に楯突いた一部の者は、容赦無く磔刑に処された。
だが、今更そんなことを持ち出しても何にもならないと、頭の中から追いやった。
彼はドグマを安心させようと、優しい声を出すに努めた。
「それはそれは……お苦しかった事でしょう……もう、大丈夫ですよ……」
『あぁ……』

「『麻酔』、解いた方がよろしいですか?」
『うむ……解け』
「かしこまりました」
三郎は、解除用に設定しておいたキーワードを口にした。
「完全に『麻酔』が抜けるまでには時間がかかりますので、少しお待ちください」
『わかっている……』
「何なりと、お申しつけくださいね」
『……』
ドグマは、しばし黙り込んだ。
時間の経過によって回復すると、わかってはいた。
が、動けず、見えず、肌に触れる感触もなく、よるべなく浮いているような感覚には、どうしようもなく不安をそそられた。
『別に、何もしなくともよい……いや……もっと、近くに来い』
「はい? それで、何を?」
『……そばに居てくれ。それだけでいい』
「え……っ?」
いつも強気なドグマにそんな事を言われるとは思わず、三郎は思わず問い返していた。
『に……二度も、言わせる気か……嫌なら、別に……』
「い、いえいえ! 嫌などではありません!」
三郎は、足早にドグマへ歩み寄った。

ドグマと三郎は、しばらく念話と言葉とで話をしていたが、やがて話題が尽きてしまった。
沈黙の時が流れた。
何もせず座っているのも手持ち無沙汰になり、三郎は柔らかい静かな声で、歌を口ずさみ始めた。
こいつが人前でこんな事をするなど珍しい、と思いながらドグマはそれを聞いていた。

「──高い星の輝きが欲しくて 君は一人歩き出す
砂にまみれ揺れる花の色も 遠い目には映らない

涙ひとつ覚えた朝は 足を止めて 気づいて
道に続く幾つもの足跡 皆んな同じ夢を見た

失くしたもの数えるならば 瞼閉じて 忘れて

強い風が過ぎた その傷跡も いつか埋めるでしょう あの白い花

人の夢は小さな花の 命よりもはかなく

君の歩いた道 その靴跡に いつか咲くのでしょう あの花が
君の歩いた道 その靴跡に いつも揺れるでしょう あの白い花──」

『……誰の歌だ?』
三郎が歌い終えると、ドグマは問いかけた。
「遊佐未森の『靴跡の花』です」
『ゆさ……知らん名だな』
「あまり、有名ではないです」
『そうか……』
しかし良い歌だ、とドグマは感じた。
 
 
 
「んー……」
オロカが寝返りをうち、むくりと起き上がった。
「おはよ……あれ?」
隣に横たわったドグマの脇に、ぴったりと三郎が寄り添い座っていたので、オロカは少し驚いた。
「ドグマ、どうしたんだ?」
オロカの問いかけに、三郎が代わって答えた。
「心配ありませんよ。ゆうべかけた『麻酔』が、抜けるのに時間がかかっているだけです。じきに動けます」
「ますい……って、何だった?」
「あぁ。本物の、医療で言う麻酔とは少し違うんですけどね。
痛覚や触覚を遮断する術です。痛くなくなる代わりに、動けなくなりますが」
オロカは説明を聞いて、首を傾げた。
「それって、強いのと違うか?」
「残念ながら、戦闘用ではありません。受け入れる意思があるか、意識の無い相手にしか効きませんので。
まぁ、精神操作系の術と併用する手も無くはないですが、呪文が長いので縛った方が早いですね」
「ふーん……」

ドグマは毛布の中で、感覚が戻ってきた手をぎゅっぎゅっと握ったり開いたりしていた。
ぽんぽん、とオロカはドグマの肩を叩いた。
「ドグマ、わかるか?」
「きや、すく、さわるな……」
少し舌をもつれさせながらも、ドグマはなんとか言葉を発して答えた。

「まぁ、大丈夫なら良かった。素振りしてくる」
毎朝の日課をしようと、オロカは腰を上げた。
「あの……オロカ、すみませんが」
「ん?」
「後でいいですので……また、相手をしてもらえませんか?」
オロカは刀に伸ばした手を止めて、振り返った。
「……いいのか?」
──夜中でなくとも。ドグマや暗示郎の目にもつくところでも。
三郎は、柔らかく微笑んだ。
「えぇ……いい事にしました」

第9章「狂った時計の奏でる音色 」>>

 
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