第9章「狂った時計の奏でる音色 」

1.

「着いてこなくていいと、言っているであろうが。ただのウォーキングだ」
「でも、心配だし……」
「無用の心配だ」
ドグマとオロカは、言い争いながら森の中を歩いていた。
「だってさ。おまえって、蜘蛛人間とか影の化け物とか、やたら魔物に狙われるじゃないか」
「それは、戦術として当たり前だ。私が強いから、まず潰そうとするだけだ」
「三郎だって、魔術師は不意打ちに弱いって言ってたじゃないか」
「それは一般論だ。ちゃんと気をつけていれば、私はすぐに対応できる」
「そうは言っても、一人でいる時、例の発作が出たらどうにもならないじゃないか」
「……それは言うな」
「言うなッたって。もっと、病人だって自覚を持ってくれよ」
「やかましいわッ!」
かっとなって、ドグマはオロカへ噛みつくように怒鳴った。

その時、喋っているうちにすっかり視界から外れていたドグマの足が、下草の中の何かを踏みつけた。
「うッ!?」
ドグマは反射的に退こうとしたが、一瞬遅く、ふくらはぎに刺すような痛みを感じた。
「蛇……ッ!」
オロカが、全力で刀を振り下ろした。
1mほどの蛇の体がズバンッと断ち切られ、びちびちのたうった。
「つッ……」
ドグマは、首だけになってもなお噛みついている蛇の顎に手をかけ、こじ開けた。
小さな噛み傷とは思えぬほどズキンズキンと激痛が脈打ち、火箸を押し付けられたように熱かった。
「うぅ……ッ」
足を抱えて、ドグマはうずくまった。みるみる、噛み傷の周囲が変色していく。
「い、痛いのか、ドグマ!? 毒か、毒蛇か!?」
オロオロと、オロカが浮き足立った。
……こんな、病院も無いところで──終わったかもしれん。
そんな思いが、ドグマの脳裏をかすめた。
 
 
 
暗示郎と三郎は、湖で獲れた魚を干物にしようと、ナイフではらわたを抜いて開いていた。
暗示郎が、機嫌良くJUDY AND MARYの"そばかす"を鼻歌で口ずさんでいた。

「──大キライだったそばかすをちょっと ひとなでしてタメ息をひとつ
ヘビー級の恋はみごとに 角砂糖と一緒に溶けた
前よりももっとやせた胸にちょっと "チクッ"とささるトゲがイタイ 星占いもあてにならないわ
もっと遠くまで 一緒にいけたら ねぇ うれしくてそれだけで──」

「その歌、僕も好きですけど、なんだか歌うと調子っぱずれになってしまうんですよねぇ……」
三郎がぽつりと言うと、暗示郎はニッと笑った。
「じゃあ、一緒に歌おうよ!」
「嫌です、恥ずかしい……」
魔術師にして音楽家であるドグマの前でも、あまりプレッシャーを感じずに歌う事ができるようになった三郎であったが。
はっきり苦手だと自覚のある歌を、人前で堂々と歌えるような度胸は無かった。
「音楽って、魔術のためにもいいんでしょー?」
「魔術のためでも、嫌です!」

「うわぁぁぁぁ!」
泣きながらドグマを抱えて走ってきたオロカの声に、ぎょっとして暗示郎と三郎は顔を上げた。
「どっ、どしたの、オロカ?」
「ド、ドグマがっ、毒蛇に噛まれたぁぁッ! 暗示郎、なんとかしてくれぇぇッ!」
「ご、ごめん……僕、『解毒』の術はまだ……」
暗示郎は三郎を見やったが、彼も首を横に振った。
「朽葉さんなら、ひょっとしたらどうにか……しかし、間に合うでしょうか……」
「おっ、俺が! 俺が余所見させたから悪いんだぁぁッ!!」
「……」
泣きじゃくるオロカを、ドグマはどこか冷めた目で見上げていた。

「はぁい、久しぶり。呼んだ?」
ひょっこりと、釣竿を担いだ背の高い女──朽葉が、薮の向こうから顔を覗かせた。
「朽葉ぁぁぁッ! た、助けてくれぇぇッ!」
オロカが朽葉に、どどどっと詰め寄った。
「わかった、わかったから、涙と鼻水を拭きなさいな。何が、どうしたのよ」
両手を上げて抑える朽葉の言葉に、オロカはじゅるっと鼻水をすすりあげた。
「ドッ、ドグマが、蛇に……」
「あー……」
朽歯の爪の長い手が、ドグマのぱんぱんに腫れ上がったふくらはぎに触れた。
痛みで、ドグマはひくっと体を縮こまらせた。
「どんな蛇?」
「こっ、これ……」
オロカは、ぎゅっと握りしめていた蛇の死骸を見せた。
泡を食っていて良く見ていなかったが、首に羽根のような小さな突起が二つ出ている、変わった形の蛇だった。
「あら、珍しい。時空蛇だわ。このあたりにも、棲息してたのね。
普通の毒蛇なら、魔翠玉の成分を排出した時と同じ手でいけるんだけど、これは無理ね」
「なっ、なら、他に手はないのか!」
「そうねぇ。とりあえず、もったいないから脱ぎましょう」
「は……?」
当惑の表情を浮かべたオロカに構わず、朽葉はドグマの靴を脱がせた。
その直後、ビリビリッとドグマの服が裂け、体が膨れ上がった。
「わぁッ!?」
手の中の急激な重量の増加に、オロカはひっくりかえった。
「オロカ……? ……うぅっ、くッ……?」
ドグマは身を起こそうとしたが、手足にうまく力が入らなかった。
ドグマの体は、大人のそれに戻っていた。
「あぁあ、服は間に合わなかったわね」

「術が、解けた……?」
まるで、ついこの間ドグマが見た夢が、現実になったような出来事であった。
ずっしりと重い腕の力を振り絞って、どうにか少し持ち上げ、震える骨ばった長い指を彼は見やった。
「ドッ、ドグマ、顔が……!」
上半身を起こしたオロカの表情が、驚愕に歪んだ。
「顔が……どうした?」
「し、シワが……!」
「それに……髪にも、白いものが混じってるね……」
「……何だと……?」
オロカと暗示郎の指摘を聞いて、ドグマは顔に手を触れた。確かに、肌触りが違っていた。
「まだ時間に余裕はあるけど、放っとくとどんどん歳を取って、しまいにゃ老衰で死んじゃうわよ。
それまでに、どうにかしなくっちゃね……三郎、あんたイエソドの所に跳ばせる?」
「は? はい……魔法陣を描けば、すぐにでも」
「じゃあ、やってちょうだい」

「……待て。何だか知らぬが、イエソドの奴に借りを作れと言うのか?」
ドグマが制止すると、朽葉は呆れて言った。
「あんたね……借りを作らない事と、自分の命と、どっちが大事なのよ?
それにね、心配しなくても、借りを作るのはイエソドじゃないわ。エラーとスペアよ」
「スペア?」
「まだ会ってない? あんたのリバースだけど。頭にビーカーを乗っけた子よ」
「あぁ、あの妙なガキか……って、スペアとやらはともかく、何故あの女の腐ったような野郎に……」
「……ドグマ」
オロカが、涙でうるんだ目でじっとドグマを見つめた。
「……む」
エラーに涙目で見られてもイラつくだけだったが、オロカにやられると何だか、ドグマは弱かった。
「……三郎。私の服を持って来い」
「わかりました」
「着替えを持って行くのはいいけど、どうせ治療で脱ぐんだからまだ着せなくていいわよ。
何か、かける物を持ってきてあげなさいな」
「はい、そうします」
三郎はトンッとサンダルで地を蹴って、ツリーハウスへと跳んだ。

 

2.

呪文の詠唱が終わると、三郎、ドグマ、朽葉の三人はエクリプス号の空き部屋に転送された。
「それじゃ、三郎。イエソドに『ゲート』でスペアを呼んでくるよう頼んで、あとエラーを連れてきて」
「はい」
三郎は部屋の隅にトランクを置くと、出て行った。

「……くッ……ぐぅ……っ」
苦しそうな小さな声が聞こえ、朽葉は振り返った。
ドグマが起き上がろうと全身の力を振り絞り、床の上でもがいていた。
「別に、寝たままでいいのに」
「……そうもいかん」
ドグマは、せめて姿勢だけでも毅然としていたかった。特に、イエソドの前では。
「はいはい。見栄っ張りだこと」
朽葉はドグマの肩を抱いて、起こしてやった。
はぁはぁと、少し荒げたドグマの息が頬にかかり、朽葉は目を細めた。
ふと朽葉は、ドグマと会う以前に、イエソドと交わしたやりとりを思い出した。
 
 
 
「あんたのお兄さんって、どんな人なの?」
「んー、そうだねぇ……」
イエソドは、朽葉の前にティーカップを置きながら答えた。
「一言でいえば、強くあろうとする男かな」
「本当は強くないみたいな言い方するのね。あれでしょ、元エイリアスでしょ?」
「うーん……」
ティーカップに口付ける朽葉を眺めながら、イエソドは唸った。
「確かに強い。だけど脆い。その脆ささえも認めずにねじ伏せようとする。
たまに……見ていて、痛々しくなったものだね」
 
 
 
エラーとスペア、それに三郎を後ろに従えて、イエソドが部屋に入ってきた。
スペアは、白黒ボーダーのシャツとズボンの上に、白い貫頭衣を羽織るという服装をしていた。
悪夢で見た格好に似ていたので、ドグマは嫌な気分になった。
「やぁ、ドグマ。災難だったね。大丈夫かい?」
「……大丈夫なら、わざわざ来るか。馬鹿者」
灰色になった髪をぎこちない手つきでいじりながら、ぶすっとしてドグマは言った。
「いや、そりゃあ大丈夫じゃないから来たんだろうがね」
「貴様に挨拶しに来たわけではないのだ。無駄口を叩くな」
「ははは、つれないねぇ」
イエソドは気を悪くした様子もなく、にこにこと笑った。

「あ、あのー。僕、なんで呼ばれたの? 僕、医療知識なんて、無いけど……」
エラーがおどおどと、皆の顔色を伺いながら言った。
「知識なんて要らないわ。あんたは、血をくれればいいの」
「血……?」
「この間させてもらった血液検査の結果をまだ伝えてなかったけど、あんた『無知体質』っていう珍しい体質なのよ。
『無知』の血は、時間を巻き戻す魔法薬の原料になるわ。
時間を押し進める時空蛇の毒と相殺させて、時間の流れを正常化させようってわけ」
「ふぅん……」
エラーは、ちらっとドグマの顔を盗み見た。
「この間くれてやった、一宿一飯の返礼をしてもらおうか」
「うー、……うん」
ドグマの言葉に、エラーは若干の不満をにじませながら頷いた。
「なんだ、その面は。私に頭を下げて欲しかったのか?」
「そっ、そういうわけじゃ、ないけど……」

「痛いなぁ……」
ぶつぶつと文句を言いながらも案外平然と、エラーは腕に刺された注射針を見ていた。
てきぱきと採血を済ませると、朽葉は採った血をビーカーに入れてスペアに差し出した。
「じゃあスペア、頼むわ」
「うん」
「……おい。そんなガキが、魔法薬を作るのか?」
ドグマが問うと、朽葉はチッチと指を振った。
「あら。スペアは一流の薬師よ。薬の他にもいろいろ作るけど。ねぇ?」
「う、うん、まぁ」
スペアは、かくかくと頷いた。
なんとなく頼りなく感じながらも、他に居ないなら仕方ないかとドグマは思い直した。
「……朽葉がそう言うなら間違いなかろう。任せる」
「う、うん、わかったよ」
 
 
 
スペアはビーカーを手に部屋を出て行き、しばらくして戻ってきた。
その後に、ぞろぞろと子供達が続いて入ってきた。
「なんだ、そのガキどもは」
「ん、んと……」
スペアが口ごもっていると、子供達の中にいた若菜が、イエソドの袖をついついと引いて問いかけた。
「だぁれ、このおじさん?」
「ドグマちゃんだよ」
「えー、ドグマちゃんじゃないよぅ。ドグマちゃんはちっちゃいもん」
「すぐまた小さくなって、ドグマちゃんになるよ」
「きっ、貴様まで『ちゃん』をつけるなぁッ、イエソド!」
ドグマは、真っ赤になって怒鳴りつけた。
朽葉が、クスクスと笑った。

「じゃあみんな、このおじさんに薬を塗ってあげてくれるかしら?」
朽葉が言うと、子供達は声を揃えて、はーいと答えた。
「おい、朽葉。何故、わざわざガキどもにやらせるのだ」
「だって、この薬は子供の手で塗った方が、効き目がいいのよ」
子供達は赤黒い液体に手を浸して、ドグマの周りに群がった。
無数の手が自分に向けられるのを見て、どくんっとドグマの心臓は跳ね上がった。
思い出したくない記憶が想起される光景だった。
「ま、待て……」
顔を青ざめさせて、ドグマは制止した。
「別に、痛い事ないわよ、ドグマ」
「い、いや、嫌な事を思い出し……」
ドグマは顔をそむけ、そろそろと戻した。
ぬるりとした手、手、手……それが自分の体にまとわりつき、なで回すところを想像した。
「ぐ、あっ……まっ……待て! す、少し待てッ!」
ドグマは悲鳴混じりの声を上げ、床に手をついて体を引きずり、ずるずると退いた。

「どうしたんだい、ドグマは?」
「さぁ……」
イエソドに小声で問われ、三郎は首を傾げた。
オロカの言葉が、三郎の脳裏をよぎった。
──俺からみれば、たいした事じゃない。そんなに心配はいらないと思う。
でも、口止めされたわけじゃないが、おまえには知られたくないんじゃないかな──
……何があったのでしょうか、あの時……
僕に知られたくない事……考えられるのは……弱さ、でしょうか。
肉体的な弱さなら、まだ諦めがつくでしょうが。
兄上は、精神的な弱さだけは、僕に見せたがらないかもしれない。
「……何らかの、トラウマ……のようなものが、刺激されたのかもしれません」
「そうかい。しかし……」
イエソドはドグマの頭髪を見やった。
薬ができるまでの間に、ドグマの髪は灰色を通り越して、白に近くなっていた。
「気の毒だが、時間が無いようだね」
「えぇ」
イエソドと三郎は、視線を交わし、頷き合った。
二人は歩み寄って屈み込み、イエソドがドグマの肩を羽交い締めにし、三郎が足を押さえつけた。
「何をする、貴様ら!」
「動いちゃ、薬が塗れないだろう?」
「すみません、兄上……しばらくの辛抱です……」
「は、離せ、やめろ!」
ぺたぺたと子供達の手がドグマの体に触れ、ねちゃねちゃと薬を塗りつけ始めた。
「うわぁぁぁ、やめろ! やめてくれ!!」
髪を振り乱して、ドグマは叫んだ。

「か、体さえ動けば……覚えていろ、貴様ら……」
がくがくと震える自分の体を抱きしめながら、ドグマはにらんだ。
「よし、よし……」
イエソドは彼の背中をさすりながら、子供でもなだめるかのように言った。
「うん、老化は落ち着いたみたいね。もう大丈夫よ」
朽葉が、ドグマの顔を覗き込んで告げた。
「さ、三郎……トランク、貸せ……こんな無力な体は、嫌だ……さっさと、戻す、六歳児に……」
「いや、ちょっと待ってください、兄上」
動揺覚めやらぬドグマの様子を見て、三郎は首を横に振った。
「少し、落ち着いてからにしてください。混乱や恐怖は、術の失敗を招きます」
「だ、だったら……『平心』、使えばいいだろうが……」
「あの術は……呪文が恥ずかしいので、緊急時以外には使いたくありません」
「……おい」
「なら君たち、泊まっていきなよ。夕飯御馳走するから。久しぶりに、カレーでも作ろうかな。
こっちじゃ、カレー粉なんて手に入らないから、懐かしいだろう?」
イエソドが、にこにことして提案した。
「そうさせてもらいましょう、兄上。僕も、なるべくなら一日二回も『テレポート』を使いたくありませんし」
「……」
結局、イエソドにも借りを作るのか……
正直ドグマは嫌だったが、体の自由がきかない以上、彼に選択の余地は無かった。

 

3.

「三郎は確か、カレーにトマトとアスパラを入れるのが好きだったよね」
「えぇ。僕も、手伝いましょう」
「そう、じゃあお願いしようかな」
朽葉が、ドグマの腫れた足に湿布を巻きながら口を出した。
「じゃ、私がドグマに服、着せとくから」
「はい、お願いします、朽葉さん」
三郎は朽葉にドグマの服を渡すと、トランクを持って出て行った。
ぞろぞろと続いて出て行き、部屋の中にはドグマと朽葉だけが残された。

ドグマは壁に背を預けると、ギリギリッと奥歯を噛みしめた。
「……くそ、醜態をさらした……何故こう、思い通りにならんのだ……」
そんなドグマを、朽葉は面白そうに眺めた。
「何だ、朽葉。着せるなら、さっさと着せろ」
「あんたって……前から思ってたけど、とってもセクシーねぇ……」
「……は?」
ドグマは、間の抜けた声を漏らした。
セクシーだ、と形容された事は始めてではなかったが、断じてこのような場面でではなかった。
「……普通は、もっと男らしいところを見て、そう思わぬか……?」
「そうかもねぇ……だったら、私は『普通』じゃないんだわ」

朽葉は、ドグマの骨ばった大きな手を両手でつかむと、自分の左の乳房の上に押し当てた。
早い鼓動が、ドグマの手に伝わってきた。
「ほら、こんなにドキドキしてる……」
「……」
「ゾクゾクするわ。強靭な心と体にぱっくりと傷口が開いて、どくどくと血が流れているのを見るのは……」
ルージュの引かれた唇をドグマの耳元に寄せ、朽葉は囁きかけた。

「……抱かれたいとでも、言うのか?」
「それも、いいわねぇ」
「……抱いてやらん事もないが、回復を待ってからにしてもらおうか。
己の体重すら持て余すようでは、情けない事にしかならん」
「あんたが下で、私が上でもいいのよ?」
「それは……」
……男として、沽券に関わる。
そう言いかけて、声が途絶えた。
朽葉の生温かい舌が、ドグマのがっしりとした首筋をすうっと舐め上げた。
「う……」
ドグマは思わず、ひくっと一瞬、身をすくませた。
朽葉の眼が、爛々と輝いて見えた。
……蛇のような──否、蛇をも喰らう猛禽のような眼をして……何なのだ、この女は?
今までにも、私に抱かれたいという女ならいくらでもいたが……
それは私の強さとか、野性味とか、仕事ができるとか、経済力があるとか、そういう"雄として優秀"なところを見ていたであろうに……
この女は、いったい何だ? 抱かれたいと言いながら、むしろ私を抱きたいのか?

朽葉はドグマの手を離し、爪の長い手で彼の広い胸板を撫でまわした。
"これが、苦手なんでしょう……知ってるわ。私の獲物だもの"
ドグマを見据える朽葉の目が、語っていた。
「う、うぅ……」
とめどない泡のように、恐怖心が湧き起こった。
呼吸が浅くなり、心臓が早鐘のように鳴った。
……ぅ、あぁぁっ……やめろ、触る、な……これ以上、私の傷口を、えぐるな……
ドグマは重く、自由にならない体を硬くこわばらせた。叫びたいのを、必死でこらえた。
突き飛ばそうかとも思ったが、おそらくそれに足る力を腕が出してはくれない。
その上に、仮にできたとしてもやったら負けなような気がした。

ドグマは、荒々しい見た目の印象に反して、女に暴力で言うことを聞かせるという事があまりなかった。
男が女に力で勝るのは当たり前。目の前の問題を、勝って当然のものにすり替えるのは"逃げ"。
女は感情的になってもいいが、男は理性的であり、力がある分強い自制心を持たねばならぬ。
彼は、そのように考えていた。

「……っ」
……落ちつけ……落ちつけ……私は、男だ。女に支配されてたまるか……
意識的にペースを落とし、ふーっ、はーっと何度もゆっくり大きく息をついた。
そうして、ドグマは胸の内をかき乱す困惑と恐怖を、無理やり押さえこんだ。
「……よさぬか」
低く、ゆっくりとした声で、ドグマは制した。
「何事も、私の主体で為すのでなくば、私は許さない」
「それが、あんたのプライド?」
朽葉が、ドグマの肩に腕を巻きつけ、引き寄せた。
「男ねぇ。あんたは、どこまでも男だわ」
女だと思って、自分を見下しているのは許しがたかった。
が、ドグマがトラウマをわずかながらねじ伏せた事を、朽葉は評価した。
チュッとドグマの唇に軽く口づけをして、朽葉は彼を解放した。
「残念だけど、じきに邪魔が入りそうだしねぇ。また今度、ゆっくりとね」
「……ふん」
朽葉がふわりと着せかけた服に、ドグマは重い腕をなんとか持ち上げ、袖を通した。

 

4.

「はいどうぞ、召し上がれ」
三郎に肩を貸されて椅子に腰掛けたドグマの前に、イエソドはカレーライスを盛りつけた皿を置いた。
食欲をそそる香りが、ドグマの鼻腔をくすぐった。
ドグマは重い腕を持ち上げて、スプーンを手にとった。
しかし、指の力が足りないためにスプーンの先が定まらず、ぶるぶると震えた。
「……くっ」
「兄上」
三郎が、やんわりとした仕草で、ドグマの手からスプーンを奪い取った。
トマトとアスパラガスをすくって、ドグマの口元に運んだ。
「どうぞ」
「……」
……まるで、赤子の扱いだ。こんなところを見られるなど、なんたる恥辱か……
ドグマはしばらく奥歯を噛みしめ、顔を歪ませていた。
が、いきなり思いを振り切るように、ばくっと食いついた。
迷っているところを見られるのも、余計に恥ずかしいと考えたのである。
スパイスのきいた深みのある味わいが、美味しかった。
美味しいと感じてしまう自分が、なんだか悔しかった。

「……あぁ、情けない」
溜め息混じりに、小さく声を漏らしたドグマに、イエソドは微笑みかけた。
「君、可愛い弟の介助くらい、素直に受けたまえよ」
「この男の、どこが可愛いのだ! どこが!」
「可愛いと思ってるくせに……」
「思っとらんわ!」
ニヤニヤして見ていた朽葉が、口を挟んだ。
「どんな風に、可愛がってたの?」
「そうだねぇ。いつだったか、家出した三郎を、ドグマがおんぶして連れ帰ってきた事があったっけ……」
「へー? 三郎、あんた家出なんてしたの。なんで?どうして?」
「……」
三郎は、恥ずかしそうに口元をもぞもぞと動かして、横を向いた。
「確か、三郎の母君が……」
「『三郎の』って?」
「あぁ、我々は皆、腹違いの兄弟だから」
「あ、そうなの。どうりで似てないわけね」
「うん、三郎は母親似だからねぇ。ドグマは父親そっくりだし」
「……ちっ」
父親そっくりと言われ、ドグマは気に入らなげに舌打ちした。
「……で、母君が、勝手に三郎の部屋の壁紙を変えたせいだっけかな?」
「なに、それ。そこは、怒りなさいよ。なんで、家出するのよ。逃げるのよ」
「いろいろと……事情が……」
「どんな事情よ?」
「いろいろは……いろいろです」
「その後、三郎の母君に、ドグマがかんかんになって突っかかってたっけ。
『子供だと思って、馬鹿にしてるのか。子供にだって、プライベートってものはあるんだ』とか、なんとか。
いやぁ、威勢が良かったな。残念ながら母君の方は、『貴方には関係ない』の一点張りだったけど」
「……そんな事まで……してくださっていたのですか?」
三郎が問うと、ドグマはフンッと鼻を鳴らした。
「そんな昔の事は、忘れた! 匙が止まっておるぞ、肉を食わせろ、肉を!」
「は、はい……」
三郎は、慌ててスプーンでカレーライスの肉をすくった。
 
 
 
二つ並べて敷いた布団の片方に、三郎はドグマを横たえてやった。
「手洗いに行きたくなったら、遠慮なく言ってくださいね」
「あぁ」
ドグマは布団に手足を投げ出すようにして、ふぅっと息をつき、全身の力を抜いた。
そんなドグマを見ながら、三郎はそっと声をかけた。
「あの……兄上……」
「何だ」
「さっきの話……ありがとうございました。
それほどまで……お気遣いしていただいていたとは、思いませんで……」
「忘れた、と言っただろう」
「僕は、あの時の事は、よく覚えています。
連れて行って頂いた店で聞いた、オルゴールの音色まで、しっかりと……」
「……」
二人の脳裏で、優しくしっとりとした"月の光"のメロディーが蘇った。
「……おまえを気遣って、喧嘩を売ったわけではない。おまえの母親に、腹が立っただけだ」
「そう……でしょうけど……それでも、ありがとうございました」
ドグマはしばらく天井を見つめて沈黙していたが、やがて頷いた。
「……あぁ」

三郎の胸に引っかかっている棘がうずいた。
在りし日のモスタリアにて──
自分の勝手でドグマをエイリアスと化させておきながら、彼を見捨てて逃げた事を。
ドグマ自らの手でモスタリアを崩壊せしめたのは、必ずしも三郎のせいだけとは言えないだろう。
が、ドグマに"最後の一押し"をさせたのは自分ではないか、という自覚が三郎にはあった。
古い話ではある──が、長年罪悪感を感じることから逃げ続けていたからこそ、罪悪感が薄れる事も無かった。

僕は、未だにあの事を……ちゃんと詫びずに、うやむやのままにしている。
この機に、謝罪してしまいましょうか? 二人だけでいる時間というのも、あまりない事ですし……
しかし……何と言えばいいんでしょうか。今更、持ち出すというのも……
それに……あの時兄上は、僕に関する記憶が欠落していたようですけど……
その、記憶を欠落させた原因までも、思い出すに至っているのでしょうか……?
「何を、じろじろ見ている?」
いぶかしげにドグマに問われ、ビクッと三郎は肩を震わせた。
「すっ、すみません。マッサージでも、しましょうか?」
「……したければ、しろ」
……兄上……僕は貴方に、山ほど負債がたまっているんです。
その罪滅ぼしで、僕は貴方の御世話をしているところもあるのです。
だから、どうか僕に"借りを作っている"などと思わないでください……
三郎は目を伏せ、黙して願った。
言葉に出してしまえたら、どれほど楽だろうと思いながら。

ドグマの体を、手で優しくそっと揉みほぐしながら、三郎は言った。
「結構、こってますね。お疲れになったでしょう」
「……ん」
……遠慮せずとも、もっと力を入れてくれてもいいんだがな……まぁ、気持ちは良いから、いいか……
そんなことを考えながら、ドグマは短く返事をした。
ふと、ドグマは自分が思いのほかリラックスしている事に気づいた。
苦手になってしまったはずの、"手で触れられる"という行為をされているにも関わらず。
……私は……イエソドや朽葉らに見られるのが嫌なだけで、こいつに世話をされる事自体は、受け入れつつあるのだろうか?
……いや、そんなはずはない。脆弱な、子供の体……私を縛る、数々の鎖……
自分の事も自分でできない身の上に苛立ち、早く抜け出したいと焦がれていたはずだ。
他人に自分の事を全て任せっきりにするなど、許せないはずだ。
そう、ただイエソドや朽葉のようにからかわれたり弄ばれたりしない分、気を抜いて、少しばかり安心しているだけで……

トントン──
ドアが、ノックされた。
「まだ、起きてるかい?」
ドア越しに、イエソドの声がした。
「だったら、何だ」
別に機嫌は悪くなかったが、機嫌悪そうな声を出して、ドグマが応じた。
「お邪魔するよ」
ドアを開けて、イエソドが部屋に入ってきた。
彼は、古めかしい銀の装飾がついた手鏡を持っていた。
「いやね、サクラが夢を見ているようだから、一緒にどうかとね」
「……いいだろう」
ドグマは、三郎に顎をしゃくって見せた。
三郎は頷き、イエソドから手鏡を受け取って、ドグマの額に押し当てた。
ドグマは、すうっと眠りに落ちていった。
それを確認してから、三郎はドグマに布団をかけ、自分も布団を被って横になった。

 

 

5.

「……なんだ、この格好は?」
ドグマは、ソファにゆったりと腰掛けている、自分の体を見下ろした。
動きやすい服の上にワインレッドのエプロンを着ており、ぼさぼさの髪は三角巾でまとめられていた。
「……なんでしょうね?」
隣のソファに座っている三郎も、ダークグリーンのエプロンを着ていた。
長髪はゴムでしっかりとくくられ、その上からペイズリー柄のバンダナで巻かれていた。
ドグマの向かいのソファの上に、ぽんっと白い割烹着を着たイエソドが現れた。
「やぁ、お待たせ。ん……? 料理でも作るのかな?」
「……」
……おまえは、どこのオカンか!
ドグマは、イエソドの格好にものすごく突っ込みを入れたかったが、ぐっと飲み込んだ。
じゃれあうようで嫌だったのもある。
が、自分の格好も格好なので、突っ込み返しが来るのも更に嫌だった。
「……待っとらん」

ドアが開いて、ドグマらがいる応接間にサクラが入ってきた。
サクラは、涙目をこすりながら不思議そうに彼らを見た。
「誰……?」
「ドグマだ」
「私は、イエソドだよ」
「僕は、三郎といいます。どうなさいました?」
「えと……部屋を片付けろって、叱られて……」
「あぁ、それで僕達はこんな格好をしているんですね」
「へ?」
「いえ、何でもありません。手伝いましょうか?」
「う?うん、ありがと……」

立ち上がろうとソファの肘掛けに手をかけたドグマに、三郎は反射的に手を差し伸べかけた。
「いや、良い。自分で歩ける」
「そうなのですか。良かったですね」
「まぁな」
ドグマはすくっと立ち上がり、床の感触を確かめるように軽く足を踏みしめた。
 
 
 
サクラの先導で、三人は廊下を歩いて行った。
「そういえば、どういう家庭環境なのだ?」
桜の木から生まれたのだから親はいないはずだが、と考えながらドグマはサクラに問いかけた。
「ん……僕は赤ん坊の頃、コインロッカーから出てきたらしいんだけど。
五歳まで施設に居て、子供が居なかった今のお父さんとお母さんに引き取られたの」
「ふむ……」
あまり悲愴感や同情を引こうとするようなそぶりの無い、淡々とした話し方だった。

「うわ……」
サクラの部屋を見て、三郎は思わず声を漏らした。
本、衣類、玩具、ゴミ……ありとあらゆるものがごちゃまぜに、足の踏み場もなく放り出されていた。
「いやぁ、見事な散らかしぶりだねぇ」
「感心するな、イエソド。
ここまでなるまで叱らない養父母が、おかしいのではないのか? 放任主義も甚だしいわ」

「何故、去年の賞味期限の菓子袋が落ちとるのだ! いつから掃除しとらんのだ!」
「半年くらい……」
ブルドーザーのような勢いでゴミをゴミ袋につっこんでいくドグマに、サクラはおずおずと言った。
「あぁ、物が多すぎてうっとおしい! もっと、実用的なものだけを置いておかぬか!」
ドグマはぬいぐるみの山にどすどすと歩み寄ると、片っ端からひっつかんで、どんどんゴミ袋に放り込んだ。
「ちょっとちょっと、ドグマ。これ、クレーンゲームで取った奴じゃないかい?」
「だから何だ。こんな安っぽいもの、要らん!」
イエソドの制止に、ドグマは噛みつくように言った。
「勝手に決めるんじゃないよ。一生懸命取ったんだろうに。
ちょっと汚れてるけど、綺麗に洗濯して、整理して飾ればいいよ」
「飾るなら、絵とか彫刻とかにしておけ!」
「どこの王子様だい。そんな高級指向なお子様が一般家庭に居たら、気持ち悪いよ」
二人の言い争いを、頭を掻きながら眺めていた三郎は、やんわりとサクラに仕向けた。
「ちょっと数が多すぎるのは確かですから、気にいってる物だけを残しましょう。ね?」
「はーい……」
サクラは案外そっけなく、ポイポイとぬいぐるみをゴミ袋に入れ始めた。
「要らんのなら、取らなければいいだろうが」
「取るのが、楽しいんだもん……」
「居ますよね、そういう人」
「ん、これは取っとく……最高記録だし」
サクラは、自分の身長とさほど変わらない大きなワニのぬいぐるみの埃を払って、ベッドの上に置いた。
「こんなの取ったんですか。すごいですね」
「得意なの、これくらいしかないし……」
「役に立たん特技だな」

「えぇい、セーターも半袖シャツもごちゃ混ぜか! これで良く着替えられるな!」
「おっ。押し入れに衣装ケースあるじゃないか。ちょっと色褪せた服が入ってるが」
押し入れを覗き込んだイエソドに、ドグマは怒鳴った。
「去年出さなかった物は捨てろ! どうせ今年も着んだろうが!」
「えー、もったいないじゃないか。ちょっと痛んでても、リフォームとかしてだねぇ」
「『使うかもしれない』主義はやめろ! 部屋も片付けられんガキが、そんな面倒な事をするか!」
二人とも、いちいちうるさいですねぇ……と眉をひそめながら、三郎はサクラに目を向けた。
「……着ます?」
「どうかなぁ……?」
「手の届くところにある服しか、着なかったりとかしません?」
「んー……そう、だね」
「捨てていいそうです、兄上」
「よし!」
ドグマは抱え上げた衣装ケースを一気にひっくり返して、中の服をゴミ袋に流し入れた。
「あとは、夏物と冬物を分けてこれにしまえ、サクラ!」
「はーい……」

「ん、何だこのダンボール……おい、何故パソコンが未開封で放ってあるのだ!」
「誕生日にお父さんが買ってくれたんだけど、繋ぐの面倒臭くて……」
「馬鹿か! 面倒臭がりこそ活用して、面倒を片付けろ!」
ドグマは、ビリビリビリッと勢いよくダンボールのガムテープを剥がした。
机の上の物を薙ぎ払うように落として、モニタをドスンと置き、机の下にパソコン本体を運び込んで、手早く配線を済ませた。
「ルータまで揃っておるではないか」
「インターネットとか、設定の仕方わかんないよ……」
「それぐらい、調べろ!」
「だって……」
「面倒臭い奴だな! 三郎、やってやれ!」
「はいはい……」
「次、本! あぁッ、何故教科書と漫画本がサンドイッチになっておるかな……
イエソド、分けるのを手伝え! サクラ、しまえ!」
「ま、まだ服が終わってな……」
「そっちが終わってからでいい!」
「いやぁ、一家に一台ドグマ欲しいねぇ」
「私は、家電か!」

「ふーっ、なんとか機能的な部屋になったな……」
汗を拭いながら、ドグマは満足そうに部屋を見渡した。
「まぁ、私から見ればまだ、余計な物はあるが……」
「実用性だけを追求しても、居心地が悪くなるだけですよ。
適度に、癒やしや娯楽とのバランスを取りませんと」
「むしろ、寂しいくらいだと思うがねぇ……」
「兄さんの部屋と一緒にしないでください」
奇妙奇天烈な物で満ちあふれたイエソドの自室を思い出しながら、三郎は言った。
「……ありがと、おじさん達」
サクラが、ぺこんと三人に頭を下げた。
 
 
 
「……」
目を開けると、布団の中に戻っていた。
「……疲れる夢でしたね」
三郎が声をかけると、ドグマは首を横に振った。
「狭い部屋の中ではあるが、思うがままに体を動かせて気持ちが良かった」
「それは、良かったです。しかし……冷静に考えてみますと……
夢の中で部屋を片付けても、覚めれば散らかったままなのではないでしょうか?」
「いや……」
すぐ耳元で声がして、ぎょっとして三郎は反対側を向いた。
彼と同じ布団の中に、イエソドの大柄な体が横になっていた。
「ひぇぇぇッ!」
三郎は、思わず小さく悲鳴をあげた。
他人と距離を取りたがる彼にとっては、本来、隣に布団を敷いて寝るのも近すぎるくらいなのである。
「いや、別に襲わないよ」
ニコニコとして、イエソドは言った。
「何で、入ってるんですかァ!」
「いや、ちょっと寒かったし……いいじゃないか、兄弟だし」
「子供じゃないんですから、兄弟だからって添い寝なんてしませんよ!」
兄上とオロカが一緒に寝てるのはともかく、と三郎は心の中で棚上げした。
「まぁ、さておき。夢遊病のように、実際、体を動かしている場合もあるようだよ。
今回どうだったかは、わからないが……
仮にそうだとすれば、さぞ騒がしかったろうねぇ。半ば、一人兄弟喧嘩で」
「そっ、そうですか……」
むっくりと、イエソドは体を起こした。
「それじゃ、私は心地良く散らかった部屋に戻って休むとするよ。おやすみ」
「はい……おやすみなさい」

部屋を出て行ったイエソドを見送った後、三郎は空中でふわふわと漂っている火の玉を見上げた。
「僕達も、寝ましょうか。それとも、さっきのマッサージの続きでもします?」
「……」
不意に、ドグマは敷布団の上を滑らせるように腕を出し、三郎の頭をわしづかみにした。
「なっ……な、なんですッ!?」
驚きのあまり、三郎はドグマの大きな手が握力そのものは酷く弱っており、簡単に振り払えるという事も忘れていた。
『おまえ……』
ドグマの送り込んだ念話が、三郎の頭の中で響いた。
『先ほど……何を、喉をつまらせていたのだ。私に、何を伝えたい?』
……え?
息を飲んだ三郎を、ドグマの力強い意志が包み込んだ。
『言葉に出せぬなら、心で叫べ。聞いてやる』
それは夜の帳のように、広く、深く、怖ろしく、そしてどこか暖かかった。
ぶるっと、三郎は小さく身を震わせた。
……この人には、敵わない。
『……ごめんなさい』
意を決し、三郎もまた、念話を送り込んだ。
岩を伝う清水のように、かぼそい、しかし真っ直ぐな思いが、ドグマの腕を通して染み入った。
『いろいろ……ごめんなさい。たくさん……たくさん……ごめんなさい、兄上……僕は……僕は……』
ぎゅっと閉じた三郎の目から涙があふれ、枕を濡らした。
胸がいっぱいになって、何を謝りたいのかまで、とても伝えられなかった。
『もう……いい。責めるな……己を』
ドグマの大きな手が、くしゃっと三郎の髪をかき回した。
『……許す』

 

6.

翌朝──
ドグマは、三郎の手を借りてトランクに入った。
効果が現れるまで一人で待っているのも暇だったので、三郎は鬼束ちひろの"月光"を口ずさんでいた。

「──I am GOD'S CHILD
哀しい音は 背中に爪跡を付けて
I can't hang out this world
こんな思いじゃ どこにも居場所なんて無い

不愉快に冷たい壁とか 次はどれに弱さを許す?
最後になど 手を伸ばさないで 貴方なら救い出して
私を静寂から 時間は痛みを 加速させて行く──」
 
 
 
コツコツと内からトランクが叩かれ、三郎は蓋を開けた。
中で胎児のように体を丸めていたドグマは、六歳児の体になっていた。
差し出された服を着た後、立ち上がりながらドグマは言った。
「さっさと戻るぞ、三郎……っと」
まだ腫れている足がズキッと痛み、ドグマは尻餅をついた。
「大丈夫ですか、兄上」
「……ちっ……忌々しい……これしきの痛みに耐えられぬのか、なんという脆弱な……」
未成熟な体が、"コンクエスト"に用いる大量の魔力を制御しきれなかった時の、苦しみと焦りが蘇ってきた。

ふとドグマの脳裏に、黒い沼の中の瓦礫島が思い浮かんだ。
そこには、ギリシャ神話のプロメテウスのように鎖で大岩に繋がれ、一人虚空を見つめている自分の姿があった。
……どうして、私だけこうも"最果て"の圧力を苦にしているのであろうか。
三郎らは多少戸惑う事はあっても、ごく普通に適応しているというのに。
もしや、今ここにいる私は夢幻で、本当は私だけ沼に取り残されているのではないのか……?
根拠のない妄想に、ドグマは駆られた。

心が沈むと共に体が重苦しくなり、ドグマは立ち上がれる気がしなくなってしまった。
見えない鎖が蛇のように体を這い上がってくるのが、目に映るようであった。
何度も溜め息をつきながら、力なく体を揺すっているドグマに、三郎は声をかけた。
「どうなさいました、兄上。そんなに、足が痛むのですか? 昨日よりは、腫れていないと思うのですが……」
「……体が、妙に重いのだ……」
「朽葉さんを、呼びますか?」
「いや……『最果て』の力だろう……たぶんな……」
"最果て"の力に屈し、膝を折る自分が、ドグマはたまらなく悔しかった。
しかし、まさにプロメテウスのごとく虚無のハゲワシについばまれた心には、立ち向かう意志が湧いてこなかった。
"自分の存在に疑いを持つ"という事は、どうやら"最果て"では禁忌のようだった。

「私の体には、いったい何本の鎖が巻きついているのだ……
ひょっとして、これからもどんどん増えていくのであろうか……片時も身動きできぬまでに……」
暗澹たる気持ちで、ドグマはぼそぼそと言った。
「そうと決まったわけでは……」
「いや、そうなのかもしれぬ。私は時々、思う事がある。
私という存在は、この『最果て』にそぐわぬのではないかと。
適応できぬ者は本来、沼で朽ち果てるところを、無理矢理生かされたにすぎぬのではないかとな……」
「……」
いつになく弱気なドグマに、何と言ったらよいものかと、三郎は考えた。
……本来の兄上であれば、相当に厳しい環境でも屈服させ、我を通して生きていくでしょうに……
あの沼ほどに絶望的な状況ならば、ともかくとして……
「無理矢理生かされた、などとおっしゃいますが……
オロカに助けられた事が、気に食わないのですか、兄上。オロカを見下しておいでで?」
論理のすり替えであるのは承知で、あえて三郎は言った。
「……そんな事はない」
「ならば、御自分の足で歩けるうちは、歩いてください。
たとえ鎖が重くても、立ち上がれなくなるまでは……貴方は、そういう人でしょう?」
……冷たいでしょうか。でも、兄上にはこのくらいの方がいいはずです。
三郎は、黙っているドグマに、そっと言葉を添えた。
「辛い時には、手をお貸ししますから。僕も、オロカも、暗示郎も……」
三郎は、ドグマに手を差し出した。
「……うむ」
ドグマはその手を取り、ぐっと膝に力を込めて立ち上がった。
そして、少し足を引きずりながら部屋を出て行った。
……無理はなさらずに、兄上……
三郎は心の中で、ドグマの小さな背中に声をかけた。
 
 
 
朽葉は、細くなったドグマの足に、湿布を巻き直した。
「これでよし、と」
包帯の上からぽんと軽く叩かれ、ドグマは顔をしかめて立ち上がった。
「……戻るぞ、三郎」
「そう。じゃあね、ドグマ、三郎。また遊びにおいで」
イエソドの言葉に、ドグマはフンと鼻を鳴らした。
「誰が、用もないのに貴様の顔を見にくるか」
「カレー食べにくるという用でもいいけど」
「私は、そんな暇人ではない!」
大声を出した拍子にドグマは少しよろけ、後ろからさりげなく三郎が支えた。
「まぁまぁ……兄さんも、お体に気をつけて」
「君もね、三郎。いろいろ考えすぎて、胃に穴をあけないようにね。君は、ストレスに弱いんだから」
「はは……気をつけます……」

「朽葉、君はどうするね?」
「そうね、この間御馳走してもらう約束したし、私はちょっとドグマちゃんとこに御邪魔しようかしら。
念のため、もう少しドグマちゃんの経過も見たいし」
「ドグマ『ちゃん』では、ないッ!」
からかうように言った朽葉へ、ドグマは怒鳴りつけた。
「そうねぇ、子供じゃないわよねぇ。大人の体の方が遊びがいがあるから、また戻ってくれないかしら?」
「誰が、そんな事のために戻るか!」
三郎は苦笑を浮かべて、ドグマの小さい手を取った。
「帰りましょう。僕達のツリーハウスへ」

 

7.

オロカは、ツリーハウスの窓枠に肘をついて、ぼんやりとしていた。
「そんなにじっと待ってなくたって、帰ってくるよ。ちゃんと治療法があるって、朽葉言ってたじゃん」
"冒険者たち"を読み返しながら、暗示郎が声をかけた。
「わかってる……けど、何も手につかなくて……」
「……そう」

「ただいま戻りました」
三郎の声に、二人はパッと振り返った。
ドグマ、三郎、朽葉が床に描かれた魔法陣の上に立っていた。
「ドグマッ!」
オロカは駆け出し、ドグマの小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「よかった……!」
「こ、これ、やめぬか! 苦しいだろうが!」
ドグマは、もがいた。こんなところを見られるなど、恥ずかしかった。
が、眠っている時ならともかく、本気で力を込めているオロカの腕を振りほどけるはずもなかった。
ドグマは、ちらりと横に視線を向けた。その先で、朽葉が楽しそうにニタニタ笑っていた。
ドグマは余計に恥ずかしくなって、頬が熱くなるのを感じた。
わざと苦しそうにケホン、ケホンと咳をすると、ようやくオロカは手を離した。
「あ、悪い……」

「それで、もうどこも悪くないのか? 普通に動けるのか?」
一見して、もう大丈夫だと思ってしまったがどうなんだろう、とオロカはドグマの体のあちこちを見回した。
「そういう事は、抱きつく前に聞け……悪かったら、どうするのだ。
問題ない。噛まれたあたりが、まだ少し腫れている程度だ。何か、運動でもしたい気分だな」
「そっか、良かった……」
「それなら、指の運動してよ! 朽葉も居る事だしー」
暗示郎が、口を挟んだ。
「ん?」
「ドグマのピアノ、聞きたいなー♪」
「あら、いいわね。ぜひ聞かせてほしいわ」
「まぁ、構わんが……」
ドグマに目配せされた三郎は頷いて、トランクを開けた。

外に出て、三郎は小袋の口を開けた。
時空魔術で小さくしていたグランドピアノが飛び出し、みるみる大きくなった。
ずしん、と軽い地響きと共に、ピアノは地面に設置された。
「……」
ドグマは"最果て"に落ちて以来、手慰みと魔術鍛錬を兼ねて、ピアノを弾くことはたびたびあった。
が、改めて感慨がこみ上げてきて、小さく呟いた。
「……戦火を逃れたピアノ、か……」
「そう、ですね……」
ドグマと三郎は、過去に思いを馳せた。
 
 
 
その日、モスタリアの空は赤かった。

かつてのドグマ──エイリアスの率いる反乱軍は、宮殿門前の広場に駐留していた。
対する敵方──エイリアスの父親セフィロトを始めとする上層階層民は、宮殿にこもって守りを固めた。
宮殿といっても、高い塀と深い堀が巡らされ、城並みの堅牢さを誇る。
誰もが長期戦になる事を、そして敵だけでなく味方にも多数の犠牲が出る事を覚悟した。
しかし、エイリアスだけは違った。

エイリアスは、ドームに覆われた空を仰ぎ見て、朗々と"コンクエスト"の呪文を唱えた。
それに応じて爆撃機の大群が飛び立ち、宮殿内の主要な建物を次々に爆破した。
火球や電撃などによる散発的な反撃があったが、高速で飛び去る爆撃機を、ろくに捉える事ができなかった。
エイリアスは最後の標的を、彼らの前に立ちはだかる門に定めた。
爆撃機から落とされた爆弾がいくつも炸裂し、頑丈なはずの門は紙細工のように、あっけなく崩れ去った。

更に、エイリアスは"インビジブル・ウォール"の呪文を唱えた。
巨大な不可視の壁を、立てるのではなく水平に作り出し、堀を渡した。
「ゆけ! 目には見えねど、明日に架かる橋がそこにある。
貧しき者から搾取し、貪り尽くす寄生虫どもに、思い知らせてやるがよい!」
エイリアスは腰にさした剣を抜き払い、壊れた門を指し示して、味方を鼓舞した。
人々はわっと歓声をあげ、見えない橋を渡り、瓦礫の山を乗り越えた。
塀の上から矢がぱらぱらと降ってきたが、どうやら恐慌に陥っているらしく、統率された動きには見えなかった。
攻め手の勢いは、矢にいささかも削がれる様子が無かった。

……モスタリア兵の半分以上は、今やこちらについている……残りの兵士は、さほどの障害にはならぬ。
問題は魔術師だ。あんな御粗末な反撃だけでは済むまい、どう出てくるか……
が、やはりこちらについた魔術師も居る、しばらくは彼らに任せて様子を見よう……
エイリアスは部下にいくつか命令を出すと、人を遠ざけ、天幕の中に入った。
椅子に腰掛け、足を投げ出して荒く息をついた。
実は、呪文を唱え始めたあたりから、全身を襲う神経痛に悩まされていたのだ。
……こんな時に……なんとか、詠唱をやりきったものの……
エイリアスは自分の口を抑え、うめき声がこぼれるのを押し込めた。
今はまだ良い……が、私の力が必要な局面となれば、打って出るぞ……
……耐えろ……あの頃の辛さに比べれば、何でもない……

エイリアスは、まだドグマと呼ばれていた頃、宮殿から追放され下町の路上に捨てられた時の事を思い出した。
魔力は枯れ果て、体もほとんど動かない状態だった。
「私が邪魔なら、何故殺さない……私にはそれだけの価値も無いと言うのか、父上ッ!」
起き上がる事さえできずに、彼は路上で叫んだ。
その後、絶望の淵から這い上がり、彼は過酷なリハビリに明け暮れた。
いつか、父に復讐してやる──その思いを、胸の奥にたぎらせて。

「兄上……お邪魔してもよろしいですか?」
天幕の外から、声がかけられた。
「ウィローか。入れ」
「はい」
かつての三郎──ウィローは天幕の内に入り、身にまとっていた砂漠装束のフードを外した。
そして、ゆっくりとエイリアスに一礼してみせた。
仕草は丁寧ではあったが、どこか臣従とか心酔といったものから、かけ離れていた。
「セフィロトの伝言を預かって参りました」
もはや彼は、エイリアスの前では"父上"とは呼ばなかった。
「聞こう」
「停戦をしたい──言葉ではそう言っていますが、事実上の降伏であるという事は無論、承知のようです。
ついてはその条件などについて話し合いをしたいので、その間、兵を引いて欲しい、と」
「そうか。彼我の力量差を見極められる程度の分別はあったようだな。では、ここへ連れてまい……れッ!」
ズキンと刺すような痛みが走り、エイリアスは胸を押さえてうめいた。
「兄上?」
顔を上げて、ウィローは声をかけた。
「何でもない……」
「神経痛ですか?」
「うむ……」
「セフィロトの実力が兄上に及ばない事は明白ですが、念の為……
武装解除の上、術をすべて封印させて連れてまいりましょうか?」
「そう、だな……では、そのように」
「かしこまりました」
ウィローは立ち上がって一礼すると、天幕を出て行った。
エイリアスは念話で部下を呼ぶと、撤退の合図を出すよう命じた。
 
 
 
ウィローを背後に付き従えて、セフィロトが天幕に入ってきた。
エイリアスは、まだ体が痛むので、椅子に掛けたまま彼らを迎えた。
セフィロトは兄弟の親だけあって、かなりの長身である。
が、エイリアスの記憶にあるよりもひとまわり小さく、また、顔の皺も深く刻まれているように見えた。
今更ながら、追放を受けてからの年月の経過をエイリアスは感じた。

痛みの波が引くのを待って、エイリアスはしばらく黙っていた。
すると、セフィロトが先に口を開いた。
「わ、我々は武装解除に応じる。一切、手向かいはしないと約束する。
そ……それで、上層階層民ならびに兵士の命と財産の保証……
および、未だ瓦礫の下に生き埋めになっている者の救助を求める。
代わりに、望むならそちらがモスタリアが統治する上での援助をしよう」
「……」
エイリアスが口を閉ざしていると、セフィロトは少し焦った様子を見せた。
そして、媚びるような笑みを浮かべて、言い添えた。
「しょ、小国とはいえ、若いおまえひとりで統治できるほどモスタリアは小さくないぞ、ドグマ。
経験豊富なスタッフを揃えて、おまえを全力で補佐してやろう」

エイリアスは、セフィロトが態度は卑屈ながらも、未だ自分を見下しているのを感じた。
……私に親政を行う能力が無いと、本気で思っているのか? いや、そうではあるまい……
"トップがすげ変わっただけで、その下のピラミッドは今までどおり"、そんな都合の良いものでも望んでいるのだろう……
エイリアスは、"念話"の術を用いた。
通常は、相手がこちらに伝える意志のある、ごく表層的な思念しか読み取らない。要は、会話の延長である。
しかし、エイリアスは精神を集中させ、セフィロトの心の奥まで踏み込んだ。
それは魔術師の間では、相手の同意がある場合を除き、禁忌とされている行為であった。
『……こいつは民衆に人気があるようだから、象徴的に統治者の座へ祭り上げてはやろう。
しかし、実権は渡さない。こいつを傀儡として操り、実質的に統治を行うのは、この私だ……!』
……なんという、あさましい男か。
エイリアスは内心、唾棄したい思いに駆られた。

「必要ない」
エイリアスは、きっぱりと断った。
「セフィロトよ。助命嘆願には、応じよう。無論、救助にも。
が、上層階層民の所有財産は、我が方に味方した者を除き、すべて没収する。
兵士は引き続き雇用するが、上層階層民の政治への関与は許さぬ」
「そ、そんな……ドグマ! 私はともかく、上層階層民に恨みでもあるのか!」
「そんな私情で、ものを言いはせぬ……この戦いは発端は私怨であったが、今は皆の未来のために戦っている。
おまえの言うような政治体制では、上意下達がスムーズに行かぬ事は目に見えているのだ。
それでも、命という金に替えられぬ一番の財産を保証してやるのだから、感謝してもらおうか」

「で……セフィロトよ。確認するが。
おまえが嘆願するのは上層階層民の助命であって、おまえ自身の命は含まれぬのだな?」
「……い、いや!」
セフィロトは、更に焦りの表情を浮かべた。
「わ、忘れたわけではあるまい! 私はモスタリアの統治者のみならず、管理者であるぞ!
私の命を奪えば、モスタリア維持の為の儀式が行えず、この大地が遠からず消滅するのだぞ!
代行してもらう事は可能だが、儀式のたびに代行者を指名せぬ限り、儀式は行えぬ!」
「もちろん、わかっている。故に、管理者の座を私に譲り渡してもらおうか」
「おまえが統治者、私が管理者、それで良いではないか!
実際……統治者が、時空魔術の素質に欠ける場合……
病や負傷、妊娠出産といった不調により、長期にわたって儀式を行えない場合……
それに若年である場合など、統治者と管理者を二者に分けた事例も少なからずある!」
「モスタリアを人質に己の保身をはかる者に、管理者の資格など無い」
「……っ」
セフィロトは、一瞬言葉に詰まった。
が、すぐに一歩下がって左手を伸ばし、ぐっとウィローの肩をつかんで言った。
「では、ウィローはどうだ。時空魔術の素質はおまえと同等、いやそれ以上と見るぞ!
ドグマ、おまえが親政を行いたいのであれば、儀式に時間と魔力を費やしたくはあるまい!」
「……」
時空魔術の素質がどちらの方が上かはともかく、本音を言えばセフィロトの指摘どおりであった。
「しかし、ウィローはまだ集団儀式には慣れていない。私自ら指導し、一人前の管理者にしてやろう!」

エイリアスは、再びセフィロトの心の奥を覗き込んだ。
『ドグマよりも大人しく従順なウィローの方が、覇気には欠けるものの、その分操りやすい。
管理者の後見人という立場を利用し、一大勢力を築ければそれでよし。
さもなければ、ウィローを担ぎ上げて、今度はこちらが反旗を翻してやろう!
戦闘力で劣っても、時期を見極め隙をつけば、ドグマの首級をあげる事も不可能ではない!』
……この男は……息子を、自分の道具として利用するという事に、何の罪悪感も持たぬのか!?
産みの親としての、当然の権利とでも思っているのか!?
そもそも、ウィローを意のままにできるという根拠がどこにある?
ウィローは確かに大人しくはあるが、頑固で自分のやり方をそうそう曲げぬ。
決して、御しやすい奴などではない。むしろ、扱いにくい事この上ない。
兄の私にわかることが、どうして親である貴様にわからぬ!
息子に人格があるという事を、認めておらぬのではないのか!?

怒りと呆れとで、エイリアスは口をつぐんだ。
それを前向きに検討しているものと勘違いしたのか、セフィロトはウィローに目を向けた。
「……なぁ、ウィロー、おまえもそう思うだろう?
平時ならともかく、新体制作りとモスタリアの維持と、双方同時にこなす事など無理がある、と。
さぁ、おまえからも言わないか。モスタリア管理者として誠心誠意、兄上を支えます、と……」
「お断りします」
ウィローは静かに、だがきっぱりと首を横に振った。
「ウ……ウィロー?」
「いえ、お断りしました。その件は、既に兄上からも打診がありましたので」
「な、なんだと!? 何故、断る!」
『信じられん! 向こうから言い出したのなら、これ以上ない取りいる機会ではないか……何を考えているのだ!』
セフィロトの思念は、困惑しきっていた。
「……父上も、御存知でしょうに……」
「尻込みをしている場合か! あんなものは、おまえの努力と心がけ次第で何とでもなる!」
ウィローは、集団儀式に自分ではどうしようもない程の、強い苦手意識を持っていた。
その事を、セフィロトは忘れていたわけではないようだった。
しかし、適性をまるで無視された事で、ウィローは自分を無視されたような思いがした。
彼は、悲しげに溜め息をついた。

「さて……話はここまでだ。他の上層階層民の有力者と、すべて交渉を終えるまで、身柄を拘束させてもらう」
「お、終わったら、私を処刑する気か!」
「それまでに、貴方が管理者の座を私に譲ってくれていれば。
拷問などは、あまりしたくない。すみやかに譲渡してくれる事を願う」
「ご、拷問……ヒィッ!……ウ、ウィロー! た、助けてくれ! 私を連れて、逃げてくれッ!」
「……お断りします」
あくまでも静かに、ウィローは言った。
「な、何故……何故だ!」
「まだ……おわかりになりませんか、父上。僕は、貴方に見切りをつけ、兄上についたのです。
兄上方に寝返った者達に、兄上からの手紙を渡したのも、ほとんどは僕ですよ」
「う……裏切り者! あれほど、愛してやったものを!」
ウィローの肩をつかむ手に、力が入った。
愛……ですか。
ウィローはふと、幼い頃の誕生日を思い出した。
 
 
 
「ウィロー、おめでとう! ほぅら、プレゼントだ!」
セフィロトは、青いリボンをつけた大きな箱を差し出した。
「……」
フェルメールの"真珠の耳飾りの少女"の複製画が欲しいと言ったのに……
ウィローは、顔には出さずに落胆した。長細く分厚い箱の形から、絵画でない事は明らかだった。

「開けても、よろしいですか?」
「もちろん」
セフィロトは、にこにこと笑っていた。プレゼントが喜ばれる事に、微塵の疑いも持っていないようだった。
ウィローがリボンと包装紙を取って箱を開けると、中には電動機関車と線路が入っていた。
彼は電池を入れて、スイッチを入れた。
すると、電動機関車はガシャガシャガシャガシャ車輪を回転させ、ポッポー!とやかましく汽笛を鳴らした。
……うるさい。癇に障る……
ウィローはぷつりとスイッチを切り、ちらりと横にいる母、カチュアの顔を盗み見た。
"もらった物が何でも、喜びなさい。気に入らなくても、喜びなさい。素直に、子供らしく……"
カチュアの目が、語っていた。
「ありがとうございます! これ、欲しかったんですよ!」
ウィローは慌てて作り笑いを浮かべて、心にも無い事を言った。
「そうだろう、そうだろう! やっぱり、男の子だな! 私も小さい頃、こういうのに夢中になったんだ!」
「……」
……男の子は、こういう物が好きでないといけないのだ……と、いう事ですか……?
ウィローは、今までねだった物を一度としてもらえた事がないのを思い出し、悲しくなった。

「で、勉強の方はどうなんだ。進んどるのか?」
何故、誕生日にまで勉強の事を聞かれないといけないのですか……?
ウィローはそう思いはしたが、声に出さずに飲み込んだ。
「幻覚魔術で蝶の群れを出して見せたら、皆さん驚いていました。
こんなに早くできるなんて素晴らしい、なんて飲み込みが早いんだ、自分達とは違う、などと」
「そうか、そうか。やっぱり私の子だな!」
「……」
成果が出せなければ息子ではないのでしょうか、とウィローはプレッシャーがのしかかるのを感じた。

「勉強、頑張るんだぞ。私の後を継ぐ候補者として、恥ずかしくないよう。
新しい術を覚えたら、また新しい玩具を買ってやるからな!」
セフィロトの大きな手が、ウィローの頭をなでくり回した。
……あぁ……どうしてこの人は、僕がこの世に生まれた日を……
人として生きて、またひとつ大きくなった事を……
ただそれだけを、無条件に、純粋に、祝福してくれないのでしょうか……?
「はい、頑張ります……不肖の身ながら、父上の名を汚さぬよう……努力を惜しまず、日々精進します……」
ウィローの並べた模範回答に、セフィロトとカチュアは気を良くした様子で笑った。

勉強ヲ頑張ッタラ、愛シテヤロウ……
私ノ言ウ事ニ逆ラワナケレバ、愛シテヤロウ……
立派ナ後継ギニナレレバ、愛シテヤロウ……
幻聴が、ウィローの頭の中にこだました。

「まったくおまえは、素直で奥ゆかしくて、いい子だな!
それにひきかえドグマの奴は、我が強くて、生意気な事ばかり抜かしおって……
そもそも、私の統治の仕方や、モスタリアの法律云々に口出しするなど、十年早い!」
「そうそう、子供は素直が一番! それに、ドグマみたく小賢しい事を言う前に、勉強が第一!
ウィローは可愛くて、勉強ができて、礼儀正しくて、おまけに優しくて気も利いて、本当にいい子だわ!」
カチュアがすかさず、セフィロトに追従した。後継者に相応しいのはウィローだと、言わんばかりだった。
「まったくドグマは、半分だけとはいえウィローと兄弟だなどと思えないって、皆が影で噂していますわ。
ねぇ、貴方。ドグマは本当に貴方の種なんですの? 火属性の生まれにくい血統だと、聞きましたわよ?」
「断言は、できんなぁ……あの、尻軽女の産んだ子であるし……そう、属性の事も、あったな……」
セフィロトが疑わしげな表情を浮かべ、カチュアはここぞとばかりに言った。
「火属性は災いの種だって、不安がる者も居ますわ。なのに、何かとちょっかいかけてきて困りますの。
ウィローが、悪い影響を受けないか心配で……どうにかできませんの? 例えば、離宮に移すとか……」

話が差し迫ってきて、ウィローはぼんやりしている場合ではないと、首を振った。
「だ……大丈夫ですよ、母上……どうぞ、ご心配なく……」
顔が引きつらないよう注意しながら、ウィローは微笑を浮かべた。
「いろいろと絡まれても、角が立たない程度に受け答えて、聞き流しているだけですから……」
嘘をついて、ちくりと胸に刺さる棘が痛んだ。
まさか、父母に隠れてドグマから本を借り、こっそり読んでいるなどと、言えるはずもなかった。
「それに、姦通罪とはいえ母を失った子を表立って邪険にしますと、世間の同情が集まってしまいますよ」
「それもそうだな。……はは、おまえも印象操作というものを考えるようになったか。さすが、私の子だ」
「……」
そんなせせこましいやり口が後継者の素質だというならば、ウィローはそんなものは欲しくなかった。
 
 
 
「愛とは無償なもの──などと、青臭い事は申しませんが。
むしろ、借金溜め込むみたいで、気持ち悪いですし。
ですが、貴方の『愛』を、僕は『愛』とは思いません。
僕にとっては、貴方が下さった要らない玩具の数々同様、重荷でしかありませんでした」
セフィロトを見つめるウィローの目に、冷たい光が灯っていた。
「重荷……重荷だと! この、青二才の、恩知らずが!!」
逆上したセフィロトは、いきなりウィローに飛びかかり、その細い首を手で締めた。
それをウィローが避けられなかったのは、既に肩をつかまれていたせい、だけではなく──
偏愛する自分へ、父は危害を加えたりはしない、という甘い見込みがあったのかもしれない。
「は、離し……か、はッ!」
気管を親指で押し潰され、ウィローは空気の塊を吐き出してしまった。
「おまえは! おまえは私の息子なのだから!
私の言う事だけ聞くロボットであればいいのだ! それを……それを……!」
冷静さの吹き飛んだセフィロトは、目の前にエイリアスがおり、更にここが敵地の只中である事さえも忘れているようだった。

「……ッ」
エイリアスは、念話で部下を呼び集めようとした。しかし、ズキンと体に痛みが走り、集中が妨げられた。
「う……くぉッ!」
ぶるぶると身を震わせながら、痛みをこらえ、椅子から立ち上がった。
そして剣を抜くと、迷いなくセフィロトの背中に突き刺した。
「ぎゃあぁッ!」
セフィロトは叫び声をあげ、倒れこんだ。
ウィローは引きずり落ろされるように尻餅をついて、けほけほと咳き込んだ。
力は緩んでいたが、まだセフィロトの手はウィローの首にかけられていた。

「モスタリアと無理心中したいという心算無くば、管理者の座を私に譲れ!」
エイリアスは剣を引き抜き、恫喝した。
「お……親殺しの罪は、重いぞ!」
血を口の端から吐きながら、セフィロトはエイリアスをにらみ上げた。
子殺しの罪は軽いとでも抜かすか、と内心で蔑みながら、エイリアスは父を見下ろした。
「今更、血で我が手を汚す事を恐れはせぬ。それが、たまたま親だったというだけの事……」
「う、うぬ……」
「さぁ、どうする。渡すのか、渡さぬのか!」
「おのれ……!」
セフィロトはウィローの首から手を離し、右手をエイリアスに差し伸べた。
エイリアスは、その手を取った。父と握手するなど、何年ぶりだろうと思いながら。
「選ばれし者よ。汝に、この二つ名を継がせよう……"大地の守り人"よ!」
セフィロトは、キーワードを口にした。
形の無い熱いものが、握りあった手を伝わってエイリアスの体に潜り込んだ。
エイリアスは手を離して数歩下がり、熱さと痛み、二重の苦しみに耐えていた。
やがて、熱はすうっと引いていった。だが、自分と異質な力が体内に宿っているのを、彼は感じた。

「……感謝する。貴方の死が、新たなモスタリアの礎と成らん事を」
「な……何が、モスタリアの礎だ、人柱の間違いだろう! この強奪魔め! 力の信奉者めが!」
セフィロトはギリッと歯を噛みしめ、エイリアスをにらみ上げた。
「呪いあれ! 貴様に呪いあれ! 貴様が私を殺したように、貴様も己の息子に殺されるがいい!」
ごばぁっ、と大量の血を吐いて、セフィロトは再び倒れこんだ。
そして、二度と動かなかった。

「う……あ……あぁ……」
青ざめて成り行きを見守っていたウィローは、尻餅をついたまま、ずりずりと下がった。
「わあぁぁーッ!」
そして、叫び声をあげながら立ち上がり、手幕の外へと飛び出して行った。
「……どうやら、もう少し血を流さねばこの戦、収まるまいな……しかし……」
エイリアスはウィローの背中を一瞥した後、父の死体に目を落とした。
「……父上……貴方は、もっと強大かつ誇り高き敵として、私の前に立ちはだかって欲しかった……
所詮、それは私の私情に過ぎぬ……過ぎぬのだが……できうれば……」
エイリアスは、孤独を感じた。それは、世にも稀なる強者しか味わう事の無い孤独であった。
 
 
 
勉強ヲ頑張レナカッタカラ、愛シテヤラナイ……
私ノ言ウ事ニ逆ラッタカラ、愛シテヤラナイ……
立派ナ後継ギニナレナカッタカラ、愛シテヤラナイ……
幻聴が、ウィローの頭の中にこだました。

「うえぇぇぇッ!」
ウィローは、路上に胃の中の物をすべて吐き出した。
それでも胃のむかつきは収まらず、腹をさすりながらうずくまっていた。

「……まだ、戦う覚悟は完全についていなかったようだな……」
エイリアスの声に、ウィローは口元を拭って振り向いた。
エイリアスの口振りは、ウィローを咎めるというより、哀れむようだった。
「戦う覚悟、とまでは行かなくとも……決別はとっくに、僕の中では済んでいたつもりだったのですが……ね」
「すまなかった。私も、あの場でセフィロトを始末する気ではなかった。
行きがかり上とはいえ、繊細なおまえの目前で切り捨てた事は詫びよう」
「繊細……? 軟弱、と言ってくださって、構いませんよ……」
ウィローは、自嘲気味に笑った。
「……後悔、しているか?」
「後悔する資格など、ありません。僕も、親殺しの共犯者ですよ……」
「……そうか」

「ところで……ひとまず、私がその座を預かったが。
やはり管理者の件は、どうあっても引き受けてはもらえぬか?
何か、事情がありそうだったが……なんなら、期限付きでも構わぬのだぞ?」
「……」
ウィローは、ゆっくりと立ち上がって、頭を下げた。
「申し訳ありません……兄上も御多忙でしょうが、どうかわがままを許してください。
お望みならば、貴方に裏切られない限り、僕は貴方のそばに居ます。
けれど、どうか僕に何も背負わせないでください。僕を自由な身で居させてください……」
「……」
それが……おまえにとっては"幸せ"なのか……
エイリアスは、目を細めてウィローを見やった。
「おまえは、父からも母からも背負わされ過ぎた。そう感じるのも、無理はあるまい……」
「すみません……」
ウィローは、もう一度頭を下げて詫びた。
……それに……"第三者の目"を身近に置いておくという事も、何か意味を為す場合もあるかもしれない。
ウィローに言えば、それは"期待"となって、彼に背負わせてしまう。
だから口には出さなかったものの、エイリアスは内心、そう考えた。

8.

──呪いあれ! 貴様に呪いあれ! 貴様が私を殺したように、貴様も己の息子に殺されるがいい!──

"我が子を食らうサトゥルヌス"──ゴヤの描いた凄惨な絵画が、ドグマの脳裏をよぎった。
父である神々の王ウラノスの性器を刈り取り、追放したクロノス(サトゥルヌス)。
クロノスは、同様に子に権力を奪われるという予言を怖れ、自分の子を次々と飲み込んだ。
そんな、ギリシャ神話の逸話を元にした絵画であった。

……馬鹿げた呪いだ。
モスタリアに住んでいた頃も、アメリカに住んでいた頃も。
私は忙しすぎて、所帯を持つゆとりなどなかった。
女を、抱きはした。一人、孕ませてしまった女が居たが……
向こうも火遊び気分だったはずが、急に態度を変えて結婚を迫ってきたので、事故を装って消した。
余暇のできた今となっては、女を──というより性的接触を、怖れるようになってしまっている。
子供など持ちうる見込みもないのに、我が子に殺されるも何も無いというものだ。

三郎は、グランドピアノを見つめて佇むドグマの横顔を見ながら、記憶を更に遡った。
それは、かつてのドグマ──エイリアスの"コンクエスト"により、宮殿が破壊される数時間前の事であった。
 
 
 
かつての三郎──ウィローは、流れてきたピアノの音に足を止めた。
「ワーグナーの、『ワルキューレの騎行』……」
呟きはしたが、曲が問題なのではない。不思議だったのは、方向から推測される音源である。
それが、持ち主がここには居ない者──ドグマのグランドピアノである事だった。

長身の男が、指を叩きつけるようなダイナミックな動きで、ピアノを奏でていた。
その広い背中と短く刈った金髪に、ウィローは見覚えがあった。
男は、ドグマに魔術や軍略を教えた教師であった。
「……オスカーさん」
ピアノの音がぴたりと止まり、男──オスカーが振り向いた。
「……何か?」
「まもなく、反乱軍が到着する頃でしょう。
だから、これが最後になります……もう一度だけ、聞いてください」
「……」
「兄上に、味方してくださいませんか?」
「……断る」

エイリアスから預かった手紙を、ウィローは魔術師や兵士隊長などに届けた。
寝返りそうと見積もった相手に絞った事もあり、そのほとんどがエイリアス側についた。
そうでない者も、寝返りを唆された事について、口をつぐむと約束してくれた。
オスカーは、その後者であった。

「兄上は、貴方を尊敬しています。貴方に、一番味方になって欲しかったはずです。
兄上に預かった手紙の中身を、僕は見てはいません。
ですが、貴方宛の封書は、明らかに他の物より重かったですよ」
オスカーは、静かに頷いた。
「ドグマは、私の自慢の弟子だ。誰に否定されようとも、最高の弟子だ。
それを抜きにしても、あの手紙を読んで、彼が拓く新しいモスタリアを見てみたいと思った」
「ならば……」
「しかし……私はドグマの師である以前に、セフィロト様に忠誠を誓っている。
セフィロト様を裏切る事はできない。たとえ、倒される事が歴史の必然であろうとも」
「たとえ、古きが新しきに倒される事が、歴史の必然だとしても……
新しきが古きと同じ過ちを犯せば、より新しきに倒されるも歴史の必然ではありませんか?」
「ドグマは、そんな愚かではあるまい」
「愚かではないでしょう……しかし……」
ウィローは、この当時はまだ漠然としたものでしかなかったが、胸の内に不安を抱えていた。
それを、ありのままに吐露した。
「危うくはあります!」
「……例えば?」
「戦力としての味方は、大勢います。
けれど、兄上が道に迷った時、誰が共に悩み、共に道を探るというのですか?
そんな人が、兄上の周りにいるようには見えないのです。
兄上は確かに無能ではない、けれど万能でもないはずなのに!」
「君がやればいいだろう。それも、弟としての務めだ」
「……僕では、駄目です」
ウィローは、悲しげに首を振った。
多少、余計なプライドが心をかすめはした。が、何度も断られた相手である。
腹を割って話さねば、オスカーが動く事はないだろうと判断した。
「僕は、経験もなければ判断力もない、若僧です。
それに、軍事や政治といった事に興味を持たなかった上に、意図的に学ぶ事から避けていました。
反抗期、という言葉がありますが、僕ははっきりと親に反抗を示す事ができませんでした。
唯一できたのが、親が最も学べと言った事を放棄するという、後ろ向きで消極的なやり方でした」
「……」
「それに対し兄上は、幼い頃から父の統治の仕方、法律の矛盾点、そしてモスタリアの社会構造などに、さまざまな疑問を持っていました。
そして、好奇心の赴くままに追求して、父に煙たがれていたようです。
僕は、無力にすぎます。モスタリアをどうしたい、というビジョンすら持っていません。
僕では、駄目なんです……兄上のようにはなれません。兄上を補佐する事すらできません」
「……」
「お願いです! 兄上は……オスカーさん、貴方ならきっと……」
「申し訳ない、それはできない」
きっぱりと、オスカーはウィローの言葉を遮って言った。
「オスカーさん……」
「君の言いたい事はわかる。ドグマと共に歩いてやりたい、共に悩んでやりたい。
しかし、私にはできないのだ。そういう意味では、私も古い人間なのかもしれないな……
ドグマが道を誤らぬ事を、願うばかりだ……」
「……」
「君も、無力だなどと言わずに……」
「しかし、僕は……」
「いや、政治家になれと言うのではない。やはり、向き不向きというものがあるのはわかる。
しかし、政治家にならなくとも、できる事はあるだろう。
ひとつ忠告するなら、できるだけ市井人と交流し、市井人と同じ目を養う事だ」
「……わかりました。御忠告、ありがとうございます……」
「フッ……偉そうな事を言ったな。そうだ、ひとつ頼みがある」
 
 
 
三郎は、ドグマに声をかけた。
「兄上。オスカーさんの事は、覚えていますか?」
「当たり前だろう」
じろりと、ドグマは軽くにらんだ。
「兵が瓦礫の下から発見した遺体を、埋葬はした。細かい状況は、わからんが」
……私が殺したようなものなのはわかっているが、文句でもあるのか?
師弟であろうと敵味方に別れれば、敬意を持って全力で叩き潰すのが戦というものだろうが。
ドグマが見せた若干の過剰反応を、三郎は気づかなかったかのように流して言った。
「聞いた話では、父上を庇って、倒れた柱の下敷きになったのだそうです」
「……そうか」
ある程度、予想できた回答であった。そして、ある程度覚悟して断行した、宮殿の破壊であった。
……学者というより、軍人肌な面の強かった先生の事だ。
きっと先生は、先生の信念に基づいて死んだのに違いない。
ドグマは視線を落として、そう考えた。

「それで、実は……オスカーさんに『伏せておいてくれ』と言われたので、黙っていた事があるのですが」
「何だ?」
ドグマは再び三郎に目を向け、問うた。
「このピアノ……実は、僕が自分から持ち出したのではないのです。
『持っていけ』と言ったのは、オスカーさんです」
「……先生が?」
「『戦火に巻き込ませるには、もったいない逸品だから』と。それに……」
「それに?」
「『新しきを拓くのは大切な事だが、古きのすべてを忌み、葬る事もない。
何かひとつぐらい思い出や、心のよりどころになるものを残してやりたい』……と。
オスカーさんと別れた時も、彼はこのピアノで『ワルキューレの騎行』を弾いていました。
まるで、死して戦乙女に天堂ヴァルハラへ導かれる覚悟を決めたかのように」
「……そうか」
ドグマは、そっとピアノに手を置いた。
「では……形見だな」
 
 
 
「さて……何を弾くか」
ベートーヴェンやワーグナーより、ショパンか何かの方が女性受けがいいだろうか。
そんな事を考えながら、ドグマは呟いた。
「せっかくだから、弾くだけじゃなく、歌ってちょうだいよ」
「……構わんが」
朽葉の求めに、ドグマは椅子に掛けながら応じた。
「んじゃ、ラブソングで」
更なるリクエストの追加に、ドグマは渋ったい顔をした。
「貴様は……この私に、何を期待しとるのだ。歯の浮くような、甘ったるいフレーズを言わせたいと?」
「あら。歌いそうにないタイプの歌の方が、面白いじゃない?
それとも、いっぱしの音楽家が、ラブソングの一曲もレパートリーに無いわけ?」
「そ……そんな事はない!」
「なら、歌って頂戴よ」
ニヤニヤと笑う朽葉に、ドグマはチッと舌打ちをくれた。
……どういう、羞恥プレイだ。
だが、まぁいい。恥ずかしがるから、恥ずかしいのだ。堂々とやってしまえばいいのだ。
「……少し待て」
記憶から掘り起こしたラブソング──尾崎豊の"I LOVE YOU"を、頭の中で素早く楽譜に仕立てた。
そして、小さな手を柔らかく鍵盤に踊らせ、歌い始めた。

「──I love you 今だけは悲しい歌 聞きたくないよ
I love you 逃れ逃れ辿り着いた この部屋

何もかも許された 恋じゃないから
二人はまるで 捨て猫みたい
この部屋は 落葉に埋もれた空き箱みたい
だからおまえは 小猫の様な泣き声で

きしむベッドの上で 優しさを持ちより
きつく躰 抱きしめあえば
それからまた二人は 目を閉じるよ
悲しい歌に 愛がしらけてしまわぬ様に──」

……ひょっとしたら私は、死ぬまで女を抱く事は無いのかもしれぬ。
だが、雄としての終わりが、人としての終わりを示すわけではあるまい。
そして……寂しくなどない。
向こうの世界では俗に、仕事で成功し、富を得て……それだけでは"負け組"で……
なおかつ、家庭を持ち、子を作って、始めて"勝ち組"などと言われていたが。
では、子宮癌で全摘出した女は、その時点で"負け組"確定なのか? いや、そんなはずはない。
何も、男女の愛や親子愛だけが、愛ではあるまい。
世界はそれ以外にももっと、さまざまな愛で満ちている。
例えば、友情だとか、兄弟愛だとか、師弟愛だとか……
オスカー先生……そうだろう?

曲が終わり、暗示郎とオロカがパチパチと手を叩いた。
「……甘ったるいの嫌いとか言ってて、なかなかセンチメンタルな歌を選ぶじゃない」
朽葉の唇に浮かぶのは、ニヤニヤ笑いから微笑に変わっていた。
「リクエストしておいて、ケチをつけるな」
「ケチつけちゃいないわよ。褒めてるのよ」
 
 
 
「じゃぁ〜ん♪」
暗示郎が、鍋の蓋を開けた。
白い湯気があがり、猪肉と山菜がぐつぐつと踊っていた。
「おぉー!」
「ま、美味しそ」
「食べよう食べよう♪」
五人は、熱い猪鍋にふぅふぅと息を吹きかけながら、はぐはぐと頬張った。
「鍋って、いいわねぇ。大人数ならではって感じで」
「そういや三郎って一人旅だったのに、どうしてこんなでかい鍋持ってるんだ?」
「あれ、オロカ知らないの? この鍋、大きさ変えられるんだよ」
「へぇ……魔術ってつくづく、便利だなぁ」
「正確には、魔具ですけどね。僕が作ったんじゃありませんし」

「うむ、なかなかいけるな」
ドグマは取り皿に移した肉をたいらげ、再びたっぷりと肉を盛った。
隣に座っていた三郎が手を伸ばし、その取り皿をひょいと取り上げた。
「何をするか! 返せ!」
ドグマが取り皿に飛びついたが、三郎は長い腕を生かしてその手をかわした。
「肉ばっかり食べてないで、野菜も食べてください。せっかく採ってきたんですから」
「野菜なんぞ、添え物だ! 飾りだ!」
「飾りじゃありません!」
「体が育ち盛りだから、肉を欲しとるんだ!」
「育ち盛りこそ、栄養バランスは大事です。病気になってからでは遅いです。
こういう場所ですから毎日とは言いませんが、目の前にあるんですから」
「どうでもいいから食わせろ!」
「肉を食べたきゃ、野菜もせめて同量は!」
「やかましい!」

「何だか知らねぇけど、肉でも野菜でも、美味いんだから全部食べればいいじゃないか」
大口で頬張った肉と山菜を咀嚼しながら、オロカがぶつぶつ言った。
「あ〜、栄養とかバランスとか言う前に、楽しく食べようよ〜。仲いいのはわかったから」
「仲なんぞ、良くない!」
「えぇ、良くありませんとも。兄上が野菜食べるまでは」
「あはは……」
兄弟の返答に苦笑する暗示郎に、朽葉が尋ねた。
「いつも、こうなの?」
「うーん、しょっちゅうだね。同じようなやりとり、何十回やってるんだか。
三郎も、基本ものぐさなくせに、こういう事には根気あるよね〜」
「うふふふ……おもしろ。愛されてるわねぇ」
「気色の悪い事を言うな!」
「ぷっ。ドグマちゃん、好き嫌いすると大きくなれないわよぉ?」
「ほら、朽葉さんもあぁ言ってますし」
「子供扱いするなと、言っておろうが貴様ら!」
オロカが、ひとつ溜め息をついて言った。
「ドグマ、意地張ってそこで止まったままだとさ。俺、全部食っちまうけど、いいのか?」
チッと、ドグマは舌打ちした。
「……食えばいいんだろう、食えば!」
「はい、食べてくださればいいんです」

そういえば……晩餐会などは別として……
昔は一人で飯を食う事が多かった上に、母上から野菜を食えなどと言われた事は無かったな……
ドグマは取り皿に移した山菜を口に入れ、味の染みたそれをじっくりと味わった。
肉が好きで、つい肉ばかり食べてしまうのは事実だが、こんな栄養学の初歩の初歩を知らないわけではない。
だが、三郎が口を出してくる事が、少しばかりうっとうしく、同時に少しばかり嬉しくもあった。
昔の三郎だったら、自分が野菜を食べていようと食べていまいと、関心を示さなかったはずであるから。
 
 
 
朽葉はツリーハウスに一泊し、翌朝ドグマの体をひととおり診察した。
「うん、問題なし。それじゃ、また来るわね」
朽葉は道具を鞄にしまい、ひらひらと手を振った。
「来なくとも、用があればこちらから行くぞ」
「兄上、そう言わずに。今回も、たまたま来てくださったおかげで助かったのですから」
「バイバーイ、まったねー」
三人が、口々に応じた。
「……」
オロカは黙ったまま、ちらりとドグマの横顔を見た。

オロカは一人でそっと、朽葉の後を追いかけた。
「朽葉! ちょっと……いいか?」
「なぁに?」
朽葉は足を止めて、振り向いた。
「いや……ちょっと、相談したい事が……」

「ドグマから聞いたか?」
「何を?」
「その……幻覚を見るとか……金縛りにあうとか……」
「……聞いてないわよ?」
「やっぱりそうか、ドグマの奴……
三郎に言いたくないってのはわかるけど、何で医者にまで隠し事するんだ……」
「原因となりそうな事は、知ってる?」
「ん……幻覚を見たらしい時、手に触られてる、とか言ってたけど……」
水色髪の集団に押さえつけられ嬲られる、女にされたドグマ。
そして、元に戻ったドグマ──ぐったりとした体が、死んだような目が、オロカの脳裏に思い浮かんだ。
「……陵辱された事……かな。それも、魔術か何かで、体を女に変えられて……」
「悪趣味ねぇ……それに、あの人の攻めどころを良くわかってるじゃない。
どこのどいつか知らないけど、ブチ殺してやりたいわ」
「もう、死んでる。幽霊だから」
「あ、そっ……まぁ、それはさておき……心療内科は専門外だけど、たぶんPTSDじゃないかしらね」
「P……T……?」
「手っ取り早く言えば、心の傷よ。まぁ、黙ってるのも、わかるんだけどね。
女の私にそういう事、喋りたくないってだけじゃなく……魔術も、万能じゃないから。
例えば、死体を操る事はできても、死者を生き返らせる事はできない。
体の傷は癒せても、心の傷をふさぐ事はできない。
せいぜいできるのは、一時的な恐怖やパニックを払う事ぐらいで、根治には至らない」
「……」

「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「うーん……」
朽葉は腕を組んで、とんとんと肘を指で叩いた。
「……いずれ、自分で何とかするでしょう」
「何とかって……」
「や、あの人、ピーチ姫体質みたいだけどねぇ」
「何体質だって……?」
「あぁ、災難に好かれてるとしか思えないってこと。
でもね、お姫様ってのも塔の上で王子様を待つラプンツェル型が一般的ではあるけど、それだけじゃないし。
中には、魔王に鉄拳ぶちこむアリーナ姫みたいなのだって、いるんだから」
「……鉄拳? どこの姫さんだ……?」
「さておき、時間はかかるでしょうけど、どうにかするわよ、あの人なら。
まっ、どうにかできるまでは、あの人の支えになってやりなさいな、クリフト君」
「いや、だから誰だよ、それ……」
「PTSD発症する患者っていうのも、やっぱり向こうの世界より『最果て』の方が多いんだけど。
こっちだと更に、発作を怖れるあまり眠ったまま目が覚めなくなる症状とか、いろいろイレギュラーがあってね。
対症療法的な、そういう眠り姫を叩き起こす方法とかだったら、いろいろあるから。
手に終えなくなったら、遠慮なく泣きついてちょうだい。じゃあね、頑張って。バーイ♪」
明るく手を振って、朽葉は再び歩き出した。
「あ、あぁ……」
オロカは頷いて、彼女を見送った。

「支える、か……」
オロカは一人、呟いた。
俺にできるだろうか、と少し考えた。
オロカは、今までに起こった騒動の数々を振り返ってみた。
……慌てふためく事はあっても、決して重荷じゃなかった。
災難を受けた、ドグマや三郎には悪いけど……
がむしゃらに人のために頑張るって、その時は必死だけど……
なんとかなったら、嬉しかった。充実してた。
「頑張ろうな、ドグマ……」
オロカは、小さく呟いた。

第10章「僕と俺と私の架け橋 」>>

 
目次