滴る緑の若葉を透かし、木漏れ日がほろほろと転がる。
香気を放つ下草を踏むと、くったりと柔らかく、ほんのりと暖かく、
まるで巨大な猫の背中を歩いているようだった。

気付くと僕は、見知らぬ庭の小道を歩いていた。
自分がなぜここを歩いているのか、どこに行こうとしているのか、それすら解らない。
ふと足を止めて辺りを見回す。

古びた煉瓦の壁を覆い、白い花が銀河のように咲いている。
ふっくらと咲きこぼれる八重の花びらを掻き分けて、小さな蜂がもぞもぞと潜り込む。
やがて蜂は黄色い花粉をたっぷり着けて、満足そうに飛んで行った。

ここは……?

心の中の疑問に応えるように、背後から男の声がした。

「ここはメサイアクワサイア。弔いの庭と呼ばれています」

驚いて振り向くと、そこには知らない人がいた。
もじゃもじゃの頭に、日に焼けた顔。
青年のようにも老人のようにも見える陰気な顔は、テレビで見たインドの修行僧のようだった。

「君が忘れたものが転生して、この庭を形作っているんです」

「忘れたもの? ……僕が?」

「そう……否認でもなく、抑圧でもなく、一度は自分自身として認めてから忘れられたもの……
 きちんと消化された思い出だけが、この庭に転生出来るのです」

……何を言っているのか、わからない。
けれど彼の静かな声を聞いていると、なぜだか落ち着く。
知らないはずの人なのに、不思議と少し懐かしい。
誰かに似ているような気がするけれど、それが誰だかわからない。

この人は誰だろう?
そう問う前に彼が応えた。

「僕は庭師のブライ。
 君の………なんて言うのか……つまり、オリジンです」

ゆっくりと言葉を選びながら、恥ずかしそうに話す彼を見て、僕は少しホッとした。
悪い人じゃなさそうだ。
けれどやっぱり、言ってる事はわからない。

「オリ…ジ……?」

「そう、オリジン。君はパペットを知ってますか?」

パペット……何度も聞いてる気がするけれど、いつもすぐに忘れてしまう。
ぼんやりと覚えているのは名前くらいだ。
くちば、まるせる、おろか、あんじろー……

「うーん……よくは知らないけど、名前くらいなら」

そう言うと、彼はかすかに微笑んで、僕の前にしゃがみこんだ。
そこに咲いている蜂蜜色の花を指差し、独り言のようにボソボソと呟く。

「じゃあ、この草がパペットだとしますよ……」

そしてその草を引き抜いた。
柔らかい土に根を張った優しげな植物は、ささやかな抵抗も虚しく、心地よい褥から引き剥がされた。
小さな虫やミミズ達が、明るい陽射しに驚いて土の中に潜り込む。
可憐な花にしては意外と太く、がっしりした根が生えていた。

「パペットが上草なら……オリジンは、この根っこです。
 種が撒かれた時から、僕らオリジンはパペットと共に成長します。
 根が張れば張るだけ草も成長し、オリジンが力を持つだけ、パペットも力を持てる。
 火事で草が焼かれても、オリジンに力があれば、翌春にはまた芽をします。
 力あるオリジンがいれば、そのパペットは不死身です」

ふぅん……と言ってみたものの、それが何だと言うのだろう。
僕には関係無い、退屈な話だ。

「そして君は、この庭の庭師です」

「えっ……僕が?」

意外な言葉に驚いて彼を見ると、深い眼窩の奥で、緑の瞳が嬉しそうに輝いていた。

「そう。君は庭師。
 庭は自然そのものじゃない。
 自然は美しいものだけど、人間はそこから浮いた存在です。
 どんなに小さな草でも、それは別世界のもの。
 ただそこにある自然は、空の星々と同じように、僕らの手には届かない、遠い世界のものなんです」

やっぱり僕には関係無い話に思えるけれど、楽しそうな彼の邪魔をしたくはなかった。

「丹精込めて手入れした庭は、自分自身のものとなり、踏みしめる大地になるんです。
 人は自分の庭を持ってこそ、自身を祝福出来るんです。
 ……けれど、完全にコントロールしようとしちゃいけません。
 気に入った植物だけを育て、穢れを排除し、生物たちの真性をねじ曲げようとすれば、
 虫は絶え、鳥は去り、地は痩せ衰えて行くでしょう。
 そして荒れた庭は復讐を始める。
 君の行く先々は砂漠となり、沼となり、氾濫する川となり、君を追い立て、足元を掬うでしょう」

困ったな……
僕は庭の事なんて何も知らないし、興味も無い。
この人は、何か勘違いしてるんじゃないのかな……

僕が呆れているのに気付かないのか、彼はボソボソと語り続けた。

「庭師の仕事は『支配』や『管理』ではなく『調整』です。庭師はその為に働く。
 労働という祈りを捧げてこそ、庭は自分の一部となり、君と彼を繋ぐ架け橋となる……」

「彼?」

彼って誰だろう?
まるで僕がその人を知ってるみたいな言い方だけど……

「知ってるでしょう。彼、ですよ。
 君の思う『自分』を超える、もっと巨大な『自分』……
 僕らの本質、僕らの魂、僕らの恐怖と喜びの源。
 オリジンとパペットが植物なら、君は庭師。
 そして彼は、庭そのものなんです」

はたはたと羽音がして、小さな鳥が彼の肩に止まった。
鳥は逃げ遅れたミミズを見つけると、それをくわえて飛んで行った。

「君は、彼に逆らってはいけない。けれど、言いなりになってもいけない。
 畏れつつも圧倒されず、敬いつつも呑み込まれず、彼と共に生きるんです。
 庭師が庭と共生するように」

……わからない。
何を言っているのか、ちっともわからない。

だけど……なぜだろう、何か大切な事を言われているような気がする。
思い出しちゃいけないものを思い出しそうになってるような、そんな不安な気分になる……




「……サク…ラ」

遠くから、誰かが僕を呼ぶ声がした。

「サク、ラ……サクラ!」

振り返ると、遠くに帽子を被った男が見えた。
確かあれは三郎……

そうだ、思い出した。
僕は、三郎と一緒に旅をしているんだった。

「三郎」

立ち上がって手を上げると、三郎が駆け寄って来た。

「あぁ良かった。急に姿が見えなくなるから……」

心配そうな顔で屈み込む。
三郎は、いつも僕を色んな所に連れて行ってくれる。
押し付けがましくなく親切で、色々世話をしてくれる。
彼はいつでも、湖のように穏やかで、柳のようにしなやかだ。

だけど僕は、彼の事が好きではなかった。
三郎の春のような微笑の奥には、冷たい木枯らしが吹いている。
彼と旅をしていると、薄氷の上に敷かれた絨毯の上を歩いているような不安を感じる。

けれど、この庭はそうじゃない。
草木が茂るその下には、柔らかい土が厚く積もり、ぬくもりと生命に満ちている。
草も木も、虫も鳥も、それぞれが違う道を辿りながら、ぐるりと回って同じ場所に帰って行く。

僕はここが好きかもしれない……

そんな思いを吹き消すように、三郎は僕を抱えて立ち上がった。

「さぁ、行きましょう。ここは君のいる場所じゃない」

「え……でも、ここは僕の庭だから……」

そう言った自分の言葉に驚いた。
さっきまで、そんな風に思っていなかったのに……

「……誰がそんな事を言ったんです?」

三郎が乾いた声で言い放つ。
こんな時だ、三郎の中に冷気が吹くのは。
決して怒った口調ではないのに、一瞬で身体の芯まで冷え冷えとする。

「あの人が……あれ?」

僕は助けを求めるようにブライの姿を探し、ぐるりと庭を見回した。
しかしその姿はどこにも見えなかった。

三郎は右手に僕を抱えたまま、左手で重そうなトランクを持ち、足早に歩き出した。

「ここは弔いの庭。忘れられた者たちの墓場です。
 こんな所に長くいたら、君は君自身の事も忘れてしまいますよ。
 さぁ、根が生えないうちに早く行きましょう」

旅慣れた三郎は、色んな事を知っている。
三郎がそう言うなら、きっとここは危険な場所なんだろう。
だけど僕はまたいつか、ここに帰って来るような気がする。

振り返ると、木立の奥にブライが見えた。
遠くで見ると、彼はなんだか三郎に似ていた。
全く違う二人なのに、どこか似ていた。

ブライが「じゃあまた」と言うように、ヒラヒラと手を振った。
僕も三郎に気付かれないように手を振ってから、靴の裏に生えた根っこを隠した。

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